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キレイさ続編。

キレイさの価値については、私と同じような価値観の方が多いことが判明。

ちょっと”掃除”と”ゲーミフィケーション”について調べたら、意識調査をしている卒論を発見。pdfで世界発信されているから、今更ここで再度発信したところで問題にはなるまい。たぶん。

※前回記事では大変失礼しました。似非文化人は自称であり、その他の認識に関しては関知いたしませんので悪しからず。

さて、掃除。

ゲーミフィケーションを掃除で実現するの、ちょっとめんどくさそうだなという印象。点数付けて管理するのが、ムズイ。細かく細分化して点数化していかないと、報酬も用意しないと…って違う。報酬は、外発的動機付けだ。それは求めてなかった。自発的に掃除してほしくてゲーミフィケーションだった。掃除自体が楽しそうでなければ、ゲーミフィケーションを頼った意味がない。

ウッソン。誰か、掃除自体が楽しくなるソウジングを考えてないの??

競争は、それ自体を楽しんじゃうと、支配欲高めのマウントゴリラになっちゃいそうだから遠慮したい。例えば、雑巾がけのタイム競って一位誰?みたいなのだと、1位YEAH!!になる。1位に価値を置く。比較して上位を見出すようになると、比較対象が居なくなった時に価値を見出さなくなる恐れがある。つまり掃除しない。掃除はそれ自体が報酬みたいなもんでなければならぬ。

テクノロジーの進歩は待っていられないので自分でどうにかしないとならないので、どうにかしようと思います。

ゲーミフィケーションは保留だな。


ウチの掃除文化の問題点。

使ったものをもとあった場所に戻すという文化がない。

例)教科書を置く場所を用意。→周辺に置く。あと30センチが埋まらない。キスまでの距離じゃないんだから、もどかしさを通り越して嫌悪感が沸いちゃう、ヤメテー。

例)脱いだ服の居場所、洗濯カゴを用意。orハンガーで待機も可。→1脱いだ場所でドーナツを作る。2着る予定(明日以降)の場所(玄関、ダイニングテーブル)でぐしゃっと待機。ねぇ、ねぇ、泣いてるよ。洗濯物が泣いてるよ。洗濯ってキレイにしてくれるんだよ。洗濯カゴに入れてあげたらイイジャナイ。きれいになるよ。脱ぎっぱなしになっちゃってる子だって、汚いの嫌だって…ハッ、キレイに対する価値を持ってないんだった。まんまだよ、そのまんまのはずだよ。汚いのに抵抗ないもんね…。

そして前回、モノを少なくすることによる浄化を考えていたことと総合すると、これらとはGOODBYEすることが既定路線であります。

しかし、教科書や洋服、ランドセル(無くて困るのは私ではなくちびっ子であるが、無いなら無いでそれなりに私が嫌なもの《以下、「それなり物件」》)に対しての姿勢が鈍るっていう。

それなりに嫌っということの実態としては、「ちびっ子に十分なものを用意できない自分or必要性を十分理解したうえで捨てちゃうという目的のためには手段を選ばないファンキーな自分に耐えられない」というところです。人の目(あるいは体裁)という実体のない、且、恐ろしくどうでもいいはずのものを気にしちゃう。体裁って恐ろしい。

要不要を尋ね、必要な場合はすぐ来るように申し出る。すぐ取りに来ない場合は、要らないことor優先順位の低いことの表現であるという教えを授けている。物をすぐに取りに来ない=要らないことの表現の教えに忠実であったかもしれないちびっ子の表現を、私が物を捨てないことによってその教えとちびっ子の表現を台無しor無視or裏切ってしまうことを了解して、なお捨てない方を選ばせようとするから、体裁って怖い。

って違う。私、選んでるの私。体裁を重んじてるの私。ちびっ子を軽んじてるの私。あぅーーー。

おもちゃは、今まで心痛んで捨てられずにいましたが、捨てられます。今。しかし、それなり物件は無理だ。鈍るっていうか、私、捨てられない。

相方さん曰く、「必要だと思う(困る)人間が片づけるべき」(正論にして原則。して絶対である。)からするに、片づけるべき人間には私も入ってくるのである。私が困るから。しかし、最も必要であるはずの人間にしてほしいという願い(=私は片づけたくない)のある私が、ちびっ子を動かそうとする…。お願いの体をした命令を出してしまう。

それは、イカン。

人を無理に動かそうとしても、教育にならないというのは、分かっているはず。しかし、誰か他の人がしてくれるというのを経験すると、自発的に動かなくなる。というのも知っている。「ママがやってくれるなら、自分は動かなくてもイイジャナイ」てね。

煩悶です。


まず、要るか要らないかの質問、要らなければゴミ箱、要るのであればすぐに取りに来る要請、すぐに取りに来た場合片づけ要請、すぐに取りに来ない場合ゴミ箱勧告、ゴミ箱執行。

それなり物件は、相手(ちびっ子)も足元を見るもんで、私が捨てるのを拒否したい気持ちと執行せねばならない気持ちで揺らいでいるのを分かっているのではないかという絶妙なタイミングで来る。つまり、遅い。そう、不要の意思表示になるかならないかのギリギリ。私のこめかみもギリリ。

だが、イカン。

言動を一致させていないところが一番ダメ。

言い出したらせねばならぬ。「要る(ないと困る)人が片付ける」が原則。私が要不要を尋ねると、私は不要という体になるので、必然的に「それなり物件」も捨てねばならぬ流れになってしまう。

というところで、それなり物件には手を出さないで周辺から攻めるのが吉。周辺、つまり、私が遺憾なく捨てられるモノたちを徹底して攻めて(捨てて)、ちびっ子に「ママが本気だ、ヤバイ。捨てられる」と危機感を持たせるのが良いだろうということだ。

そして、「それなり物件」は、ちびっ子の所有物ではなく、私の所有物にしてしまって、使うときには私から許可を得て使うという許可制にしてしまうというのはどうだろうか。

手続きのめんどくささを厭うて、足元を見るのをやめないだろうか。…少し考えるだに、私がメンドクサイ。駄目だ。私が付き合ってられない。許可制を敷くのメンドクサイ。

やっぱり、「それなり物件」は妙案が浮かぶまで保留で。

成長するための某かにに使わせていただきます。