noteを書くnote

本稿では、文章を作成すること、いわゆるライティングの方法とその効用について持論を述べたいと思います。かく言う私自身が最近noteやTwitterで文章とよべるほど長い一連の論を構成していないので、説得力に欠けるかもしれませんが……誰かお題をください……

0.ライティングとは

本稿では、専門分野のレポートや論文ではなく、日常生活における思考表現及び思考の補助手段として文章を書くことをライティングとよぼうと思います。すなわち、特定の考えを文章で表現することを目的とします。したがって、参考文献の表記や引用のルール等は考えず、読者を想定しつつも「徒然なるままに」書くことを念頭に置いています。ご了承ください。

簡単に言うと、普段私自身がnoteを書くときに意識していることをまとめたものとなります。テキトーです。

1.文章の基本

本屋に行くと、「文章の書き方」みたいな本がたくさん並んでますから、お堅い「文章の基本」はそっちを読んでいただくとして、私にとって、というお話をします。

文章の基本は、思いついたことの取捨選択と、その並べ方にあります。長いので見出しを分けます。

1.1取捨選択

文章を書いていると、様々なことが思い浮かびます。心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書きつけていては膨大な量になってしまい、書き手だけでなく読み手にも負担になるだけです。そこで必要なのが取捨選択という操作です。

取捨選択の際には必ず守らなければならない基準があります。それは、テーマとの関連性、そして他の文との関連性です。前者については、説明するまでもないでしょうが、念のため書きますと、ここで私がコンビニのおにぎりの具で一番何が美味しいと感じるかを熱弁したらどう思いますか。「いいから取捨選択の基準を教えろよ」と思いますよね。そういうことです。はい、そうします。

後者の他の文との関連性には、概ね三つの種類がありえます。すなわち、換言、正当化、反証の三種類の関係があるといえるでしょう。なお、文同士の関係の説明をする便宜上、たとえばAがBの根拠を提示する場合には、AとBの関連性は正当化であるといえますが、正当化「する/される」という観点の説明は割愛します(わかりにくかったらコメント等していただければ補足します)。

まず、換言とは、説明や言い換えのことです。ある文の文意や他の文との関連性をより明確化する必要がある場合に換言を行います。具体例を挙げて説明するのも換言に含めて考えます。たとえば(出た!具体例による換言!)、「読書は人の想像力を養ってくれる。小説の読者は、登場人物の思考や感情を追体験することになる。」という二文は換言の関係にあるといえるでしょう。「つまり」「すなわち」「たとえば」「実際」「ただし(意外ですね)」などは換言の目印になります(後二者は正当化でもありえますが)。

次に、正当化とは、ある文が他の文の根拠を示す場合をいいます。読み手が文意を理解するのを助けるのが換言であるのに対し、その理解に基づく疑問や反論に対する応答を予め、ある程度しておくことが正当化です。「そんな証拠あるのかな」や「この文が正しかったら一体何なの」という疑問に対し、「こんな証拠があるぞ」や「こうだとすると、こんなことが言えるんだよね」と答えておきましょう。換言とオーバーラップする部分もありますが、換言は「何が言いたいのか」に対する説明、正当化は「なぜこう言えるのか」に対する応答という役割の違いがある、くらいの区別ができます。「よって」「したがって」「だから」「なぜならば」などが正当化の文の目印になるでしょう。概ね順接の接続詞と一致しますね。

最後に、反証についてですが、前述の正当化を要求する疑問のうち、特に論に影響の大きいと思われる疑問を明示することです。正当化をする際に検討する疑問が一体どんな疑問なのかを明らかにすることで、持論の強度を高めることができます。「たしかに(反証)、しかし(正当化)」という譲歩の構文で明らかなように、反証は反証自体を目的とするのではなく、正当化の前提となるものです。「だが」「しかし」「一見」や、譲歩の「たしかに」や「なるほど」などが目印になります。反証ではなく「逆接」としてもよかったのですが、「逆接」の場合には文同士の関係(ミクロ)というよりは、むしろ論展開全体における役割(マクロ)であるというニュアンスがあると考え、「反証」としました。まあ読み替えてもらっても構いません。

これらの役割を果たしていない文は、全体または特定の局面において不要な文です。よって、文章において、これらの関連性で結び付かない文は、遊び心で残すのは結構ですが、本来必要のないものですから、削除するか、いつか使うための文のストックを作るなりして別のところで保存しておきましょう(私はコラムなんかを作りますが、「なんか思いついたけど論旨における役割わかんねえな」というときに独立させて残しておいたものにコラムと名前をつけてるだけだったりします)。

1.2並べ方

基本的には、思いついた順のままで構いません。書き終えたときに読み返して、意味が通るならそのままGoです。追体験をするにはそれが望ましいくらいですし。ただし、私は「俺、この後たぶんこんなこと書くんやろなぁ」というのを意識したうえで、「これからどんなことを言うか」をざっくり説明し、その後具体的な説明や検討を行うというやり方をとっているようです。一文一文を連ねてゆくのではなく、トピックごとに自分の言いたいことは何かを最初に提示し、その後により詳細な説明(換言)、検討(正当化と反証)を行うと、あまり順番を変える必要はないと思われます。

