任天堂の社長になれなかった男 荒川實 第一幕 -在庫とコングと著作権裁判-
任天堂の社長といえば誰か、と聞かれたとき、貴方は誰だと答えるだろうか?
今現在の社長は古川俊太郎氏だが、思い入れが強い人は「岩田聡」と答えるだろう。長らくニンテンドーダイレクトの顔役をやってきた彼はなじみ深いはずだ。
ゲーマーとしての年月を長く過ごした人ならば、「山内溥」と答えるかもしれない。彼はファミコンを持って任天堂を世界的企業にまで育て上げた手腕の持ち主だからだ。
そんな色んな個性をもつ任天堂歴代社長に、名を刻むことができなかった男が一人いた。
荒川實。Nintendo Of America社長を長らく務め、日本の任天堂を世界の任天堂に育て上げた一翼をになう重要人物だ。彼は「次期任天堂社長に最も近い男」と表され、当時の社長山内溥から最も強い信頼を受けている男だった。彼の手腕をなぞりつつ、なぜそこまで信頼されつつも任天堂の社長になることができなかったのか、確認していこう。
荒川實は京都出身だった。父の和一郎は四代続いた繊維業を営み、母のミチは宇多天皇(第59代天皇)の末裔で、初代京都市長はミチの祖父である。そしてミチの父は有力な国会議員であった。名門中の名門であり、父は息子である實に「荒川家の名に伴う責任を常に自覚すべき」と教え込んでいた。實は次男であったため、家業につく必要はなかった。それは兄が継いでいた。さて、いったい自分は何をしたらいいのだろうか。
實は1968年に京都大学を卒業したが、卒業したといって当てがなかった。実家が裕福でありすぎるために、働く必要がなかった。しかしそれはそれで難しい立場であった。どうすればいいのか考え、荒川實は決断した。ぬくぬくとした実家から離れ、海外でその答えを出そうとしていた。自分はいったい何をすべきなのか。海外ならばそれが見つかるかもしれないと考えたのだった。
アメリカに飛び、荒川はMIT(マサチューセッツ工科大学)に入学した。一日5ドルで過ごし、駐車場で夜を過ごす貧乏旅行も行った。アメリカとはどういう国なのかを肌で感じ取っていった。
MIT在学中のとある日、荒川はアメリカに訪問中だった若いビジネスマンらと会った。彼らは世界を股にかけて商売する自分の仕事を誇った。それが荒川の心に強く作用した。商社に入って仕事をしようという決意が彼の中に生まれ出た。
MITを卒業し帰国後、彼は日本の商社丸紅に入社することを決めた。丸紅は世界中でホテルやビルの建設を手がけていた。荒川はMITや京都大学で土木工学を学んでいたため、丸紅も欲しがったのだった。
1972年、丸紅に入社を決めてから荒川は一人の女性と恋に落ちる。彼女の名は山内陽子。任天堂社長 山内溥の娘である。パーティで初めて顔をあわせた二人は、お互いが一目惚れというレベルで惹かれあった。しかし結婚するにあたって障害があった。山内家の現当主、山内溥は荒川家のような京都の名門を忌み嫌っていたのである。
京都の名門は保守的で歴史的な富豪である。一方山内家は格が落ち、財こそはそこそこあるもののそれは山内溥が一代で積んだものだった。同じ京都内であるため「お付き合い」はいろんなところであるのだが、あからさまに軽んじられた態度で山内溥は扱われた。彼は名門に対するコンプレックスを募らせていく。
その上、山内溥は会社にいては敬愛と畏怖の対象であり、マスコミ相手となれば豪快な放言家であったが、家庭内とあっては理想の父親ではなかった。癇癪もちであり、仕事にのめり込みすぎて憔悴している様を見せていた。陽子は午後六時までには必ず家に帰り、一緒に夕食を取るようにいいつけられたが、その一方でいいつけた当人が来ないことは何度もあった。
