そして革命は終わった -プレイステーション流通改革の真実- 後編

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発端は当時の新進気鋭のゲームクリエイター、飯野賢治の離反だった。1996年の3月、SCE主催で行われた発表会「プレイステーション・エキスポ」で、PS向けに開発していた「エネミー・ゼロ」を突如セガサターンソフトとして発売すると飯野賢治が発表した。前代未聞の出来事である。

この背景としてはSCEの流通が深く絡んでいる。前作にあたる「Dの食卓」のプレイステーション版は、先行するサターン版、3DO版が値崩れしていたのもあって出荷は抑え気味だった。これに対して飯野賢治はなんとか10万本、せめて8万本をお願いしたいと繰り返しSCEに懇願していた。サターン版の初回出荷本数は20万本だった。サターンや3DOとは違う客層をプレイステーションは有していたし、実際に小売からそれに近い数字を受注してきたからだ。過剰在庫分はこちらで買い上げるのでなんとかお願いしたいと繰り返した。

しかしSCEが決めた初回出荷本数は4万本だった。SCE側にも言い分はある。値崩れしているところにいきなり8万本ソフトを大量に投下したら、流通在庫がダブついて小売店に負担がかかる。たとえ受注があろうとも、ここは4万本で様子をみて、うちの得意技であるリピート発注で長く長く売りましょう、というものだ。
飯野賢治はこれに同意した。せざるを得なかった。SCEが本数を決める権利を有しているのだから、反抗しようがなかった。

後に飯野賢治はこう証言している。

「ぼくは今でも覚えているけど、当時のSCEの担当者にね、ふざけるな、ぶん殴るぞっていったの。秋葉原の主要な店を回って、初回出荷分発売直後に売り切れていたら、ぶん殴るぞって。そうしたら、その担当者は『ああ、別に構わないよ』って。そんなに売れないだろうって思っていたんですよ、ようするには」

そして迎えたプレイステーション版Dの食卓の発売日、実際に飯野賢治は秋葉原の主要なゲーム店を回ってみたところ、ものの見事にDの食卓は売り切れていた。さすがに担当者を殴りにいくことはなかったが、ここでSCEに対して不信感を持つようになる。そして飯野賢治は独自に出荷本数を調べてまわった。結果、とんでもない事実が発覚した。

初回出荷本数は4万本のはずだった。実際に飯野賢治のところに振り込まれた金額も4万本分だった。しかし実際に出荷された本数は2万8千本でしかなかった。

SCE側の視点としてはいずれ4万本分の受注はするだろうと見込んでいたし、クリエイター重視の姿勢を見せるためにも先行して先に委託費をお支払いしましょうという形だった。ただし本当に4万本注文が来るのはわからないし、初回出荷は2万8千本で控えてリピート重視にしよう。なんとか流通在庫を減らすことが先決だし、クリエイター側もこのSCEのやり方を周知してもらわないといけない……。

飯野賢治は激昂した。だぶついたサターン版Dの食卓もこの頃口コミでの評価をうけじわじわと売れ続けロングセラー化していたのだった。在庫は捌け、価格は元に戻り、プレイステーションしかもっていないユーザーも評判を聞きつけ購入意欲を煽られた頃だった。最高のタイミングで、最小の出荷しかプレイステーション版Dの食卓は提供されなかった。絵に描いたような機会損失の見本だった。

最終的にはプレイステーション版Dの食卓は20万本売れた。あの機会損失がなければもっと売れていたはずだ。飯野賢治の次作エネミー・ゼロはDの食卓で得た利益を全てつぎ込んで作り上げた代物で、ペイラインは30-40万本という異例の数字だった。もしSCEが「いや、10万本でいきましょう」と決めてしまえばその時点で赤字確定、会社倒産が確定する。SCEのやり方ではやっていけない。飯野賢治の離反はこのような背景があった。

この離反劇はSCE側にも衝撃だった。自分たちの行っていたリピート重視は、クリエイターにとっては「お前の作品は売れないから様子見」と言い放っているのと同義であったことに今更ながら気がついた。このときSCE副社長であった丸山茂樹はこう回想する。


