お伊勢徒歩参り

甲府にいる友達と飲み屋に行った帰りに、石和温泉健康ランドに泊まることにした。温泉に入り、仮眠室の空いている席に落ち着いた。明日の甲府-名古屋間のバスは7時40分発であることは既に調べている。健康ランドから歩いて甲府駅に向かうのでどのくらいかかるか分からないと思い早朝5時ごろに起床。あまり疲れが取れないことは寝る前から知っていた。
しかし、あの仮眠室のいびきの合唱はなんだ。相当疲れていたから寝られたものの、だらしない腹を無防備に晒した中年オヤジの小汚い口からでる下品ないびきは公害以外の何物でもない。しかもそれが重なり合って永遠に響き続けるという状況に笑いすら起きない。
寝ていればなんでもオーケーなのか。あれは公共の場で他人に迷惑をかける行為ではないのか。そのせいで寝られない人間のことを思うと、みな鼻と口を詰まらせてしませばいい。
つくづく思う。こんなオヤジにはなりたくない。


ダラダラと行く準備をして、健康ランドをでた。少し肌寒かったが、その足で、甲府駅まで歩くつもりだ。
まだ暗い時間から夜明け頃にかけて歩いた甲府の街も特に変わったことはなかった。強いて言うなら街が窮屈だなと感じる程度である。交差点でもないただの曲がり角の曲率半径が極端に小さく、ブレーキをしっかり踏まないと確実に事故になる箇所がいくつかある。なかなか北海道民には馴染みのない街並みだ。
甲府から名古屋までのバスは終始寝ていた。隣がいないことが本当に助かった。そして名古屋から亀山までの電車も空いている。私は亀山から伊勢神宮間の59キロハイクを計画している。12時間かかるとGoogleマップは言っている。


なぜ亀山駅から伊勢神宮まで60キロ近くを歩くのかという経緯について述べておく。
私には三重県に祖母がいる。父方の祖母であるが、父親から親孝行ならぬ“おばあちゃん孝行”を一年に一回くらいしに、三重県の鳥羽市にある父親の実家に行けと言われている。そのため毎回本州で用事があるときに三重に寄るようにしている。今回も東京で用事があったのでそのついでに名古屋から鳥羽へ行くつもりであった。
しかし、祖母が飼っている愛犬が体調不良だという話が父親伝えに入ってきた。正直言うと、それがどうしたというような内容であるが、父親からは「あたふたしているかもしれないから今回は行かなくていいのでは」という連絡だった。しかし、東京でのみ用事があった俺がわざわざ中部国際-新千歳の飛行機を取り、鳥羽の家にいくのである。犬ごときの体調に左右されるものなのかと思った。しかし、やはり行かない方がいいのではないかと父親は言っていた。母親を思う息子の気持ちなのかもしれないが、俺からすると年に一回会いに来る孫より犬の方が大事なのかと思ってしまった。(しかし、冷静になり考え直すと年に一回しか会いに来ない孫より毎日可愛がっている愛犬の方が格段に大事だといわれると反論の余地はない)。
そのような経緯で名古屋から北海道に帰らないといけないのに、鳥羽に行くわけではないという謎な状態になった。突然やることがない。そんな中で、考え出されたのが「お伊勢徒歩参り」である。


私は現在、角幡唯介というノンフィクション作家に強い影響を受けている。彼は探検家であり、その探検を自著としてまとめていくつか本を出している。なぜ影響を受けているかの経緯については省略するが、彼の本を読みだすうちに自分でも冒険的な行動をしたいという気持ちが湧きたってきていた。しかし、冒険的行動とはどのようなものなのか全く見当もつかなかったし、まず何から一歩踏み出していいか分からなかった。
そんな中で出会ったのが北大探検部の方々である。ネット上で彼らのツイッターアカウントを見つけて連絡してみるとすぐに会うことができた。彼らと飲み屋で話しながら、「北大探検部は120キロハイクを達成できた人間を正式な探検部員として考えている」という話があった。どの部活にもある話だが、新入団の部員に対して課しているもののようだ。
その話を聞いて以降、自分でも明確は目標のようなものができた。120キロハイクを達成するということが当然目標である。
そんな目指すものができたので、今回は日程の都合上120キロは無理だが伊勢神宮まで約60キロを歩こうと計画したのだ。