障壁は山ほどあったが、陽子は母親の力を借りつつ父との面談を取り付けた。荒川實が山内家の夕食に招待された。出向いた先で対面した山内溥は意外なことに冷静で、いくつか質問を行った。それはまるで社員採用試験の面接のようではあったが、それらが終わった後彼はこう言い放った。
「うちの娘と結婚する気なら、はやくしなさい」
おもわず實と陽子は顔を見合わせた。その機を逃すわけがなかった。實は礼儀正しく頷き、その言葉に応えた。
「わかりました」
こうして二人は最大の障壁をあまりにあっけなく乗り越えることに成功した。二人が帰った後、山内溥は妻にこう打ち明けた。
「実は荒川家にだけはずっと感心していた。あそこは鼻持ちならん旧家どもとは違う。それにあいつはいい男だ。産まれてくる男の子も、悪くないだろう」
荒川實の穏やかで誠実な態度は、山内溥の心を射貫いていた。結婚式は半年後だった。豪華絢爛な式が京都の平安神宮の社殿で行われた。新婚の二人に幸せな生活が約束されたかのように見えた。
結婚2年目の二人は、年に2ヶ月しか会えなかった。丸紅の海外事業に荒川は携わるようになったからだ。世界各国を飛び回り、各地で仕事に張り付いた。荒川自身は苦にはならなかったが、夫婦として過ごす時間が減ったのは寂しさを覚えた。
1977年には転勤話が出た。カナダのバンクーバーに大きなコンドミニアムが建設されることになり、丸紅はその担当者として荒川を指名した。最初は家族の同伴を認めない条件だったが、陽子が会社に直談判することで許可を得た。荒川は妻と子どもを連れ、カナダへと飛んだ。そこで荒川はコンドミニアムの建設と販売に尽力を注いだ。それは結果として帰ってきた。売れ行きは上々であり、丸紅の利益に貢献した。
そのタイミングで義父から誘いが来た。「任天堂がマレーシアに製造拠点を作ろうとする計画がある。その工場の担当者として来て欲しい」という内容だった。荒川は乗り気ではなかった。マレーシアは未知の国過ぎた。それに陽子は父と夫が一緒に働くことに対して大反対だった。仕事の愚痴を延々と聞かされる幼少期がトラウマとなっているからだった。できる限り距離を取っておきたかった。
荒川はしばらくの時間をおいた後、正式に義父の誘いを断った。山内はそれによりマレーシアプロジェクトを白紙撤回する。しかし、再度荒川の元に義父からの誘いがやってきた。今度は「アメリカに子会社をつくるので、それを任せたい」という内容だった。
1980年初頭の任天堂はゲーム&ウオッチの発売前で、アーケードゲームを主な商品として展開していたゲームメーカーだった。アメリカはアーケードゲーム発祥の地。任天堂としてはなんとしてもアメリカ進出を果たしたい。しかし山内溥は英語ができなかったし、飛行機が苦手なため海外と日本を往復して過ごす、ということはとても無理だった。他の人物を探していはいたが、息子の克仁はまだ大学生。海外で勢力的に働いている義理の息子は魅力的な人材だった。
再度、山内は荒川を口説き落としにかかった。アメリカへの進出計画を披露した。たっぷり二時間は説明に費やした最後、山内はこういった。
「この計画はお前さんに全てがかかってる」
荒川は心が揺れた。妻から義父との関係が上手くいっていないことは把握していた。返事は保留させてもらった。妻と話し合わないで答えを出すわけにはいかなかったのだった。陽子は反対の立場だったが、じきに折れた。夫の目が新天地に向かう冒険家のそれであることをわかったからだった。荒川はまったく未知の、ゲームという分野を手がけ、義父の会社を大きくさせることに価値を見いだしてしまったのである。