「(飯野賢治に)腹が立った? いや、全然。むしろ反省材料にした。昔の感覚でとにかく初回出荷枚数を増やしてくれというソフトハウスが多かったので、SCEとしてはそれを押さえ込みにかかっていたんですよ。その流れで、何でもかんでも押さえ込むんだみたいな傾向になって、飯野さんの問題が起こっちゃった。そういう意味ではあれはいい反省材料になった。
 ぼく自身は飯野さんのようなバンッとしたやり方でプレイステーションに反旗を翻すクリエイターがもっと出てくるかもしれないと思ったし、出てきてもいいんじゃないかと思っていた。ロック・ミュージシャンがレコード会社に文句をつけるなんて言うことはよくあることだから。でも、後にも先にも飯野さんだけでしたね」


結局飯野賢治はプレイステーションに戻ってくることはなかったが、SCEは初回生産数決定権をメーカー側に移行することを決定する。SCEは問屋としてゲームを買い取る形は維持するものの、それ以上の枚数をメーカーが在庫することを許可したのだった。しかもこのとき、不良在庫としてメーカーが処分したいと申請してきた場合、ロイヤリティの徴収は行わず処分量実費負担だけでよいという好待遇である。メーカーはこの方針転換を喜んだ。

理想どおりに進まないことをSCEは薄々感じ始めていた。


そしてファイナルファンタジー7の詳細が発表されると小売店は驚いた。その初回出荷の8割はゲーム屋ではなく、コンビニに回されるということがわかってきたからだ。初回出荷本数は200万本。ゲーム市場が一気に活性化すること間違いない商材だった。それが今までプレイステーションを支えてきたゲーム屋ではなく、ポッと出のコンビニに回されるという。小売からの怒号がSCEに集まった。

SCEとしても事情はある。コンビニ流通に携わるのはSCEではなくスクウェアだった。スクウェアが単体でデジキューブという流通会社を立ち上げ、そこを介してコンビニにファイナルファンタジーが流されるという仕組みだった。SCEは許可を出したものの、デジキューブに直接絡んでいるわけではない。小売の皆様の怒りはごもっともではあるが、我々としてはスクウェアへああだこうだと指図するわけにはいかない。こういった説明を行った。

この説明で小売はひとまず退いたが、とてつもない勢いで怒鳴り込んできた会社ある。コナミだ。
コナミは最初から自社流通を要求しており、それを折ってSCE流通を使っている。なのに何故今更新参者であるスクウェアが大手を振って自社流通をしているのか。SCEは答えに詰まった。
そもそもコナミの契約の「当面」は1年半という約束だった。1年半後、契約を更新するか見直す手はずだったのに、SCEはそれを待たずに流通権をスクウェアには渡している。そもそもこの一年半、SCEは各地の小売店でコナミ製品の品切れを起こしていた。「このソフトは売りきれる可能性があるから切らさないように頼む」とコナミの北上常務がSCEの担当者に再三頼んでいたのにもかかわらず、切らしてしまう。今回のようにSCEに怒鳴り込んだことは一度や二度ではなかった。中三日でリピートがかかるとはいえどもその三日で熱が冷めることは多々ある。初心会系問屋は己の利益のために欠品補充をしなかったが、SCE流通は無能さ故に品切れを起こしているようにしかコナミには見えなかった。

結局コナミのもとに流通権が移った。コナミの言い分では「しぶしぶといった様子でようやく返して貰った」であり、SCEの言い分では「いえ、当初のお約束どおりで特に何の問題も発生しませんでした」と、相反している。

初回生産数決定権と流通権(の一部)がソフトメーカー側に移った。これはSCEが主導していた流通革命に亀裂が入ったことを意味した。全てSCEがコントロールし、小売とのやりとりを代行し、リピート発注を重視した流通を目指したはずが、次第に前時代的な「初回発注こそ命。発売週に全売上げの半分があがる」状況に戻りつつあった。コナミの言い分は正しかった。中三日で購入熱が冷めることだってあるのだ。SCEの流通革命で目指す先が理想論でしかないことが、SCEにも、小売店にも次第に露呈してきた。(そして大手メーカーは次々に自社流通へと舵を切るが、それはもう少し後の話になる)

