大喜利の回答の見方

本記事は、他者の大喜利の回答につき、その評価・裁定をする場合に留意すべきと私が考える点を、評価の手順とともに紹介するものです。

なお、現実に評価をしている方々の評価方法の記述ではなく、私の考える「公平」な評価の仕方(おそらくそれは唯一のものではありません)を扱うものであり、他の方々による評価を得るための方法論ではないことをご了解ください。

はじめに

大喜利だけでなく「お笑い」一般の評価については、しばしば「人それぞれ」だと言われます。しかし、私はここに一つの、重大な留保を付すべきだと考えています。それは、「実際に笑ったか、笑うべきか」はたしかに「人それぞれ」の感性に委ねられるべきであるにしても、「笑いをどれだけ起こしうるか」という蓋然性の評価は、専門的・技術的に一定程度の制約をうける、ということです。

大喜利の好きな方ならば見たことのあるであろう、「IPPONグランプリ」では、その評価は複数人の「お笑い芸人」がやっています。その理由な何か。たとえば、会場にいるお客さんから「イロモネア」のように、ピックアップされた人が「実際に笑ったか」をみるだけでも優劣はつきそうなものです。にもかかわらず、なぜIPPONグランプリでは、「イロモネア」とは異なり、いわば「民主化」されていないのか。

その答えは「お客さん」と「お笑い芸人」の違いにあるといえそうです。審査員の構成がなぜ異なるのか、何のために異なる構成であるのかは、構成を考案したご本人に聞くことができない以上、実際の審査員の特徴から逆算するほかありません。

「お客さん」と「お笑い芸人」の違い、それは、専門的な知識の有無です。少なくとも、「お笑い芸人」は全員、専門的知識を持っているとみなされる一方、「お客さん」はその全員がそうであるとは考えられていないのです。

では、その「専門的な知識」とは何か。「これだけ偉そうに語っておいて答えられないなんてことは無いだろうな!?」というお声が予想されますが、私も、非「お笑い芸人」、すなわち「お客さん」のほうに位置付けられる以上は、そうした疑念もごもっともだと思われます。しかし、「専門的な知識」については、構成の結果からの目的の逆算と同様に、回答から、そこに用いられている技法を分析することを通じて、非「お笑い芸人」である私でも一応はご説明できます。その分析の結果は、私の別の記事にあります(たとえば、「大喜利回答パターン」)。是非ともご覧ください。以下でもいくつか私の記事をご紹介しますが、特筆のない限り無料です。

「はじめに」が長くなってしまいましたのでまとめましょう。本章では、笑うか否かは個個人の勝手だが、笑いうるか否かは専門的知識の参照を必要とする、ということを述べました。以下では、「じゃあその、「専門的知識の参照」とやらをしつつ回答の評価をする方法は?」という問いに答えたいと思います。

1.お題と回答の文意を読み取る

はい、元も子もない話からはじまります。まあここは説明も要らないとは思いますが、念のため一言説明いたしますと、フリとなるお題に対し、回答がどのようなオチを示しているかを理解します。要は、「フツーに読む」ということです。ここで笑えれば最高ですね。

なお、回答となる文の省略やコンパクト化は、技法となりますが、文意の読み取りに関わる限りでここで評価する必要があります。省略されていた場合は、何が省略されているのかを読み取れるか否かを判断する必要があるでしょう(省略については、主に「一言大喜利のすすめ」を参照)。

2.回答に使われている技法を抽出する

さて、「フツーに読」んだときに笑ったにせよ、笑わなかったにせよ、回答に用いられている技法を分析する必要があります。なぜならば、技法の分析は、回答に含まれる発想を、どれほど普遍性のある笑いへと変換しているかを知るための手段(この点については、「大喜利の技法」の「6.裏テーマ」を参照。有料箇所です。)だからです。

実際に笑うかどうかは「人それぞれ」であるとしても、否、「人それぞれ」であるからこそ、「自分以外は笑うだろうか?」という問いに向き合わなければ、「公平な評価」とはいえません。たとえば、「お笑い芸人」が審査員であるときに、観覧している実際の「お客さん」が笑ったかどうか(それならイロモネア方式でよい)だけでなく、潜在的な「お客さん」も笑うかどうかを、技法を分析することで評価しようとしているといえるでしょう。よって、「専門的知識」は、この「技法の抽出・分析」において用いられることになります。

したがって、分析の対象となる技法を抽出するところから始めなければなりません。ここで、分析とは、「この技法がどれほど効果を有するか」を評価することを意味し、抽出とは、「そこに用いられている技法は何か」を特定すること意味します。

3.抽出した技法を分析する

技法を抽出したら、その技法一つ一つの目的を特定する必要があります。「大喜利回答パターン」でいうところの「あるある(直球パターン)」ならば、「言われないと意識しないけどたしかにそうだ!」といえるような回答になっているかどうかを考える必要がありますし、「風が吹けば桶屋が儲かる」ならば、「そんな話になんねん!スタート(注:これはお題から推察する必要があります)から飛躍しすぎやろ!」といえる回答であるか否かを考える必要があります。それぞれの技法の種類がなぜ笑いにつながるか、具体的に特定の技法がその役割を果たしているか、という二つの問いに答えるのが分析であるといえるでしょう。このうち、前者については拙記事「大喜利回答パターン」「大喜利の技法」(後者の該当箇所は有料)で解説してあります。

