任天堂の社長になれなかった男 荒川實 第二幕 -ATARIとザッパーとNESバブル-

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ドンキーコング裁判にてMCA社に華麗な勝利を得たNOAは、次第にコンシューマ市場に入り込もうとしはじめた。日本では本社任天堂がゲーム&ウオッチを大当たりさせている。これが日本とアジア市場で4000万個も売れているという。是非ともアメリカでも売っていこうではないか! NOAは新たな営業得意先に玩具小売店を追加することになった。
NOAには玩具小売店相手のノウハウが一切なかったので、パイオニアの副社長ブルース・ロウリーを引き抜いて、新設の消費者製品部門を預けた。ロウリーは玩具業界のノウハウを新たな同僚らに披露した。その内容は、荒川も、リンカーンも、理解ができなかった。
ロウリー曰く、「小売店の決済はすべて12月10日に行う」「小売が値引きした分はメーカー側が補填する」という。目を丸くしてリンカーンは言った。

「いったいどういうことだ。こっちは商品を作り、リスクを全部背負った上で、相手の資金繰りの面倒をみて12月まで支払いを待てというのか!?」

ロウリーは頷いた。それが玩具業界の慣例だった。今まで任天堂は卸したアーケードゲームは30日以内の決済にしていた。それを大幅に変えていかねばならなかった。

1983年、初めてNOAは家電ショーに参加した。そこでゲーム&ウオッチは華々しいデビューを飾った……というわけにはいかなかった。NOAが割り当てられた場所は、隅っこにぽつんとおかれたブースだった。業界は新参者であるNOAに冷たかった。翌月玩具フェアにも参加したが、反応は非常に悪かった。そもそもゲーム&ウオッチは82年にはアジア市場で飽和しきっており、大量の売れ残ったゲーム&ウオッチと、その類似品がアメリカにも渡っていた。全く売れないということはなかったが、NOAが期待していた内容にはほど遠かった。NOA自身にコンシューマ向けに売るノウハウがなかったのだから、当然だ。コマーシャルにも失敗した。わざわざ素人をつかった(NOA社員である)1分30秒のCMは、あまりに出来映えが酷くてテレビ会社から放送を拒否されたほどだった。損失は数百万ドルに及んだが、勉強費用としては高くはなかった。

1983年、任天堂は日本でファミコンを発売している。しかし、NOAでは未だにアーケードゲームの販売が収益のメインであった。山内は思い切りがよかった。ファミコンの大ヒットを見てアーケードゲーム部門を縮小化させ(いずれは閉鎖するつもりだった)、ファミコン開発のほうへ舵を切った。ファミコンはこれからどんどんと拡大すること間違いない。アメリカでも売らなければならない。きっと売れるはずだ。NOAは1984年からファミコンをアメリカで売る準備を始めた。

小売店へリサーチを行ったが、反応は最悪だった。いや、それ以下だった。
荒川が玩具会社やデパートに出向き、「これから家庭用ビデオゲームの事業を始めようと思いまして」と切り出すと、相手の表情はすっと冷たく変わった。必ずである。バイヤーからこういわれたこともあった。

「新しいゲーム機の話なんて、聞きたくもない」

「私がこの仕事についたのは、前任者がビデオゲームで大損をしたからですよ。私が……先輩の轍を踏むとお思いで?」

「北極でアイスキャンデーを売る方が、まだ『まし』だと思いますけど」

この背景にはアタリが絡んでいた。

「ATARI」

ゲーム業界の偉人であり巨人であった。
ATARI VCS(後にATARI2600に改名)というコンシューマゲーム機を1977年に発売し、驚異的ヒットを飛ばした。年間で数百万台を売上げ、累計出荷台数は2000万台を越えていた。アメリカの家庭用ゲーム機市場が育ち、急激な勢いで膨らんでいった。肥大化するATARIと共にそこから喧嘩別れした技術者たちがサードパーティを立ち上げ、自前でATARI VCS用のゲームソフトを売りまいた。アクティビジョン、アクイレム、アコレード。これらは皆電話帳で「ATARI」よりも先にくるように命名されていた。

それらのサードパーティーからのロイヤリティもATARIを大きくする要因となった。このときのATARIはワーナーの傘下にあったが、ワーナーは年々倍々ゲームのように拡大するゲーム市場に酔っていた。ハードの増産を繰り返し、ソフトの生産も小売店からの注文を大量にすくい上げた。ソフトを出せば売れるとわかっていたため、開発期間をどんどん短くしてとにかくソフトを多く出すように仕組んだ。クオリティは問題でなかった。「どうせ売れる」のだから。

