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福沢諭吉が嫌いなキミへ…江戸っ子・柳北の小粋な生涯/前田愛『成島柳北』

――無限に広がる絶版本の海、捨て値の本もあれば、何かのはずみで価値が逆上する本もある。そう、古書は生きているのだ。ほら、俺はこんなに良い本を持ってんだぞ。見るだけだかんな、触んなよコラ。ーー

note版彰往テレスコープでは定期的に書評を書いていくことにしました。縛りは「絶版本」。新刊書店では手にとることのできない、本との出会いをお届けします。第一回は前田愛著『成島柳北』。奥儒者として生まれ、最後の江戸の風流の目撃者であった柳北。福沢諭吉の対極に位置する、もう一面の明治言論人の生涯を描いた評伝です。焼失したと思われた幻の日記をから、その数奇な生涯が明らかになる――。(文・惟宗ユキ)

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福沢諭吉と成島柳北

のっけから恐縮だけど、実はこの本、厳密には絶版本ではない。朝日選書はオンデマンド版を出しているので、ネットで注文すると刷ってくれる。だけど、どうしてもこの本の話がしたいので、ちょっと付き合ってもらうことにしよう。

ボクが中学生や高校生のとき、オトナたちが勧めていた偉人は福沢諭吉だった。中学生や高校生のときと言っても、まぁごく最近の話だから、時代の雰囲気はわかってもらえるだろう。「わが国の『古事記』は暗誦すれども今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と言うべし。」などという文句は、とかく実学主義のオトナたちには都合のよいものだったに違いない。

ボクも、こうしたオトナたちにつられて諭吉の本は読んでみたけれども、どうしても諭吉の「学問にスゝメ!」的カタクルしさと必死感についていけなかったのを覚えている。

さて本題の成島柳北は福沢諭吉と二歳差の同時代人だ。ともに維新までは幕臣として、明治初期には新聞ジャーナリズムの登場に貢献している。が、「有用の人」を目指して生きた諭吉と、「無用の人」を自称して「風流人」として生きた柳北では、全く対照的な人物だといえる。「明治の新聞人はあんな奴ばっかりだろ」と思っていたボクには柳北の生涯は少なからず衝撃だった。

田舎下級武士の倅である諭吉と柳北では、まず生まれから全く違っている。なにせ15歳で幕府の奥儒者を務める家督を継ぎ、すぐに将軍の講師になったというんだから、当時としては雲の上の大学者、江戸っ子貴族だ。
しかし、人柄は…というと軽佻浮薄といって差し支えなく、冗談を言うのが大好きで、当時急成長していた歓楽街・柳橋での芸者遊び(含恋愛)に青春を費やしたことで知られている。

かれは最後の「江戸の風流人」として『柳橋新誌』を記すことになるが、柳橋の繁華を讃えながらも、ある意味退廃的だった遊興の空間に埋没することなく、醒めた目でこの書を綴っている。前田さんはこの江戸の「遊びの精神」を魅力的に讃えているが、この話は多少長くなるので触れないでおく。

「無用の人」の戦い

ボクらは柳北の「無用の人」の自己紹介や「風流人」のレッテルに騙されてはいけない。柳北の書いたものを読めば、だれでも世界と対峙することを拒む文人趣味人のように思うだろう。だが実は、かれの「生を林泉に託して情を花柳にたのしんでいるから、天下国家を論じるつもりはない」というポーズは、片面では本心であったが、同時に奥儒者として生まれながらもその機会に恵まれないという不満の韜晦でもあったらしい。

明治に入ってのち、柳北は『朝野新聞』の社主に迎えられ、新聞人として世に出る機会を与えられる。ここで柳北は、お得意の詩文や諧謔を交え、まちがった文明開化の批判を開始する。

真面目ばかりが文明じゃない。勝手気儘も文明じゃない。柳北は田舎者に蹂躙されつつあった江戸の文化や、あるいはフランスのパリジャンの目撃を活かし、お得意の不マジメ文章で片手落ちの開化をおちょくってゆく。マジメになればなるほど、それを茶化さずにはいられない江戸っ子根性のなせる業である。

やがて政府の言論弾圧が新聞に及ぶと、柳北もガラにもなく新聞記者として政府との立ち回りを演じている。しかしそのやり方は、ドドイツとギャグで政府を焚き付け、法廷でコンニャク問答を繰り広げるのだから、なんとも柳北らしい。政府の要人も柳北の仕組んだ茶番劇の中に放り込まれてしまったのである。この裁判では判事の意趣返しによって、ついに懲役刑を宣告されてしまうのだが、監獄の中でも柳北は茶目っ気を失わなかったという。

不思議な日記の履歴書

この本は、戦災で焼失したと思われていた柳北の日記を偶然入手した前田愛さんによる、成島柳北に関する初の評伝だ。冒頭で語られる日記の数奇な遍歴もなかなか面白い。

柳北の日記は、かれに心酔していた永井荷風が借用して写本を作っていた。その後荷風は所蔵者である飯田家(柳北の子孫の一人)に返却したが、荷風の写本は昭和20年3月に空襲で焼失し、さらに飯田家が同年5月に焼失したため、わずか数ヶ月のうちに原本・写本ともに消滅したと思われていた。ところがその数十年後、なぜか前田愛さんは偶然古書市でその原本を発見することになる。

事の顛末はこのように推測されている。柳北の次男に俊郎という人物がいた。俊郎は風流を好む性格だけを受け継いだ不肖の人で、あちこちに嫁いだ妹の家を転々としながら生活し、時に呑み代を甥にタカるという厄介な人だったという。その俊郎が最後に転がり込んだのが、妹の家の一つ、飯田家だった。俊郎は荷風から返却されていた柳北の日記に目をつけ、呑み代として売っぱらってしまったようなのである。

不肖の息子の飲み代にされたおかげで、日記は焼失をまぬがれた。なんとも柳北にふさわしいエピソードに違いない。ま、マジメもほどほどが丁度いいわけだ。


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