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【創作大賞2024】遅れてきた青春の日々2

 それはまるで恋に落ちるのにも似た感情だった。駆け出しの画家であるジェレミーは偶然立ち寄った画廊で一枚の絵に出会った。もう半日もその前から動けずにいる。彼がみすぼらしい服装をしていることもあって、周囲から奇異な目で見られていたがそんなことが気にならない程にその絵に没頭していた。

『湖畔』というシンプルなタイトルの下には『ヨエル=ガリュー』という聞いたことのない作者名が記されていた。日が沈むまで絵を見た後、ジェレミーはその名を忘れないように頭の中で反芻しながら帰路についた。

 帰宅したジェレミーは脱いだ上着を無造作に脱ぎ捨て、キャンバスの前に座った。部屋の中にはベッドと画材を入れた鞄しかない。ここでは寝るか絵を描く以外なにもしない。キャンバスに向って絵筆を構えても、頭の中を巡るのはあの絵の深い青色だった。ジェレミーが以前自身の作品で理想とし、何度試行錯誤を重ねても調合することができなかった青色があの絵には使われていた。もし許されるならば削り取って成分を分析したいくらいだった。

 翌日もジェレミーはその湖畔の絵を見るべく画廊へ向かったのだが、すでに昨日の展示スペースには別の絵が飾られていた。オーナーに詰め寄ると昨日彼が帰ってすぐに常連客が買っていってしまったらしい。

 ジェレミーは肩を落とす間もなく購入者の情報を聞き出そうとしたが、オーナーは「規則で教えることが出来兼ねます」という趣旨の言葉を繰り返すだけだった。

「だったらヨエル=ガリューという画家について教えてくれ」

 しつこく食い下がるジェレミーに辟易していたオーナーはようやく変わった要求に胸を撫で下ろすとともにやや顔を曇らせた。

「実は我々も詳しくは存じ上げないのですよ。絵を買い取ってくれと年に数回やってくるのですが、経歴や人物像については謎だらけなのです。もしも彼の居場所がわかったのなら我々がお尋ねしたいくらいですよ」

 そう言ってオーナーは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 手掛かりを失ったかに見えたジェレミーにもまだ考えがあった。昨日穴が開くほど見たあの湖畔の風景だ。オーナーの話ではヨエル=ガリューの持ってくる絵は同じ湖をモチーフにしたものが多いそうだ。急いで家に戻り、キャンバスに向かう。目を閉じると浮かぶあの絵の模写を始めた。湖面の青色を再現することはできないものの、人に尋ねて回るのに事足りる絵にするくらいは朝飯前だった。半日とかからず模写を完成させ町へ飛び出した。

 絵の右隅に靄がかかったように描かれている館がこのヨエル=ガリューという人物を見つける最大の手掛かりになるのではないかとジェレミーは直感した。さほど大きくもないこの町に絵を売りに来るということはここからそう遠くない場所に住んでいるのだろう。もしかしたらこの絵の館がそのまま彼の住居ということもありえる。ジェレミーは町中の人間に尋ねて回る勢いで聞き込みを続けた。


 三ヶ月近くにも及ぶ捜索でようやく突き止めた湖と館は町から歩いて半日の広い森の中にあった。情報を得るためになけなしの駄賃を払い続け、ほとんど無一文になっていたジェレミーは、万感の思いで湖越しの館を見つめた。

 ぐるりと湖を半周して辿り着いた館は間近に見ると圧巻の大きさだった。しかし壁中には蔦が絡み付き、あちらこちらに経年劣化の跡がある。湖と反対側の庭には林檎の木がポツリと立っていた。かなりの老木で、収穫時期が近い季節だというのに数えるほどしか実がなっていなかった。まるで打ち捨てられた廃墟のようであったが、玄関周りはきちんと手入れされていて人が住んでいる様子がうかがえる。ジェレミーはライオンの装飾が施されたドアノッカーを三度ノックした。

 耳を澄ましても中から物音は聞こえない。どこかに出掛けているのかもしれない。ここまで来たのだからここで館の主の帰りを待とうと思った。無粋を承知でその場に座り込むと、ふいの悪寒がジェレミーを襲った。初夏の暖かな陽気だというのに両腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。強烈な殺気に満ちた視線を感じ、ジェレミーは周囲を見回す。もう一度館の玄関の方に視線を移すと、ゆっくりと扉が開くのが見えた。

