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とある友人と仲違いをした。

とある友人と仲違いをした。

とある友人と仲違いをした。もう一年以上前のことなので、恐らく向こうはわたしのことなど思い出すことはないだろう。思い出したとしても、眉をひそめてウォッカでも呷るだろう。直接会ったことはないが、強い度数の酒と銀色のジッポーライターが好く似合う、中性的な人だったように思う。遠慮なく正確に言えば、そのように見せたがっていた人だったと思う。わたしも今の今まで忘却の彼方だった。最近のTwitter、或いはXのTLというものは実に優秀この上なく、ブロックされた相手のアカウントでも共通するフォロワーがいればRTを通して難なくするりとTLに顕現することができる。おいイーロン・マスク。

そんなこんなで丁寧に四アカウントぐらいからわたしのアカウントをブロックしてくれたその友人の努力虚しく、その人のSSはわたしのTLにするりと流れい出た。変わらないなぁ。わたしが内心軽蔑していたそれも。強いて言えば職らしきものに就いたであろうことだろうか。でもあの人、大学入り直して、そこで留年をして、春から年下に囲まれるから厭だ、年下は私を甘やかしてくれないから、とかなんとかって言ってなかったっけ。職に就いたんだ。確か仲違いしたときは二度目の一年生だったような気がするんだけど。………………。わたしは考えることを止めた。

普通に悪口のようになっているので軌道修正をしたいと思う。わたしはかの人を嫌っていた訳ではない。今も昔も。仲違いしたとき、わたしは少しかの人との関係性に疲れていた。それが酷くその人を傷付けたことに、後悔すら覚えている。許されるなら、謝罪をしたいとすら感じている。まぁ、出来ないことを言っていても仕方がないので、そこらへんは諦めることにする。人生に肝要なのは諦念だ。

諦念。そう。わたしは生活において様々な諦念を覚えている。人間というものが、生きていく上で大切なことは、諦めをいかに上手く飼い慣らすかだと思っている。けれども飼い慣らせない、幾ら餌を遣っても喰らい付いてくるような何か、それこそが矜持だと思っている。
その人とは、「美しいと自らが信じたものを貫き表現すること」だけは志を同じとしていたと思っていた、し、彼女も自らのSSを「他の人からたかがゲームのスクリーンショットと言われても構わない。私は私が美しいと感じたものを表現するだけ」と告げてくれたとき、わたしは酷く感銘と親愛を覚えていて、だからこそ許せなかった。わたしと諍いがあったとき、かの人が嬉しそうに「綺麗な作品が撮れました」と言っていたそれらをすべて消してしまったことが。
え、そんなことで貴方は作品消しちゃうの。たかが人間関係のもつれで消せるほど、貴方の美って安っぽいの?


その人との関係性に疲れた理由、軽蔑した理由、そこまで書いては本当にただの鬱屈とした悪口になってしまうし、そんなことを望んではいないし、何より書くのが億劫であるが故適当に筆を置くのだが、ふとそんなことを思い出した、という日記。


美しい作品が作れるといいね。お互い。

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