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似顔絵師、昭和レンズ【似顔絵師になった軌跡】

似顔絵師、昭和レンズ
と名乗り似顔絵師としての一歩を踏み出したのが2009年でした。
現在2024年まで15年の間に16000名のモデルを描き
”似顔絵師”という不思議な職業を一生のものにしていこうと活動をしております。

これまで15年という長い似顔絵師歴ですが、様々な方に
「どうして似顔絵師になったのか」
「なぜ絵描きやイラストレータではなくて”似顔絵師”なのか」
という事を聞かれましたので、ここでは私の小さな軌跡をご紹介しようと思います。
少し長くなるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

【きっかけは大病から】
小さなころから絵を描く事は好きでしたが、美学の道に進む事もなく・・・と、ありふれたテンプレのように年を重ね。
私はいわゆる「絵を描くのが人より少し好きな大人」になりました。
結婚し、息子を身ごもり、出産。
普通に「お母さんになる」という線路を進んでいたはずなのですが、息子が生まれて8か月の時に大きな人生の分かれ道(落とし穴)が・・・
ある日突然私の身に起きたのは、「腎臓病」という大病でした。
乳飲み子の息子とは強制的に離れ、私は入院。
ただの風邪だと思い病院に行ったその日、医者からは
「あと病院に来るのが3日遅かったら危なかった」
という背筋が凍る言葉でした。
入院生活は正直辛く、腎生検と血液製剤、投薬治療の毎日でした。
私がいた病室は、腎臓病患者の棟だったので毎日治療でうなだれる患者さんばかり。
とりあえず命はとりとめたものの、この先の生活をどうしようと。
心なしか面会に来る人々も面影が暗い人ばかりでした。
腎臓病患者は、水分制限と食事制限、塩分制限が自分との闘いです。
ただでさえ薬の副作用でコントロールが効かない身体になっているのに、、、
腎臓病患者は完治する人が少ないので、例え退院しても通常生活に自分の身体を慣らすのは相当の時間がかかるのです。
私は、何とか入院生活を乗り切り退院しました。
しかし、職もなく、投薬治療は続けたまま、身体には腎臓病再発の爆弾を抱えた生活がスタートです。
正直「夢」だとか「明るい未来」だとか、そんなものは私にはもう無縁のものだと肩を落としました。
その時の私は、投薬治療であるステロイドの副作用で精神的にも不安定で。
笑顔も素直に出せなかったと思います。
退院してからも再発を繰り返し、治療を何度もスタートラインに戻してやり直す日々が続きました。
ステロイドの減量に身体を慣らすこと、まだ1歳にも満たない息子を育てる毎日、それだけで手いっぱいでした。
悲しくて涙が溢れそうになっても、泣いて解決する問題ではありません。仕事があれば投薬治療にかかる薬代だって気にしなかったかもしれません。でも、私には「仕事」も無かったんです。こんな病気を抱えて赤ちゃんの息子抱えて、仕事なんて見つかりませんでした。
ふと、隣にいる息子の顔を見たら、ニコニコと笑う息子の笑顔
「息子の顔でも描いてみるか・・・」
何気なく思って筆をとったんです。
もう随分と絵も描いていませんでした。
久々に描く絵が似顔絵、似せて描く事も出来ないし、似顔絵なんて今まで自分が描いてきた絵とも違う。
でも似てなくてもいいや、描いてみよう。
そうやって描いた一枚が、私の人生を変えました。

一番最初に描いた似顔絵(息子と愛犬)

