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パラパラめくる〈第3話〉

 翌日になると噂は広がり、職員たちはパラパラ漫画という壮大な落書きの話で持ちきりだった。昨日休んでいた職員が、普段まるで話さない私に対しても興奮して話しかけてくる人もいたほどだ。
 そのあとは、実際にパラパラ漫画の落書きを見て、それぞれがそれぞれの反応をしていたのだが、だいたいがニ通りに分かれた。
 それは、落書きを心から怒っている人と、この落書きを楽しんでいる人である。
 怒っている人は、公共の本にこんなこと許せないと、すぐにでも犯人を見つけ出すぞという意気込みである。楽しんでいる人は、犯人は誰なんだろうと勝手に推理をしたり、また怒っている人も見て、それも含め楽しんでいる様子であった。
 どちらにせよ、図書館という静かな日常に訪れた、この非日常の小さな事件は、職員たちの心の温度を上げる結果となった。

 パラパラ漫画の落書きは、鉛筆で書かれており、私が消しゴムで消すことになった。300ページ近くあるそのパラパラ漫画を私を1ページ1ページ消していく。それを消しながらも、どうして私の心が踊ったのか、そればかりを考えていた。
 この棒人間が走っているだけで、これだけの感情になるなんて、他を見ても、楽しんでいる人はいても、私のように心が踊るほどの感情の人なんて一人もいない。これで心が踊るなんて、私は普段の生活がよほどつまらないのかもしれない。
 ただ一つ言えることは、この落書きに全く迷いがないということだ。鉛筆で書いた、ただの棒人間だが、一つ一つを丁寧に描いている。まあ、迷いがあったら300ページのパラパラ漫画なんて描けるわけがないのだけど。
 また、このパラパラ漫画を描いた人は、作者が血をにじむようにして一文字一文字と書いていった文章を背景にして、パラパラ漫画を描いている。
 こんなことをわざわざするなんて、この人はよほど本が嫌いなのか、それとも全く本に興味がないのに違いない。だから私は、この人に共感したのかもしれない。私と同じ気持ちの人がこの図書館にいるのだと心が踊ったのかもしれない。
 だけどもこの作者が、どんな思いで描いたのかは、結局のところは私の得意な妄想でしか判断することしかできない。

 誰かが描いた謎のパラパラ漫画は、そのあと二冊目も発見された。一体誰が描いたのか?だが、その本の貸し出しの履歴を調べたところで、一番最後に借りた人の名前しか分からない。個人情報のため、最後に借りた人以外の履歴は残しておかないのだ。一応調べてみると、最後に借りられたのは3年前であった。そして二冊目に見つかった本は1年前で、それぞれ別の人物である。さらに、返却の際は落書きや破損がないか職員がチェックをしている。いくら雑なチェックをしたと考えたって、このパラパラ漫画に気づかないわけがない。最後に借りた人が落書きをした可能性はとても低い。
 二冊目に見つかった作品も私が消すことになった。まあ、私が消したいと立候補したからなのだが。まさか、滅多に口を開かない私が「消します」と話しかけてくるなんて、むこうも思いもしない。今回対応していた職員はびっくりしながらも、「お願いします」と本を渡してくれた。
 今回はどんなものなのだろうか。まだ見ていない私は、楽しみで仕方がなかった。また新しく共感しあえるのかもしれない。だから、「また、パラパラ漫画の落書きがあったらしいよ」という話を聞き皆が呆れている中、私だけは目をランランと輝かせていたのだ。
 子どもの頃、兄が新しく発売された漫画を買ってきて、ドキドキしながら1ページ1ページを丁寧にめくって表情が変わっているのが、まるで理解できなかった。当時の私は、今よりも文章が苦手で漫画すら読めなかったのだ。
 だが、その時の兄の気持ちが今の私には分かる。やっと手に入れた新刊である。そして、次いつ新刊が届くなんてそんなことは分からないし、これは落書きで迷惑行為である。それを楽しみにしているという罪悪感が、逆に気持ちを高めていく。
 これまた、本のタイトルを見たって見覚もなく、返却した本を棚に戻したことすらも記憶にない本であった。私は右手で表紙をひらき、左手の親指以外の4本の指で本を支え、残った親指でパラパラパラパラめくっていった。

 今回も丸だけの顔の棒人間が登場し、待ってましたとばかりに走り出した。走り出した途中から、もう1人の棒人間が登場し、そこからは2人で大縄を回し始めた。大縄を回していると、また別の棒人間がやってきて、大縄をジャンプして去っていく。また棒人間が登場して、ジャンプして去っていくという、その繰り返しであった。

 ページを閉じて、私はこう呟いた。
「最高じゃん。」
私の心は踊り狂っていた。また、ページをパラパラパラパラめくっていく。噛み締めるように、パラパラ漫画を見ていくうちに、私はこの人のファンになっていることを自覚した。
 念のため言っておくが、別に私は落書きは好きではない。街を歩いているときに見る壁の落書きで心が動いたことなど一度もない。関係ないが、バンクシーも好きではない。絵がうんぬんというか、この人とは同じ教室にいたら、特に仲良くしたくない人の部類に入るなと思ったからだ。
 彼は政治的テーマを素顔を隠してパフォーマンスとしてやっているらしいのだが、それに関しては別になんとも思わない。でも、承認欲求の塊なんじゃないかと勝手に思う。素顔を隠していることを利用して、絶対に女を口説いているに違いない。「実は俺バンクシーなんだぜ」と言って、キスなんかをしているはずだ。 
 SNSも苦手で、そう言った承認欲求の塊のような投稿を見るのは嫌気がさす。ところが、このパラパラ漫画は、承認欲求を満たしたい!私のことを見てくれ!という気持ちが伝わってこない。これだけ、時間をかけているのにも関わらず、誰が読むか分からないし、いつ見つかるかも分からないわけだ。その承認欲求を前面にに押し出していない、そのおしとやかさも素敵だとファンとして思う。
 というか、いろいろごちゃごちゃ語っているわけだが、つまり私はこの人と会いたいのだと思う。話したいのだと思う。どこをどう見ても本だらけのこの図書館という空間で、
「実は私、本が好きじゃないの。」
「え、そうなんだ。私もそうなの。」
と、その時は私語厳禁を無視して語り合い、私と同じような境遇であることを共感しあいたいのだ。それが、この作品を好きだと思う一番の要因なのだと、パラパラしながら思った。
 だが、それが分かったとは言え、図書館の職員として、この落書きを消さなければならない。これは他の人からすれば、ただの迷惑な落書きで、これを作品と思っているのは私しかいないのだから。
 このパラパラ漫画を味わい尽くすために、このパラパラ漫画を消す役を買ってでたわけだが、たった一人の読者である私が、この作品を消さなければならないというのは、この気持ちの置き場所が分からなくなる。
 パラパラ漫画を描いた作者と、それを読者として楽しみ、かつ、その作品を消していくという、なんとも不思議な二人の関係性だなと思いながら、1ぺージ1ページ消していくのだった。
 もしかしたら、ただ単純に迷惑行為に興奮しているだけの人かもしれない。なんにせよ、やってはいけないものを作品として見ている、それに興奮している私の罪悪感を消すためにも、結局は、その落書きを消すしかなかった。

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