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子供がいない僕の心には父の姿があった

孫の顔を見せられなかった父には多くの孫がいる

私には子供がいない。
結婚は3回した。
現実的に、婚姻届を出したものを数えている。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、現代には“事実婚”という形もある。
実際には結婚していないが、婚姻関係を結んだ男女のように、一緒に住み、生活を共にする。同姓よりも婚姻関係を強く結ぶが、婚姻届を役所に提出していないだけで、他は婚姻生活となんら変わらない。こうした関係はそれほど珍しいことでも無くなった。
事実婚ならば、『夫婦別姓が可能』であり『別れても戸籍に残らない』というメリットもある。その他にも『パートナーの家族との関係も適度な距離を保てる』という点も大きいだろう。私も最初の結婚生活は、同居した配偶者の母との関係性が原因で離婚となったため、この点をメリットに感じる気持ちが痛いほどよくわかる。
結婚願望が失われつつある現代の若者たちにとっては、“事実婚”のような形が一番心地が良いのかもしれない。
しかし私は、そんな関係では物足りないと感じてしまう。
“婚姻届”という事実関係を証明してくれるものが欲しいのだ。証拠、とでも言うべきだろうか。証明してくれる人や、モノが欲しいと感じてしまうのである。
「たった紙切れ一枚じゃん」
相手から、そんなふうに言われたこともある。
そう、たった紙切れ一枚である。しかし、私にとっては重要な“紙切れ”なのである。

自分のことを分析してみると、おそらく“人を信用していない”のかもしれない。信用していないからこそ、婚姻関係にも照明が欲しくなる。
「愛してる」なんて言葉を信用することができないのだ。
気持ちなんて、その時々で移り変わるものだ。
そんな言葉を信用したとしても、それはその時、その場所と限定されたものだ。その後もずっと続くものだとは思えない。永遠に変わらない気持ちなんてないのだ。

だからこそ、“婚姻届”という証明書を証明してくれる第三者に提出したいという願望に陥るわけだが、そのくせ子供が欲しいとは思ったことがなかった。
子供の頃、私は「生まれてきたこと」に対して否定的な気持ちだった。
「私は、望まれて生まれてきたのではない」と言う気持ちが、心を支配していたのだ。
そんな気持ちになったのは、父子家庭の中で継母がクルクルと入れ替わり、家庭環境が安定しなかったことによって、私は“親子の関係”を学ぶことができなかったからであった。

父もまた、結婚を4回していた。
私が言うのも変だが、父はいい男だ。「若い頃はモテた」と自分でも言っているのだが、そう言う人に限って「そうでもなさそう」なのに、父に限っては間違いなくモテたであろうと推測される。私も、当時の父に出会っていたら、禁断の園に足を踏み入れるかもしれないと思えるほどだ。
そんな雰囲気を持った父だからか、周囲の女性が放っておかなかったのか、父からのアプローチがすごかったからなのか、はたまたどれも当てはまっているのか。父と母は離婚したのである。父の浮気が原因だった。
父は、普段は優しく温厚で寡黙な男だった。硬派な印象を与えるのは、女性にとってはたまらない要素の一つだろう。それがモテたことの本質かもしれない。
ところがひとたび酒を飲むと、まるで“ジーキル博士とハイド氏”のように、別人格になるのだ。口数が多くなり、人に対しての態度まで横柄になる。モテるような要素はゼロとなるのだ。
それでも、結婚を4回もしていることを考えると、その他の魅力が欠点を消すには余りあるほどのプラスポイントがあるのであろう。

