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【創作大賞2024】遅れてきた青春の日々5

 立派な石造りの門を通ってから広い庭を抜け、ようやく辿り着いた屋敷に入ると、待っていたのはやはりどこまでも続くかのように長い廊下だった。家をここまで大きくする意味はあるのだろうかとジェレミーは疑問に思ったが、貴族には貴族の考えや文化があるのだろうとカツカツと靴音がよく響く大理石を歩きながら勝手に納得していた。

 それよりも、二人を先導する使用人の目を盗み、ガリューに耳打ちをする。

「なあ、本当にこれがお前の持ってる最高の服なのか?」

 ガリューは使用人とジェレミーの格好を改めて見比べ、苦笑とともに頷いた。


 彼らは今、この町で最も権力を持っている貴族、エグバード男爵の屋敷に招待されていた。以前ガリューが自分を専属絵師にと勧誘している貴族がいると話していた男だ。その日は春の陽気が心地よく、二人はそれぞれ湖畔に棲息する植物のデッサンをしているところだった。

「ヨエル=ガリュー殿の館はこちらかな?」

 突然ジェレミーの背後に現れた男は不躾にも名乗りもせず、馬上から尋ねた。たっぷりと白髭を蓄えたその男は上品な身なりに似つかわしくない鋭い目つきをしていた。おそらく自分たちの身なりを見て使用人や召使いであると思ったのだろう。ジェレミーは一瞬不快感に顔をしかめたが、自分も初めてここを訪れたときに同じ勘違いをしていたことを思い出し、口角を上げた。

「彼がヨエル=ガリューだが?」

 湖畔に浮かぶ睡蓮の花をデッサンしていたガリューは手を止めて立ち上がり、ジェレミーを指してそう言った。当の本人のジェレミーは彼の行動を理解できず、ガリューと馬上の男の間で視線を三往復させた。

「それは大層なご無礼を。私はエグバード男爵に仕える執事で、カタリンと申します。以後お見知り置きを」

 カタリンと名乗った男は馬から降り、胸に右手を添えて頭を下げた。つられて二人もぺこりと頭を下げる。

「エグバード様ほどの方の使いがこんな辺ぴなところまでどんなご用件で?」

 飄々とした態度を取るガリューがまるで目に入らないかのようにカタリンはジェレミーに歩み寄った。

「以前から我が主の専属絵師にというお話はさせて頂いていましたが、今回はまた別のお願いがあって参りました。詳しくは我が主の方からお話しさせて頂きますので、是非屋敷までご足労願いたい」

 真摯な眼差しに堪え切れず、ちらりとガリューを横目で見ると、彼は必死に笑いを堪えていた。なにか事情があって正体を隠しているのかと思い、本当のことを言うべきか迷っていたが、ただの悪戯だったと分かったからにはカタリンに対して深く頭を下げた。

「ヨエル=ガリューは向こうの男です。失礼なことをして申し訳ない」

 怒るかと思ったカタリンは一瞬戸惑うような表情を見せたが、すぐに声を上げて笑い出した。

「なるほどなるほど。噂に聞いていた通り愉快な男だ」

 安堵したジェレミーはガリューの腕を掴んでカタリンの前に引っ張り出した。服についた草や砂を払う。

 以前から画廊を通して連絡をとろうとしていたが、ガリューが一向に応じないため、館までやってきたらしい。ジェレミーが三ヶ月かかって突き止めたこの場所を、同じような方法ながらわずか三日で探しだしたというのはやはり財力と権力の違いだろう。カタリンの話に終始渋っていたガリューだったが、応じてくれるまで毎日でも来るという脅しのような言葉についに折れた。

「で、いつ行けばいいんだ? こちらも予定がぎっしりでね。お忙しい男爵様の予定に合わせられるか自信はないけれど」

 真っ赤な嘘にジェレミーは横で吹き出しそうになる。日長一日絵を描いて過ごすガリューの今後の予定など十日後の買い出しまでなにもなかった。

「お見受けしたところ本日はお時間がありそうですが……」

「今日という訳にもいかないでしょう。こちらも準備がありますし、もう昼過ぎだ。お屋敷に着く頃には日が暮れてしまうでしょう」

「それには心配及びません。街道に馬車を待たせてあります。食事や宿もご用意しますので身一つでいらっしゃって結構です」

 ようやく役目を果たせる目処がついた安心感からかカタリンの表情が明るくなった。最初に印象的だった鋭い目つきも今では陰を潜めている。「どうする?」とガリューはジェレミーに助けを求めるように尋ねたが、ジェレミーは力なく首を振った。