1983年、突如としてアメリカの家庭用ゲーム市場は成長を止めた。しかしワーナーはATARIのアクセルを緩めることをしなかった。100万単位でハードとソフトを市場に供給し続けた。タイミングが最悪なことに「ゲーム市場は倍々ゲームで広がる」と思い込んでいた競合他社が、自前の家庭用ゲーム機を市場に突っ込んでいた。コレコビジョン、インテレビジョン、アストロゲート、チャンネルFシステム、オデッセイⅡ、ベクトレックス(日本名は光速船)、アルカディア2001……。過剰供給されたゲーム機は競合し、市場でダブり始めた。そして末端のユーザーたちはあまり質の高くないゲームに購入意欲が削がれ出していた頃だった。アーケードの人気作、パックマンもATARI VCSに移植されたが、そのゲーム性までは移植されていない酷い物だった。E.Tは映画人気の後押しで150万本売れたが、これのゲーム性もまた酷い物だった(なにせ開発期間は5週間しかなかったのだから)。その上ATARIは500万本売れると見込み、本当に500万本作ってしまった。酷いできのゲームソフトは売れることなく、ATARIに戻ってきた。倉庫から動かなくなった大量のE.Tのカートリッジは、夜中のうちに砂漠に埋められることになった。
破綻の連鎖が始まった。一社、また一社と倒産していった。小売は売れ残ったゲーム機を返品したがったが、すでに返品先の企業はない。歯を食いしばって値下げをし処分をする。価格が下がれば他の商材もユーザーの興味を引くことはなくなる。価格を下げざるを得ない。小売の値引きの補填を求められ、メーカーから金が出て行く。そしてじきに次の倒産がおき、価格はさらに下がった。ユーザーの興味は加速度的に引いていき、ブレーキを踏んだ小売が作った冷え切った市場だけが残った。アクセルを踏み続けたワーナーはVideo game crash of 1983(日本でいうアタリショック)と呼ばれる重大事故を引き起こした。

小売は学んだ。もうこりごりだ! 家庭用ゲーム機は二度と扱ってはならない! もしまた家庭用ゲーム機をつくろうなんていうメーカーがいたら、そいつはバカだ。付き合っていられない。一部の親切な小売は、バカな荒川やリンカーンらを説得した。「悪いことはいわない。テレビゲームに手を出すのは止めときなさい」


荒川はこの事態を奇妙な目線で見つめていた。確かにアーケードゲームでは粗悪なゲームは見向きもされない。過去の「レーダースコープ」の教訓が頭に刻み込まれていた。しかし良質なゲームを届けることさえできれば、ユーザーは再び興味を取り戻し、ゲームを買ってくれるのではないだろうか? 日本の子どもたちとアメリカの子どもたち、嗜好にそこまで違いがあるだろうか? それにこの事態を引き起こしたのはATARIの、ワーナーのあまりにずさんな計画が元だ。きちんとした目論みを元に市場を整えることができれば、アメリカでもかつて沸いた家庭用ゲーム機市場を取り戻す、いや、それ以上に盛り上げることができるのでは?
山内はなんとかしてファミコンをアメリカでも売ろうとしていた。荒川もそれに乗った。アメリカのゲーム市場はアーケードでは未だに盛況であるし、PCゲーム市場もじわじわと盛り上がりはじめていた頃だ。家庭用ゲーム機市場もきっと復活するはずだ。
そういった彼らの目論みは、初っ端からくじけることとなる。


1984年、アメリカのエレクトロニクス見本市にファミコンが展示された。名前は「アドバンスド・ビデオ・システム」に改名されていた。ファミリーコンピュータではあまりに子どもっぽすぎたからだし、家庭用ゲーム機として「見破られない」ように偽装せねばならなかったからだ。キーボードがつけられ、音楽を歌い、多機能PCで「おまけにゲームもできる」。来場者の多くは質は高いが、失敗するだろうと見込んでいた。それをゲーム機だとすぐに見抜いてしまったからだ。外装も変えられコンピュータらしい筐体になったが、中身はファミコンそのものだった。アメリカ人は見事にその中身を当てていたのである。