そんな父に教えてもらったことは数多くあるのだが、中でも印象に残っていることがある。父の『憧れの人』である。
父はイケメン俳優のような風貌であったためか、優しさや寡黙さという部分の他にも、その“ユーモア”が魅力だった。しかしおそらく、本人である父は、自分自身にユーモアがあるとは思っていないようだった。
高校を中退した父は、18歳から必死に働いて、中間管理職にまで上り詰めた実績を持っている。それまでにはいくつもの苦労をしてきたと思われるが、その中でも読書は特筆すべきほどの物量を読んできたようだ。その目撃者である私も、日曜日の度に読書をしている父の姿を幾度となく見てきた。
しかし一方で、父は『フーテンの寅次郎』で有名な、寅さんに憧れていた。どんなに困難な問題が起こっても、なんでも笑いに変えてしまう寅さんのようになりたい様子であったのだ。おそらく、「自分とは正反対に存在する人」として、寅さんのことを捉えていたのだと思う。
だからこそ、憧れたのである。

こうした父の振る舞いは、私が子供のころの父の年齢になってみて、初めて知ることができたのだ。
父と私は、20歳違う。父と母が20歳の時に、私はこの世に生を受けた。
つまり、私が物心ついた頃には、父はまだ20代なのである。
私の記憶に残っている父は、38歳までの父だ。それ以降は私が実家を飛び出したため、ほとんど会話らしい会話をすることもなくなった。
たかが、10年間である。物心ついてから10年。その間に、父はいろいろな女性とお付き合いしながら、自分を探す旅に出ていた。
そんな父は、私にとっては、まさしく“フーテンの寅次郎”だったのである。
父自身は、「もっとユーモアを持って生きたい」と思っていたのかもしれない。
しかし、そんな父の生き様が、まさしく寅さんそのものだったのだ。
ユーモアの塊である。

授業参観や入学式、卒業式などに来たこともない。
学校の勉強は聞いてもからっきし。
そのくせ、躾や礼儀には人一倍うるさかった。
普段は面倒くさくて話さないようなことも、酒を飲んだら饒舌になり、聞いていないことまで話し出す。
両親は大切にするのに、友人や兄弟には厳しく言い放ち、酒の席では殴る蹴るの大喧嘩に発展する。
綺麗な女性にはめっぽう弱く、優しいからモテるのに、結局最後は愛想をつかされる。
仕事には厳しくて結果を残していくが、若い者には説教じみていて嫌われる。
生活感がなくて、時には何日も女性の家に入り浸って、家には帰ってこない。
家族の心配もよそに、自分は自分の興味関心のあることしか耳に入らない。

こんな人がいるだろうか。
まさに、寅次郎である。フーテンである。
私は、こんな父の生き様を考えた時、最初は「ひどい父親だ」と解釈していた。
それが「憧れの男が、フーテンの寅次郎だ」と知ってからは、こんな父が愛おしく感じられる。むしろ、「おもろい人生を歩んでいる」と思ってしまうのである。
いい意味で、“”他人事になった。
父の“ユーモアある生き方”が魅力的だと思ったのだ。
こんな人生、歩もうと思っても、歩めるものではない。

私が子供が欲しいと思わなかったのは、父と母がいない家庭環境で育った私が、子供を育てられるはずがないと思っていたからだ。
親からの愛情を一身に受けて育った子供は健全な子供で、親からの愛情が満たされずに育った子供は異常なんだと、心のどこかで考えていたのかもしれない。
しかし「父は、寅次郎なんだ」と思った瞬間に、私の心は解放された気持ちになった。
寅次郎のように、他人から見たらチャランポランな父親を持った家族ならば、他にもたくさんいる。むしろそれは、うらやましいことだとも考えられる。面白みのない父親よりは、余程いいではないか。

