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見て欲しい。見ないで欲しい。

今から私は、気持ち悪いことを書こうと思う。気持ち悪くて、ツイートしたくて、でもツイートしたら嫌われるかもとか思って変にツイートできない文、そう言った短い文章をこれから並べる。見ないで欲しい。本当は見て欲しい。


あたしは気持ちが悪い。早く気付いて欲しいし気付いた上で大丈夫と言って欲しい。そんなことが、あるわけないので早く死にたい。気持ちが悪いって早く面と向かって言って欲しい。そうやって言われないと、ダメだと思う。


おはようとおやすみを言うのが好きで、そのとき一番話している人に毎日送ってしまう。遠巻きな愛というか、何か自分はズルをしていると思う。おはようやおやすみは、挨拶というヴェールに包まれた愛であり私はそれを利用している。

最近、自分の自他境界のなさに気づいた。よく考えれば私はいつも皆さんの言う意見やツイートなど、「本当にそうだ…」と思うことがある。でも、よく考えてみると本当にそうなわけがない。共感なんて本当はできるわけがない。文章は脳のバックアップになり得ないし、私がその文章の意味を理解できているとは限らない。国語の教科書や教育に踊らされていたと思う。そんな文章という媒体に縋る自分が嫌になってしまう。

音楽に憧れている。私の通っていた中学校は吹奏楽部が全国大会へ行く強豪校のようなものだった。私はなんとなく嫌で、なんとなくの逆張りで吹奏楽部には入らなかった。妹は吹奏楽部に入り、今は楽団のようなものに属している。
友達に、吹奏楽部に入っていた子が多い。だいたいの人は吹奏楽部で先生や先輩などの関係に嫌気がさしてしまって、もう嫌になってしまっているかもしれない。でも私は、その嫌さも感じられない。吹奏楽部に入れなかった。
音楽というものの力を知っている。私は音楽を毎日聴く。でも、私は音楽を楽しむ力を持っていない気がする。なにかうまくできていない気がする。吹奏楽部に対するコンプレックスや感情が、何かいつも私の邪魔をしている。

夏が近づいて、高校とか中学の時みたいな憂鬱が少しずつ私に近づいてきている。高校を卒業したくらいから一気に頭がすっきりして、毎日が楽しかった。楽しみながらぼんやり「どうせまた苦しくなる」と予想していたのは正しかったのだ。毎日が楽しかった頃にいろんなことをしていて、(例えば散歩する同好会を作るだとか)それらが今後の私を苦しめる気がする。(楽しいのは間違いないし作ったことは後悔していないし、今後も絶対にやりたいけれど)

大学に入って、たまたま昔の友達と大学が同じだった。その友達はなぜか小学生〜中学生くらいの記憶が全然なく、私と一緒の学校に通っていた頃の詳細な記憶はほとんどない。それに救われている。苦しんでいる時の私を、彼はあまり知らないのだ。
それなのに私が今から苦しくなってしまったら、そういう私をまた見せてしまう。それが嫌だ。せっかく上手くやれていたかもしれないのに、と思う。今までも上手くやれていなかったのだろうな、と思う。これ以上嫌われたくない。誰にも嫌われていない。嫌われていないのに嫌われている気がする。私が悪く、私が悪人として生きているから、他の人の責任みたいにしてしまう。


気持ち悪い。


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