【私、似顔絵師になる!!】
息子の似顔絵を描いてから、直ぐに似顔絵に興味を持ったり似顔絵師を目指したわけではありません。
それまで似顔絵とは無縁だった私、もちろん興味を持ったり接点もないままでした。
投薬治療の減量をしながら、徐々に友人が子どもを連れて一緒に遊びに訪れてくれたり、小さな子どもを連れてのママ友とお互いの家を行き来する事も増えてきたころ、ママ友が私の描いた息子の似顔絵を見て
「この似顔絵、どこかで描いてもらったの?」
と、聞いてきたんです。
1歳少しの子どもを連れて遠出もしない環境から、家にある似顔絵を見て不思議に思ったんでしょう。何気なく描いて部屋の片隅に飾っていた似顔絵に話を振られ、私は「自分で描いた」と答えました。
そうしたら、思いがけない返事が返ってきたんです。
「私の子も描いて!!」
その言葉を聞いた時、ビックリしました。
プロでもない、似顔絵としても未熟な腕だと見て分かる。今まで絵を描くのは好きだったけど、その殆どは「自己満足」で自分が勝手に描いてきたものばかり。「誰かのために」とか、そんなふうに絵を描いた事がなかった私が大切なお子さんの似顔絵を描いて良いんだろうか?
と、一瞬思いました。
でも、それ以上に「描いてみたい」という気持ちが前に出たんです。
画材も当時は色鉛筆でした。
どこまで描けるかドキドキしながらママ友の子どもさんの似顔絵を描く事がはじまり、徐々に周りのママ友に広がっていったんです。
今思えば、赤ちゃんの似顔絵を描くって難しいんです・・・
正直、全然似ていない似顔絵だったと思います。
でも、周りの友人たちは喜んでくれて、私自身も
「自分の大切な人の笑顔を形にしてもらうって、目に見えない元気な力を手に取るような感覚かもしれない・・・」
「もっと似顔絵が描きたい!」
「もっと似顔絵が上手くなりたい!」
と、思うようになりました。
そうは心に決めても、実際じゃあどこで似顔絵を学ぶか・・・子連れで専門学校なんて行けないし金もない(笑)
当時はまだSNSも無く、ガラケー時代でインターネットもPCで見ている時代。似顔絵に関するコネもツールも無いまま、とにかく私は
「描いて自分で学ぼう!」
これしか無かったです。
とにかく沢山の人を描いて、経験値を得て、失敗して、そこから改善して。
自分の描き方、自分の好きな表現、似顔絵を私の描き方でモデルを彩らせるやり方を見つけようと思いました。
しかし、どうやって人と出会う環境を作ろうか・・・と、思っていた時に、ある一人の方(Sさん)から
「うちのイベントに出て似顔絵やってみてよ!」と、いう一声。
相変わらず画用紙に色鉛筆で似顔絵を描く私に声をかけて下さったこのSさんは、私をいきなり「似顔絵席描きデビュー」へ引っ張り上げてくれた方です。Sさんとは今でも一緒にお仕事をする大切な私の人生のキーパーソンとしてお付き合いさせていただいております。
私が息子の似顔絵を描いて、ちょうど1年ほど経った2009年。
ここからが私の似顔絵師人生の始まりでした。