1985年1月にラスベガスで行われたConsumer Electronics Show(以下CES。電子機器の見本市)の状況はまさしく冷え切ったゲーム機市場を表していた。ATARI社が一社のみATARI2600を展示しているが、サードパーティーは一社も参加していなかった。マテル社も参加せず、コレコ社も既存のコレコビジョン(ATARI VCS対抗の8bitゲーム機。一時任天堂もライセンス契約したことがある)以上のものは出せていなかった。市場は明らかにホームコンピューター、低価格パソコンのほうへと向いており、MSX(アスキー社主導の低価格向けパソコン統一規格)がコナミ社ブースを中心にちらちらと姿を見せており、コモドール社のコモドール64(8bit低価格ホームコンピューター。1000万台以上出荷された大ヒットPC)が低価格パソコン市場の中核にあった。そこにもファミコンの試作機(AVSとは違いキーボードは付属していなかった)は展示されたが、ずば抜けていい評価をもらえたわけではなかった。光線銃が「ホームコンピューターにはなかったもの」としてそれなりの評価をもらえたに終わった。

簡単に見抜かれてしまったファミコンに次なる改装計画があがった。その計画の責任者には、山内社長の右腕、横井軍平があたった。横井はファミコンロボットというギミック付きおもちゃをつくってみせた(アメリカではR.O.B。ロブと呼ばれた)。コントローラーではなく、ファミコンを繋いだ画面から光を放ち、間接的に命令をだしてロボットを動かす。ロボットはジャイロを回したり、ブロックを積み上げたりしてみせた。ロボットなら小売店は問題なく売るだろう。CESで評価が高かった光線銃をザッパー(後に出たWiiのアタッチメントもWiiザッパーと名称された)と改名し、周辺機器として最初から用意した。そしてファミコンはNOAのスタッフたちによりさらに外装を変えていった。角張り、色を変え、キーボードを排除し、コントローラーはプラスチックコードで接続する方式に変更した。名前はAVSから「Nintendo Entertainment System」(NES)に変えた。これでどうだ!

それでも小売の反応は駄目だった。AVSよりも悪くはなかったが、いざ発注となるとバイヤーは渋った。あまりにATARIのやらかしが生々しすぎたからだろう、と荒川は考えた。

しかし子どもたちに実際にプレイさせてみればきっと違う反応が返ってくるはずだ。いいゲームに国境はないのだから。
ニュージャージーで荒川はテストを行った。ランダムで選んだ子どもたちにNESを実際にプレイしてもらい、マジックミラー越しにその反応を伺う。荒川には自信があった。しかしプレイしていた8歳の子どもがいった。「こんなのくだらないよ!」。その言葉は荒川の自信を粉々に打ち砕いた。

さすがにもう、十分ではないのか。荒川は撤退を考え始めた。そもそも全くゼロからのスタートで、ドンキーコングを売りさばき、MCA社のいちゃもんをはね除け、利益を上げた。義父にそれとなく提案をしたものの、山内はそれでもアメリカでファミコンを売ることに固執していた。荒川はテストの結果を伝えながら再度撤退を進言した。しかし山内は聞かなかった。

「そんなの無視すればよい。とにかく狙いを一つの都市に絞って売り込むといい。それで失敗したのなら諦めようではないか。とにかく実際に、多数の子どもにファミコンをプレイさせてみるんだ。ゲームは飽きられていない」

山内は強情だった。荒川はそれならばと、とある小さな町に狙いを絞ってテストしてみようといったが、山内はそうじゃない、と言った。

「アメリカで最も家庭用ゲームに厳しい場所はどこだ?」

「ニューヨークですね。あそこは一番競争が激しい。それだけじゃなく去年のATARIのおかげで過剰在庫に苦しめられています。その上バイヤーは、アメリカ1、いや、世界一狡猾です」

荒川の答えに山内は頷いた。山内は強く電話越しに荒川へ指示を飛ばした。

「よし、ニューヨークだ! そこにファミコンを売るぞ!」

荒川は再びあのニューヨークへと舞い戻ることとなった。山内が約束した予算は5000万ドル。これでアメリカにファミコンを売り込みにいくのだ。


販売するソフトは絞り込んだ。日本で発売されているソフトをあれだこれだと持ってきたところで訴求力が分散されてしまう。これにはNOAが得意としているアーケードゲーム市場が役に立った。基板はファミコンそのまま、カセットを入れ替えることで複数のゲームを一台の筐体で遊べる「VSシステム」をNOAは84年から展開していた。これによりどのゲームソフトがアメリカ人の心を掴むか、概ね把握していたのである。

NOAの社員、30人がニューヨークに構えた新事務所に移籍することとなった。言うなれば彼らは敵地に切り込み、新たな橋頭堡を築くための海兵隊である。彼らは精力的に小売店を回り、バイヤーと面談した。今までと同じではいけない。ショッピングモールのオーナーにはNESのデモ機を置かせて貰い、予算の一部を使ってプロ野球選手やプロフットボール選手らを雇って、彼らを小売店の店主たちと会わせた。これは効果的で、オーナーたちはNOAの社員たちに会うことを苦にはしなくなった。

