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「一期一会」という言葉について

一期一会。一生に一度きり、生涯に一度の出会い。このような意味を、人との出会いに重ねながら用いるのが、今は一般的だと思います。このnoteを書くにあたって調べてみたところ、元は茶道を起源とした言葉で、お茶会でのお客様への誠意を表す言葉なのだそうです。

人々はこの言葉に、どんなイメージを持つのでしょうか。爽やかさ、思い切りのよさ、青春。無常さや寂しさ。いわゆる「刹那的な生き方」にも通ずるものがあるかも知れません。

私がこの言葉を知ったのは、中学校の卒業式が近づいた時でした。
「卒業し、これから高校へ進学するにあたって、心がけたい事や意気込みなどを書きましょう」というようなことを、卒業式の少し前に、クラスみんなが書いたのです。確か、ほかの人が何を書いたかは一応、卒業アルバムの中で初めて明かされるはずだったのですが、みんなけっこう早く書き終えて、クラスメイト同士で見せ合っていました。

その日、この言葉を書いた人はけっこう多くいました。いつも友達と一緒にいて、楽しそうに話をしている人ほど、この四字熟語を書いていた記憶があります。当時こそ、この言葉には爽やかなイメージを強く抱きましたが、書いた人たちがどんな気持ちだったのかは、当然ながら分かりません。

本当に「バイバイ!」という別れの挨拶だった人もいれば、別れを心から惜しみながら書いた人、なんとなく卒業式のイメージにぴったり合うから選んだ人。さまざまと思います。明確な答えのない言葉ですね。

卒業式というタイミングで知ったからか、私は今になって、この言葉に強い寂しさを覚えます。別れの印象が強いからでしょうか。なるべく使わない方が、私にとってはより良いです。

人間関係の詳細までは書けないので、ざっくりした表現になるのですが、出会いの数が増えていく中で、やっぱり色々ありました。素晴らしい出会い、その時かぎりの出会い、ためになった出会い、あまり思い出したくない出会い。

私は基本的に、過去を過去と捉えないというか、過去だと思いたくない性格なのかも知れません。地続きの今から見て、時間としては過ぎたものであっても、終わったもの、消え去ったものではないからです。

思い出したくない事も、申し訳ない失敗もたくさんあります。「いつも発想を変えて、前を向いていますね」と、最近知り合いから言って頂いた事があるのですが、少なくとも人との関わりで生まれた、申し訳ない事や失敗に対しては、最初にそう感じた時から気持ちを外さないようにしています。誰かとの関わりの上での失敗は失敗のままで、相手が許すか、許さないかに関わらず、申し訳ない気持ちを忘れたらそれこそ悪いと、いつも思い出します。

でも、だからこそ、私を好きになってくれた人との素晴らしい出会いは、できる事なら手放したくない、と強く考えています。これは私の申し訳なさや失敗に関わりません。むしろ、私に対していやな気持ちを抱いたことがあったのに、それでも今も、私に気持ちを向けてくれるなんてと思うと、有難い気持ちでいっぱいです。なんと嬉しい事でしょうか。

一期一会という言葉を私が寂しく思うのは、別れを怖がるからかも知れないと、つい先日思いました。変化を恐れる性格だというのは、私に対してそう理解してくれる人もいれば、自覚する所でもあります。たぶんその中でも際立って、別れが怖いのでしょう。

そして、本当にありがたいことに今、私の周りにいる人たちの中にも、私を好きと言ってくれる人や、助けてくれる人、話をしてくれる人、時には厳しく意見を言ってくれる人、私が作った曲に感想を書いてくれる人がいます。かけがえのない嬉しい事です。

そんな事を考えていたつい先日、一期一会という言葉が、卒業式の思い出とともに蘇りました。いつかはなくなる関係なのかもしれないと思うと、胸が張り裂けるどころではありません。なくなる事が、すでにうっすらと見えている場合もあります。今、心のままに文章を書くと、忘れたくないとか、別れが嫌だとか、そんな言葉で溢れて、文字数制限2500を過ぎてしまいます。

そうは言っても、関係性は相手ありきなので、やっぱり届かない時もあるのでしょう。でも、もし相手が望んでくれるなら、願わくば、叶うなら、ながくながく、その人と向き合っていたいと、最近よく思うのです。

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