荒川は山内の誘いを受けた。こうして彼は任天堂子会社、Nintendo Of America(以下NOA)の社長に就任したのである。
荒川はニューヨークに飛び、事務所を借りた。陽子が秘書となり、事務所の整理と整備を請け負った。小汚い事務所であったが改装費用はなかったので、陽子と二人で改装を行った。陽子は父との確執は未だにあるが、それでも夫を支えることに燃えていた。
荒川に課せられた任務はアメリカ市場への切り込みである。まずはゲームのことを知らねばならなかった。荒川はゲームをしたことがなかったのだ。
そのため近所のゲームセンターにいき、夢中でゲームをする若者と、そのプレイしているゲームを観察した。いったい良いゲームとは何なのか、若者たちの反応をもって感じ取ろうとした。この手法は後年、義父である山内溥も使っている。ファミコンソフトの優劣を判定する際、彼は実際にそのゲームをプレイすることではなく、プレイしている人間の反応をもって測っていた。
もちろんゲーム画面を後ろからのぞき込む行為がトラブルを呼ぶこともあった。「何だってんだよおっさん!」と若者が声をあげることもあった。そのとき、荒川はこう言い返した。「少年、仕事が欲しくないか?」
荒川は少年らを運搬係として雇いだした。船便で日本から届いた任天堂製のゲームをみんなで(荒川も陽子も一緒になって)倉庫に運び入れ、取引先に送り込んだ。
次は営業ルートの開拓だった。任天堂には以前から取引をしている会社が存在した。ファーイーストビデオという会社は以前から任天堂や商社からゲームを買い取り、それを各地に販売していた。……と書くと立派な会社に聞こえるが、実際は従業員は共同経営者の二名だけ。トラックが二台で、地元のバーやホテルに頼んでおいて貰う程度の規模だった。しかし彼らは任天堂製ゲームを好んで売っていた。たいていの大手日本のメーカーは自前で販売会社を設立するか、ライセンスを付与してアメリカの会社に販売を委託してしまうので出番がなかった。任天堂はそうではなく、彼ら二人を必要としていた。この時期アーケードゲームは飛ぶように売れた。置くだけでガンガン金を稼いでくれた。そのため彼らは任天堂製のゲームを売り捲き、儲けを手にしたのであった。
荒川はこの二人に協力を願い出た。彼らの会社の独立性はそのまま、費用はNOA持ち、一台あたりの歩合で、日本から直輸入したゲームを売って欲しい、というお願いだった。あまりの好条件に彼らは奮い立った。なにしろ彼らにリスクはないのである。二人は言った。
「ゲームの質さえよければ任天堂のゲームを一つ残らず売ってみせる」
アメリカのアーケードゲーム市場は沸き立っていた。スペースインベーダーのあとはパックマンが若者たちの財布から25セント玉を延々と抜き取っていたのである。任天堂がそれに似たゲームを提供できるのなら、それをアメリカ全土に売りつくしてやる。共同経営者二人は自信満々だった。この中の一人、ロン・ジュディは後にNOAマーケティング担当副社長になる。
ジュディら二人をセールスチームに加えたあと、荒川は各地に任天堂のアーケードゲームを拡販していった。ジュディは長らくの商売でコネを有していた。地元以外でも代理店や業者を通じて売るようになってきた。それはボーリング場であり、レストランであり、ゲームセンターであった。良いゲームなら売れる。広告は不要。マーケティングすらいらない。単純明快なしくみだった。
しかし1980年も半ばにさしかかってきた頃、次第にその状況に暗雲が立ち上ってきた。ゲームが売れなくなってきたのである。業界全体が一転して不況に陥ったのだ。NOAの業績は低迷し、ジュディも苦戦した。
「この状況を打破するためには、何か飛び抜けてデカいヒットが必要だ」