1985年10月、クリスマス商戦前。トイザラス、シアーズ、サーキットシティ、メーシーといった有名販売会社に売り込みに行った。トイザラスからは好意的印象を貰ったが、それでも発注までには至らなかった。彼らは「Nintendo」という名前を覚えられなかったし、覚える気もなかった。

荒川は勝負に出た。小売店に対して無料で品物を卸し、そのままNOA自身でディスプレイも行う。90日後、売れた分の代金だけ支払ってくれ。残った分はNOAが引き上げる。小売店にはリスクが一つもない。山内はその提案にさすがに鼻白んだ。それは弱者の売り方だ、と思った。任天堂はそこまで這いつくばった売り方をしたことがなかったからだ。荒川は山内に対して「真の強者なら自社の製品に絶対の自信を持ち、小売店へ金を払っても置かしてもらわなければならない」と説得した。
バイヤーはさすがに興味をそそられた。そこまでの好条件を提示されれば心を動かされるものだ。リスクゼロで商材が一つ増えるのなら、これはこれでアリなのでは? しかし心優しいバイヤーは忠告を行った。「こいつはお宅の墓石になるね」

NOAのスタッフたちは賢明にこの状況を打破しようと動いた。
朝起き、ショッピングモールに向かい、一ダースほどのテレビにNESを繋いでいく。ゲームが稼働している脇でプロ野球選手がせわしくサインを行う。なんとか一人でも多くゲームを見てもらうために宣伝文句をうたう。しかし大抵の子どもと大人達はプロ野球選手のサインをもらえたら満足し、ゲームには目もくれず去って行った。
小売店にも何度もアプローチを行った。買い付け係を口説きおとし、なんとか最低限のNESを仕入れてくれるようになった翌日、その店の商品課課長から連絡が来た。「うちはゲームお断りなので」。再度訪問し、課長を口説き落とす。ほっと一息ついた翌日、今度は副社長から断りの電話が届くのだった。

販売店へのアプローチを行う一方、コマーシャルにもNOAは注力しなければいけなかった。かつてゲーム&ウオッチのコマーシャルで素人を採用し痛い目にあったNOAは、至極まっとうな判断を行った。「プロに任せよう」。
ゲイル・ディルデンは元は広告代理店で働いていた女性だった。1983年にNOAへと入社し、そこで才能を発揮させていた。ディルゲンは広告代理店に徹底させた。

「NESは、ビデオゲームではありません」

これは全く新しいエンターテイメントシステムであり、ビデオゲームとは違うものだ。挿入するのはカートリッジではなく「ゲームパック」。NES本体はコンソールではなく「コントロールデッキ」。これらはあのATARIと共通しないように言い換えられた。ATARIと違う製品であることを消費者と小売店にわかってもらわねばならない。そしてテレビCMは家が宇宙に向かって飛んでいき、子どもたちが宇宙船の内部を探検して、そこのコントロールパネルがゲーム機のスクリーンに変わるものを採用した。NESの持っているマシンパワーとエンターテイメント性を前面に打ち出し、非現実への扉と表現した。これをニューヨークにどんどん流した。
ディルゲンは業界紙の記者たちに熱弁した。NESはいままでのどのビデオゲーム機にもなかった高性能を有しており、次元が違う。ゲームの質もはるかに向上している。子どもたちだけでなく大人も魅了するパワーを有しており、映画や音楽といったエンターテインメントの一ジャンルを築くことができるマシーンなのだ、と。それを聞いた記者たちは静かに首を横に振った。それらの宣伝文句は今までATARIに挑戦してきた企業たちから散々聞かされてきた売り文句と大差なかったからだ。

それでも彼らの必死な広告活動のおかげで、冷え切った大地に暗雲の隙間から日が射し込むようになってきた。小売からの注文が来始めた。末端でNESの販売が進み出した。祝杯をあげる暇などない。日本からやってきたNESを倉庫に移し、それを次々に小売へと送り込んでいく。彼らはクリスマスの前日まで全力で働いた。結果、500から600の小売店がNESを販売してくれた。
日本から送られてきたNESは10万台だったが、このうちの半分はニューヨークで売れた。任天堂が期待したほどのものではなかったが、NOAは満足していた。ニューヨークの小売店に「なぜだかわからないがNintendoのゲーム機だけは、まぁ確かに売れるらしい」という評価をもらうことができたからだ。間違いない、NESは売れる。彼らは確信した。


