ファミコンと任天堂を支えたもう一人の天才 -進藤晶弘-

「ファミリーコンピュータの生みの親は誰か?」と聞かれたとき、貴方は誰だというだろうか?
開発責任者であった上村雅之氏だろうか? Goサインを出した山内社長だろうか? それとも重要なキーアイテム、十字キーの生みの親である横井軍平氏かもしれない。もしくはファミコンがその本領を発揮したスーパーマリオブラザーズを作り上げた宮本茂こそ、という人もいるだろう。

ここで「進藤晶弘」という名前を挙げても、多数の人が「誰?」という反応を返すだろう。それほどの知名度しか有していない方ではあるが、実は氏はファミコンと、そしてその後の任天堂に非常に強い影響をもたらした重要人物なのである。氏の人生をたどり、それを確認していこう。

進藤晶弘氏は1941年、愛媛県にて生まれる。高校にて化学の楽しさに目覚め、そこから地元の愛媛大学へ進学。新設されたばかりの工業化学科で知識を高め、三菱電機に就職。転勤、出向、事業撤退を二年の間に体験し、そして最終的には新設された半導体集積回路製造工場へと回された。これは三菱が半導体事業として初めて立ち上げた工場であった。そこで係長まで昇進したものの、容量を増やす製造ではなく、回路設計のほうに興味が移る。上層部に対して「製造ラインではなく回路設計のほうへ」と転換願いを出すが、これは断られた。そして進藤は転職を決心する。

進藤晶弘38歳、1979年にリコーへと転職。当時のリコーは半導体工場の新設を決定していた。爆発的に市場が拡大していた半導体にリコー上層部は期待をよせていた。しかし実情はというと、半導体事業の経験者というと進藤ただ一人。進藤はまず技術者探しから始めなければならなかった。20人程度の人材を確保し、彼らに対するトレーニングを行い、並行して工場の設計も行った。そうして1981年、大阪にリコー電子技術開発センターが完成し、いよいよ半導体を作れるようになった。

なったが、作るモノはなかった。

肝心の注文が全くなかったため、とりいそぎ進藤はリコー社内の事務機向けに社内で受注活動を行ったが、それすら反応はなかった。実績がない自社に対して発注しようとする理由は何もなかったのである。

ならば、と社外へ営業活動にでることになるが、ここでも注文はなかった。リコーにわざわざ発注する理由はなく、リコーの部品関連企業に対して営業をかけても注文はなかった。
そして進藤は海の外へ営業活動に向かうことになる。国内が駄目ならば海外だ。そして進藤は海外の半導体事情に驚くことになる。海外ではファブレス企業というものが存在していたのだった。設計だけを請負い、製造は他社へと委ねる企業形態である。そんな中ファブレス企業のVTI社(VLSI Technology, Inc.)と進藤は巡り会う。VTI社はベンチャー企業であり、ちょうど仕事をはじめたばかりだった。進藤はこのVTI社の設計した回路の製造を受注することに成功する。これがリコーの半導体事業初の仕事となった。
工場の規模からしたらまだ小さな仕事量であったものの、人員が半導体事業について慣れるために重要な仕事となった。

日本に帰ってきた進藤にもう一つの出会いがあった。任天堂である。各所に電話営業を行った中に任天堂もあったのだが、任天堂も任天堂で半導体工場を探していたのだった。ファミコン発売にあたって半導体工場を探していたものの、当時の各メーカーはDRAM生産で精一杯であり、とても新規コンシューマーゲーム機の生産を請け負うまでの余裕があるメーカーはいなかったのだ。得意先にシャープがあったが、シャープの工場は当時ゲーム&ウオッチを全力生産していた都合上、使うわけにはいかなかった。
そこにリコーの営業があった。任天堂からしたら天佑であった。リコーの工場は最先端の設備を整えておきながら、稼働率は10%程度だったのだから。

