巨大電機メーカーの意地 -NECが歩んだゲームと半導体の軌跡-

NECと聞いても若い人は何の会社かわからないだろうが、オッサンゲーマーならPC98や、PCエンジンが思い浮かぶことだろう。

NECは正式名称を日本電気株式会社といい、実は日本を代表する大手電機メーカーだ。かつては家電も作っていたこともあり、冷蔵庫やエアコン、テレビなども独自ブランドで作っていた。

NECの一般的な認知度を急上昇させたのがパソコンだ。PC8000シリーズは大ヒットし、その後継機であるPC98シリーズは当時の16bitパソコンのシェア9割というトンデモナイ数字を叩き出している。そして世界半導体売上は世界一位。1980年代はあの巨人インテル(インテル入ってるの広告でおなじみの、パソコンCPUシェア7.5割の化け物企業)よりも売上が上だった。

そんなかつての巨大電機メーカーが、如何にしてゲーム業界と関わっていったか、その歴史の一端を解説しよう。

NECがゲームに関わったのは相応に古い。エポック社が1978年に発売した電子ゲーム機「テレビ野球ゲーム」にはNEC製のマイクロコンピュータが使用されていた。半導体が登場して相応に時間が経ち、コストが安くなっていろんな利用方法を各社が模索していた。ゲームへの転用もその一つだった。

エポック社とNECはゲームに関してさらなる共闘を続ける。1981年にはエポック社はカートリッジ交換方式の据え置き型ゲーム機である「カセットビジョン」を発売したが、この設計はNECである。NECはエポック社と共にゲーム開発の知見を重ねていった。ゲームに必要なスペックとはなんなのか、画像処理やサウンド関連で必要なものを吸い上げていく。

そしてこのカセットビジョンはヒット作となる。累計出荷台数はおよそ40万台。これは高価格帯のおもちゃとしては異例の数字だった。当時の据え置きゲーム機シェアでは7割ほどを占めていたという。
しかし不幸がやってくる。任天堂が1983年にファミリーコンピュータを発売した。高スペックにアーケードで人気だった作品が高クオリティで移植されている。カセットビジョンはその地位をファミコンに譲り渡すことになった(ただしエポック社のハード設計担当者である堀江氏はあくまでファミコンとは競合していないと語っている)。
そもそもカセットビジョンは1981年発売であり、性能の陳腐化が進んでいた。そろそろ新型を出しても良い頃だった。エポック社は1984年、性能を伸ばしたスーパーカセットビジョンを発売する。もちろん共同開発のパートナーはNECだった。
スーパーカセットビジョンは30万台売れ、高価格帯のおもちゃとしてはやはりそこそこにヒットした部類だった。この時代にセガは初のゲーム機を出しているが、ファミコンブームに押され想定外に売れた。そもそも100万台、200万台売れるとはセガもエポック社も考えてはいなかった。セガにて長らくコンシューマゲーム機の設計を担当していた佐藤秀樹氏(後年はセガ社長まで上り詰めた)はSG-1000/SC-3000が初年度で16万台売れたことに対してセガ全社員が驚いた、とまで表現した。(なお佐藤秀樹氏は発売直後とあるデパートに販売応援として駆り出されたが、そのとき「セガのファミコンです」といってSG-1000を売っていたという)

だが爆発的に売れ続けるファミコンの前に、エポック社は屈した。1986年末を最後に新作ゲームソフトの発売が止まった。そしてファミコンの正規サードパーティとなる。

実はこの前からNECの内部では、ファミコンの大ヒットを見てさらなるゲーム機の模索を続けていた。エポック社のパートナーという立場を超えた携わり方ができないだろうかと考えていた。なにせこのときファミコンは累計で500万台を越える超ヒット作だ。この製造に食い込めれば利益が大きいのは間違いない。
しかし単独で自前のハードを出す、というのはハードルが高かった。ゲーム機として必要とされる性能と、NECが得意としているパソコンとしての性能にズレがあったのである。パソコンとしてどんなに演算性能が優れていたとしても、画面のキャラをスムースに動かすことができなければゲーム機としての性能は低く見られてしまう。
1985年にはNEC内にゲームハード立ち上げのタスクフォース(社内の一時的な議題に対して作る即席のチーム)が出来、色々と模索していた。実はこのときすでに「デバイスにはCD-ROMを使う」ことが大前提になっていた。しかしこの時点では企画は通らなかった。NEC製のビデオチップではどうしても理想とする性能が出せなかったのである。そしてタスクフォースは解散し、NECはパートナー探しに向かう。