そしてファイナルファンタジーに沸くユーザーの熱とは別に、次第に小売店には流通在庫が増え始めていった。プレイステーションには参入したソフトメーカーが多数いるからだ。SCEが許可したそれらのソフトは毎月毎週発売される。そのソフトを一本づつ取っていくだけで小売の在庫は加速度的に増えていく。しかも中古は扱えないのだから、この負担はどんどんと大きくなっていく。この状態を放置はできなかった。SCEは値下げの解禁を行った。1996年4月頃、「発売後2ヶ月経過したPSソフトについては、価格を自由に定めてよい」と通知した。97年11月頃には値下げ禁止の規定は撤廃されている。そして当初小売との契約で言及していなかった返品受け入れを行った。しかしこれも二回だけで終わった。しかも96年3月に行われた二回目の返品受け入れも、全額返金ではなく半額返金だった。あまりに膨れ上がった市場の在庫を全てコントロールし、処分することはもうSCEは不可能になっていた。

ファイナルファンタジー7を中心にしたスクウェア系大作をがっちり押さえたことが裏目に出はじめた。ファイナルファンタジータクティクス、サガフロンティアといった名作がプレイステーションではよく売れた。売れたのだがこういった大作系は発売初週にガンと売れる傾向がある。XI(サイ)やパラッパラッパー、みんなのゴルフは口コミで評価が広がりじわじわと売れるロングセラーになり得た。しかしスクウェアは前評判が高くかつ広告も非常に激しく行われる。出荷の半分以上がデジキューブ経由といえど、残りを小売店に回さないわけもいかず、その分小売店は争奪戦となる。その結果、初週になんとかして数を抑えようとした小売店が過剰に発注を行うようになり、じわじわと不良在庫を抱え込みはじめて行った。デジキューブを有するスクウェア流通ですらそうなのだ。SCE流通でも次第にそれが目立つようになってきた。在庫を少なく維持するSCE流通の理念と、揃い始めた大作ソフトとの相性は非常に悪かった。

小売店は窮地に陥りはじめた。プレイステーションが覇権を握ったのは構わない。しかしこのままでは流通在庫に押しつぶされて死んでしまう。だからといって新作ソフトを取らないわけにはいかない。そんなことをしたら客があっという間に離れてしまうだろう。新作ソフトがおかれていないゲーム屋に、いったい誰がくるというのか。
しかしSCEはこの状態でも中古の取扱を禁止していた。中古の取扱は別店舗にして逃れるところも多かったが、この中古別店舗作戦はユーザーからあまり評判がよくなかった。単純に一店舗で中古と新品を見て回れたほうが便利だからだ。その上テナント料も馬鹿にならなかった。SCEのチェックをくぐり抜けるためのハードルも高かった。値下げ販売もあまりに派手にやり過ぎるとSCEの制裁の対象となりえたので不良在庫の処分価格にも限界はあった。

ここにきてもSCEは中古を解禁しなかった。この頃ソフトメーカーはCESAという業界団体をつくりあげていたが、CESAもSCEと協調し反中古で固まっている。
なぜここまで中古を目の敵にするようになったのか。一つ例をあげよう。スーパーファミコン末期にナムコが発売した「テイルズオブファンタジア」というゲームがある。今でも続くテイルズオブシリーズの始祖にあたる。
実はこのテイルズオブファンタジア、売上げはあまりよくなかった。出荷本数は20万本超。ドラゴンクエスト6と同時期にかぶってしまったこともあって、大作ゲームとして相応しい売上げとは言えない。
しかしこれの攻略本の売上げは25万冊だった。なんとゲーム本編よりも攻略本のほうが売れたことになる。これはどういうことだろうか。
スーパーファミコンのROMカセットはリピート発注に三ヶ月かかる。その間、ユーザーはクリアしたゲームを中古を回し、他のユーザーが中古を購入して楽しんでいたのだ。そしてゲームソフトは中古の中古が出回り、攻略本だけは新品を買われていくという流れだった。
ナムコ的にはテイルズオブシリーズを発展させる導線が出来たと見なしたが、機会損失の観点からいうと非常にまずい出来事だった。中古がなければ、もっと売れたはずなのに。
小売は中古で稼いでいる、のではなく、中古で我々メーカーの邪魔をしている、と見なすようになった。
だからこそSCEの中古禁止、リピート重視策にのっかった。他ソフトメーカーも中古禁止で同意していた。SCEに怒鳴り込むことでおなじみのコナミも、この点は完全に歩調を合わせている。

中古の利益で経営を支えていた小売店が中古を禁止された結果、窮地に陥っている現状はメーカーには見えていなかった。中古で莫大な利益を得ているなら、それを俺たちによこせ。無理なら禁止だ。端的に言うならこういう主張を繰り出した。奇妙なバランスで成り立っていた持ちつ持たれつの関係は、完全に崩れ去った。

