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落語家の稽古

落語家になって悲しいことがある。

それは客席から高座を見ることができないことである。
我々落語家は師匠に入門した段階で、舞台袖からしか高座を見ることが許されない。
前座修業では毎日袖から落語を聴き、それが当たり前になっていく。だが、ふと寄席で落語を聴き、笑い、楽しんだあの感覚、それがもう一生味わえないのかと思うと、なんだか寂しくなる瞬間もある。

稽古の時は正面から見ることができる。
落語の稽古は基本的には一対一。師匠が目の前で落語をやってくださり、それを録音する。覚えたら、また一対一で行い、師匠からダメ出しをいただくのだ。稽古のやり方は千差万別で、それぞれ違う。落語の途中でとめて、その都度しぐさが違う、目線が違う、もっとここはこうしたほうが良いと丁寧にダメ出しをする方もいれば、一言「よく覚えたね。あとはお客さんの前でやってね」で終わるパターンもある。これはお客さんの前でやるのが一番だから、そこで反応みて考えてやってねということだ。
その人によって様々な稽古の形があるのだ。

どちらにしても、師匠の前で落語をやるときのあの緊張感はなれない。その師匠から習った落語をその人の前でやるのだから、そりゃなれるわけがない。その日一日が憂鬱だ。
そして終わったあとは開放感、そして反省、この噺を高座でできる嬉しさ、様々な気持ちを持ち帰り一日が終わるのだ。

先日、小遊三師匠に稽古をつけていただいた。

笑点では下ネタキャラの師匠、楽屋での立ち振る舞いもテレビのイメージとさほど変わらない。会話の中での何気ない一言、これがとても面白く、楽屋では師匠の一言に注目が集まる。そのひょうひょうとした佇まい、生き方は我々落語家の憧れであり、こんな風に生きたい、こんな風に落語をやりたいと思う落語家はどれだけ多いことだろう。

「師匠、ん廻しの稽古をつけていただけないでしょうか」

「ネタ帳持ってきて」

その日は浅草演芸ホールの昼席。
我々は前の演者とネタがかぶらないようにネタ帳というものをつけている。同じ落語はもちろん、同じ傾向の落語を避けるために、ネタ帳を見るのだ。またそれを見ればその日出た噺の傾向で、今日がどんなお客さんなのかも分かるという優れものだ。
ネタ帳を見て、
「ん廻し、できそうだな。じゃあ高座でやるから」

小遊三師匠は客前の高座でやっていただくことが多い。パッと言われた噺を当たり前のようにできる。これがまたかっこいい。
また稽古の「間」とお客さんを前にしてやる「間」は違うので、とても勉強になる。
そして何より、めったに見ることができない客席から見ることができる。それが一番嬉しい。

もちろん師匠には客席から見ることを断らなければならない。だが、稽古をつけていただくことに舞い上がって、うっかり断るのを忘れていた。

師匠の出囃子が鳴る。

師匠が舞台袖へ向かう。

急いで師匠に断らなければ。
そして先程も書いたように、何気ない一言が師匠はいいのだ。この時もそうだった。


「師匠、前から勉強させていただいてもよろしいでしょうか!」

すると師匠は一言、


「どっからでもきな。」


袖にいた芸人がドッと笑い、そのまま高座に上がっていった。袖の芸人を笑わせて高座へさっそうと向かう後ろ姿。たまらなくかっこいい。

僕はうきうきしたまま客席に行き稽古ということを忘れ、ファンのように楽しんでしまった。       結果しぐさは全く覚えていない。あの時どんな身振りだったのか、どうだったのか。                      帰り道、必死に思い出しながら録音した師匠の落語を聴いた。

稽古でダメ出しをいただいたのは言うまでもない。



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