そこに吉報が来た。このとき名うてのゲームメーカーであるハドソンが新しいゲームハードを出すためのパートナー探しをしている、という話をNECが聞きつけたのだ。

もともとハドソンは自前でCPUとビデオチップの設計ができるほど開発力がずば抜けていた。そしていくつかの会社を回り、セイコーエプソンが最終的な製造を請負った。あとは資金面で支えるパートナーがいれば、実際にこのゲーム機を世に出すことができる。ハドソンはずば抜けた技術力を有していたが、企業体力はそれほどでもなかったのである。

一方、NECは自分の不得意分野を穴埋めした見事な設計のゲーム機に感銘を受けた。ハドソンと協議し、がっちりと握手をする。
ハドソンはゲームを作り、つてを辿って他のゲーム会社を誘致する。NECは資金提供とプラットフォーマーとしての責任を持ち、ゲーム機を発売する。そして肝心要のチップセットはセイコーエプソンが作る。CD-ROMはこの時点ではあまりに高コストだったので、ハドソンが推していた三菱樹脂製のメモリーカードが採用(すでに同等品がMSXで使われていたのでノウハウはあった)され、後から外部取付方式でCD-ROMをつけられるようにした。(詳細にこのあたりを知りたい方は岩崎啓眞氏の同人誌、ハドソン伝説を購入しましょう!)

そしてファミコンを凌駕する性能を持つゲーム機、PCエンジンが発売された。発売元はNECの子会社NECホームエレクトロニクスだ。

PCエンジンは日本において一定のシェアを獲得した。より性能が上のメガドライブ、スーパーファミコンが登場したあともオプションだったCD-ROMを一体型にしたDUOで対抗し、シェアを守った。ファミコン、スーパーファミコンを打ち倒せた、とはとてもいえないが、CD-ROMを日本に一定量普及させたという功績は大きかった(なにせ世界初のCD-ROM搭載ゲーム機なのだから)。

だが、PCエンジンの後継機、PC-FXにおいてNECホームエレクトロニクスは失敗を犯してしまう。このとき、対抗馬であるプレイステーションやセガサターンは当時のブームである3D格闘ゲームにあわせ3Dポリゴン処理機能を有していた。その反面、PC-FXはまったく3D機能を持っていなかった。PCエンジンの延長線上にある純粋な2Dゲームマシンだったのである。当然、シェア争いに参加できるレベルではなく、あっというまに次世代ゲーム機競争から脱落していった。この後、PC-FXは撤退し、ソフト部門が再編されたNECインターチャネルが他社プラットフォームへソフトを供給するようになる。

ところが、である。ここで脱落したのはあくまで「自社ゲームハード事業」である。NECは未だ拡大を続けるゲームハードの市場を虎視眈々と狙い続けていたのである。

まずは任天堂だ。任天堂にもNECは積極的に自社の技術を売り込んだ(なんとかつてCD-ROMを売り込んだこともある)。このとき組み込み向けのCPU、V810がその性能とコストと消費電力のバランスの良さが評価され、バーチャルボーイに採用されている(なお、このV810はPC-FXに採用されたものと同じシリーズだ)。

任天堂とNECはここから関係を深める。さらに売り込みを続け、次世代機ニンデンドウ64のCPUにNEC製VR4300カスタムが採用された。

そしてこの時期、任天堂とNECのライバルであったセガのセガサターンだったが、実はNECはセガにも売り込みをしていたのだ。当時NECが開発途中であるSDRAM(シンクロナスDRAM)をセガに見せ「セガさん、こういうメモリあるんですけど、興味ありませんか?」と売り込んだ。当時のセガのハード責任者佐藤秀樹氏は「スピードがめちゃくちゃ早い」と語っている。