こういった業界の流れと一線を画していたのは任天堂である。そもそも任天堂はCESAの正会員ではなかった(特別賛助会員という謎枠。もともとCESAが反初心会グループCSGを母体にしているため仕方ないのだが)。そのため後に起きる中古裁判とも無縁だった。唯一それらしいアクションはニンテンドウ64で出たスマッシュブラザーズのパッケージに中古禁止の文言を織り込んだ程度だ。任天堂はプラットフォーマーであるため、あまりソフトメーカーの意に反することを公にするべきではないだろう、くらいの判断と思われる。

SCEが順当にシェアを伸ばす背後で、小売はついに反撃に出た。どうどうと中古を取り扱う店がでてきたのである。それも一つや二つではなく、ほぼ同時多発的に中古を取り扱いだしたフランチャイズがいた。そうでなければ店が潰れる。小売は必死だった。

実は以前からプレイステーションの中古をなんとか新品と同時に取り扱おうとする店は存在した。不良在庫を小売価格から大きく下げて捌こうとした店もあった。しかしそれらはSCEが見つけ次第制裁の対象となった。入荷する新作ゲームソフトが何故か届かなくなるのだ。そしてSCEの担当者からは「配送には事故がつきものだから商品が届かないこともある」という言葉を投げかけられた。

そんなSCEも同時多発的に起きた小売たちの反抗にはうろたえた。出荷禁止措置はいいが、そうしたら自分たちにもダメージが跳ね返る。この時期、デジキューブとコナミ流通があったにせよまだまだ多くのソフトメーカーがSCE流通を使用していた。店に卸さねば自分たちが在庫を抱えるだけだ。ソフトメーカーとの契約で最小限の在庫は自分が抱えることになっているのだから。

こうした状況に追いやられたものの、なんとしても小売の中古を食い止める必要があった。スクウェアの大作系ソフトの小売流通分は中古取扱店には卸さない、といった施策も行われた。中古を再開したカメレオンクラブでは、注文数のおよそ1/3しかソフトが入荷しないようになった。
そしてCESAは大々的に反中古キャンペーンを行うようになった。ゲーム雑誌の広告欄に「中古は違法」と書かれた文言を大きく提示した。東京ゲームショウ98年春では中古禁止のシンポジウムも開かれた。ユーザーの意識を中古から切り離そうという意図である。

そしていよいよ、法律的にこれを禁止してしまおうという動きが出てきた。中古裁判の始まりである。

中古裁判の経緯は非常に入り組んでいて把握しづらいため、ここでは深く掘り下げない。かわりにこの中古裁判の背後で起きた、SCEの流通革命への痛恨の一打となった出来事を解説しよう。


ブルートというフランチャイズがある。1988年に設立されたゲーム系フランチャイズであり、1991年に他の有力フランチャイズと協力し、任天堂とライセンス契約を結びファミコンの積極販売を行い、そこから中古の取扱を始め一気に駆け上がった大手だ。中古の取扱の難しさは価格設定にあるが、ブルートは市場動向を見ながら買い取り価格と販売価格を設定できるシステムを独自に開発した。最盛期には店舗数が300を越え、これは日本一の数にあたった。
1994年、特約店探しをしていたSCEは当然この大手フランチャイズを訪問する。その際に説明受けた「小売価格維持」「リピート重視」「中古禁止」の理念に、ブルート社長山崎光春は感銘を受けた。

「中古ではなく、新品を売って利益を得られるならこれほど素晴らしいことはない」

もともとブルートは中古を売ることで事業を拡大してきたフランチャイズだ。しかし山崎社長はこのゲーム業界の先を読もうとした。

「SCEがどれだけシェアを取れるかわからないが、CD-ROMという新たなメディアの登場でゲームソフトの低価格化は避けられない。価格が下がれば、中古ソフトが存在する理由は薄れていく」

一万円したスーパーファミコン用ソフトに対して、子供でも買いやすい低価格な中古市場。しかし5800円、6800円と新品の価格自体が下がれば中古の意義は薄れる。75掛けという掛け率がネックになったが、SCEとの今後の交渉次第だ。こう考え、ブルートは大手フランチャイズの中ではかなり早い段階でSCEと契約した。そしてプレイステーションを応援する小売となった。