 長い金髪を後ろで束ねた綺麗な顔立ちの男がその顔だけを覗かせている。彼の無表情からは敵意も好意も読み取れない。ジェレミーは慌てて立ち上がった。

「失礼致しました。私はヨエル=ガリューという画家を探しているのですが、なにか彼についてご存知ではないでしょうか?」

「彼になんの用だい?」

「実は三ヶ月ほど前に町の画廊でヨエル=ガリュー殿の作品を拝見しました。それにいたく感銘を受けて、彼からお話を伺おうと血眼になって探している次第でございます」

 なるほど、とその男は数回頷いた。

「そういうことなら上がっていきなさい」

 男がジェレミーを館に招き入れようと姿を現す。どことなく気品を感じさせる雰囲気があったが、露わになった男の全身はジェレミーと同じくらい祖末なものだった。使用人にしたってもう少しマシな服を着ているのではないか、怪訝さに顔をしかめる。

「君の名前は?」

 戸惑うジェレミーを気遣うことなく男は話を進める。

「申し遅れました。ジェレミー=カルドーニと申します。不肖な身ながら私も画家をやっております」

 ほう、と男は目を見開いた。ジェレミーの足下から頭の先までを舐めるように見定め、得体の知れない笑みをこぼした。

「君とは仲良くしていけそうだ」

 男は握手を求めるように右手を差し出す。その手は所々絵の具で汚れていた。

「僕こそがヨエル=ガリューだよ。ジェレミー君」


 館のエントランスにはところ狭しとキャンバスが積み重ねられていて、その隙間を通るように向かった応接間もやはりキャンバスに囲まれていた。出されたカップは新品のようで周囲の乱雑さから浮いていた。ガリューがジェレミーの正面に座るとソファはひどい音で軋んだ。

「絵のことで僕に聞きたいことがあるんだろう? なんなりと聞いてくれたまえ。分かりやすく、丁寧に指導してあげよう」

 得意顔のガリューは深く腰掛け、足を組んだ。その態度にジェレミーは眉をしかめる。

「悪いけど正確に言うと俺が聞きたいのは絵ではなくて色のことだ」

 出された紅茶に砂糖を入れながら言った。四つ砂糖を入れ、ティースプーンでかき混ぜるのをガリューは不思議そうに見つめていた。

「なにか?」

 視線に気付いたジェレミーが尋ねるとガリューは首を横に振ったが、

「いや、さっきまでと別人のようだなと思って……」

 態度が変わったことを言っているのだろうとジェレミーは理解したがそれを無視して周囲をキョロキョロと見回した。乱雑に置かれた彼の作品は風景画と静物画ばかりだった。

「宗教画や肖像画は描かないのか?」

 今の時代、画家に求められるのはなんといってもその二つだった。ジェレミーの生計を支えているのもまれに来る上流階級の肖像画か、教会からの宗教画の依頼だ。

「僕は自分の目で見たものしか描かないことにしてるんだよ。神様なんて見たことないし、人物を描こうとしてもほら、ここには僕以外に誰もいない」

 なぜか嬉しそうに両手を広げるガリューを無視し、ジェレミーは数ある中から一枚のキャンバスを手に取った。

「この青だ。この青の作り方を教えてくれ」

 ガリューに見せたのはやはり湖を描いたものだった。画廊で見たものとはアングルが違うがあの深々とした青が同じように使われていた。

「その青は特別なんだ。よくそれに気がついたね」

 したり顔で言った。ジェレミーはそれが鼻につき、眉をひそめる。

「俺の人生を賭けた作品にその青を使いたいと思っている」

 ジェレミーが描こうとしていたのは幼い頃に今は亡き両親と訪れた洞窟の絵だった。海から流れ込んだ海水が、ある時間になると差し込む日光に照らされて洞窟全体が幻想的な青色に染まる。幼いジェレミーの脳裏に深く刻まれたその幸せな記憶を再現する為に絵を描き続けていると言っても過言ではなかった。

 ジェレミーの語る情熱をガリューはカップを傾けながら聞いていた。ソーサーに置いたカップがカチリと鳴り、ガリューは数回頷いた。

「君の気持ちはよく分かったよ。ただこちらとしてもおいそれと教えることはできない。なんと言っても特別だからね」

 思わず喧嘩腰で立ち上がったジェレミーを「まあまあ、落ち着いて」と右手で制してガリューは続けた。

「だから僕から盗めばいい。見たところ君は貧しい生活をしているだろう。ここで僕と一緒に生活して、一緒に絵を描いて、その中で色の作り方を見つければいい。どうだい? 悪い話ではないだろう?」

「分かった。では荷物を置かせてくれ。それとキャンバスはその辺のものを使って構わないか?」

 予期せぬジェレミーの即答に、話を持ちかけたガリューの方が戸惑う素振りを見せた。

「もう少し考えて答えると思ったんだけど。それに準備とかはいらないのかい? そんな小さい荷物しか持っていないじゃないか」

「俺は絵さえ描ければそれでいい。生活に必要なものは貸してくれ」

 ジェレミーの持っていた鞄の中身は彼の言葉通り筆や画材がほとんどだった。元々今日のうちに帰る予定だったので着替えすらも持ってきていない。ガリューに案内された二階の部屋はベッドが一つあるだけの簡素な部屋だった。足を踏み入れると埃が大きく舞い上がる。