任天堂から上村雅之氏がやってきて、進藤と対談した。任天堂からの要求は以下の通りだった。

1.子どもが使うものなのでキーボードレス
2.3年以上類似品が出てこないほどの性能
3.業務用ゲーム機でヒットしているドンキーコングの動きと音質を実現する
4.それらを備えた上で低コスト

無茶振りといっていい内容だったが、進藤はこれに感銘を受ける。これに応えるということは、まさしくファブレス企業のVTI社がやっていたことと同じだからだ。いよいよ自分が回路設計をする番が来たと張り切った。リコー半導体部技術陣のなかにゲーム、ドンキーコングのファンがいて、実際に家でドンキーコングをプレイしてみたいと思っていたことが功を奏した。さらには以前任天堂が発売したカラーテレビシリーズに携わっている人員もいた。彼らと進藤は任天堂の要求に応えるためにはどうすればいいのか、案を練った。

低コストと高性能、これらの二つを両立させるためには汎用品を使っていては駄目だった。ファミコン専用のカスタムLSIをつくらなければならない。コストはチップのサイズと枚数で決まる。既存のアーケードゲーム機は汎用ICを百個ほど使っていた。これらをできるだけ減らして小さくするために進藤たちはアイデアを出した。そして出てきたアイデアはこの通りだった。

1.業務用ゲーム機に使われている制御基板を入手し、使われている画像処理やCPU(中央演算処理ユニット)、メモリーを集める
2.集めたLSIのチップを取り出し、顕微鏡写真を撮る
3.必要部分を切り張りして分け、約2メートル角に仕上げる
4.心臓部に世界最小面積であった6502 8ビットCPUを採用する
5.これを、複写機を使って20cm角の画像になるまで縮小する

必要な機能だけを抜き出し、一つのチップに収める、というのは今のスマホで採用されているSoC(システム・オン・チップ)の概念と同一である。最終的にはどうしても1枚には収まりきれずに2枚になったが、任天堂との開発チームと合同で「どの機能を活かし、どの機能を減らすか」を協議していった。

最終的に進藤は任天堂からの要求を完璧にこなした。リコーの半導体事業はファミコンの大ヒットを受け、一気に急上昇したのである。


そうしてまさしくリコーの半導体の顔、となった進藤だったが、いよいよリコーとのズレが生じる羽目になる。1988年に進藤の上司であった方が退職。新任の上司は「会社から指名された自分こそ、リコー半導体事業の顔だ」という自負がある。進藤と感情的な溝が生じていた。
そして進藤はシステムLSIの受注を行い、回路設計を行う部門を立ち上げるべきだと会社に進言した。VTIのようなファブレス企業が、任天堂のファミコンへの対応をやったときのような仕事こそが、次世代の半導体のありようなのだと。
しかしこれはリコーから断られる。あくまで既存の半導体製造こそ正しいと、リコーは考えていた。
進藤の考える回路設計は、リコーにいたままではできない。それを痛感した進藤は1990年、辞表を出す。その時の進藤の肩書きは電子デバイス事業部副事業部長兼半導体研究所所長であった。このとき、上司が引き留めれば進藤は思いとどまったのかもしれない。しかし上司はそれを受け入れてしまった。進藤はフリーの身になった。


フリーになった進藤が行ったことは起業である。ファブレス企業の興隆を目の当たりにしていた進藤はまっさきに半導体設計請負企業「メガチップス」を創業した。1990年のことである。部下はリコーからついてきてくれた5人。外部から一人、そして進藤の7人だった。
このときの進藤は日本社会の閉鎖性というものを痛感していた。なにせ肝心要の会社の銀行口座がつくれない。個人の口座は簡単に開設できるので、そのつもりで銀行に行ったもののけんもほろろに断られた。三菱やリコーにいたときとはまったく違う、個人の無力さを思い知った。口座開設を断られ脱力しながら出てきた進藤の目に大和銀行の支店が目に入った。飛び込みでそこに向かったものの、そこではなんと支店長みずから出向き、話を聞いて貰え、そして口座を開設することができた。捨てる神あれば拾う神あり。人の情を無碍にしてはいけないと心に刻んだ。
その一方で今度は事務所が借りられない。各地の公民館を転々とし、失業状態だったという。そんな状態だったもの三ヶ月で事務所を見つけ、ようやくメガチップスは稼働しはじめた。

