「自分の考え」がない人たち


SYNTプログラマーの井上です。


自分の考えがない人や「自分」を持てと指摘される人たちがいます。

yahoo地袋などのような相談サイトなどを見ていると、「自分の考えがない」ことで悩む人たちも多いようですね。
”自分探し”という言葉が見かけるぐらいには自分を見失っている人が多いようです。


しかし、本当に「自分」がないなんてことあるのでしょうか?


「自分がない」とは?

①欲望が薄い
自分がしたいこと、自分の欲しいものなどがパッと思い浮かばない。
欲望が薄い傾向があります。
小学生の弟に誕生日に欲しいものを聞いたときに、特にないと言われたときは衝撃でしたが、最近の小学生はこんなものなのでしょうか・・・


ただ、本当に欲望がないなんてことはないので、潜在意識の中に眠りすぎて、思い浮かばない状態になっているのでしょう。


②他人に流されやすい
他人の意見に同調しがちで、自分の考えがないと言われがちです。自分の考えがないために他人に同調するというよりは、自分に自信がなかったり、他人の目を意識しすぎることによるものが多いように感じます。

ヤフー知恵袋で見かけた相談です。


自分の考えがないというより自分の考えに自信がないに近いですね。

他人に同調して変わった瞬間に「自分の考え」は亡くなってしまうと錯覚しがちですが、本当に「考え」がないわけではありません。



自分の考えがないと悩む人たちは多分、どんな問題にも正解があると無意識で考えているのかもしれません。


だから「間違っている」(ように見える)答えは無いものになってしまう。


自分で考えるということ

この自分の考えがないという悩みに対する解決策は「自分の考えをもつ」ことではなく、「自分で考える」ことだと思います。


「自分の考えがある」ということと「自分で考える」ということは別です。


そもそも自分の考えをもつことに拘ったらオンリーワンに執着してしまうことになります。
よっぽどの天才は除き、この世の中で自分にしかできないこと、オンリーワンの意見なんてほとんどありません。


自分の考えなんてほとんどは誰かがどこかで考えていることです。


自分の考えや意見という結論より、自分で考えるという行為・プロセスが大事なのではと思います。
仮に考えた結果、他人と同じ意見だったとしても、そのプロセスは決して無駄にはなりません。


「車輪の再発明」という言葉があり、忌避されるべきことと一般的に言われますが、再発明したプロセスは必ずその人の血肉になります。

本で車輪を知っているだけの人と再発明した人とは知識の質はレベルが違うでしょう。車輪に対する理解度は段違いです。

合理性という観点で見たら無駄な作業に見えますし、もしかしたら再発明した車輪は完璧なものではないかもしれません。


車輪の再発明を忌避して、「完璧な車輪」を求めるあまり、コピペ地獄に陥ってしまう人がプログラマー業界には少なからずいます。
少なくともプログミングの世界では理解度を深めるという点で車輪の再発明は非常に有効です。


自分で考えて四苦八苦して作ったもののほうが自分のものになります。


プログラミングに限らず、結局自分で考えたことしか自分の知識にはならないと実感します。

自分の考えをもつことにこだわるよりも自分で考えることにこだわるほうが大事ではないでしょうか?


相談サイトを巡回しながら、そんなことをぼやーっと考えていたら、少し前に購入してまだ読んでいなかった養老孟司さんの『自分の壁』という本が出てきたので、ついつい読んでしまいまいました。

また読み終えたらレビューとか書こうと思います。


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