ジュディらはそう荒川に進言した。実際にゲームを売り回っている二人の声は、かなり追い詰められていたものだった。
荒川は勝負にでた。様々なゲームを取り扱うのではなく、どれか一本に注力し、それをもって活路を見いだそうとしたのだ。本社から送られてきたゲームをじっくりと査定した。そしてその中の一つ、「レーダースコープ」に白羽の矢を立てた。単純なシューティングゲームだったが、シアトルにおいたいくつかのサンプルの反応は上々だった。これしかない。荒川は本社に対して3000台のレーダースコープを発注した。NOAの資金がほとんどゼロになる、大博打だった。
このとき荒川はミスを犯した。運搬費用を削るために船便で発注を行ったのである。日本からアメリカの東海岸であるニュージャージー州に届くのに船便だと4ヶ月かかった。ようやく届いたレーダースコープは、もはや古くさいゲームと変わり果てていた。サンプルのときの良好な反応が消え失せ、売れない商材と化していたのである。新たに雇ったモニターからの反応も最悪だった。ゲームセンターに置かれたレーダースコープがコインを稼ぐこともなかった。
荒川はパニックに陥った。ビデオゲーム業界の恐ろしさをこのとき存分に思い知った。ジュディらはなんとか1000台を売ることに成功したが、それでもなお2000台の大型アーケード筐体が倉庫にずんと占有して動きもしなかった。ジュディは商売を継続するために叔母から5万ドルを借り受けた。このとき彼は「俺はもう一生借金漬けだ」と思うまでに至った。
この状況を黙っているわけにはいかなかった。嫌だったが、腹に背は代えられない。荒川は山内に正直にこの窮状を訴え出た。山内から激しい怒号が返ってきた。「俺は生まれてはじめて人を見損なうというミスを犯した!」という言葉まで出た。このとき、間に挟まれた陽子のストレスは非常に激しい物だった。父からは夫を非難する声が。夫からは義父への愚痴がステレオ音声で流れてくるのだから。
しかし彼ら二人はいがみ合っているだけで終わるわけにはいかなかった。荒川は一つの策をもって状況を打破しようと考えた。筐体はそのまま使い、中のマイクロチップだけを交換すればゲームを別のものに入れ替えることができる。新しいゲームを作って送って貰い、筐体は塗装しなおして、別のゲームにして在庫を売りさばこう、というものだった。この案をもって山内に助けを請うた。お義父さんお願いします、新しいゲームを送って下さい。ひとしきり怒りを発散しおえた山内は、義理の息子からの懇願……というか哀願に応えた。新しいゲームプロジェクトを発足させようとしたのである。
荒川への不幸はまだ続いた。このときの任天堂はゲーム&ウオッチが爆発的に売れていた。そのため研究開発陣はみなゲーム&ウオッチの新作に取りかかるのに精一杯で、とても新しいアーケードゲームへ割り当てる人員がいなかったのである。この中から重要人物を引き抜き新規プロジェクトにあてる、なんていうのはいくら山内でもできなかった。
山内は荒川にこの状況を素直に伝えるが、NOAの状況もまたさらに切羽詰まっていた。なんとかして新作ゲームを送ってくれ。答えは変わらなかった。
困り果てた山内は社内コンペを開くことにした。「2000台の不良在庫を売りさばくだけのゲーム」として、取り急ぎそれっぽいのが出来れば良い。それに一人の男が手を上げた。彼は新人で、どの開発チームにも属していなかったのである。出された内容はなるほど、なかなか面白そうに見えた。レーダースコープからの入れ替えも無理はなかった。