納期、価格の条件をすりあわせ、セガはこの未知のメモリをサターンに採用する。NECは全力でこれに応じた。問題であったコストはこなれ、作り方もこなれてきて、とにかくSDRAMは出回るようになった。そして旧型であるEDO-DRAMを駆逐し(プレイステーションはこのEDO-DRAMだった。つまりサターンはメモリ面においてはプレイステーションよりも先端を走っていた)、世界標準へとなっていく。
少し脱線するがこのSDRAM、世界標準になったあとも改良が加えられ、現在ではその直系の子孫であるDDR5 SDRAMが使われている。つまりセガの魂が現在でも各種パソコンに入っているといっても過言ではない。過言であった。すみません、忘れて下さい。

とにかくセガとNECも関係が出来上がった(以前からマスターシステムの一部チップを代行してNECがつくっていたこともあったそうだ)。こうなると当然、SCEにもNECは売り込みに行く。主要チップは他社とソニーで抑えられていたが、汎用チップの一部にNEC製が採用された(おそらくだがメインメモリのEDOーDRAMの供給口の一つあたりになったのではないかと思う)。こうして当時のゲーム機戦争の本命対抗三社すべてにNECは絡むことが出来た。自社のPC-FXは駄目だったが、さらに拡大し続けるゲーム市場にあわせて売上を伸ばす仕組みを構築することに成功した。当時のゲーム機戦争の影の勝利者といえるかも知れない。

結果、一番利幅が薄いプレイステーションが勝ってしまったのは残念ではあるが、次世代機でまた食い込めばいいのである。NECは技術開発に勤しむ。


NECが携わったゲーム関連は家庭用ゲーム機だけではなかった。PC分野でもゲームは拡大を続けていた。そこにNECは入り込もうとしていた。しかしNECはご存じの通り、ゲーム向けのビデオチップ技術はあまり得意ではなかった。
ならば他社と協力すればよい。VideoLogic社と提携し、かの社の技術をつぎ込んだ3Dビデオチップ、「PowerVR」を発表する。特徴としては3D専用チップであり、当時の主流であった「一番手前のものを上書きする」という手法ではなく「そもそも一番手前のものしか描かない」という手法を取るため、メモリへの負担が少ないというものだ。
そしてこれをビデオカード化(当時は3Dアクセラセータなどと呼ばれていたが)し、売り出す。名称は何の因果か「PC 3DEngine」と決定した。

この時のPCゲーム市場は混沌としていた。一応業界標準としてDirectXという規格が存在していたが、その上で各社ばらばらに規格を提供し、その規格を元にソフトウェア会社がゲームを作るという始末だった。違うゲームをやるためにわざわざビデオカードを挿し直すことなんてのもあった。

このPowerVRはSuper Graphics Library(略してSGL)という規格を提供し、各社にゲームを作って貰おうとサポートした。ちなみにPC 3DEngineを購入すると付属品として初代バイオハザードがついていた。

ただこのPowerVR、PC向けとしては成功したとは言えなかった。性能は当時のライバルであったVoodooやATi、NVIDIAに及ばなかったし、とにかく不安定だった。突然画面がフリーズし青画面、というのもよくあった。そのうえゲーム会社からの支持もあまり得られなかった。セガがやや前向きでバーチャファイターを移植してくれたが。
それでもNECは必死に頑張り後継機であるPC 3DEngine2を発売する。そしてキラーソフトとして電脳戦機バーチャロンが発売された。このとき、バーチャロンはサターンにも移植されていたが、ゲームセンター並の高画質とは言いがたかった。PC本体のメモリやCPUに予算をつぎ込めば、このバーチャロンはゲームセンター並の高画質を実現することができた。その上、PC用ツインスティックも発売されているという厚遇ぶりだ。(補足するとPC向けバーチャロンはPowerVR専用ソフトの他、MMX専用版という概ね多くのパソコンでまぁまぁぼちぼち動くバージョンも存在する)

結局これらは市場に受け入れられなかった。NECはPC向けビデオカード製造から撤退する。

しかしここで得た知見を元に他社へ売り込みをかけた。PC向けが駄目でも、家庭用ゲーム機があるではないか! そこに目をつけたのがセガである。PowerVRというアーキテクチャには未来がある。セガはサターンの後継機にこのPowerVRを採用することを決定した。PowerVRの後継アーキテクチャ、PowerVR2が後継機ドリームキャストに乗り、その製造をNECが請け負う。さらにセガは当時のアーケード向け基板をアップグレードする際、開発の統合を行おうとした。アーケードもこのPowerVR2に統一していったのである。NAOMIと命名された基板は低コストで高性能、さらにはドリームキャストと互換性を備えているので開発がしやすいと良いことづくめだった。これでセガは打倒プレイステーションを打ち出した! 大本命プレイステーション2が登場するまえにスタートダッシュを決めるのだ!