ニューヨークの小売に定着したあとはロサンゼルスだったが、これは時期が悪かった。2月の小売、それも玩具関連に関しては売上げが大きく落ちる時期だった。それでも相応のNESの注文をもらい、実際に消費者の手に渡った。NOAは確かな手応えを感じた。そのまま全国制覇を目指すべく、シカゴ、サンフランシスコ、テキサスの主要都市と、様々な町に繰り出し販売攻勢を行った。
ここで山内からの指示を受け、荒川は勝負に出た。NESの販売パックを2種類用意したのだ。249ドルの豪華版には本体とコントローラ二個、ザッパーとその対応ソフト「ダックハント」(日本でほとんど無名に近いこのソフトは、アメリカで抜群の知名度を誇る。そして後年、スマブラにも参戦を果たした)がついてきて、R.O.Bとその対応ソフト二つが同梱されていた。そして199ドルの「アクションキット」にはR.O.Bの代わりにあの「スーパーマリオブラザーズ」がついてくるのだった(この巧妙な作戦の狙い目は豪華版を買ったユーザーも、結局マリオ遊びたさに後日スーパーマリオブラザーズを購入しなおす点にある)。若年層のゲーマーが次第に興味を持ち、NESに触れ始めた。

NESの販売台数は1986年で100万台だった。かつてのATARIや、他のゲーム機と比較したらずば抜けた数字ではなかった。小売店の多くはビデオゲームに深入りするのを避けていた。業界人の見立てでは「一時的な特異現象が起きた」と評価された。死体が痙攣した、とでもいおうか。

この状況の背後で、荒川は一人の男に相談を持ちかけた。旧友であるピーター・メーンである。メーンはかつてゼネラルフーズ社の副社長であり、マーケティングや経営のプロフェッショナルだった。彼は荒川の丸紅時代、バンクーバーに住んでいた頃のご近所さんだった。メーンは近所に引っ越してきた「感じのいい日本人夫妻」に好感をもち、荒川が引っ越した後も手紙やクリスマスカードで交際を続けていた。NESの拡販を続けるに当たって彼の協力が必要だった。NOAに来て欲しい、という説得に彼は応じ、NES販売の特務部隊のリーダーとなった。今までマーケティングを仕切っていたジュディが、ファミコンのヨーロッパ販売にむけて向こうへ飛んでしまった、という事情もある。彼に変わる確固たるリーダーが必要だった。彼はビデオゲームとビデオゲームビジネスに全く知識がなかったので、手当たり次第にATARI関連の資料を読みあさり、研究を行った。

彼は「勝算はあるし、私もこのビジネスを成功させたい。是非ともね」と言った。

小売店は今でも冷たい態度を変えてはいなかった。メーンは根本からこの状況を変えてやろうと企んだ。彼が行った先はウォール街だった。そこでせわしなく働くアナリストたちに接触し、ガンガン情報を流した。

「えっ!? Nintendoを知らないのか? あの日本でシェア9割を誇るNintendoを!?」 

アナリストたちは貪欲に会社情報を探っていた。当たり前だ、その会社が上場するときに自分が幹部として入り込めるのかもしれないのだから。そんなアナリストたちに任天堂は衝撃的に見えた。シェア9割、無借金経営、驚異的な利益率に、年々倍々ゲーム的に伸ばしている売上げ。なんだこの企業は。アナリストたちは東京にいる同業者に情報を確認する。真実だ。しかもその子会社が今アメリカでNESという機種を販売している真っ最中だ。あの「全てが凍り付いた」ビデオゲーム市場で100万台を販売している……。
沸き立つアナリストたちは小売企業のバイヤーに会ったときに聞く。「おたくの店ではNintendoはどれくらい扱っているんだ?」と。バイヤーは答える。「いや、うちじゃNintendoは扱ってないよ。ビデオゲーム機はもうこりごりだし、今後はコンピューターゲームの時代だからね」 アナリストは目を見開き、軽蔑しような表情でこう返す。

「ちょっとおかしいんじゃないのか。おたくが扱っているコンピューターゲームの売上げ全部あわせても、よそが扱ってるNintendoのゲームソフト一本にすら及ばないよ!」

あわててバイヤーが他のアナリストに問い合わせる。Nintendoはいったいどういう会社なんだ。アナリストは「Nintendoか。ありゃとんでもないことをやってくれる企業に違いない」と答える。次の日、バイヤーはNOAにNESの注文をいれるのだった。