 準備をしてくる、とカタリンを館の前で待たせた二人はソファーに身を投げた。

「このまま立てこもってやろうか」

 その口調が冗談ぽくなかったので、ジェレミーはただ苦笑いだけを返した。

「なんでそんなに嫌がる? 前に俺が貴族を嫌いそうだと言っていたが、お前の方こそそんなに貴族が嫌いなのか?」

「いや、そうじゃない。貴族が、とかじゃなくてそもそもあまり人と関わりたくないんだ。どこでボロが出るかわからないからね」

 そう言われてようやくガリューが人間ではないということを思い出した。あの告白から数ヶ月、二人はそれまでと変わらずなにごともなく過ごしてきた。それは二人の間にできていた絆のようなものがあったから、もしくは絵を描く以外に関心の薄いジェレミーの性格のせいであって、普通の人からすれば畏怖や迫害の対象になりかねない。自分が正体を見抜いていた以上、「大丈夫だ」などと軽々しく言うこともできなかった。掛ける言葉を探すジェレミー同様、ガリューも何かを思案していたようだが、ややあってなにか閃いたように急に立ち上がった。

「そうだ、君も一緒にきてくれよ。なにかあっても君がフォローしてくれれば安心だ」

 ジェレミーはソファーに深く座り直し、深く溜め息をついた。面倒ごとに巻き込まれてしまったという落胆の溜め息だった。対照的にガリューはてきぱきと身支度を始める。

「ちょっと待て。俺はまだ一緒に行くとは言ってない。それに……」

 ガリューが手を止めてジェレミーを見た。

「それに、着ていく服がないだろう」

「君はそんなこと気にするタイプだったっけ?」

 ガリューは笑い飛ばそうとしたが、改めてジェレミーの格好を見て真顔に戻った。この館に彼が住みついて九ヶ月が経とうとしている。ほとんど手ぶらでやってきてからまだ家には一度も帰っていない。たまに湖で洗っているのを見かけるが、染み付いた汚れは落ちないし、ガリューはもう慣れてしまったのかもしれないが、最近町へ出たときに人々が嫌そうな顔でこちらを見てくるのはやはりジェレミーの体と衣服から沸き起こる悪臭のせいだろう。

 町にいた頃は無頓着とはいえ最低限の風体を保っていたのだが、ここでの暮らしで完全に浮浪者然となってしまった。伸びっぱなしの髪と髭もそのようにしか見えない。

「わかった。僕のとっておきを貸してやろう。それならいいだろう?」

 ガリューは返事を待たず、自室へ駆け戻っていった。ジェレミーはソファーに横になり、すっかり使わなくなった暖炉のあたりに視線を泳がせる。ああまでして人との関わりを持とうとしないガリューのことを考えていた。そしてそんな中で自分だけを受け入れてくれたことを。初対面で握手を求めてきたガリューの姿が脳裏に蘇ってくる。彼はジェレミーの絵を見て興味を持ったと言っていたが実際握手をしたときにはすでに心を開きかけていた気がする。

「こんなのどうかな?」

 いつも以上の陽気さで両手首に一着づつ服を引っ掛けてガリューが戻ってきた。この初めて見る正装はいつ着る予定のものなのだろう? さっきまでのジェレミーの考えごとなど知る由もなく「どっちがいい?」と両手の服を押し付けてきた。


 二人が通されたのは応接間ではなく食堂だった。十人ほどが一堂に食事できる大きさのテーブルが部屋の中心に鎮座しており、その上には四人分の食器が並べられていた。どれも見ただけでわかる高級品だ。

 部屋の四隅には揃いの制服を着た給仕が直立不動で待機していた。二人が促されて席に着くと、そのうちの一人がグラスに水を注ぎにやってきた。

「まもなく男爵様が参りますゆえ、今しばらくお待ちください」

 そう告げるとまた無駄のない動きで元の位置に戻っていった。二人は顔を見合わせ、同時にグラスに口をつけた。

「ただの水でさえうちのより美味く思えるのは気のせいか?」

「いや、僕も同じことを思ったよ。このグラスのせいじゃないかな?」

「うちの縁の欠けたコップとは大違いだな」

 グラスが空になると、先ほどの給仕が音もなくやってきて水を注いだ。

 美術品の収集で知られているだけあってか、部屋の壁面には数枚の絵画が飾られていた。特に目を引くのは奥に飾られた壁一面の大作だ。神々が優雅に食事をとっている様子を描いたもので、絵のタッチを見ただけで今世間で最も有名な巨匠の作品と分かる。近付いてじっくりと見てみたかったが、それすらもはばかられる迫力がその絵にはあった。

「お前の絵は無いんだな。何点か買ってくれているんだろう?」

 ジェレミーが周囲の絵を見回すがガリューの絵は見当たらなかった。

 不意に扉が開いた。給仕たちの背筋がもう一段階ピンと伸びる。現れたのはこの屋敷の主人、ヴィクトル=エグバード男爵その人だった。

「ようこそおいでなさった」立ち上がって挨拶をしようとする二人を手で制し、男爵はゆっくりと席に着く。それを合図に三人の前に次々と料理が運ばれてきた。

「堅苦しい挨拶は結構。お願い事をするのはこちらの方だからね。……そちらは?」

「この男は私の弟子でございます」

 誰がお前の弟子だ、という思いを込めてジェレミーは肘でガリューを小突いた。

「ほう、ガリュー殿にはすでに弟子がおりましたか」

 意外そうに髭を撫でる男爵に、否定するタイミングを逸したジェレミーは渋々その設定を受け入れることにした。そもそも二人の関係を上手く説明するのが面倒だ。弟子ということでお茶を濁すのも悪くないと思った。それよりも男爵が言った、「すでに」という言葉が気になっていた。まさかこれから弟子入りしようとでも言うのだろうか。