最初の仕事は進藤の人脈からだった。日本鋼管がLSI開発をメガチップスに委託してくれたのだ。日本鋼管の顧問としてかつてリコーで進藤の上司だった方が赴任しており、彼経由で仕事が回されてきたのだった。
その後、日本鋼管の半導体事業立ち上げの教師役として技術移転をして欲しいという仕事が来た。人の情を無碍にしてはいけない、進藤は日本鋼管へ向かう。肩書きは電子デバイス本部の副本部長となった。メガチップスは部下に任せたが、その部下たちは各地を精力的に回り、見事に仕事を獲得していった。規模は大きくなり、従業員24名の売上高5億円、経常利益2,800万円を達成。メガチップスは創業から順当なスタートを切ったように見えた。しかし、冬はすぐ目の前に来ていた。1991年、バブル経済は崩壊したのである。

仕事は次々にキャンセルとなってきた。資金繰りは一気に悪くなる。2-3ヶ月先の給料すら出せなくなるほどに状況は悪化した。
このまま自主自立の路線に進むか、それともどこかの大企業の傘下に収まるか。社内は二つの意見で分かれた。進藤は有馬温泉に社員全員を連れて行き、そこで全員の討論会を行った。進藤自身は一言も意見を言わず、社員らだけで突き合わせ、結論を出させる。その結果、自主路線の維持で決定した。(残念なことにこの後一部の社員が退職している)

その後、社員たちは死に物狂いで受注活動を再開した。メガチップスの窮状をさらけだし、仕事の継続と新規の仕事を求めて回った。そのおかげもあり、第二期の売上高は11億円、経常利益は2800万円を維持できた。

このときの進藤はメガチップスの取締役ではあるが、社長ではなかった。あくまでメインは日本鋼管の半導体事情部副部長である。今度はこちらの面倒も見なければならなかった。
日本鋼管はメガチップスよりも知名度に優れていたが、半導体となるとまったくの無名だった。進藤自ら過去の人脈を使って仕事を取ってこなければならない。
そこで訪問した先はかつて仕事を請け負った任天堂であった。当時スーパーファミコンを作っていた任天堂は、ゲームを収容するマスクROM(カセットのこと)がいくらあっても足りない状況で、日本各地の工場に発注を行っていた。面談した任天堂の担当者は、進藤に向かってこういった。

「あなたができるというのならば発注しましょう。あなたには世話になりましたし、実力も知っていますから。会社を起こした以上、歯を食いしばって頑張ってください。」

進藤があっけなく思うほどスムースに仕事が降りてきた。スーパーファミコン用マスクROMの注文を貰ったのである。しかもこれは今までやってきた設計のみの仕事ではなかった。実際にマスクROMを製造し、任天堂に納めなければならない。メガチップスには工場がなく、日本鋼管の工場もこの時点ではまだ稼働はしていなかった。今までの仕事とは比較にならないほど大きなものだった。

どの工場を使うべきか、進藤にはあてがあった。かつてアメリカにいったときに仕事をしたVTI社。その創業者ミン・ウー氏はVTIの成功を元に台湾に戻り、今度は半導体製造工場マクロニクス社を立ち上げていたのだった。ミン・ウー氏は任天堂の仕事をもってきた進藤を歓迎した。
このときの契約は非常識なものだった。
「決済は検品後の30日後の後払い」「円取引」「生産キャパシティの保証」という、圧倒的にマクロニクス社が不利な条件だった。これはそもそもメガチップスに「国際取引の際に必要なL/C(信用状)開設のための資金がなかった」という事情があるからだった。
しかしマクロニクス社はそんな条件を呑む。

「あなたには長年のつきあいがあり、十分信用している。VTI社の成功も貴方の協力あってのこと。今度は我々が協力する番。その条件で引き受ける。お互いに協力しあって、発展しよう」