評判の連鎖反応が起きた。いままで頑としてビデオゲーム機は扱わないとしていたシアーズも取引に応じた。Kマートとウォルマートも取扱量を増やすことになった。結果、小売店は大きく喜ぶことになる。なにせNOAと契約したら、彼らがディスプレイを用意してくれて、子どもたちが自由に触れる試遊台を複数台並べてくれる。大人達が買い物をしている間、子どもはそれで遊んで時間を潰すことができるのだから。そして子どもたちが次第にダックハントやスーパーマリオブラザーズの魅力を理解し、それがなんと家でも遊べることを「発見」すると、親にたいしてNESをねだることになる。親はATARIやホビーコンピュータとは違うそれを怪訝そうにしながら確認し、プレゼントとして子に買い与える。もちろんこれでサイクルが終わるわけではない。次に来るときは、子は違うゲームの試遊台で遊んで、それをまたおねだりするのだから。こうして小売店は売上げを伸ばしていった。

「何かがおきる、という予言がひとりでに実現してしまった」

メーンはこう評した。NESは二年目の1987年、230万台を販売した。ソフトは1000万本。凍えて固まったかのように思われた市場が、加熱を始めた。年末のブラックフライデーに購入されたNESは一月まで子どもとその家族を魅了し夢中にさせた。そして二本目のソフトを購入する一月末にソフト売上げは再度ぐん、と伸びた。
死んだと思われていた市場は眠っていただけだった。見事覚醒した家庭用ゲーム機市場は、NOAに大きな売上を与えた。


山内が約束した5000万ドルの支援金は使い切ったどころか、全く足りず膨大な追加を余儀なくされた。しかし山内は荒川の手腕を褒め称えた。それだけの金は山内にあったのだから。山内はアメリカ式の、短期的な計画達成率に興味がなかった。必要とあればより多額の投資をすることに躊躇なく、信頼した荒川に託すことにも迷いはなかった。このときの山内と荒川は互いに尊敬、信頼しあうビジネスパートナーであった。山内はとても良き義父とはいえなかったが、荒川のほうは間違いなく良き義理の息子だった。
山内は「次期の任天堂の社長は荒川だ」と公言するようになり、荒川は「任天堂の社長は山内以外ありえない」と返した。

NESが熱狂的に売れ始めた頃、日本でも同じようにアメリカでも大量のサードパーティーがこの熱い新市場にゲームを出したいとNOAへ次々に訪れた。日本のファミコンと違い、NESにはとあるチップが付与されていた。それはカートリッジ内部にある別チップと連携し、動作確認をするセキュリティチップである。これが搭載されていないカートリッジはNESで動くことはなかった。そしてそのチップはNOAと契約した企業だけが与えられる。無許可のサードパーティーがNESでソフトを動かすことを許さなかった。(ファミコン発売直後、ナムコが任天堂と契約をする際、もし任天堂が契約してくれなかったらナムコは「ファミコンという商標を一切使わず、ファミコンに刺すとなぜかゲームが起動する不思議なカセット」として発売することすら考えていたという。ファミコンにはセキュリティチップがなかったので動作可能だった。同様な試みはハッカーインターナショナルというグループが実現してしまい、しかも任天堂はそれを法的に止めることが出来なかった)
NOAはさらにサードパーティーと自社のソフトを厳しく評価した。もし人種差別表現や性的、暴力的な表現があればそれを改変した。そうした上で質が高いとして認められたソフトが流通した。一年の間に出すソフトの数は制限された。これによって生半可な開発でNESに立ち向かうわけにはいかなかった。低得点なソフトは生産数を減らされた。ATARIの二の舞になってはいけないのだから。

1986年には日本企業であるバンダイ、カプコン、コナミ、データイーストがNESに参入した。翌年1987年には本場アメリカ企業のアクイレム、ブローダーバンド、アクティビジョンが参入している。1985年には任天堂が18タイトル発売し、1986年には日本企業が合計17タイトルを。1987年には58タイトルのソフトが発売されたが、そのうち44タイトルが日本企業だった。