そうは問屋が卸さない。肝心要のスタートダッシュにドリームキャストは失敗する。当のNECがPowerVR2の製造に遅れ、数を揃えることができなかったのだ。その他、セガのいくつものやらかしにより、ドリームキャストは結局コケたまま終わる。セガは倒れたままだった。
その後セガはNAOMIの後継機、NAOMI2を出したりして、それなりにNECとの関係が続いていたが、NECはPowerVR2を最後にVideoLogic社との提携を解消する。ここでNEC独自のGPUの歴史は終止符を打たれることになった。

全くの余談だが、このPowerVRの後継アーキテクチャであるPowerVR3はNECではない別会社が製造し、GPU(この頃から言われるようになったパソコン向けのグラフィック専用チップの総称。Graphics Processing Unit)としてPC向けに発売されたが、当時市場を席巻していたNVIDIAのGeForceの前に見事に玉砕。再度撤退と相成った。
しかし消費電力が少なく使用するメモリが少ない素行の良さから、携帯電話やカーナビといった組み込み向けに採用されることが多くなった。そのため細々と生き残ることに成功するが、突如転機が訪れる。スマートデバイスが普及しはじめた2007年、あのiPhoneに正式採用されたのだ。
そこから一気に急拡大し、スマートフォン、タブレット、ノートPCと、あらゆるところにPowerVRが使われるようになった。さらにはプレイステーションVITAにもPowerVRが採用され、ゲーム機への返り咲きを実現させた。セガとNECの目の付け所は間違っていないことが証明された。目の付け所だけは。
なお、現在のPowerVRについては……あまり良い話題でもないので省略する。


しかし独自GPUが終わったとしても、他社提携を進め自前の工場を稼働させるのは続いていた。引き続き任天堂がNECと協力体制を続けていく。CPUこそIBM製に変わってしまったが、NECが新しく導入した1T-SRAM技術に任天堂は惹かれた。ざっくりいうと「高速・そこそこ低コスト・しかも反応性がいい」というゲームにはうってつけのメモリだった。IBMの工場で作られたCPUと、NECが作ったメモリとGPUが採用された。GPUの設計はニンテンドウ64でビデオチップを作っていた元SGIのメンバーが行った。ニンテンドーゲームキューブの完成である。
GPUの内部にはグラフィック機能だけではなく、本体の動作に必要なIO、メモリコントローラー、オーディオ機能、さらにはGPU用メモリまでが組み込まれた高度な構造がなされていた。今のスマホのご先祖様みたいな構造である。チップは少なければ少ないほどコストが下がるのだ。
NECはこの時点でその技術力の高さを誇っていた。ゲームキューブは非常に部品点数が少ない設計であり、おかげで低コストで、かつ高耐久力を誇っていた(なにせハンマーでぶん殴られても動いていた)。そしてセガの二の舞にはならぬよう、生産効率も非常に良かった。全力で工場が動き、ゲームキューブの出荷を支えた。会社もNECエレクトロニクス(以下NECエレ)と独立させた。

このときPS2がゲーム業界の中心にいた。PS2は自社生産であったため、ソニーの工場が全力で半導体を作っていた。ならばNECが絡む隙がないように見えるが、家電利用を見込んでつくられたチューナー搭載PSXにはNEC製のチューナーが使われている。NECの抜け目のなさが現れている。

前世代に引き続き良い具合の全方位外交が成立したかに見えたが、今世代もやはり自社生産のプレイステーション2が圧勝であった。ゲームキューブはニンテンドウ64にすら遠く及ばず、新参者であるマイクロソフトのXboxより総出荷台数は下回った。PSXもあまり振るわず、自社のスゴ録に道を譲って勇退した。

NECエレは次第に没落していく。高い技術力とは裏腹に、シェアの下降は止まらなかった。このとき韓国ではサムスン、台湾ではTSMCが半導体メーカーとして興隆しており手強い競争相手として育っていた。かつて世界半導体メーカーとして一位であり、1991年以降インテルに抜かれたあともずっと2位をキープしていたNECだったが、このNECエレを独立させたころには世界半導体ランキング7位にまで落ちていたのである。2005年には赤字に転落した。自慢の技術力にも陰りが出始めた。