プレイステーションの中古販売は行わない。ブルートの方針に加盟店は戸惑った。今まで利益を支えていたのは中古なのだから。「中古ソフトを扱えないことで経営が成り立たない加盟店が、ある程度脱落していっても仕方ないと割り切っていた」とブルート元社員は語っている。

山崎社長の読みは見事に的中した。SCEは飛躍的にシェアを伸ばし、1997年時点でソフトシェアを6.5割ほどまでに伸ばしたのだから。スクウェアとエニックスもやってきた。今後の伸びも期待できる。

反面、経営的には行き詰まりを覚えてきた。利益が上がらない、在庫が増えていく。中古禁止の弊害が如実にあらわれた。耐えかねた加盟店がフランチャイズ脱退をしはじめた。確かに5800円のソフトは1万円のスーパーファミコンソフトから見たら非常に安い。しかし1980円の中古を買っていた層がそのまま5800円を新品を買うわけがなかった。依然として中古の需要は大きかった。そして何より「中古を売ってそのお金で新しいゲームソフトを買う」というサイクルが途切れてしまったのだ。それがそのままブルートの経営危機として反映された。

98年1月、同業他社の上昇(大手ゲーム販売フランチャイズ、カメレオンクラブである)はプレイステーションの中古販売に踏み出した。上昇社長金岡勇均氏はこう語る。

 「当社も、プレステ用中古ソフトを扱わずに、SCEに協力してきた。だが、SCEの方針を守るのは98年1月までが限界だった。中古品も販売しないと、ゲームソフト販売店は利益を確保できない。あの時点で宣言しなければ、うちでも数多くの加盟店が潰れていただろう」

中古裁判が勃発し、小売対CESAの対立構造が深刻化する中、それでもブルート山崎社長はSCE擁護に回った。SCEがシェアをもっと握ればきっと掛け率は改善される、他社や加盟店にそう言って回った。

なぜここまでブルートはSCE擁護の姿勢を崩さなかったのか。中古を取り扱う選択肢はなかったのか? 実はこのときブルートのSCEに対する買掛金などの負債は他社のおよそ10倍にも上がっていた。もし中古を取扱いSCEとの関係が悪化した場合新作ソフトの入荷が滞るだけではなく、支援も打ち切られる。

この時SCEはブルートへの支援を行っている。通常、SCEの小売店への支払いは25日締めの翌月10日支払いという非常に短いサイトだった。回転率重視のリピート発注をベースにしているのだから、支払いサイトは短くてよいだろうという理屈である。ブルートに対しては98年3月からこれを80日手形払いに変更している。実質的に支払い猶予を三ヶ月に延ばしたのだった。

そうしてSCEへの支援を得られたブルートだったが、加盟店の反応は冷ややかだった。支払いサイトが伸びたからといって、利益率が改善するわけではないからだ。

依然として中古禁止の方針を曲げなかったブルートからついに加盟店が脱退しはじめた。その数は山崎社長の予測をはるかに上回っていた。98年2月に278店あった加盟店は半年後には141店に減少した。それに伴い売上げは月22億円から月15億円に激減した。さすがに想定外の数字の落ち込みに、リストラと直営店の削減を行って経費削減に努めた。しかしそれは焼け石に水に終わった。売上げの大幅な落ち込みをカバーするには到底足りなかった。

打てる手は全て打った。しかし状況はどんどんと悪化する。翌99年3月、山崎社長は会社の存亡を賭けた交渉をSCEと行っていた。ブルートには3月分の支払い決済が出来るほどの資金が残っていなかったのである。

「なんとか、なんとか支払いを繰り延べさせてほしい」

山崎社長は再三にわたってSCEに対して要望を行った。SCEの返答は「まずは債券の譲渡をお願いします」だった。フランチャイズ加盟店の債権をSCEに渡し、ブルートが支払い出来ない場合は直接加盟店からSCEが徴収する、ということだ。支払い繰り延べの確約がもらえないまま、山崎社長はSCEへ債権譲渡を行った。そしてそのまま他の金融機関に回った。


3月15日、運命の日。SCEの決済日。
ブルートは金融機関からの協力が得られず、SCEへ支払いすることができなかった。8億円の代金に対してブルートが用意できたのはたった2億円。

