違和感を見つめる

7時前に目が覚めた。

緊急事態宣言が発令されてから6日目。明日で1週間だ。

仕事も、緊急事態宣言以降在宅勤務を命じられている。そのため、この6日間は食料の買い出しにスーパーに行ったことくらいでしか、外出していない。

コロナウィルス関係のニュースは、SNSを通して逐一入ってくる。「批判的になったりイライラしてるのはコロナによるストレスが影響だ」なんてつぶやきがいたるところで目に入る。本当にそうだろうか。

違和感がある。その違和感をスルーして、平和に生きる。批判的にならず、誰も傷つけず、そしていつかその違和感は忘れられていく。

要するに、スルーして平和に行こうぜ、という提案である。

自分は、そういう考えに、違和感がある。そしてスルーはしたくない。いや、できない。

違和感を見つめること。それは違和感を感じた自分を見つめることだ。違和感を感じないのであれば、別に考える必要はないだろう。しかし、実際に今、違和感を感じてしまっている。

その「気づき」とでもいえる何かを、「こだわり」を、スルーしてしまうということは、端的に自分をスルーしてしまうということだ。流される。

流されるということ、これについて自分は昔から何かと抵抗してしまう。大勢が流されているという状況に違和感を覚える。なぜだろう。そこに、自分が存在しなくなるように感じるからか。間主観性に突き動かされている。そこに、ある種の恐れを抱く。ところで芸術はそのような何かでもある。だから、自分は芸術的な何かに関心があるのかもしれない。

話が逸れた。何の話だっけ。そう、違和感をスルーしてしまうのはどうかという話だ。

まぁそんな理由で、平和を謳ってあらゆることをスルーしようとする「大人な態度」こそ、自分はスルーしていく。それは、決して大人ではない。考えることを放棄し、自分を放棄し、周りに流される。それは何も起こらないから平和なのではなく、怠惰だから何も起こらないだけだ。変化がないことは、平和なのだろうか。

窓の外から、大音量で「緊急事態宣言が発令されています。不要不急の外出は控えてください」というアナウンスが聴こえてくる。少しシュールに感じている自分がいる。窓一枚、壁一つが間に挟まれただけで、こんなにも社会と自分とのリアリティが薄れる。その窓一枚、壁一つが自分を守ってくれているのでもあるのだが。



おそれいります、がんばります。