そのことを言われた荒川は目の前が真っ暗になった。この窮状を打破する最重要案件を、こともあろうに新人に任せるとは! レーダースコープからの不幸続きはまだまだ終わらないかのように思えた。しかし義父には表だって不満はいえない。なんとか会話を続けようとする彼は、とりあえずその新人の名を聞いた。
宮本茂。山内が答えたその無名の新人は、ここから世界に響き渡ることとなる。
荒川は無為に新しいゲームが届くまで時間を潰していたわけではなかった。ニューヨークに事務所を構えたのは間違いだった、と彼は悟った。日本からゲームを送って貰うならば、東海岸ではなく西海岸にすべきだったのだ。船便の移送時間を考慮し、いくつか候補をあげた。そしてシアトルに狙いを定めた。西海岸で日本からの船便も早く(大阪からわずか二週間で貨物が届くのだ)、かつ新しい産業であるテレビゲームに対応して生まれ変わっていく最中の都市だった。もともと木材加工として有名な土地であり、アーケードゲーム機の筐体の製造委託する企業に困ることはなさそうだった。ボーイングといったハイテク企業もいるため、人材の質もよかった。なにより荒川夫婦が長らく過ごしていたバンクーバーに近かった。ニューヨークの気質は夫婦には合わないのだった。
丸紅時代からの旧友フィル・ロジャースに頼み、倉庫や事務所探しをした。彼が紹介したのは、マリオ・セガール氏が営むセガール・ビジネスパークという貸倉庫だった。事務所も備えていて広さは1600坪あった。荒川はそこを借り、鉄道経由で私財とあのレーダースコープの山を運び入れた。
そして京都から一つの荷物が航空便で届いた。待望の、待望の、新作ゲームだった。皆が倉庫に集まり、筐体を取り囲んだ。サービス担当の技術者が慎重にそれを「レーダースコープ」の基板に装着しなおし、電源をいれた。映ったタイトルには「DONKEY KONG」と書かれていた。皆が顔を見合わせた後、口々に失望の言葉を述べた。プレイをしたジュディは話しにならない、といって怒って倉庫から出て行ってしまった。DONKEYという言葉にはまぬけ・とんまといった意味があるが、英語圏の人々はあまりその意味合いではつかわない。しかもコングという言葉にはそもそもゴリラという意味はない。かつてキングコングという怪獣映画があったが、あくまでそのコングは主役怪獣の愛称だ。よって「DONKEY KONG」というタイトルは全く意味不明な、わけのわからないタイトルにしか見えなかった。
荒川は義父に対して苦情を申し立てた。いったいなんてタイトルをつけてくれたんですか、あの新人は! しかし山内は取り合わなかった。「いい題じゃないか」という返事だった。タイトル変更はならなかった。
とりあえず、これを売り込みに行かなければならなかった。ジュディをなだめ、荒川はなんとか「レーダースコープ」を「DONKEY KONG」に変える作業に乗り出した。筐体を改造し、そこに貼り付けるための簡単なルール説明を作成した。キャラクターの名前もつけなければならない。なんせ最初の案では主人公は「ミスター・ビデオ」で、助ける姫は「レディ」だった。無味無臭にもほどがあった。レディは「ポリーン」にかわり、そして主人公は倉庫の主にあやかって「マリオ」となった。
そうして出来たサンプルをジュディはNOA近くにある居酒屋に置かせてもらうことに成功した。次の日、彼は手押し車に「DONKEY KONG」と生まれ変わった元レーダースコープの筐体を乗せ、その店に置き、電源を入れた。
夜、その店に向かい筐体のキャッシュボックスを改めた彼は怪訝な目でそれを見た。キャッシュボックスには25セント玉が山積みになっていたのである。数えてみると120枚。30ドルだ。これは奇跡的売上げといえた。一晩で120プレイされたことになる。このわけのわからないタイトルのゲームが?