ミン・ウー氏は進藤と握手を行う。人の情と縁とはまさしく無碍にはできない。メガチップスはさらに飛躍した。

1993年、進藤は日本鋼管での仕事を完了し、メガチップスへと戻った。このとき任天堂も日本鋼管分のマスクROMの発注をすべて進藤側のメガチップスへと移管している。任天堂は日本鋼管にマスクROMを発注しているのではなく、進藤個人に発注しているのである。それまで日本鋼管、メガチップスと分かれて発注されていたマスクROMは一本化されてメガチップスにやってきたのだった。発展はさらに加速した。

1994年、メガチップスはマクロニクス社と提携を深めた。任天堂向けマスクROMの独占販売権を獲得した。これは実質的に任天堂の台湾製マスクROMの独占権を得たことと同義だった。

1994年、任天堂は他の工場に委託していたマスクROMの分もすべてメガチップスに委託する。正式にメガチップスはスーパーファミコン用マスクROMの独占生販売権を取得した。つまり同時にマクロニクス社がスーパーファミコンのマスクROMを全て生産することになる。任天堂-メガチップス-マクロニクスの三社協力体制がこのとき樹立した。メガチップスはLSI開発受諾企業から、一気にファブレスメーカーとして花開くこととなった。(2023/12/12訂正)

任天堂から委託された開発は、マスクROMだけではなかった。次世代機ニンテンドウ64の主要LSI部を、ファミコンのLSIを作り上げた進藤に対して再度設計してほしいと依頼してきたのだ。任天堂の開発チームはもとより、マクロニクスからも人員が集められ共同開発が続いた。CPUの選定からラムバスメモリ用クロックジェネレータの開発、同時に大容量低コストのマスクROMの開発と、メガチップスの全力をもってこれに当たり、見事任天堂の合格を獲得した。ただの生産委託ではなく、設計からアーキテクチャ、そして生産技術まで含めた垂直統合型の開発設計をメガチップスは成し遂げることに成功する。そして任天堂、メガチップス、マクロニクスの三社間で協議の上に、マスクROMの一本化生産契約がなされた。つまりマスクROMはマクロニクスを通すということである(ただしニンテンドーDS、ニンテンドーSwitchのソフトには他社製もある)。

この成功に任天堂も満足していた。この後も任天堂は主要LSIの開発をメガチップスに委託する。ゲームボーイアドバンス、ゲームキューブのカスタムLSIはメガチップスが設計し、マクロニクス社が生産している。ゲームボーイアドバンスのマスクROMも同じであり、WiiやWiiUのカスタムLSIもメガチップス設計だ。WiiUにおいては無線低レイテンシー映像圧縮伸張処理に特化したLSIを採用されている。現行のSwitchにもメガチップス設計のLSIは組み込まれているし、Switch用ゲームカードの製造はマクロニクスが主である。


ファミコンを生み出した天才はその後、別の形で再度任天堂に関わり、そして任天堂ハードの下支えを行っていた。任天堂の、従来の思い込みに頼らない奇抜な発想。それを支える技術力は、人の情と縁によって繋がっていた。もし任天堂がリコーの肩書きがなかった進藤氏を追い返していたら、大和銀行の支店長が口座を開いていなかったら、元上司が仕事をメガチップスに回さなかったら……どれか一つでも縁が切れていたら、今のゲーム市場は大きく違った形になっていたことだろう。

ハイテク技術の奥底に流れているもの。それは人の情と縁なのかもしれない。



参考文献

メガチップス挑戦の記録 旭 鐵郎
ファミコンとその時代 上村雅之 細井浩一 中村彰憲
社長が訊く スーパーマリオ25周年(https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol2/index2.html
メガチップス公式HP 創業者ヒストリー (https://www.megachips.co.jp/company/founder/
武田計測先端知財団 調査報告書 
http://www.takeda-foundation.jp/reports/pdf/ant0105.pdf

あとがき

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