見出し画像

【本居宣長の空想地図】 その1 総説編(前)

 今から270年ほどむかしの延享5年(1748)3月27日、小津栄貞という19歳の男は奇妙な地図をつくりはじめました。その都市の名は「端原」。架空の王朝の首都です。

 鹿那郡に属す端原の街は北を島田川、南を紅葉川、東を四郡湖に囲まれた水の都で、この街に入るには渡し船に乗らなければなりませんでした。王都の中心には君主・端原宣政の住まう御所があり、周囲には家臣団の屋敷が立ち並んでいます。南側には寺町があり、街の東側の湖畔には花形浦や新園崎八幡宮、玉垂島といった景勝地を思わせる場所がありました。地図には社寺の数、およそ250以上、武家屋敷の数は名前がついてるだけで230ほど(名前の無いものを含めると二千数百を超える)を確認することができます。
 栄貞はこの街に住む人々の歴史を「系図」の形で示し、この街を舞台とした端原宣政を中心とする一大歴史絵巻をも構想しています。まさに前代未聞の空想都市と言えるでしょう。

画像1

 小津栄貞は後に本居宣長として国学の四大大人に数えられるまでに成長します。しかし、この時の栄貞はまだ、暇はあるけど、かといって家業へのやる気のない、俗っぽく言えば変なヤツでした。

 端原の地図を書き始めた同じ年、商家の次男坊だった栄貞は、実家から紙商人の今井田家という家に養子に入って紙商売を始めていました。ところが彼は二年後に今井田家から離縁します。このエピソードは「本居宣長は商人にはならなかった。というよりなれなかった」などとよく紹介されます。まぁ、やってみたけど無理だった、ということなんでしょうね。本人はこの今井田家離縁の理由を「ねがふ心にかなはぬ事有」ったためとだけ書いています(『家のむかし物語』)。

 端原の街と物語は、そんな頃につくられたものです。栄貞はこれ以前から「書をよむことをなむ、よろづよりおもしろく思」っており(『玉勝間』)、和歌や、京都の都市、系図など幅広い方面に関心を寄せており、さまざまな知識を吸収していました。端原の世界は、商人になるという既定路線から脱線しまくった栄貞が、十九年の人生で吸収した知識をバラバラに解体して再構築したものなのです。


 彰往テレスコープでは、この端原の地図・絵図を解読し、それをもとに「現代の端原の街の観光ガイドを作る」という企画を進行しています。このnoteでは『彰往テレスコープvol.2』(2021年1月発売予定)の内容を分割し、8回にわたって本居宣長の空想地図を解説します。
 

画像3


端原発見

 歴史上端原という街が「発見」されたのは昭和五十七年(1977)九月のこと。意外と最近の話です。この同じ頃には『本居宣長全集』が刊行されていますが、そんなわけでこの地図は「未詳地図」とかそういう名前で掲載されています。発見したのは山本信吉さんと岡本勝さん。山本さんは発見の経緯を次のように書いています。

❝この系図は、去る九月、松阪市の本居宣長記念館において宣長自筆稿本の文化財追加指定調査を行った折に、自筆後方の一つである『古今選』草稿本の紙背から発見したもので、当初は宣長青年時代の戯作系図かとも考えた。しかし、調査に立会われた愛知教育大学の岡本勝氏が、これまで正体不明であった延享五年三月、宣長十九歳の筆になる所謂「洛中洛外図」を記念館の庫から持出され、系図の記事と同図の注記とが一致するに及んで、この系図は宣長が十八・九歳の頃に創作しようとした「端原氏物語」(仮題)の登場人物の系図であり、所謂「洛中洛外図」はその物語の舞台となる端原氏の都城を画いた城下絵図であることが判明した。❞
山本信吉「紹介 新出の本居宣長自筆創作系図「端原氏及一門・家臣系図」」『日本歴史』(366) 日本歴史学会 1978

 岡本さんは発見後、これは「端原氏物語」という物語の断片であろうと推測されました。これについてはまた後で述べることにします。ともあれこの系図と絵図は、青年期本居宣長の思想を読み解く一助になるだろうというわけで、いくつかの研究論文が出され、松坂市史文学編には系図、絵図ともども収録されることになりました。

画像2

総説編2につづく。総説編2は次週掲載予定です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?