転機は訪れた。次世代ゲーム機競争にて、任天堂が再度NECと手を組んでくれた。任天堂はゲームキューブの失敗をハードのものとは見なしてなかった。ハード自体は非常に良い物だ。これをベースにブラッシュアップしたものに対して、新基軸を打ち込めばゲーム業界をひっくり返せるはずだ……。コードネーム、レボリューションが動き出した。
そしてマイクロソフトもNECの売り込みに反応した。NECは混載DRAM技術を有していた。ものすごく単純にいうと、GPUに直接メモリをくっつけてそのまま製造する方式である。混載DRAMはPS2でも使われているし、ゲームキューブにも使われている。コストはそれなりにかかるが、GPUの性能を発揮しやすくなる。コストは全体のビデオメモリを減らして調整すればいいのだ。事実プレイステーション2はメインメモリが32MBなのに対し、ビデオメモリは4MBで、ドリームキャストはメインメモリ16MBなのに対し、ビデオメモリは8MBである。

新型Xboxにも是非混載DRAMを搭載して欲しい。こうしたアプローチにマイクロソフトは考えた。そもそも初代Xboxは開発を急ピッチに進めただけあって主なパーツはパソコンそのもの。インテルの市販品CPUにNVIDIAの市販品GPUを載せた構成だった。性能こそは良かったが、コストはマイクロソフトが悲鳴を上げるくらい高かった。なんとか次期Xboxではコストダウンを図るカスタマイズが必要だった。混載DRAMはなるほど、美味しい技術だった。

マイクロソフトの方向性が決まった。カスタムCPU、カスタムGPU、混載DRAMを全て別々の工場から調達し、一台のマザーボードに集約する。そしていずれはCPUとGPU、もしくはGPUと混載DRAMを統合できるようにする。先々のコストダウンまで視野に入れた設計が行われた。そしてそのうちの一つ、混載DRAMにはNECエレのものが採用された。さらにマイクロソフト特有のカスタマイズが行われた。ただのメモリではなく、GPUから一部機能を外し混載DRAM側に載せた変則仕様だった。これによりGPUの一部がとてつもない処理速度を得ることが出来た。命名はXbox360

任天堂のレボリューションと呼ばれたコードネームのゲーム機の命名はWiiに決まった。ゲームキューブを拡張したような素直な構成だった。そのシステム中枢は相変わらずNECエレ製だ。

Wiiが大ヒットとなった。Xbox360も初代Xboxの倍出荷するヒットだった。このおかげで赤字に転落していたNECエレは2007年に黒字転換した。

黒字転換したのは2007年だけだった。確かにWiiやXbox360はヒット作でNECエレは工場を稼働させていた。しかし他に特段にヒット作らしいものに恵まれず、汎用品の注文はどんどん減っていった。かつてのNo1メーカーの栄光は泥にまみれた。2008年以降は再び赤字に転落した。

なんとかして次世代のゲーム機戦争においても食い込まないといかなかった。全力で各社に売り込みをかける。しかし反応は悪かった。NECエレの工場は熾烈な半導体競争の中で型遅れになりつつあった。コストは高く、消費電力は高かった。わざわざNECエレ製の半導体を使う理由がなくなっていく。

NECエレは生き残りをかけた改革に進む。ルネサステクノロジー(以下ルネサス。日立と三菱電機が半導体部門を合併させて作ったメーカー)との統合を行った。2010年に新ルネサスが誕生し、各所に再度売り込みをかける。しかしマイクロソフトからは色よい返事はなかった。混載DRAMは悪い技術ではなかったが、コストが問題だった。

Xbox360の後期型はCPUとGPUが同じチップになった一体型であった。これによりコストダウンが見込めた。しかし混載DRAM部までは一緒には作れない。わざわざ別途ルネサスから混載DRAMを買わなければならない。統合できれば更にコストダウンが行えるのだが。混載DRAMは確かにそこそこのコストでずば抜けた性能が得られるが、ゲームの開発難度も上がってしまう難点もあった。