SCEは選択肢を迫られた。ブルートを潰すのか、助けるのか。

中古禁止、小売価格維持の理想に共鳴しいち早く協力したブルートは、SCEの理想をもっとも忠実に実現させたところだといえた。それを潰すということは、自らの革命が失敗に終わった、と証明することを意味する。
現実か、理想か。
利益か、革命か。
回収するのか、猶予を与えるか。
目の前の金を拾うか、もっと大きなものを捨てるか。

そして、SCEは。


3月26日、ブルート加盟店にファックスが流れてきた。

「今後のゲームソフトの支払いはブルート本部ではなく、SCEに直接お支払いください」

先の債権譲渡で得た権利をSCEは振るった。これでブルートに入ってくる金はなくなった。会社存続の手段は消失した。29日、ブルートは広島地裁に自己破産を申請した。

SCEはブルートを見放した。そしてSCEが挙げた流通革命が失敗に終わったことを意味した。中古禁止のリピート発注重視、これは経営が不可能だとSCE自ら証明してみせた。SCEは任天堂には勝利した。しかし、それよりももっともっと大きなゲームユーザーの行動原理、市場原理には勝てなかったと言える。SCEは理想を追うことを一時止めた。

「山崎社長をはじめブルートの幹部は真面目で熱心だった。ソフト販売店の将来について真剣に考えていた。だが、理想に走りすぎた。明日のメシ代をどう稼げばいいのか示せない経営者には、誰もついていかない」

ブルートを脱退した元加盟店のオーナーはこう話している。SCEは路線変更できたが、ブルートは路線変更できずに加盟店に、そしてSCEに見捨てられた。

ところで山崎社長の「SCEがシェアをもっと握ればきっと掛け率は改善される」という予測は正しかったのだろうか? PS2発売後のSCEはそれまで存在していた協力金名義のリベートを廃止し、実質的に掛け率を悪くさせた。ブルート倒産後もSCEの指導通りに中古禁止でやってきたフランチャイズはいくつか存在していたが、その仕打ちにより完全にSCEから離反。中古を取り扱うようになる。そして2002年、中古裁判の最高裁判決が出る。ゲーム中古販売は合法となった。


なぜSCEは小売に対して冷淡な態度を取ったように見えるのだろうか。SCEは自らの勝因を分析した際、「優れたハードウェアの提供」「優れた広告」「メーカー提供の優れたゲームソフト」は挙がったとしても「小売店からの支援」は挙がらなかったのだろうと思われる。

その証拠としてSCEはプレイステーション2発売前の2000年2月、「プレイステーション・ドットコム・ジャパン」という通信販売のサイトを立ち上げた。出資会社としてスクウェア、エニックス、カプコン、コーエー、ナムコ、コナミ、バンダイ、セブンイレブン、NTTドコモ、ハピネット(バンダイ系列の問屋)、デジキューブ、etcetc……。有力ソフトメーカーや各種流通会社を巻き込んでの一大プロジェクトだ。既存流通に頼らない直接販売を手がけようと本気で乗り出してきた。

さらにSCEはこのプレイステーション・ドットコム・ジャパンをネット配信の中心核にしようと企んでいた。つまりブロードバンドを活用してのソフトの配信、ダウンロード販売の開始である。PS2時代にすでにSCEはそこまで流通革命を進めようと考えていた。既存の小売店に配慮する必要性を、SCEは感じていなかった。

SCEの流通改革は現実の前に倒れた。しかし再びそこから別の理想を元に再度革命を起こそうと熱意を燃やしていた。その内容は機会を改めて書き起こすことにする。



この記事の締めとして、理想を追い、そして倒れた今は亡きブルートに、哀悼の意を表したい。



参考文献

プラットフォーム競争と垂直制限 ―ソニー・コンピュータエンタテインメント事件を中心に― 公正取引委員会 競争政策研究センター

日経トップリーダー 1999年06月号 倒産の研究  ブルート 加盟店の大量脱退で売上激減 頼みのメーカーにも見放される

西田宗千佳 美学vs実利

麻倉怜士  久多良木健のプレステ革命

森岡巧   2001年TVゲームウォーズ

矢田真理  ゲーム立国の未来像

滝田誠一郎 ゲーム大国ニッポン 神々の興亡

武田亨   売られた喧嘩、買ってます。任天堂勝利の青写真

山名一郎  ゲーム業界三国志

山下敦史  プレイステーション 大ヒットの真実

赤川良二  証言。『革命』はこうして始まった

後書き


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