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「面白い」駄文を試みる:8

●エレメンツ オブ「楽しいこと」

 ほぼ同年代の従姉妹がふたり、展覧会に来てくれたって話のつづき。
 3人で話をするなんて、ずいぶんひさしぶりのことだったけれども、それはなかなか楽しいことであるのがわかりました。

 なんで楽しいのかな?と考えてみました。 あたしが親戚内はみ出し変人の役割を素直に引き受けているってことが一つ。だから気楽に笑いの種になっていられます。

 もうひとつ、彼女たちは一見して身ぎれい、つまり女性として魅力があるってことも重要かも、と思い至りました。50を越えてもちゃんとそれぞれ似合うおしゃれをしていて、手を抜いていない。

 なんというか、きなこがまぶされていておいしそうなお菓子みたいな感じ。きなこの量も、若いときみたいにまぶし過ぎでこぼれちゃっているのとは違って、適当にはたき落とされて程がいいわけです。
 片方はきなこと言うよりビターココアみたいな、あまり甘くない感じかも。でもどっちもおいしそう。 

 こういうのは見ていて楽しいじゃありませんか。だいたい同世代の女性が、きなこなんかとうに風に吹き飛んで、お餅が露出してひび割れたみたいになっているのを見てしまうと、とてもテンションが下がるものです。

 あー、人の振り見て我が振り直さねばな、と思いながらも、我が振りは見えにくいものですから、自分ももしやきなこ度低め?もしかしてまるっきり仲間に見えてしまってるのでは?などと余計な不安を感じるわけです。

 大きな声では言えませんが、PTAとかに行きますとね、いろいろいるけど、きなこついていない人もやっぱりいる。もちろん彼女たちも式典の時とかはばっちり決めてきて、なんか3倍ぐらい美人なんですけどもね。ふだんからつけといてくれないかなあ。すこしでいいから。きらっと。

 で。我が従姉妹たちですが。彼女たちは、まだまだ男の人が居住まいを正すであろうようなレディーな感じです。それがとりあえず心地いいです。あたしは。

 彼女たちはふたりとも子供を持っていません。ふだん使いの(?)きなこの量にはそれも関係しているかもしれません。

 
 あたしも出産直後には「かわいさの出がらし」と夫に呼ばれておりましたからね。赤ちゃんに全部かわいさ吸い取られている感じが出ている秀逸な表現ですが、ちょっと殴ってやりたくなりますわね。

  その出がらし経験を、たとえば3人分も4人分もやっている女性もいるわけですから、PTAのきなこ事情は厳しいです。そうです厳しいのです。厳しいのはわかっているんですけどもね。これね、わかんないやつはわかんないんで言っておきます。厳しいんですよ!!!

●「面白く」自慢するのは難しい


 DNAというものもあります。あたしの親戚は父方も母方も、みんな女が化け物並みに若く見えます。子供産んでも何しても、60過ぎても、みんなして道でナンパされています。

 別に美人がそろっている訳じゃないです。単に若く見えるのです。年齢を白状すると、周りの人が驚いてのけぞる、という経験を、女どもはみんなしたことがあるのです。

 それがわかったのは法事の席でした。もうずいぶん昔のことです。その時、あっちでもこっちでも、若く見られた自慢というのをしていまして、若く見られるのは化け物一族の中では平凡なことだというのがわかりました。

 それであたしはうんざりして、こんなこと自慢してたら頭も若く(要するにアホに)見えるわい、と思い、それ以降どこででも、年齢の話をするのをやめたのです。年齢を告げた時に相手が驚いてのけぞるのを見る、アホな楽しみを手放しました。 


 どうせDNAのことなら、自分の手柄じゃなかろう、くだらねー、と、そのとき30代だった(←十分実際若いだろうがお前はよお)あたしは思ったのです。だけどそれから20年も経ってみると、いや、化け物DNAっていいもんだな、と思うわけですよ。(←勝手)

 実のところあたしは大病して以来10年分ぐらいどどおっと見かけが老け込んだ自覚があるんですけど、今後もう少し磨いたり体重減らしたりきなこの補充をしたりして、化け物の仲間に復帰したいものだと思います。

 何年かかるかわかんないけど、件の法事では「いくつに見えるー?おばちゃんもう80なのよー」と自慢してた伯母などいましたから、もう遅いってことはなかろうかと思います。彼女たちを見てるとそう思えるのよ。

 さて、ここには面白いことと面白くないことが両方書かれています。面白くないことには「自慢」という名前がつきます。
 自慢というのは、なるほどすごいってなことを本人があまり自覚しないでしている時には、大層人を不愉快にする機能があります。それが気持よく出来ている人は結構少ない。つまりハードル高いネタだな、とあたしは思っております。

 逆のこと、自分をどーんと落として笑いのめす方は、人を不愉快にすることはあまりありません。だけど、こっちも、面白く読んでもらうにはなかなかの技術が要ります。ことに自己憐憫(別名自虐ネタ)は、自慢のバリエーションでしかないことがとってもとっても多いと思うのですよ。それを自覚していないと、あーそー、それがどうした、みたいな事になります。

 はっきり言って自慢するほどのことかよお、それにそれって勘違いなんじゃねーの、というネタ(「若く見える」なんてのはその類です)の場合、どうでもいいことですから、読む方に毒が回ることは少ないです。ささやかな自慢は、時々ならまあ食えます。(こんなの食えねえよ、という場合はどうか指摘反論してくださいまし。あたしも勉強が足りないところがありますんで)

 だけど、これですら、食えなくなっちゃう要素、つまり笑ってもらおうとしてスベる、逆に読む人を不愉快にしちゃう落とし穴はけっこうあるな、と書いてみて思うのです。

 あたしは例えば、きなこがたりなくなってひび割れている人達に関して、上から眺めて(?)優越感を舐めているような書き方(つまり自慢の根拠が持たざるひとたちの存在にささえられているような場合)や、そういう感性は好みではありません。だけど、それをあえてがんがんやっちゃうことで「あはははは。こいつバカでえ」と笑ってもらえる効果もなくはないことを知っております。
 ゲスな感性でも、それをかわりに表出してくれることで、読み手が開放される(安心する)ことがあるのです。残念ながらいうかなんというか。

 色んな書き方ができます。自慢の話は、自慢というものが持っているリスクそのものはらんでいて、とてもスリリングなネタだと思うんだよね。

おわり


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おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。