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SNSとの距離感

SNSとの関わりは現実を上回るのか

私は発信にSNSを使ってきた。
目的はインフルエンサーになるためだった。
「SNSで影響力を持つことができれば発信する内容にも説得力が増すだろう」
つまりは、自分の発信している内容に説得力がないことがいちばんの悩みであり、私にとっての課題であった。

そもそも、なぜ影響力を持ってまで、発信しなくてはいけないのかと言えば、その先には「他人よりも稼ぎたい」という願望が見える。
つまりは、お金儲けである。
現実では影響力を持てないことを理由に、仮想世界において影響力をもって発信するということに対して、何も考えずにここまでやってきた。
今現在、影響力を持っている訳ではない。しかし、そこを目指している。
「そんなバカなことがあるはずない」と思いつつ、「いつかとんでもなくバズる日がやってくるのではないか」という淡い期待を心のどこかでいだいている。

SNSは楽しい、だからSNSでしか話さない人もたくさんいる。
簡単に承認欲求を持たすことが出来ることができることで、「自分はこの世に一人ではない」ということを日々、証明してくれる。この出来事は、初めて触れると嬉しくて、「こんなに楽しい世界があったのか!」という気持ちになったりする。
これは、ギャンブル依存症とよく似ている。

ギャンブルも、ハマる人はハマるし、ハマらない人はハマらない。
しかし、ハマる人の多くは、最初の方に「センセーショナルな初体験」を経験していることが多い。つまり、「アハ体験」というやつである。
自分の知らない世界で、こんなにも楽しい世界が存在していたことへの、大きな衝撃と大きな感動は、まさに初めてギャンブルをやった時と酷似しているように思う。
私は、ギャンブルにはハマることがなかったが、SNSにはハマってしまった。
X(Twitter)には現在、2600人というフォロワーがいる。
その人たちと知り合うことで、知らない世界をたくさん見ることができたし、多くの専門分野について勉強した。
しかし、それらはすべて、あくまでも仮想世界のことである。
どうしたって、現実にはならない。

ギャンブルも、いくら稼ごうとも、仮想通貨のようなもので、その稼いだ額を手する。
どれだけ稼ごうとも、元手よりも多くなる人は、ごくごく一部だ。
この、ごくごく一部を狙って、多くの人はギャンブルをしている。
「楽しめればいい」なんて考えて、その時間から時間までを遊ぶことで満足する人もいるが、多くの人は「稼いでナンボ」だと思っている節がある。

それと同じように捉えて、SNSを使っていることは、非常に辛い作業と化す。
楽しんでいないため、事務的で建設的な発言ばかりになる。
そのようなアカウントは、人間味がないため伸びない。
どうしたって、人対人のコミュニケーションツールだ。
人間味のないアカウントには、人間は魅力を感じないのである。

ギャンブルにしても、SNSにしても、心から楽しんでいる者が強い。
結果を追い求めるよりも、その過程を楽しんでいるものが、いちばん魅力的に映るのだ。
魅力的だからこそ、人が集まってくる。

そうなのだ。
魅力的な人になることがいちばん重要なのだ。
そのために、SNSを“活用する”のである。
SNSによって、魅力的になるのではないのである。
SNSでは、魅力的な人は魅力的になるが、魅力的ではない人はならない。
「面白い人物像が、SNSによって浮かび上がる」
という事例はあるが、その人はきっと、元々魅力的だったと言っていい。

結論としては、『現実世界が大切』なのだ。
あくまでも、SNSは“仮想世界”である。仮想の土台は、現実にある。
現実がなければ、仮想など存在しない。
“今”という人生があるから、“if”という“もしもの世界”が生まれるのだ。
現実がなければ、タイムマシンなど必要ない。

SNSではなく、現実世界を大切にするべきなのである。
それは、自分の周囲の親しい友人や、知人、親戚などを大切にすることでもある。
現実を支えてくれているのは、こうした身近に“居てくれる”人たちなのだ。
そうした人たちに支えられていることを日頃から感謝し、もっとそうした人たちとの時間を多く持つことの方が重要なのだ。
SNSをのぞいている時間の、何分の一かでも、そうした身近な人に向けた時間み当てることで、人生は驚くほど好転する。

仮想世界では、どれだけ頑張ってみたところで、結果として残るものはほとんど何もないに等しいが、現実世界の中で頑張ったことはきちんと評価される。
その評価が「正しいものではない」と自分が思うのなら、何度だってやり直せばいい。
そうした時間として、私たちは『人生という時間』をもらっているのだ。

「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い」

私の愛する中島敦の代表作「山月記」の中で、主人公が自分の挫折を自嘲していう言葉である。
何の目的もなく漠然と過ごすのであれば人生は長いものだが、志を遂げようとするにはあまりにも短い。

果たして、自分はどちらの方向に進んでいるのか、もう一度考えてみると良いかもしれない。

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