これらの増えたタイトルにNOAは対応しなければならなかった。ゲーム機ビジネスは本体とソフト一本買って貰ってそれで終わり、というわけにはいかない。長く子どもたちと付き合い、定期的に新作ソフトを買って貰っていくようにしなければならない。もし買ったゲームがクリア不能だったら? 面白さが伝わらなかったら? 新しいゲームを買いたくとも買えなかったら? メーンは対応を考えた。そして思いついたのは「子どもからの直接の質問を電話で受け取るサービスを行おう」だった。さっそく四人の交換手と、6回線分の電話が設置された。
1986年のサービス開始とともにとてつもない量の電話が始まった。あっというまに回線はパンクした。「どうして電話をかけても繋がらないんだ! 何回やってもマイク・タイソンに挑戦する前にやられてしまうのに!」 苦情に対応するため、1987年には4万ドルを出して電子交換機を導入し、550人のサービス係を用意した。累計の投資額は300万ドルになった。こうしてボールド・ブルに勝てない少年は無事「相手の必殺技にあわせてボディブローでカウンターだよ」というありがたいアドバイスが聞けたのだった。
こうした攻略情報だけではなく、人気のゲームが買えない子に対して住所を聞けばその住所に対応したゲーム店舗をデータベースで検索できるようにした。さらには英語だけではなく、スペイン語、フランス語の電話もかかってきたのでバイリンガルのサービス係も雇った。
投資のおかげで週に15万本の電話に対応できるようになったが、電話局から苦情がくるようになった。「お宅のところに週に50万本もかかってくるからずっと渋滞しっぱなしだぞ」と。さらなる投資をおこない、ついに専用回線を引っ張ることになった。アメリカの時差の都合上、午前4時から午後10時まで、週7日対応することになった。
これらの投資額のうえ、電話代はすべてNOA持ちだった。さすがに1990年には料金負担を打ち切り、有料化に踏み出した。しかしこのサービスは熱を帯び始めたNES市場を最高に活発化させるブースターとして機能した。なお、子どものゲーム相談に交じって、大人が夫婦問題を相談することもあったという。

NOAは抜け目がなかった。この多額の投資からのフィードバックをゲームに注ぎ込んだのである。「プレイヤーの実際の声がわからない」という問題は当時大きかった。どこに子どもたちは面白さを感じてくれたのだろうか、つまらなかった要素はどこだろうか。投げ出してしまいかねない箇所は? 夢中になったところは? それらの生の意見をこの電話を通じて吸い込むことができたのである。マーケットリサーチなどという生やさしいものではない。ゲーマーの意見を大量に集め、精査し、次のゲームに実際に活かすことができた。電話をかけてきた子どもの中には女の子もいたし、ゲームに夢中になってる大人もいた。彼らにどうやってアプローチして広告活動をしていくべきか、メーンは考えて、そして実行していったのである。

これらはNESの販売速度が加速する要因となったが、重大な問題も生じてしまった。あまりにソフトが売れすぎて、ROMが不足してしまったのである。日本においては一部会社に対して自社生産を認めていた(ナムコ・コナミ・ジャレコなど)。ところがその自社生産を認めた先で不良品が発生してしまい、しかもそのクレームが任天堂に届くという出来事が起きてしまった。そのため品質管理上の理由によりNOAは一切、自分たちで生産する委託販売方式しか認めていない(日本においても新規の自社生産は認めず、すべて委託販売に統一した)。
1988年でNESは700万台売上げた。ソフトもそれに付随して加速度的な売上げになった。任天堂も、日本のサードパーティーも、アメリカのサードパーティーもソフトが爆発的に売れた。市場は最高潮に盛り上がっていた。そのタイミングでROMが足りなくなった。日本でもファミコンが絶好調だった。日本とアメリカ、アメリカ内部でも任天堂とサードパーティーとでROMの奪い合いが発生してしまったのである。
NOAは事務的に処理をした。「すべて公平に、平等に減らそう」。「リンクの冒険」の発売は延期され、「スーパーマリオブラザーズ3」の発売も遅らされた(日本では1988年発売だったが、アメリカでは1990年にまで伸ばされた)。NOAのソフトの一本当たりの出荷本数は減らされた。同時にサードパーティーの出荷本数も減らされた。仕方がない。
しかし「仕方がない」で済まされないのはサードパーティー側だった。100万本確実に売れる見込みのソフトが50万本しか生産されないという。しかも実際につくられてやってきたのはさらに減らされて20万本だった。大もうけ確定のビッグチャンスを、みすみす逃したことになる。いったい何のための委託費なのか。そうした不満が吹き上がった。

ー委託生産でこんな顛末ならば自社生産を認めてくれ。
いや、自社生産は認められない。そもそもセキュリティチップの数も足りてないのだから、自社生産でも意味がない。
ーそれならアメリカ産のROMなり台湾製のROMなりあるだろう。
アメリカ産は高すぎるし、台湾産には品質に問題がある。任天堂の基準に達するのは日本産のみだ。

