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「子どもっぽい」という言葉について

何らかの作品に対する評価として、時々目にする「子どもっぽい」という言葉。これは一体、何によって決められるのでしょうか。どれだけ時代を重ねても決まらない、とても曖昧な概念だと思います。

子どもたちに人気という意味で用いられることもあれば、大人になって触れるものではない、というマイナスイメージで用いられることもあると思います。
「そろそろ卒業したら?」「まだそれ好きなの?」「それ子どもっぽくてなんか嫌い」とか、なんだか記憶を掘り返していると、かつて受けたそんな言葉が頭の中に反芻します。

「子どもっぽい」という言葉の正体は何なのでしょうか。それについて私の考えと見解、それと少しの反論を書いていきます。

私は基本的に、一度心の底まで好きになった作品を、精神的な意味でも手放したくありません。これは私の経験にも由来する、意地と言えるものでもありますが、長年かけて自分なりにとことんまで深堀りしたい気持ちが、ひとまずの基本です。できる限り、いつまでも追っていたいのです。
小さい頃の自分の心を深く撃ち貫いたその作品には、どのような魅力があるのか。なぜ当時の自分が、それに魅了されたのか。それを考えるだけでも、自分自身にとって大きな意味になってくる。そしてもちろん、現在進行形でその作品は面白い。

しかし、そうして作品に触れていく中で、上記のような言葉を受ける時があります。

みんな歳を重ねて、好きなものがどんどん増えていきます。それはとても尊い事であるし、私自身だってそうです。そして歳を重ねていくと、時には、かつて好きだったものへの気持ちが薄れてしまうことだってあるでしょう。その感情の流れは、誰にも否定できません。

でも、かつて自分が持っていた「子どもっぽさ」に、後ろ足で砂をかけてほしくない。

誰しもかつて、定義はできなくても子どもの心を持ち、その心の持ち主である自分自身で作品を選んで、何かを好きになってきたと思います。誰しもが持っていたもの。あるいは大人とされる年齢になった今も持ち続けているもの。それが言葉としての「子どもっぽさ」であると、私は考えます。

そして、その心が社会の中で確かに残り続け、大切にされているから、子どもたちも好きになれる作品が生まれるのだと思います。

そもそもになるのですが私としては、世の中すべての作品には、嗤われていい「子どもっぽさ」なんてないと考えています。作品は人によって生み出されるからです。人の膨大な時間と熱量、情熱と引き出しと技術をもって、いつの時代も、ものが生まれます。それらが積み上がって今があり、何を大切にしたいかが誰かによって受け継がれ、未来にもものが作られていく。「子どもっぽいから嫌い」と軽くあしらわれていい理由なんて、どこにもない。

ここまでが私の、蔑称としての「子どもっぽい」に対する考え方です。
次からが、ちょっとした反論になっていきます。怒りの混じった文章になってしまうかもしれませんが、長年この問題で苦しんでいるので、ご理解いただければと思います。



1 子供をだますこと。子供をなだめかすこと。
2 子供をだますような見え透いたごまかし。

「goo辞書」による子供騙しの定義は、上記の通りです。



もしかすると、マイナスイメージで使われる「子どもっぽい」という言葉は、「子ども騙し」と混同されてしまっているのではないでしょうか。いえ、子どもは非常に鋭く賢いので、もう子ども騙しという表現すらもそぐわない。

「子どもってこんなので喜ぶんでしょ」
「いかにも子どもが好きそうだな」
もし、このような姿勢や先入観で「子どもっぽいから嫌い」という言葉が作品に対して用いられているのであれば、これは本当に、子どもと作品を舐めていると思います。子どもの視点や見極めの鋭さは凄いです。そして先ほど主観で述べましたが、子どもっぽいと嗤われていい作品などありません。

最後に、このnoteで、一番書きたい事を書きます。あらゆる作品は、人によって作られ、人が触れ、そして人に愛されます。そうである限り、子どもっぽさだけで構成されるはずがない。子どもっぽいだなんて嗤うことが、どれだけの人の心と過去を踏みにじっているのか。

怒りに任せてここまで書いておいて何なのですが、文字にできない気持ちはまだまだたくさんあります。でもここまでにします。

今回のnoteは私の怒りであると同時に、こんな事がもう起きてほしくないという願いです。何かを好きになる、好きでいるという素晴らしい心が、どうか大切にされていってほしい。そう願います。

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