母のこと。

私の両親は、私の結婚と同時に、生まれ育った京都の家を離れて山口県に引っ越ししてきた。
今からもう8年くらい前になるけれど、ある日、倉庫の大掃除をしていた両親の荷物の中に、一枚の写真が収められた額があった。
それは、私が高校卒業まで住んでいた当時の京都の実家に飾られていたもので、私はその存在なんかすっかり忘れていた。

まだお座りができるかできないかくらいの私と、満面の笑顔の母。

衝撃だった。
こんな笑顔の母は、私の記憶にはなかった。
反抗期に入った小学高学年以降、年齢を増すごとに母のことが嫌いになり、それは45歳まで続いた。
過去に大きめな病気で何度か入院しているが、お見舞いに行ったのは手術の翌日くらいで、ほかは多分、一度も行った記憶がない。
それほどに折り合いがつけられずいた私の記憶にあるの母は、折り合いのつかない私に対していつも悲しそうな顔をしている母。
いつもネガティブなことばかり言う、不幸そうな母。
私の記憶の中には全力で笑う母の姿はない。

そんな母が先日、74歳になった。(過去記事:『母、74歳になる。』

高校3年のときの、私の誕生日。
「きっと家でお祝いできるのは最後になる」と言って、反抗期真っ只中だった私に、手作りケーキを作った母。
私が小学生になる頃に料理教室に通い始め、ちょうちょの形をしたケーキをつくることを覚えた母が、当時の私の誕生日に作ってくれたものを再現してくれたものだった。
そして母は「食べたいものある?」と聞いて来た。
正直、母の料理の味付けがあまり好きでなかった私は「カレー」と答えた。
「カレーでいいん?」と聞き返す母。
今でこそ私は「望みは1日3カレー」というほどカレーが好きな私だけれど、当時からカレーが好きだったわけじゃない。
むしろ、母のカレーはおいしいとは思わなかった(ごめん)。
だけど、ほかの料理もおいしいと思わなかったし(ごめん)、無難に食べられるのがカレーだっただけだ。

反抗期真っ只中の私は、広島に進学を決め、さっさと電車に乗って広島に向かおうとした。車で駅まで送ってくれた母は「寂しくなる」と言って泣いた。バカバカしかった。

母は、一人暮らしでダイエットに励む私に、大きな大きな段ボール人箱一杯の食糧を再々送ってきた。迷惑だった。

若くで結婚した私に、頼んでもないのに毎月〇万円のお金を私にくれた。
私は家計の足しにするワケもなく、当時の旦那に内緒で自分の欲しいものを買った。頼んでもないのにくれるお金はどう使おうが私の勝手だし。

頼んでもないのにせっせと子供たちにご飯を作り、頼んでもないのに子供たちをどこかに連れて行っては疲れ果てている。
だったらやってくれなくていいし。

頼んでもないのに一方的に私にあれこれやって、「こんなにやっているのにあなたは喜ばない」と言って泣く。だったらやるなよ、頼んでねーし。

頼んでもないのに心配する。いや、心配されるようなことしてねーし。
てか自分の心配した方がいいよ?

面倒だった。
私は本当に頼んでいない。「あなたのためだと思ってやったのに」と言われても、そんなことは知らない。
だったらやらなくていてくれる方がよっぽど親切だ。

・・・と思ってきた。

だけど、中学卒業と同時に社会に出て、母は働いた。
そこで、もっともっと年上の人達に混じってそろばんを習い、誰よりも練習して1級を取ったと聞いている。
いつだったか、「自分であれこれやるのは苦手やけど、与えられた仕事は必ずきっちりやり切る」と言い切った母を覚えている。
その延長線上に、私が迷惑だと思ってきたあれこれがあったんだね、きっと。

それは、まぎれもなく、母なりの、不器用ながらに私への精一杯の愛情だったのだと、今は理解できる。

今、3月11日金曜日、午前3時10分。
正確に言うと昨夜3月10日木曜日、21時ごろに父から連絡があって、今まで無症状だった母の容体がおかしいとのこと。
ずっと続けてきたウォーキングで息が切れ、病院へ行ったら、肺と腹部に水が溜まっていると。
食欲がなく、食べたとして苦い味がすると。
今日、あらためて病院に連れて行くと、父が。

今日の朝、母は目覚めるんだろうか。
目覚めたとして、あと何日生きるのかな。

だとしたら、私は、あの写真の中にいる母の笑顔を奪ったまま、取り戻せないことになる。
どうすればいいんだろう。











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