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とある絵描きとインターネット

 ふと好きな絵描きがいた。知ったのは最近だ。たまたまバズった漫画がたまたま目に入ってたまたま惹き込まれてたまたまフォローした、まぁ要はよくいる流動型のフォロワーだ。そんな流動型のフォロワーが言うのも何だが、彼/彼女の作品や普段の言葉からは「速さ」を感じた。僕は速さを感じる人間が好きだ。落下的な人種に惹き込まれる。けれどもそういう人は死にやすい。すごく。「何回未遂してんだよ」と言いたくなる人もいる。でも「零回の人」と「インターネットの周囲から見て数え切れない程の回数の人」だったら、統計ではどちらが《速い》だろう。勿論「零回の人」の生きづらさ、苦しみ、辛さ、そういったものを軽視する訳ではないことは声を大にして言いたい。ただインターネットにドアノブ首吊りの写真を上げている人間は、なんというか事は一刻を争うんじゃないだろうか。当該の絵描きである。
 インターネットにドアノブ首吊りの写真を上げるという行為の是非はあまり考えたくない。そんなことよりもっと重視すべき点があるだろう。でもそれってどこだろう。確かにこれは「SOS」である可能性が高いが、じゃあ我々はどこに向かってヘリコプターを飛ばせばいいのだという話だ。そもそも僕がその写真を見たのも投稿から十六分後である。十六分。なんの自慢にもなりやしないが僕の知識では充分に「為せる」時間である。彼/彼女はバズったからか、それとも元々人気のある絵描きだったのか、遅くに知った僕には知る由もないがそれなりにフォロワーがいて、その写真の投稿にも幾つかのリプライが付随していた。普段はまったくそんなことをしないのだが、なんとなく読んでみた。驚愕、制止、まぁそういうのが短い言葉の中に詰まっていて(恐らくリプライを送った彼/彼女等も時間的猶予がないことは理解していたため)、ぎゅうぎゅうに詰められたそれらを見て僕は「はいそうですか」と感じた。
 驚愕されてもなぁ。ずっと苦しかったんだし。制止されてもなぁ。ずっと考えてたことだったし。
 もう完全に生死不明である絵描きの気持ちになりつつリプライ欄をスクロールしていたら、あ、があった。
 
「死んでも良いけど漫画と絵は更新してくれよ、おもろいんで」
 
 あ、羨ましいな、と思った。
 インターネットにおいて必要なものは現実世界とはまったく(とまではいかないが必要とされる要素のジャンルが大きく)異なる。面白い言葉だったり、美しい線と着彩であったり、重加工した虚構少女/青年の写真であったり、落下的な人生そのものであったり、猫だったりする。
 そこにアイデンティティを見出すのが不健康であるということは、猫でも分かる。何故ならインターネットは「生きているあなた」を特に必要とはしていないし、何ならニートになって沢山ツイートや絵を作って欲しいと思ってるし、何かしらの不幸があっても「おっ新ネタか」程度にしかならない。勿論そうではないやさしさも沢山、ある。でも「インターネット」全体で見たときの所感として、あんまり間違ってはいないとも思う。
 
「死んでも良いけど漫画と絵は更新してくれよ、おもろいんで」
 
 上手いな、とも思った。たぶんもう一度読み返したときに。
 不健康だと書いたがそもそもインターネットにアイデンティティのすべてを預けなければ、インターネットはとても面白い遊園地だ。毎日どこかしらが踊り、どこかしらが煌めき、どこかしらが燃え、自らもそのパーツの一部になることができる。勿論ただ見ていたって誰も何もきみの生産性のなさを責めやしない。現実世界よりインターネットのほうがいいな、と思うのは、こういう雑なやさしさなのかもしれない。それまでショーを見ているだけだった君がある日急に踊りたくなっても、インターネットは許容する。その逆も。いつだって踊れるしいつだって逃げていい。
 ただ現実世界ではそうはいかない。「すべてから逃げる」と言ってもアカウント削除をクリック、完了。ではない。「すべてから逃げる」これを成し遂げられた偉人が地球上に一体何人いたことだろう、そしてその人達が後ろ指を差されなかったならばなんて平和な世界だろう。人生において最も残酷なことは続いてしまうことだ。
「すべてから逃げる」今現在生死不明の絵描きは、たぶんその偉人になろうとした。彼/彼女が今、幸福か、それとも苦痛か、インターネット越しではそれすら分からない。それ以降投稿ないし、生死不明だからね。
 僕は死後のすべてを何一つ信じてはいない。何故人間様だけに死後の世界やら生まれ変わりやらがあるんだ(このへん詳しい人にご解説を賜っても面倒臭いだけなので疑問形ではないということを記しておきます)。死んだら意識とやらが途絶える。無になる。それだけだ。客観的に見たら意志を持って動いていたものがただの「モノ」になる。それらは燃やしたり埋めたりしないとなんか怒られる。雑にやってもなんか怒られる。以上。
 なのでその絵描きが「為した」場合はあまり考えないことにする。
 問題は「為せなかった」場合だ。「為せなかった」場合、インターネットにアイデンティティをそれなりに預けていた場合たいてい帰ってくるものなのだが、まぁ、その、恥ずかしい。僕も散々やったから分かる。あの、すみません、失敗を、いたしました……はい、はい、すみません、えぇと、…………。恥ずかしい。僕も散々回数をこなしてきたから分かる。あまり分かる側の人生を歩みたくはなかったが。まぁそれはそれとして、恥ずかしいし、暖かいお言葉もお叱りの言葉も最初は涙ながらに読むものの、回数を重ねるほどに「すみません……」と消え入るような声しか出せなくなってくるし、そんな状態だとなんとなくいつもの文章や絵を出せないし……みたいな状態のことを僕は「インターネット自殺未遂後遺症」と呼んでいる。今呼び始めた。この後遺症はまったく発生しない人間もいるがそれはそれで危険である。
 話を戻すと、僕はこの絵描きが「為せなかった」として、そしてまたインターネットに戻れるほど回復して、さてアカウントを開いたとして、もし僕だったら通知欄をあまり見たくないなになった。リプライ欄なんてもっての外だ。助けてインターネット。そういう心情になったとき、
 
「死んでも良いけど漫画と絵は更新してくれよ、おもろいんで」
 
 救済だな、と感じた。
 自ら命を絶とうとする人間に掛ける言葉のセレクトとしては普通に狂っているが、インターネットという狂った遊園地において、これ以上ないほど適切な言葉だなと感じた。このリプライを送った人間はたぶん「赦す」とか「救う」とかそこまで考えてはいないだろうが(熟考の果ての言葉だとしたら、僕はごめんなさいをします)、これ以上ないほど適切な言葉だなと感じた。
 
 彼/彼女のこの言葉が、生死不明の絵描きに、生きてても死んでてもいいから届くことを祈っています。
 漫画と絵、面白いので。




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