【自己流貫き野生の似顔絵師へ】
さて、似顔絵師として名乗り始めてから実際どうやって自分の技術を高めていくか・・・当時は営業や経営の事は後から考えよう。
とにかく自分の画力を高めて「私らしい似顔絵」を描く力を着けなければ。と頭を悩ませていました。
画用紙に色鉛筆の描き方では時間も手数も限界があり、そこからコピックを使用してみたりパステルを取り入れてみたりしました。
一つの画材だけでなく、組み合わせる事で自分らしい絵を探したり。
紙から画材まで、とにかく手あたり次第にトライしました。
練習のモデルは友人やテレビの芸能人など。
しかし最初は皆同じ顔に見えていたんです・・・
お恥ずかしい話ですが、モデルの特徴を探すのに大苦戦して、特徴のある芸能人さんのお顔でも顔を描き分ける事が出来ませんでした。
似顔絵師の見ている世界が、当時の私には全く見えていなかったんです。
それが悔しくて、やけくそで似顔絵なんて描かない!
って筆をおくこともしばしば(笑)自分で似顔絵師になる!って決めたのに、なんてワガママなやつでしょう(笑)
そこで私は、世に出ている似顔絵師さんに自分の似顔絵を描いてもらう事にしました。
当時はお金もなかったので、たくさんの絵師さんに描いてもらう事は出来ませんでしたが・・・ショッピングモールなどで出会うチャンスがあれば描いてもらう事を繰り返しました。
一般的には席描きの似顔絵師はお一人を20分程で描く事。
水彩やパステル、画材を工夫して時短をしながら見栄えの良い似顔絵を描いている事を、ジーっと見て勉強しました。
「それ何の画材使ってますの?」
と、聞くことも出来ないし。受け取った似顔絵の筆運びの後を何度も何度も見ながら練習しました。
そして、有難いことに練習するのと同様にマルシェやイベントへ誘って下さる事も多く。直ぐに実践へと向けれる事が出来ました。
毎回マルシェに出るたびに、練習では上手くいったのに本番では上手くいかなかったり・・・課題は多く。やはり実践で得る経験が自分を一番成長させてくれるという事が分かりました。
なるべく声のかかるマルシェは出るようにして、正直お客さんが来ない日もあります。
そんな時はマルシェで出会った友達の顔を練習で描かせてもらってました。
この野生的な活動は、今でも私のスタイルとなり定着し(笑)
どこにも属さず、愛知県の片田舎でひたすら似顔絵を描き続ける私はいつしか自分を「野生の似顔絵師」と名乗るようになりました。

【似顔絵師、インドネシアへ行く】
似顔絵師として活動して6年程。
その間実は腎臓病も何度か再発をし、その度に入院。投薬治療は再スタート。そして何度も減量を繰り返して第二子の出産まで人生を進めました。
第二子の娘を産んで、また似顔絵師を再スタートしようとした時。
夫の海外赴任が決まり・・・悩んだ末家族でインドネシアへ渡航する事を決めました。
この6年間で培ってきた似顔絵の仕事、顧客をゼロにして渡航するのは覚悟が要りました。
誰も知り合いのいない海外生活。何度も再スタートをしてきた私ですが、今まで以上に大きなハードルです。
海外生活中、似顔絵を描く事なんて多分無いだろうし・・・何年後に日本に帰ってくるか分からない。もう私の似顔絵師はここで終わりかな?
そんなことも頭に過りました。
しかし、不思議と引っ越し荷物には画材を積んでいたんです。使うかも分からないのに、限られた船便の中に何とか画材を詰め込んでインドネシアへ渡りました。
蓋を開けたインドネシア生活、二度と似顔絵を描く事もないだろうと思っていましたが・・・実際は有難いことに似顔絵を描き続けていました。
インドネシア・ジャカルタ生活では同じように海外赴任で暮らす日本人が約2万人。子供の通う日本人学校の生徒だけでも1300人。
毎月誰かが渡航して新入生、毎月誰かが本帰国をする環境でした。
出会いと別れの多い海外赴任では、思い出の品を送りあうのが日常です。
有難いことに、どこからか私が似顔絵師というのが広がり。日本から遠く離れた南半球でも似顔絵を描かせていただく日々が続きました。
ジャカルタ生活では、ローカルの方々との生活とも密着です。
日本では、どうしても「資格を持っていないと」とか「そんな仕事にするほど」と、自分の技術を不思議と謙遜してしまう風潮があります。
インドネシアの方は、そんなそぶりは一切見せません。
「絵が描ける」「料理が上手」「手先が器用」「洋服が作れる」
自分が得意とするものを、彼らは自信をもって仕事にしています。
ただの趣味で終わらせているなんて、もったいない!もっと自分をアピールして!!
私の絵を見たインドネシアの人は、そう言ってくれました。
「好きを仕事にする」
という事に今一歩躊躇していた私は、彼らの生き方を生で見る事で自分に自信をつける事が出来ました。
自分の好きな事で稼ぐ覚悟があれば、自分の肩書は胸を張って名乗れば良いし、自分のビジョンをもっと自分で作って良いんだと学びました。
正直、私はインドネシア生活中で似顔絵を描く事が無ければ、日本に本帰国しても似顔絵師を辞めようと思っていました。
渡航して2年は本気でそう思っていました。
でも、実際はインドネシアに行ったからこそ、私はもっと似顔絵師として成長したいと思い。覚悟も固まり、ポジティブ精神の基礎を固める事も出来ました。
「野生の似顔絵師から超ポジティブ似顔絵師」へ昇格です(笑)