何かの間違いが起きたのだ、とジュディが思った。しかし翌日にいくと35ドルが投入されていた。その次の日は36ドルだった。店のオーナーは喜んでドンキーコングの増設を承諾した。その店は、世界初の宮本茂のゲームで遊ぼうとする客でごった返すようになったのだった。
日本からドンキーコング用の部材が届いた。荒川は陽子と一緒に、ジュディらも加わって総出で「DONKEY KONG」への移行作業を行った。作り終えたドンキーコングはアメリカ各地に発送された。そしてあちこちで25セント玉の山を作り上げることに成功した。任天堂はジュディがかつていった「飛び抜けてデカいヒット」を生み出したのであった。
その流れを他の企業は見逃さなかった。「スペースインベーダー」を生み出した日本企業、タイトーが目をつけた。ビックリするほどの金額を提示し、「これでアメリカでのドンキーコングの権利を売って頂きたい」と交渉しに来たのである。NOAの社員たちは大いに盛り上がった。是非売るべきだ。これでNOAは莫大な利益を、即日手に入れることができるのだから。
しかし荒川は慎重だった。数日悩み、山内のところへ電話をかけて相談をした。山内もこの話自体には非常に乗り気で、確実性を重視したい様子ではあったが、そこはあえて「荒川の判断を尊重する」という態度を伝えるにとどまった。結局、荒川はタイトーに断りの知らせを入れた。ドンキーコングは任天堂のゲームであり、売り物ではない。
このとき京都で小さなやりとりがあった。広報担当の今西鉱史に対して山内がこう言った。「荒川がそうしたいというのだから、いいじゃないか」。一度は破綻しかけた信頼関係がゆっくりと戻りつつあった。
荒川はドンキーコングに全力を注いだ。結果としてあまりにあっけなく2000台の在庫が捌けた。慌てて京都に電話をした。はやく追加のドンキーコングを送ってくれ! 数千台単位でだ! 本社も驚いたが、このとき日本でもドンキーコング人気は高まっていた。良いゲームに国境はない。スペースインベーダーもパックマンも、日本でもアメリカでも人気だったからだ。京都でドンキーコングが大量に作られようとしていた。
荒川は人員の増強に全力を注いだ。営業マンとサービス員が足りない、組み立て行員も増員せねばならない。創立時12人だったNOAのスタッフは、このとき125人にまで増えた。ドンキーコングは日産250台という驚異的ハイペースで出荷されていった。
ドンキーコングの販売台数は累計で6万台に達した。NOAは創立二年目で1億ドルの売上げを達成した。借金苦で破産寸前だったジュディは、今度は節税対策に苦しむことになった。
なんとも意味不明なタイトル「DONKEY KONG」は、「ずば抜けて素晴らしい、クールなゲーム」の意味を指すようになっていった。
1982年、ドンキーコングフィーバーはアメリカ全土に広がっていたが、同時にどうしても避けられない問題が発生していた。海賊版である。ゲームを見ながら写し、アレンジをいれたクローンゲームならまだともかく(かつて任天堂が発売していた「スペースフィーバー」も、スペースインベーダーから模倣したアレンジクローンゲームだった)、今市場に出回っているドンキーコングの海賊版は、まんまのコピー品であった。当時流通しているドンキーコングの半分は海賊版だった。
これをなんとかすべく、昔からジュディら(このとき正式にNOAマーケティング担当副社長の座についた)を通じてNOAと繋がっていた弁護士ハワード・リンカーンが動く。リンカーンは探偵を雇い、警察を動かし、そしてFBIをも巻き込んで海賊版の撲滅に働いた。「これほど大規模な海賊版の流通の裏には、きっとマフィアが絡んでいるはずだ」という名目で。海賊版を売っている個人や会社に対してNOAが無数の訴訟を起こすようになった。それでもなお、海賊版は途絶えることはなかった。同時にNOAはどんどんと訴訟の経験を積み、裁判というものに対して詳しくなっていった。ハワード・リンカーンは荒川と個人的にも親しくなり、この後正式にNOAへと入社することになる。