3回目の結婚を果たした私は、転職をする。
高校時代からの友人が、起業したのだ。
『放課後等デイサービス』という、生涯を持った子供たちを預かる施設だ。
友人は、高校時代から「福祉の仕事に就きたい」と言い続けており、それを実現したような形となった。
そんな彼に感動した私は、それまでの警備業からの転職を決意したのだ。
しかし、ご存知のように私には子供がいない。
「私には親の資格がない」という理由もあったが、子供を作らない理由はほかにもあった。
驚くほどに子供が嫌いだったのだ。
何と言っても、「臭い」「汚い」「うるさい」の3大嫌いな要素が理由である。あと、なれなれしい。だから、犬も嫌いだったのだ。
そんな人間が、『放課後等デイサービス』に入ろうというのだ。正常な判断とは思えない。
しかし、そんな不安は一掃された。
初日から、女児が膝の上で眠ったのだ。
ほとんど、懐くようなことは無い子供だ。それなのに、その子が膝の上で眠っている。熟睡である。
その後も、男の子には「鬼ごっこしてー!」とせがまれているうちに、私は施設内でも1、2を争う人気者にのし上がった。
直ぐに、子供が好きになったのは言うまでもない。ただ、犬は未だに嫌いである。

多くのお父さんやお母さんがそうであるのかもしれないが、不思議なもので、子供と接していると自分が子供の頃をよく思い出す。「フラッシュバックする」という感覚に近い。
そんな時には、私の頭の中には、いつも“フーテンの寅次郎”がいる。
寅次郎が子供の頃の
私に教えていたことは、まさに“寅さん”そのものといった内容ばかりだ。
『鰹節事件』では、鍋の上でゆらゆらと動く鰹節を、「生きとるんだぞ!」と真剣な顔をして子供に訴えていた。それを信じた純粋な少年は、それを高校生になるまで信じていたのだ。同級生から散々馬鹿にされたことを、鮮明に記憶している。
『テレビ事件』では、テレビが映る仕組みを、「電線の中を画像が移動しとるんだぞ!」と、これまた真剣なまなざしで子供に訴えていた。それを信じた少年は、自信をもって小学校で発表した。次の日の学校を休むほどに、ひどく笑いものにされたことは、言うまでもない。

こうして、我が家の寅次郎は、私に多大な影響を与えたのだ。
外では女性にモテたのかもしれないが、私にとっては“フーテンの寅さん”のように面白いおじさんだったのだ。
しかし、そんな生き方を、今では素晴らしいとさえ思っている。
行きたいように生きて、やりたいようにやったのだ。
20歳しか年齢が離れていないため、まだまだ現役バリバリだが、寅次郎の生き方は私にとっては憧れでもあるのだ。

そんな寅さんのように、いずれはウソだとわかるような、ユーモアあふれる豆知識を子供たちに継承している。
正確な答えを教えることももちろん大切である。しかし、それ以上に大切なのは、「思い出に残ること」なのだ。
「愛してる」なんて言葉を信用することができなかった私は、契約を交わすことで他人との関係を保っていた。ただ、そこには自分のことしか考えていない自分がいたのだ。相手のことなど、考える余裕も無かった。
父は違ったのだ。
父はどのような困難な状況でも、“フーテンの寅次郎”への憧れをもって、ユーモアを忘れなかった。楽しんで仕事もプライベートも取り組んでいたのである。

「1足す1は田んぼの田~」
「おならで宇宙に行ける」
そんな話題で持ち切りになったのは、父や寅さんのお陰である。
私は年齢的に、子供を作ることが不可能になってしまった。それによって、父には孫の顔を見せることができない。おそらく、父にとってはたった一人の子供である私に、3度もチャンスがあったのに、一人の孫もできなかったのはさみしい出来事だろう。
しかし、子供がいない私にとって、未来ある子供たちに生きてきた経験を受け継ぐ機会ができたことによって、幼少期の父との関わりを見つめ直すことができた。それによって、父の生き方は、まさにユーモアそのものだったという事に気が付くことができたのだ。

父には、私の遺伝子を持った孫の顔を見せることはできないが、これからを担う子供たちには、父の生き方が脈々と受け継がれていくのである。
それは、父の孫と言っても過言ではないのだろうかと思えてならないのだ。

ユーモアをもって、どんな困難にも立ち向かう、私の父のような生き方ができる大人になってほしい。
これからの子供たちに、一番伝えたい事である。

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