「それなら話が早い。実はお願いというのがそのことなのだよ」

「まさか男爵が?」二人が顔を見合わせる。それを見て男爵は豪快に笑った。

「違う違う、私じゃない。ほら、入りなさい」

 再び扉が開き、入ってきたのは二人をここに招いたカタリンだった。その後ろに隠れるようにして子供が立っていた。カタリンに誘われ、男爵の隣の空いている席に着いた少年は気恥ずかしそうにガリューに頭を下げた。

「私の息子のマレクだ。他の画家には興味を示さないのに、ガリュー殿に関しては私以上の愛好家でね。絵の収集では収まらず、会ってみたいと言い出したのだ。どうせなら夏までの間弟子入りするというのはどうだ、と冗談半分で言うと本気になってしまってね。ひと月ほどガリュー殿の館で面倒を見てもらいたいのだが、いかがだろうか?」

 男爵は終始上機嫌だった。よほど我が子が可愛いのだろう。ガリューの絵はそう安くない。一枚売れれば二人が二、三ヶ月生活できる値段だ。それをまだ年端もいかない子供に与え、人手を使って居場所を探し、平気な顔で図々しい要求をする。ここはガリューも断るんじゃないかと思っていた。そもそも正体がバレるのを恐れてここにくることさえ嫌がっていた彼が短い間ながらも他人を館に住まわせるなんて応じるはずがなかった。

「分かりました。お引き受けいたしましょう」

「なんだと!?」

 この場の誰よりも驚き、思わず立ち上がり声を出してしまったのはジェレミーだった。周囲の視線に気まずい思いをしながら着席すると、

「ちょっと落ち着きなさい」

 とガリューが白々しく肩を叩いた。

「ははは、師匠を取られるとでも思ったかな? 心配しなくとも息子が世話になるのはひと月だけだ。その後は帝王学を学ぶために留学することが決まっているのでな。息子の最後のわがままだと思ってよろしく頼む。もちろん息子の生活費の他に謝礼もたっぷりと支払おう」

 男爵が提示したのは余裕で数年遊んで暮らせるだけの金額だった。

「金の問題では……」

 それでも反論しようとしたジェレミーをガリューが制した。

「彼は僕の方で説得しますから。食事にいたしましょう。せっかくのご馳走が冷めてしまいます」

「そうだな、まずは食べて、飲んで。細かいことはその後でもよかろう」

 男爵は再び豪快に笑った。


 用意された客室はベッドが二つ、その間にテーブルとチェアーが二脚あるだけの他に比べると意外なほど質素な作りだったが、よく清掃が行き届き落ち着いた雰囲気の部屋だった。後ろ手にドアを閉めたジェレミーは先に部屋に入ったガリューの肩を乱暴に掴んだ。

「お前、一体どういうつもりなんだ?」

「悪かったよ、弟子なんて言って。素直に友人で通せばよかったな」

「そっちじゃない。あの子を弟子にするって話だ」

「いい子じゃないか。僕のことを尊敬しているのも本当みたいだし」

 とぼけたようにガリューが言う。食事を終え、この部屋に来る前にマレクの部屋を覗かせてもらっていた。十歳の少年の部屋とは思えない広さにまず驚き、まるで個展のように飾られたガリューの作品の量に圧倒された。その中にはジェレミーが初めて目にし、ガリューの元を訪れるきっかけになった湖畔の絵も含まれていた。思わぬ絵との再会の喜びに弟子の件を忘れそうになったジェレミーだったが、部屋のドアを閉めた瞬間に思い出したのだった。

「お前の正体がバレるのが嫌だって言って俺がここまでついてきたんだろ。一緒に暮らすなんてその何倍も危険じゃないか」

「そういえば……そうだね。でも楽しそうじゃないか。賢そうな子だし」

「賢そうな子だから危ないんだろ?」

「大丈夫だよ。君がちゃんと目を離さないでくれれば。たったひと月じゃないか」

 ガリューは結んでいた髪を解き、勢いよくベッドに身を投げた。スプリングの錆びついた館のベッドとは違い、音もなく彼の体が弾んだ。

「お前まさか……俺を連れて来るために不安なふりをしたのか? あれは芝居か?」

 ガリューは枕に顔を埋めたまま動かない。

「おい、寝たふりするな」

 ジェレミーが脇腹を足でつつくと笑い転げてそのまま仰向けになった。

「だってこんなとこ一人で来てもつまらないだろ?」

「もう知らん」

 楽しそうに笑い続けるガリューに呆れたジェレミーはもう一つのベッドに入り頭から布団を被った。

「とりあえず明日帰ったら全力で館の掃除をしよう」

「お前一人でやれ。俺はもう協力しない」

「そんな冷たいこと言うなよ」

 ガリューはジェレミーの潜り込んだ布団の隙間に足を忍び込ませ、彼の脇腹を探した。苦しげな笑い声が二人の部屋に響いた。

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