4.総合評価

さて、技法が、回答でどのように用いられ、結果成功しているか否かを見てきましたが、これを終えてはじめて、回答全体に戻り、他者が笑うか否かを判断できます。

もちろん、この「他者」というのは、評価する人(ここでは私たちですね)の頭のなかにしかいないわけですが、同時に自己の感性とは可能な限り切り離して、技法の評価のみにより迫った存在です。我々は、「他者」を完全には想定しえないにしても、できる限りこれに接近しなければ、「公平」ではありえません。そして、その「他者」への接近は、技法によってしかできないのです。技法を無視し自分が笑ったか否かだけを基準にすることは、「人それぞれ」という言葉に隠れた、極めて独善的な態度といわざるをえません。我々は、「人それぞれ」だからこそ、その共通点を探る試みをしなければなりません。そのときに助けになるのが技法の分析なのです。

総合評価とは、こうして接近した「他者」が笑うかどうか、つまり技法は成功しているか否かを踏まえたうえで、「だから私はこう思う」と宣言することです。自己と他者との対話を総括する第三者として振る舞うことが、公平な評価を目指すものとしての責務といえるのではないでしょうか。M-1の審査については話していませんし、仮に話していたとしても、審査員のお歴々は十分に公平への努力をしていらっしゃると思いますよ。

以上述べてきたことを言い換えますと、「俺は笑ったし、たぶんみんなも笑う」、「俺は笑ったけど、たぶんみんなは笑わない」、「俺は笑わなかったけど、たぶんみんなは笑う」、「俺は笑わなかったけど、たぶんみんなも笑わない」の四通りがありえ、自己と他者とをそれぞれどれだけ重み付けするか、ということが総合評価です。重み付けの程度は「好み」ですが、他者を全く無視することは「公平」を目指すならば許されないことです。

おわりに

以上、回答の評価の手順と、その背景にある考え方について述べました。ところで、皆さんはジョークの解説をカエルの解剖にたとえる話を聞いたことがあるでしょうか。「ジョークの解説はカエルの解剖に似ている。理解は深まるが、カエルは死んでしまう」というお話ですね。これは言い得て妙ですが、技法の分析を扱うにもかかわらず、本記事はカエルの解剖を促すつもりはありません。

本記事は、カエルの解剖ではなく、カエルのMRIを撮ることを勧めているのです。カエルを死なせず、かつ理解すること。これが本記事の狙いであり、場合によってはカエルの健康を改善するためのヒントまで得られます。技法の分析は、たしかに、解剖のようなものです。しかし、技法の習熟があれば、わざわざ解剖なんてしなくても、パシャっとMRIを撮って、すぐさま理解できるようになります。また、はじめに技法の観点抜きに見てもらうように、1.ではできる限り技法の評価を含まないようにしました。まあ、仮にカエルが死んでしまっても、審査員としては知らん顔してカエルについての評価をすればよいのであって、解剖した姿を見せる必要はないわけですが。

補遺(以下は私怨に基づくフィクションです。)

「知らなければ笑えないのは大喜利ではない」という言説があります。これは本当でしょうか。私はこのドグマは誤りだと考えています。その理由は、知っていれば笑えることも大喜利から排除する理由がないこと、そして、そもそも大喜利のメカニズムから、「知らなければ笑えない」ことは必然的に生まれるからです。

たとえば、お題に「おじいちゃん」という主役が設定されているとしましょう。「おじいちゃん」から連想されるいくつかのイメージとしては「入れ歯」や「杖」などの身の回りの道具や、「戦争経験」などの歴史が挙げられます。しかし、これらは「おじいちゃん」という言葉の意味(たとえば「高齢の男性」)からは必然的に導出されるものではありません。しかし、我々には一定の共通理解があり、それはコンテクストに依存するものです。もしも、補遺冒頭のドグマを受け入れるとしたならば、こうしたコンテクストに依存するものを回答に登場させた時点で「大喜利」ではありません。

他方、身の回りの道具に着目したはずが、共通理解の得られないもの、たとえば「ランドセル」を挙げた回答は、たしかにおもしろくないものになるでしょう。身の回りの道具に着目する回答に用いられる技法は、多くの場合あるあるや質的・量的変化(「大喜利回答パターン」参照)などでしょうが、いずれの場合でも、技法として失敗しているといえます。

このように、身の回りの道具を回答に登場させることはありふれていますが、これを「大喜利ではない」とするか、「その道具についての技法の成否を考慮しよう」とするか。どちらがより「大喜利」を豊かにするかは一目瞭然でしょう。

また、「あるある」は、それが直球パターンにせよ変化球パターンにせよ(しつこいですが「大喜利回答パターン」参照)、その成り立ちからしてコンテクストに依存します。回答に『名探偵コナン』を登場させる場合を考えますと、コナン(小学生を名乗る高校生を自認する死神)を知らなければ笑えない回答となります。『名探偵コナン』を一切知らない人はいないでしょう。え?知らない?それなら『隣のトトロ』でも代入しといてください。これでだめなら「少なくとも100人中90人は知ってるよなぁ」と思うコンテンツを勝手に考えてください。

こうした「知名度のある」コンテンツは、あるある、特に変化球パターンに使いやすいものです。他方で、「知名度のある」と自分は思っていても、実はあまりないコンテンツ(例は挙げませんよ)が変化球パターンで回答に盛り込まれた場合は、その技法としては不成功に終わります。このような知名度の有無については人により必ずしも判断は一致しませんが、技法の成否の評価には大きく影響します。

私個人としては、「あーたぶんこれ変化球パターン使ってるんやろうな」と思った場合、検索してみて、テレビで聞いたことのあるコンテンツで、かつ、回答の要素がコンテンツにおいてどのように位置付けられているかを特定できる場合には一応の成功として考えることにしています。「一応の」というのは、お題に対するオチになっていなかったり、オチとして弱い場合には失敗とするという意味です。

おやおや、補遺が本編の長さに近づいてきてしまいました。恨み言はここらへんにして、穏やかに締め括りたいと思います。

「公平」を気にしないのであれば審査員に足る器ではない(恨み言)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?