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【015】「小さな科学」2023年5月の日記➀

今日は珍しく早くに目が覚めたので、朝食を取り、散歩をしたのちに悠々と紅茶を飲みながらこの文章を書いている。
そろそろ切り上げて外出することにしよう。大変良い天気である。


帰ってきた。5月の日記なのに6月の話をするな。

これは5月の鳥

上の画像を貼ってから気づいたけど、5月は鳥に出会う場面が多かった。

明らかに鳥が寄ってきていた。特にこちらは呼んでいないのに。おそらく意味などない。そこに意味を見出すのはあなたです。好きな方を選んでください。

どちらでもどうぞ


ゴールデンウィークに広島へ帰省した際に「広島市こども文化科学館」へ足を運んだ。子どもの頃、両親によく連れてきてもらっていた。少し前に脳内にイメージキャラクターの「ピョン太」の姿が去来して、その時からずっと気にはなっていた。市内に用があったついでに寄らせてもらった。

子ども文化科学館「驚き・感動・新発見」

結論から言うと、施設は思い出よりもずっと小さかった。
かつては背伸びしながら覗き込んだガラスケースも、無限に見えた空中迷路も、すべてが手狭で小さく、等しく眼下に収まっていた。

施設も古びていて、記憶の中の光景から進歩している様子はなかった。個人的な想いを吐露するならば「こんなもんだっけ」だった。しかし、もちろんそれは僕が大人になってしまったからであって、この施設が真に目を向けているのは、言うまでもなく、ガラスケースを背伸びして覗き込む小さな子どもたちだ。

5-Daysこども文化科学館(広島市こども文化科学館)は、昭和55年(1980年)5月1日に開館した広島市立の博物館施設です。参加体験型の常設展示とプラネタリウムを中心に、様々な展示やイベント、講座・教室、一年を通して参加するクラブ活動などを開催しています。

5-Days こども文化科学館「こども文化科学館について」よりhttps://www.pyonta.city.hiroshima.jp/about/

こういう施設が身近にあってくれて良かったと今になって思う。
僕はいまSF小説とガジェットが好きだけど、そうした嗜好の下敷きにはこの施設での経験が生きているような気がする。いわゆる「科学」という概念が深層心理の中で自然と育まれていたのだろう。

僕は大学では文系を専攻したけれど、理系の科目で困ったことは一度もなかった(そもそも理系に行けと強く勧められていた)。勉強において好き嫌いは重要である。理系科目は比較的好きだった。それもこの科学館のお陰だったのだと思う。

小さいころに親から与えられたものって、長い時間を掛けて遠い未来で発芽することが多いと思う。いまではすっかり身に付いた読書習慣も、子どものころに多くの絵本や「指輪物語」の原作を手に持たされていたことが、底を支えているような気がする。小学生に指輪物語を読ませるのは今でもどうかと思うけれど。おかげで高校卒業時に伊藤計劃の「虐殺器官」を読むまで、僕は生粋の活字嫌いになった。

しかし今ふいに思い出したぞ。小学5~6年生のころの読書感想文に「指輪物語」(真ん中くらいの巻)の感想を書いたのだけど、それが参観日の日に壁に貼り出されていた。それを観た友人の親が「ちゃんと読めてて凄いね」みたいなことを言ってくれたらしい。あれは凄く嬉しかったな。

作品の感想を人前でプレゼンするのは得意な方だと思う。その自信もあの頃の原体験が支えてくれている。

あの日貰った小さな賞賛や、小さな成功がいまを支えてくれている。
あの日確かに輝いて見えた「小さな科学」が「いまの科学」へのまなざしをくれている。しかし施設が古びていることは事実である。基礎科学の驚きも大事時だけど、現代科学の現状も伝える施設であって欲しいなと思う。あの施設にインターネットに関する展示があれば、いまの僕はもっと深くこの世界に潜り込めていたはずだ。

広島は現在、再開発が進んでいるので、この施設もリニューアルされることを期待している。いずれ現在の小さな子どもたちが、将来の大きな科学の種を受け取れる場所になるために。

と、まとめつつも、僕は両親からもっと多くのものを与えられてきたはずである。その中から科学と小説を汲み取ったのは他ならぬ僕自身である。受け取ったものをどう生かすかは結局は自分自身だ。

つまるところ、「どちらでもどうぞ」である。
汲み取ったものを抱えて生きるのも、捨てて身軽になるのも、自分自身の嗜好と選択による。

つまり、伏線回収ってこと。


(おわり)

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