そうした裁判を積み重ねていくNOAに対して、今度は思わぬ方向から攻撃があった。訴訟を起こしたのではなく、起こされる羽目になったのである。発起人はMCA。あの「キングコング」のMCAユニバーサル社である。彼らの主張はこうだった。
「ドンキーコングは我が社の映画、キングコングの著作権を不当に侵害している。48時間以内にNOAはドンキーコングで得た利益の全てをMCAに渡し、残りのゲームは破棄するように」
このFAXが届いたときの荒川は絶句していた。よりにもよってあのMCAを怒らしてしまうとは。NOAとは企業規模も、政治家への献金も比べものにならない。勝ち目はなかった。あの時タイトルを変えてさえいれば! 「ずば抜けて素晴らしい、クールなゲーム」を意味するタイトルをこのときばかりは荒川は呪った。ドンキーコングはNOAの生命線だった。なんとか活路を見いだすためにも荒川はリンカーンと相談し、共にMCAへと出向いた。
二人は出向いた先のMCAで延々と話を聞いていた。しかしリンカーンの目は冷静だった。一通り話を聞いた後、そっとこう切り出した。
「お話はわかりました。そちらがキングコングの著作権を有していて、それがドンキーコングによって侵害されたのなれば、当方としても示談に応じましょう。それにはまず『キングコングの著作権』が貴社にあることを証明してもらう必要がありますが」
沈黙が訪れた。MCAの弁護団らは「火星人でも見るような目つき」で眺めていたという。長らくの沈黙は相手方の「もちろん、権利は有している」という言葉で破られた。リンカーンは察した。これは、なにかがおかしい。リンカーンと荒川は何の明言もなくMCAを後にした。
荒川はできれば早期にこの問題に幕を下ろしたがっていた。山内も和解金が数億ですむのなら、さっさとそれで終わらしたいと考えていた。それにストップをかけたのはリンカーンだった。「勝機はある。引いてはいけない」。荒川をリンカーンは説得した。
その後、二人はMCA社長シェーンバーグと面談することとなった。シェーンバーグはハリウッドで恐ろしく強い影響力を有している一人だった。映画のみならずテレビ、レコード、出版、テーマパーク、ありとあらゆるところにMCAは手を出して、かつそれらが非常に大きな複合企業だった。真正面から戦って勝てる相手ではなかった。
シェーンバーグ社長は二人を歓迎した。
この裏にはシェーンバーグ自身がゲーム市場になんとかして乗り込みたいと思っていたという事情もあった。ドンキーコングという商材にたいして切り込める大義名分、それがキングコング訴訟だった。本当に訴訟にする意図はなかった。なんとか都合のいい条件で和解を行い、そこからNOAに食い込めればなおよし。版権料だけでも取れれば十分だが、欲を言えばそれ以上を狙いたい。
昼食を一緒にとり、世間話が一通りすんだ後、シェーンバーグはこう切り出した。「任天堂が我が社と和解に同意してくれそうで、誠に嬉しいことだ」と。荒川はリンカーンのほうを見た。リンカーンは背筋を伸ばし、姿勢を正して切り返した。
「当方としては」
リンカーンはシェーンバーグのほうを見据えて、ゆっくりと確実に言い放った。
「この問題についてはあらゆる角度から調査、研究いたしまして、著作権の侵害はないとの結論に達しました。当方に和解の意図はありません」
シェーンバーグはしばらくあっけにとられていたが、みるみるうちに顔を赤らめ、テーブルの端に両手をあてたあと、大声で怒鳴った。
「これはどういうわけだ! 私はてっきり和解の話し合いにきたのかと思っていたのに、これじゃまるですべて時間の無駄遣いだ馬鹿馬鹿しい! いったいどうなっているんだ!」
わめきたてるMCAの社長に対して、リンカーンは追い打ちをかけた。
「我々は和解に応じる気はありません。そのことをお伝えしようと思いまして」
シェーンバーグは立ち上がり、「よくわかった」といった。
「いずれ我が社の法務部から連絡がいくだろう。待っていたまえ。しかしキミは大変なミスを犯したぞ。私は訴訟を大事な収入源だと見なしているんだ」
怒りの表情でにらみつけるシェーンバーグを背に、荒川とリンカーンは席を後にした。