しかし、探検分野の端くれとは言え何か明確な目的があってもいいと考えていた。いや、確かに120キロハイクの前哨戦という目的がある。しかし、なんかカッコ悪い。もっと、憧れの角幡さんみたいに「太陽が昇らない世界で人間が旅をし続けたらどんな心境になるのか」とか、「現代のシステムの外にあえて行くことにより、システム内ではわからない問題を見つめ直そう」というような社会的にも意味がありそうな目的が欲しかった。
しかし、冷静に考えて一人の人間が60キロ歩くだけである。そのどこに社会的意味を付け足すことができるか甚だ疑問であった。生産性は皆無、その行為による世の中の変化など一ミリも望めない。当たり前のことだ。
120キロハイクのお試し歩行ということでいいやという投げやりな感情になっていた。まぁもともと老犬に負けてやることを失った浮浪者である。やることがないからしょうがなく伊勢神宮まで歩こうとしているだけで、目的意識など持っている方がおかしな話である。などと考えていた。
しかし、ふと三重県の江戸時代における宿場町はどこなのだろうと気になった。スマホで早速調べてみる。すると亀山という地名が出てきた。聞いたことはある名前だ。そして亀山から伊勢神宮までグーグルマップで距離を調べると59キロと出ていた。これはこれはと思った。
当たり前であるが江戸時代は車も電車もない。そのため、多くのお伊勢参りに行く庶民は歩きで神宮まで行く。そして、全国にある宿場町を泊まり歩き、ついに目的地である伊勢神宮に辿り着くのである。ということは亀山にも泊まっていたはずである。そしてその足でお伊勢参りする庶民が大勢いたと想像できた。
「追体験だ」。角幡さんの本にも何度か登場した言葉である。現代の人間は体験することがなくなったことをあえてして、そこから昔の生活を体を使って感じる。そして、テクノロジーが発展しすぎた今の現代人が見落としているものを再発見しようとするものである。これだと思った。これこそが真の目的であると確信した。
このような経緯があり、「江戸時代の庶民のお伊勢参りを追体験する」という明確な目的のもと、お伊勢徒歩参りは始まった。(とは言いつつデサントの服を着て、スニーカーを履いて歩くだけである)


亀山駅から津に向かう田舎道の交差点でひかれそうになった。確実に相手側に問題があるのだが、歩行者用の信号機が青であるから意気揚々と渡っていた最中に軽トラが右折してきて、自分の目の前を横切った。ほんの数センチという近さでかわして大惨事を回避することができた。もう一秒早く歩いていたら本当にこんな文章より悲惨でレアな体験を書き残していたかもしれない。いや、書き残すことも不可能な状態に陥り、母は泣きわめき、父は鳥羽に行かせなかったことを一生後悔し、海外などに散らばった姉どもは一時帰国を余儀なくされ、親不孝を超えて“おばあちゃん不幸”な事故になったかもしれない。
久々にヒヤッとする体験だった。
しかし、津駅に到着するころにはそんな出来事も遠い過去となり、平気で赤信号を渡り、「歩行者なら信号無視してもいいよね、アフリカなら常識だよ」という暴論を頭の中で展開しては自分の行動を正当化するのに必死になっていた。
結果事故にあっていないのだから何も無かったこととさして変わらない。そんな呑気な性格に生まれてよかったのかは自分にはわからない。


3時間20分ほどかけて、亀山駅から津駅に来た。津駅のミスドに入り休憩。多くの三重県民の若者が北海道のそれと変わらない様子で、勉強していたり、談笑していたり、音楽を聴きながらドーナッツを頬張っている。
足の疲労は始まりかけていた。脹脛に乳酸が溜まった状態というべきか。60キロ中20キロ近く歩いた。
17時半ごろ津駅を出発。次の町松坂に着いたらどこかの温泉に入りに行って、そこからまた歩いて、今日の深夜か明日の早朝に伊勢神宮に行けたらいいなという予想を立てた。調べたところ松坂にある鈴の湯という温泉が24時までやっていて立地も悪くないと判明した。とりあえず鈴の湯を目指して津駅を出た。