【10年目からの再スタート】
インドネシア・ジャカルタ生活を4年半経験し、私たち家族は本帰国しました。
2019年夏です。
全てがストップした我が家の再建と、引っ越し荷物の整理。
子どもの学校関係、生活基盤を作るのに半年かかりました。
日本に帰ってきてから、自分の仕事も直ぐ再スタートしたかったのですが、基本は家族のお母さん。そうはいきません。
やっと自分の仕事を再スタートしようとした時。2020年の事でした。
そう、コロナ元年です。
人と会わなければ成り立たない仕事、似顔絵師。
5年ぶりの似顔絵師の再始動、コネも何もなく、日本を数年離れておりその間住民票も抜けていたので助成金も申請出来ない環境で、どうするねん!!
何度も人生の再スタートをしてきた私でも、今回の第一歩を踏み外すパンデミックはさすがに堪えました。
おそらく、ジャカルタ生活で得た超ポジティブ思考が無ければ乗り越えれなかったと思います。
繋がる力、どんな事でも乗り切れない問題はない!という気持ちで。当時は空を見上げて「私はここにいるぞーーーー!!」って本当に叫んでいました(笑)
ジャカルタ生活中、ずっと本帰国したら繋がりたい似顔絵師さんを思い描いていたんです。入会したい協会や、いつかお会いしたい似顔絵師の方々。
ノートに書いてコロナ禍何度も「いつか出来る」って見返していました。
引き寄せの法則って信じます?
私は信じます。
不思議と夢に描いていた、私の中では雲の上の似顔絵師の方々と徐々に繋がる事が出来たんです。
出来ない環境の中だったからこそ、出来る事への感謝は計り知れないものでした。コロナという大きな壁は、確かに障害だったかもしれません。
でも、自分で掲げた10年目の再スタートとコロナが重なったからこそ、私は自分のビジョンを強く叶えたい気持ちになったし。
まだまだ自分が未熟であるとも再確認しました。
コロナ禍からの再スタートで私は「心似顔絵塾」に出会い、似顔絵の持つ力や描く楽しさを再確認する事が出来ました。
似顔絵に限らず、どうやったら描く楽しさを人に伝える事が出来るのだろう。人の良い部分を褒めて認める事で、そこから輝くものの大きさ。
それらを「心似顔絵塾」に携わらせていただく事で学ぶことが出来ました。
私は野生の似顔絵師だから・・・
と、どこか謙遜していてなかなか入会出来なかった「日本似顔絵アーティスト協会」も、えいやあ!と入会してみれば学びの場の嵐。
似顔絵師同士の交流が、こんなに勉強になる事なんだと・・・恥ずかしながら活動10年でやっと気づく事ができました。
一人でやり始めて、我流でここまで来てしまった私はどこか意地を張っていたり恥ずかしかったりした部分が心にあったんでしょう。コロナ禍という環境は、そんな意地も吹き飛ばしてしまう位私にとっては浄化でした。
そうすると、欲張りな私は「コロナが明けたら、やりたいこと」を、考え始めるようになったのです。
私の原点は、やっぱり「野生的」なんでしょうね(笑)
現在2024年、似顔絵師として15年目となります。
15年もやっている似顔絵師として見たら、ずいぶん古参かと思いますが。
私はここまで語ってきたように何度もスタートラインに戻る不思議な人生のすごろくを歩んでいます。
だからまだまだ学びたいし、まだまだやりたいことが山積みです。
もっと上手くなりたい、もっとたくさんの人と出会いたい。
私は似顔絵師、昭和レンズです。
これからも似顔絵を学び、似顔絵を描き続けます。

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