NOAの回答は正論ではあるのだが、サードパーティーの不満を打ち消す物ではなかった。そして一つの疑念を抱かせる。「どうせNOAは自分の分だけは確保しているのだろう?」。それは事実ではなかったが、同時に否定しきれるわけではなかった。任天堂はそもそも供給をコントロールし、小売店の在庫を厳しく管理していた。ダブついていれば消費者の購入意欲を削ぐことにもなりかねないし、在庫がなかったらそもそも売れない。毎日、毎時間細かく厳しく在庫を管理し、微妙な出荷コントロールをNOAが行っていた。それ故このような疑念を抱かせるようになってしまった。
サードパーティーのアクイレム社社長フィッシュバッハはこのときの状況を回想する。

「どの会社も手持ちのゲームカードリッジを売り尽くした。ゲームの質や経営の善し悪しは関係なかった。品物が勝手に売れていったのだ」

NOAに不信をもつ理由としてはもう一つあった。NOAは「ニンテンドウ・パワー」という情報誌をつくっていた。日本ではファミリーコンピュータマガジンが1985年に発売されているが、アメリカではそれらしいゲーム情報誌は発売されていなかった(あったのかもはしれないが、人々の記憶に残るようなもの・規模ではなかったのだろう)。荒川はそこに目をつけた。自分たちで雑誌を発行して情報発信するんだ! それを買う顧客予備軍リストはすでにある。NOAにはファンクラブが存在し、1988年時点で100万を超えていた。彼らはゲームの新情報に飢えていた。電話もひっきりなしにかかってくる(NOAのサービス員たちは惜しげもなく未発売の新作ゲームの情報を電話で流した。おかげでブラックフライデーの売上げは飛躍的に伸びた)。新作ゲーム情報や、ゲームの攻略法が詰まった情報誌があれば彼らはこぞって買うに違いない! その案をNOAのスタッフたちは喜んで実践へと移したが、荒川が広告なしでいくというとさすがに驚いた。100万冊は固い雑誌で広告なし? うちのボスは正気か? 金の鉱脈を見逃す気か? 荒川は言った。もし広告を入れると「クソゲー」がその枠を占有してしまう可能性がある。それを買ってしまった子どもたちはどうなる? そもそも新作ゲームだけで占有しても、それらが私たちの広告宣伝になるんだ。良質なゲーム記事で埋めればそれでいい! 産休中だったディルゲンを呼び戻し、編集長に就任させた。紙面には女性的な柔らかなセンスが必要だったからだ。
そして荒川は無料配布にこだわった。まずは一部、実際に少年少女たちに手に取って貰って、そこから購読するかを決めて貰いたい。見てもないものを買ってくれる子はいるはずがないからだ。そのために費用が1000万ドルかかろうか、彼には関係なかった。1989年、500万冊の第一号がアメリカ全土に発送された。雑誌の名前は「ニンテンドウ・パワー」。150万人の子がその後の定期購読の顧客へとなった。年間12冊で15ドル。子どものお小遣いから出すのも無理ではなかった。

パワー誌の記事構成はNOAが全て執り行った。そして実際に、この割合に応じてゲームの売上げは上下した。NOAが売りたいと思った製品は紙面を多く割り割き、駄目だと思ったものはそもそも排除された。サードパーティーは誰もがパワー誌に載りたいと願っていたが、限られた誌面にそれを応えるだけのキャパシティはなかった。どこのサードパーティーも平等に不満を抱える羽目になった。このとき、ニンテンドウ・パワーは発刊一年未満で、あっという間に子ども向け雑誌として発行部数No1に輝いた(最大には600万冊に上った)。

こうした不満を直接NOAにぶつけるような真似はサードパーティーはしなかった。そんなことをしたらニンテンドウ・パワー誌に掲載されることはなくなり、ROMの割り当てはさらに減らされるに決まってる。不満を持つ物のそれを押さえ込んで表面上は従順にやりすごしていた。NESの燃え上がるような熱さをもつ市場の旨味をありがたく頂戴しながらも、心のどこかでNOAの横暴さに対抗する存在が出てきて欲しかった。

はたして存在するだろうか。NOAのように緻密で、計算され、誰も想像しなかったような新しい策に1000万ドル突っ込むような企業が。

そんな企業いるはずがなかった。しかしNOAのライバルは現れた。緻密ではなく、計算よりは情熱で動き、そして思いつきはするが実行しようとは思わないプランに、大金をつっこんでしまうような企業が。

セガ。NOAと荒川の前に彼らは立ち塞がった。


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