「悪いね、こんな部屋で」

「構わない。心遣い感謝する」

 ジェレミーの差し出した右手をガリューは強く握った。


 館での生活を始めて、まず館の中を隅々まで探索した。ガリューはほとんど掃除をしないのか一階の普段生活しているのであろう暖炉のあるリビングとキッチン、ダイニング以外は床にうっすらと埃が溜まっていた。

 二階はガリューとジェレミーの部屋の他に客室と絵の具を調合するための部屋がある。染料を作るための草花や、顔料を作るための鉱石はジェレミーが心躍るほどの揃っていたが、あの青を作るには至らなそうだった。油を入れている樽の中に身を隠して調合しているところを盗み見ようかとも考えたが、大柄なジェレミーの体を隠しきることができず断念した。

 それからジェレミーは毎日湖の周りの草花を観察して回った。ガリューの青色はこの辺りに生息する特異な植物から作っているのではないかと推測したからだ。保存の利かないものだから調合室に置いていないのではないか、そう考えていた。調査の範囲を森の中にまで広げたあたりから調査にガリューが勝手に同行するようになった。

 その日は前日から降り続いていた雨が小雨に変わったのを見計らって、早朝からジェレミーは森に入る準備をしていた。ガリューは昨晩リビングで静物画のデッサンをしながら寝落ちして、まだ寝息を立てている。彼を起こさないように忍び足で横を通り抜け、物音を立てぬようそっと外へ出た。地面は酷くぬかるんでいて、時々足を取られそうになるのに注意しながら足早に館を離れた。

 森を探索するようになってからやけにガリューが付いてくるのが気になっていた。この森の中にこそガリューの知られたくない秘密があるのではないかと考えていたジェレミーはずっと彼を出し抜く機会をうかがっていた。

 秋とはいえ早朝はかなり冷え込む。霧のような雨に体温を奪われ、ジェレミーは震えるほどの寒さを感じていた。それでも、靴を泥で汚しながら真っ直ぐに進む彼には心当たりの場所があった。一緒にいるときに必ずガリューが「あの辺りは野犬が出るから危ない」と言ってジェレミーを遠ざけていた場所だ。草木をかき分けなくてはならないほどの道なき道をずぶ濡れになって進む。

 ふいに視界が開けた。木々が途切れ、森の中にぽっかりと穴があいたようだった。雨のせいで大きな水溜りのようになっているが、ジェレミーはなんとか歩けそうだと判断した。恐る恐る歩みを進める。一種の神秘さを備えたその場所は、なにかあるとジェレミーに思わせるのに充分だった。

 慎重に進んだ十歩目で突然左足が地面の感覚を失った。膝まで泥の中に埋まり、踏ん張りが利かなくなる。背の高い雑草に掴まり体勢を立て直そうとするが、それも頼りなく千切れてしまった。底なし沼だと気が付いた時には彼の身体はすでに腰の辺りまで沈んでいた。焦る顔面に雨粒が振りかかる。ジェレミーはそっと目を閉じ、覚悟を決めた。

「ほーら、だから危ないって言ったじゃないか」

 頭上から聞こえたのは聞き慣れた、この状況にふさわしくない素っ頓狂な声だった。ジェレミーがその声の方に顔を上げると、にこりと微笑むガリューが右手を伸ばていた。左手は木に括り付けたロープを掴んでいる。

「お前は野犬が出ると言っていただろう。底なし沼があるとは聞いていない」

 苦情を口にしながら右手を取るジェレミーにガリューは苦笑いで返す。

「それ絶対言われると思った」

 ジェレミーが冷えきった体を暖炉で暖めているとガリューが濡れた頭を拭きながらやってきた。そういえばガリューが髪を解いたところを見るのはこれが初めてだなと思った。

「まさかこんなに早く暖炉の季節がやってくるとは思わなかったよ」

 その皮肉にジェレミーは返す言葉もない。

「ちゃんと言っていなかった僕も悪かったよ。あの青色はこの辺りの植物や動物から採取するのではないよ。もっとこう、特別なんだ。信じるかどうかは君の自由だけどね。ただお願いだから今日のような無茶はもうしないでくれよ」

「お前を信じるよ。今回のことは全面的に俺が悪かった。お前が来なければ俺はあそこで死んでいた。もう勝手に森へは行かない。約束する」

 柄にもなくしおらしく頭を下げるジェレミーにガリューは意地悪い笑みを浮かべた。

「次の僕の題材は沼に沈む君の姿にしようかと思うんだけどどうかな?」

「なら俺は描きかけのデッサンの前でよだれを垂らすお前の寝姿にするよ」

 そう言って二人は笑い合った。

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