そして次世代機、XboxOneでは手間がかかる混載DRAMは見送られ、混載SRAMが搭載されることになった。しかもCPU、GPU、混載SRAMが一つのチップに搭載された。ついでにオーディオ機能まで積んだ低コスト構成だ。製造はTSMC。ルネサスは全く関わらなかった。(尚、マイクロソフトはXboxOneXで混載SRAMすら外してしまうし、その後の世代のPS5、XboxSeriesでは両方とも混載DRAM、混載SRAMの類いは搭載していない)

同じく次世代機プレイステーション4にも主要部分にルネサスが携わることができなかった。一応ブルーレイ制御用のコントローラーにルネサスが関わっているが、大きな儲けにはならなかった。

ルネサス内部にリストラ案があがった。ルネサスは三菱、日立、NECエレの三社が合併して出来た会社だ。そのため日本各地に工場が点在していた。それらがむしろ半導体競争の足枷になった。最先端技術を導入するために投資をどんどんしなければならないのに、色んなところに旧型の工場があるわけだから。投資は分散し、競争からどんどん離されていった。

ルネサスに残った唯一の希望が任天堂だった。Wiiの大ヒットを再度期待した。そしてルネサスにとって都合の良いことに、Wiiは後半失速し、早く次世代機を出す必要に任天堂は迫られていた。ルネサスの工場は最先端ではなくなってしまっていたが、他社の最先端ラインはまだ立ち上がったばかりでゲーム機の量産につかえるようなレベルではなかったのだ。任天堂はルネサスの旧ラインを使うことで妥協した。Wiiをさらに進化させ低コスト化も並行した。CPU(これだけはIBM製だが)とGPUとオーディオ機能とIOと混載DRAMが一つのパッケージに全部積みである。これが売れてくれれば火の車なルネサスの商売は一息つけるだろう。ルネサスの希望であるWii Uが2012年発売された。

残念ながら売れてくれなかった。ゲームキューブ以下の出荷しかできなかった。追加の注文が任天堂からなかなか来なかった。Wii U専用に改装されたルネサスの工場が動くことはなくなった。そもそもこのラインは新規受注を打ち切っていたため、もはや動くことがなくなった。

ルネサスの出血は止まらなかった。
Wii U発売以前から動いていたリストラ案を実行に移した。Wii Uの工場も閉鎖された。そのほかにも複数の工場が閉鎖された。投資は縮小された。最先端工場を作るのをやめ、設計を重視し、製造の大部分を他社に委託する「ファブライト」方針へと変換した。長らくゲーム機に携わっていたNEC-ルネサスの歴史はここで終わりをつげることになる。奇妙な縁だが、閉鎖が決定したWii Uの工場はその後、半分をソニーが買収した。イメージセンターの半導体工場として転用され、現在でも好調稼働中である。残り半分はその後TDKが買収した。

そんなルネサスであるが、2021年現在好調といえる状況にいる。コロナ禍において半導体需要が爆発している。その爆発にルネサスが有する旧型の工場は全力稼働し、応えていた。営業利益は2021年通期で2966億円。2010年には5万人近くいた従業員は、2016年には2万人までリストラされていたが、その後の社員数は概ね安定している。生き残りをかけ必死に構造改革した結果がコロナ禍によって現れたといえるだろうか。

今後ルネサスが再度ゲームの主要チップを作ることはあり得るだろうか? おそらくはないだろう。ルネサスの旧型工場と比較すると、TSMCとサムスンは何世代も先に行ってしまった。ルネサスだけではなく、あのインテルやグローバルファウンダリーズ(元はAMDの製造工場。Xbox360の一体型チップをつくったこともあるライバル会社)も追いつけず競争から脱落した。しかしそもそもTSMCとサムスンでしか最先端半導体が作れない、という状況で、ゲーム機が今までと同じように進化していく、というのも思えない。今世代か、次世代かで、なんとももどかしい停滞をするのではないだろうか。

もしかしたらその停滞を打破する一翼として、ルネサスが関わってくれるだろうか? 例え生産に絡まなくとも、設計で何かのブレイクスルーを期待してもいいのだろうか。いったいそれがどういうものか、私には到底わからないが、是非元半導体世界一の底力を見せて貰いたい。


-終-

参考文献

クラシックビデオゲームステーションオデッセイ インタビュー 堀江正幸

プレイステーション 大ヒットの真実  山下敦史

元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機開発秘史 佐藤秀樹

ハドソン伝説1-3 岩崎啓眞 


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