なお、文章を作成するとき、テーマはもちろんあるでしょうが、テーマに関連する諸命題を本稿ではトピックとよびます。これらの命題間には、その内容で直接に結び付くものもあればテーマの共通によって結び付くものもあると思われます。並べ替えをするときには、前者につき注意を払い、命題同士の関係を明らかにしておきましょう。

2.実践

文章の基本も説明し終えたので、それでは早速文章を作成してみましょう。アウトラインとしては、テーマ決定⇒トピック導出⇒文章の組み立てといったところでしょう。

テーマについては何でも構わないのですが、誰かの疑問に注目して決めるとよいでしょう。本稿で言うと、「noteってどうやって書くの?何か得あんの?」という問いに対する応答がテーマになっています。NAVERまとめのバカみたいな疑問の羅列(「出身校は?彼氏はいる?」みたいなやつ)を熟語(「方法」だの「効用」だの)でオシャレに(?)テーマにしただけです(タイトルは別ですが)。

次に、トピックの導出については、いわゆる「ブレインストーミング(ブレスト)」といった連想ゲームとして考えてもらってかまいません。note書くときにブレストなんかやったことありませんが、テーマの素材となった疑問に対する解決策として有効なものを考えると自ずと連想がはじまります。しばしば私が辿っている連想経路は、"問いに対する対策はこんなのがあって、それぞれの対策を採用するとこういう解決が望める"という感じですね。平たく言えば「こうしたらええやん、こんなええことがあるんやし」です。目的手段型の考え方ですね。通りでヨユーのない文章になるはずやわ。反対に、もっとお堅く言えば「問題提起(テーマ提示)、問題の所在・定義(トピック導出)、解決策及びその効用の提示(説明・検討)をしている」ということになるでしょうか。

今思いついたのですが、この展開、どこかで見たことがありますね。テレビの通信販売です。「カーペットに醤油をこぼしてしまったとき、困りますよね(問題提起)!濡らしたタオルでトントンしても染みが落ちない。簡単に染みを落とせればなぁ……なんてこと、一度はあるのではないでしょうか(問題の所在)!でもそんなとき、このシミトールαがあれば大丈夫(解決策)なんです!これを一滴垂らしてお水につけると……なんと染みがドン!ドン!薄くなっていきますね~!15分も経てば、ほらご覧の通り、染みがなくなっています(効用)!」みたいなうさんくさいの。そのあと謎の物質がすげえみたいなこと言って「だから落ちるんです(正当化)!」でアシスタントが「すごぉーい!」って目を剥くの。

そして、文の組み立てです。通信販売のように文章展開の大枠を定め、トピックごとに関連性のある文を連ねていくことで文章が組み立てられるわけです。そして、言いたいこと一つあたりに、その換言、正当化をしていくと、段落というブロックができるわけです。それぞれの文の役割に応じて、換言段落、正当化段落といった振り分けも可能です。長い場合はこちらにしておきましょう。

3.効用

文章を作成することの効用、それは、不足に気がつくことです。この「不足」について、たとえば正当化のために使えるデータを自分は持っていないだとか、論証にあたりこれまで飛躍していたステップが存在するだとかが考えられます。このような、あるテーマに取り組むための装備が足りない事態も不足とはいえるでしょう。しかし、より重要な不足は、現在の装備を活用できないということです。いわゆる「宝の持ち腐れ」に気がつくこと、これこそが文章作成の最大の効用であると考えています。

すなわち、「このままではできない」という自覚だけでなく、「このままでもできた(のにしていなかった)」という自覚を呼び覚ますきっかけになるのが文章を書くことなのです。手持ちの知識を組み合わせたり、異なる文脈に適用してみたりするという試行錯誤が文章作成には求められます。知識が有限である以上、既存の知識の限界を打ち破るには、手持ちの知識の潜在能力を解放してやるしかありません。知識間に橋が架かる瞬間、関係性の連想ゲームが自律的に運動をし始める瞬間こそ、既存の知識が最も威力を発揮するのです。

その際に、役に立つのが前述の文の役割の意識です。文章を書いている最中に、試しに「したがって」と書いてみる。すると、「この文脈を承けて、一体どんな別のことが正当化されるのだろうか」という問いが起動するのです。「しかし」と書いてみたなら、「待て待て、これまでの論で、何か重要な反論がありうるのではないか」と考えることになります。接続詞だけでなく、次に書く文にいかなる役割を持たせるかという意識を持つことで、いわば文章内部に他者が立ち上がるといえるでしょう。

この「他者」との対話は、何かを思い出させてくれる(That reminds me of a story)ことがあるでしょう。それがテーマに即したものであるとは限りませんから、その文章に残るか否かは場合によりますが、確実なことは、文章を書く前と後とでは、構成している材料(知識)は同じであっても、思考の構造は変化しているということです。少なくともシナプスは変化しているでしょうね。

つまり、文章を書くということは、他者との対話であり、それ自体が思考のあり方に影響を与えることといえるでしょう。書き終えてみたら想定とは全く異なることを書いていた、なんてことはそれだけ知識の潜在能力を引き出せたということです。

さあ、書いてみましょう!

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