22時頃に鈴の湯に着くまでに2回ほど休憩をした。松坂までの道のりは大部分が幹線道路を歩いていたこともあり賑やかなそしていつでも休憩できる環境が多くあった。ネットカフェを見ながら、肩の凝りをほぐして「ここでリタイアしてはいけない、ネカフェは悪だ」と自分に言い聞かせて歩き続けた。
途中一時間ほど歩きながら2番目の姉と電話した時間は痛みも忘れて気分転換になった。以下のような内容の話をした。
彼女は今ベトナムで日本語教師をしているのだが、日本語教師向けの日本語の文法を検索できるアプリがこの世にないことを嘆いていた。一般的にネイティブである日本人は簡単に日本語を教えることができると考えられているかもしれないが、そんな甘いものでもないようなのだ。生徒から「黄色いもの」と「黄色のもの」の違いはなんだというような質問が毎日のようにくるらしい。また、「悲しみ」や「楽しみ」という表現はできるのに「嬉しみ」という表現はしないのかというようなものも。こんなのわかるわけない。それが日本語のルールだ!と言いたくなる。そんな生徒の質問に対して瞬時に答えたいというような気持ちがあるのだろう。紙媒体では日本語で書かれた日本語の文法書は存在するらしいが、いつも持ち歩くわけにもいかない。それで、アプリが欲しいと言っていた。そして俺の知り合いでアプリ開発している人間に対して提案してくれたらありがたいという。高専に在籍しているからアプリ開発をしている学生は一定いると思うが。
このような話から、生産性のない恋愛の話もした。

姉:「彼女できた?」
俺:「聞く?」
姉:「え!!できたの!!⁇」
俺:「いやいや、当たり前じゃん、彼女ができないから悩んでいるという話だよ」
姉:「なんだよ、全くその話には興味ないわ(笑)」
俺:「ですよね(笑)、はぁー」
姉:「私も適齢期だからヤバいんだよねー、まぁなんの適齢期かは言わないけど」
俺:「わかってるわ!」
姉:「でも日本帰ったらいい人と出会って、結婚する予定なんだけど」
俺:「予定じゃないだろ、願望な」
姉:「ですね」

大ざっぱに言ってこんなしょうもない会話を繰り返した。
足がじわじわ疲労から痛みに変わりかけてきていた。鈴の湯到着。


足は痛みを伴うものに変わっていたが、耐えることができる程度だ。鈴の湯で休憩したら回復すると甘い考えを持っていた。鈴の湯は24時まで。最後まで休んでそこから伊勢神宮に向けて出発しようと考え23時頃に風呂から上がりロビーで休憩していた。少し寝れたら最高だと思い横になったりもしたが、明るすぎるロビーで寝られるわけもなく、携帯の充電が溜まった23時半ごろに施設を出た。


鈴の湯から伊勢神宮まで26キロ。ここが勝負である。しかし、地獄をみることになる。
松坂の住宅街を縫うように進み幹線道路に出るルートがグーグルマップに表示された。それに沿って歩いていく。
最初休憩後の筋肉の硬直で歩くのが大変だったが、心拍数が上がっていくにつれて休む前の状態に戻っていった。歩いていると一応運動を繰り返していることになるので一定心拍数も上がるし、体温も上がってくる。湯冷めするというようなことは無かった。それよりも大量の汗を掻きながら歩くことになる。深夜の住宅街を歩き続けることに恐怖を感じていたからだ。
静まり返った松坂の由緒正しそうな住宅街を深夜一人で歩いているとなぜか誰かに通報されるのではないかという恐怖感に怯えた。一人だからなのか、深夜だからなのか、住宅街だからなのか。どの要素が自分に恐怖させているのかわからなかった。しかし、一刻も早くこの環境から出て、幹線道路沿いを歩きたいという焦りが際限なく高まっていった。街灯以外に光はない。街灯の光でできた自分の影に心臓が止まるほど驚いた。まさに村上春樹の『鏡』の世界と一緒だと、高専一年次の国語の教科書を思い出した。
住宅街の暗がりは足の痛みを忘れさせるほど恐ろしかった。しかし、幹線道路にでた途端、安心感と一緒にどっと痛みと疲労が押し寄せてきた。
鳥羽松坂線という大きい道路をこれから延々と歩くことになる。このころから両足ともに正常に機能しなくなり、特に左足の痛みは顕著であった。