シェーンバーグは即動きを見せた。ニューヨークでNOAに対する訴訟を起こしたのである。リンカーンもそれに応じてニューヨークに飛んだ。こういう事例でもっとも有力な男を知っているからだった。マッジ・ローズ・ガスリー・アレクサンダー&ファードン事務所にその男はいた。アメリカでも有数の民事専門法廷弁護士であり、依頼人を守るために激しい覇気をもって法廷に挑み、そして勝利を獲得する男だった。
彼の名前は「ジョン・カービィ」。任天堂に勝利をもたらした男である。
リンカーンとカービィは共に日本へと飛んだ。山内社長に面談し、今回の裁判についての報告をせねばならなかったし、開発陣がいかに「キングコング」の影響を「受けていなかった」かを確認する必要があったからだ。宮本茂や、その師匠である横井軍平から聞き取り調査を行い、開発メモをコピーした。山内社長は世間話を一際せず、裁判についてお互いの意見を交換しただけに終わった。
そうして裁判に赴く間に、リンカーンは正式に荒川からNOAに来るように誘いを受けた。リンカーンは顧問弁護士ではなく、あくまで経営者としての立場を求めた。この返答はむしろ荒川を喜ばせた。リンカーンはNOAのNo2、法務担当副社長となった。
いよいよ裁判が始まった。宮本茂の供述書も提出された。彼は至極正直に全てを話した。開発中、かのゴリラのことを「キングコング」と呼称していたことを証言した。その上で「日本においては大きくて怖いゴリラのことをキングコングと呼ぶ」と付け加えた。実際にドンキーコングを法廷内でプレイもしてみせた。判事らの反応は任天堂寄りだった。「いったいこれのどこが『キングコング』なんだ?」。MCA側の主張は受け入れにくかった。
そしてカービィが爆弾を投下した。彼は過去の裁判記録をひっくり返して読み漁り、重要な証拠を発見したのであった。MCAには、そもそもキングコングの著作権などなかったのだ。
1975年、MCA社はリメイク権をめぐって、かつてのオリジナル白黒映画「キングコング」を制作したRKO社を訴えたことがある。このときの主張は「キングコングの制作は1933年であり、すでに著作権は切れてパブリックドメインとなっている。キングコングは誰の物でもない」というものだった。この主張は通り、MCA社は勝訴した。つまりMCA社はキングコングがパブリックドメインとなっており「誰の物でもない」と認めていたのである。
状況が一気にひっくり返った。「権利を侵害されています」と訴え出た企業には何の権利もなかった。その上、MCA社は四方八方に訴訟をちらつかせて和解金をせしめていた。シェーンバーグ社長の「私は訴訟も大事な収入源だと見なしているんだ」という発言は真実だった。なんの権利もなく、訴訟を持ち出して利益を貪る企業。MCAには避けられないイメージダウンが襲った。
このMCA社の傲慢さは判事の怒りを買った。MCA社からかつてキングコング関連の使用中止を求められ、ライセンス料を支払わされた企業全てに、その金を返金させ、さらにロイヤリティを上乗せして請求する権利があると判事は明言した。
そして事態は複雑さを増していく。MCA社はタイガー社に「キングコング」の商標を与えていたが、このタイガー社製「キングコング」はどこからどうみても「ドンキーコング」そっくりだった。もし任天堂がMCA社に敗北していたら、このタイガー社製「キングコング」だけが、まっとうに流通できるドンキーコングとして存在できたことになるだろう。ところが先の判事は、このキングコングのことを「悪質なコピー品であり、任天堂にロイヤリティを支払うべきだ」と判断を下した。訴えたはずのMCA社が、逆に任天堂にロイヤリティを払う羽目になってしまった。
任天堂は180万ドルの損害賠償金を獲得した。ハワード・リンカーンはNOAの上級副社長兼相談役に昇進した。カービィ弁護士には任天堂から巨大なヨットが送られた。3万ドルのそのヨットには「ドンキーコング号」と命名されていたが、同時に「ヨットに使用する独占的命名権」も付与されていた。カービィの名は任天堂内に響き渡り、そして後年、「星のカービィ」としてその名を拝借されることとなった。
-続き-
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