現代の人間にこんな苦しい思いをして伊勢神宮を目指す者はいるだろうか。そう考えるといかに自分が素晴らしいことをしているかと思う。多くの人間は車や電車を使って足の痛み伴わずにお伊勢参りに行く。それでわけもわからず神様にお願いごとをして満足している。しかし、冷静に考えてみてそんな人間に神様がいちいち言うことを聞くと思えない。いや当たり前である。怠け者の願いなど叶えられても困る。こっちはこんなに苦労して歩いているのだ。これほどまでにお伊勢さんを想い苦行を続けたものなど現代にはいない。伊勢に辿り着けば神様は私を労い、褒めて、賞賛するだろう。当たり前だ。これほどまでに息を切らし、足を引きずり進んでいるのだから。要は、私は報われるべき存在であり、報われないと辻褄が合わないのだ。私の人生に報いをもたらす神が存在するのであれば、神は私を救わないといけない。そんなことを考えながら歩いていた。いや真面目に、バカ真面目に神は私を救うべきだと本気で考えていた。
しかし、今現在としては、鈴の湯のチケットの販売機のおつりの取り出し口に200円が残っていたくらいしか報われていない。足りない、いささか足りない。


鳥羽松坂線を南下している。車は少ないが時折くる大型トラックがものすごいスピードを出して風というか空気の塊を背中にぶつけてくる。歩道がないエリアも少しあるので危険である。ただでさえ足が痛くてふらついているのに。


明和町に入った。中日新聞と書かれた店の前を通り、早朝の作業を繰り返している3人を見た。久しぶりに人間活動を見た気がしてなんだか気持ちが落ち着く。
明和町のファミリーマートのイートインで休憩することにした。寒さと痛みと息切れで、少なくともどこかで休憩しないと前に進めないと判断した。
ファミマに入ったとき、店員の女性と客風の女性がレジの前で会話をしているところだった。どちらも中年女性。年上好きの自分としてもストライクゾーン外である。腹は減っていなかった。前に立ち寄ったローソンでチョコレートを買っていたのが残っているし、苦しさのせいか余計なものを入れたくなかった。彼らを横目にドリンクコーナーに行った。無論ホットである。冷たいものを飲む気には一切ならない。ほうじ茶を買いベンチに座った。


この頃から人という存在が恋しくなっている自分に気づく。どんな形であれ他者という存在が自分の目の前にあってほしいと願っていたし、あわよくば自分のやっていることを褒めてほしかった。無条件に肯定してほしかった。称揚されたかった。そのためにまずは苦しんでいる自分に話しかけてくれと例の店員と客に願っていた。そして多くの話しかけてこない人間がいかに冷酷で無情な存在かと思った。ドリンクコーナーに立っている自分を今冷静になって思い返してみると、必要以上に苦しく、怠そうに、そして深刻そうな顔をしていたことがわかる。もちろん、話しかけてほしいという願望からくるのである。他者との会話に飢え、賞賛されたい、その一心である。もちろん息は切れているし疲労もしているが顔まで苦しそうにする必要はない。そんなことはわかっている。承認欲求の塊である。自分のための歩行はいつしか他者のために悲壮感ある顔を見せびらかす行為に変わっていた。


イートインで1時間寝てから3時ごろに外に出た。固まりきった全身に冷たい風がぶつかる。前に進める気がしない。ポケットに入れた手を出すことすらできず、肌を露出しているのは顔面だけ。左足をひきずりながら、鳥羽松坂線の南下を再開し始めた。
残り14キロ。この14キロにいや鈴の湯からの26キロに勝負がかかっていることは自覚していた。しかし、とうに限界を超えた両足は無言で伊勢歩行を拒絶してくる。一応最寄り駅を調べてみた。明星駅。読み方がわからない。しかも最寄りが2.6キロ先。2.6キロが鬼のように遠く感じた時点で心はもう決まっていた。この挑戦は終了である。住宅街を這うように進み早朝の駅舎に着いたとき、4時40分くらいだった。5時6分鳥羽行きは一人だった。懐かしの鳥羽駅のベンチで9時まで寝た。

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