脱タムパ的思考論ー「言語化がスゲぇ」が実は全く凄くない理由。
今はタムパ(タイムパフォーマンス)の時代と言われて久しい。特に若い世代(Z世代)を中心に「消費コンテンツの短尺化」という視点から全方位的な行動心理へ拡張されている。つまり、コンテンツを起点にあらゆる物事に人類が向き合う「態度」がせっかちになっているのである。これはいわゆる若者だけには留まらない生活・思考トレンド的な様相を呈している。このトリガーとなっているの言うまでもなくネット、スマホ、ショート動画の流れにある。
何はともあれ、信号待ちやエスカレーターでも手元のスマホでコンテンツを消費できる現代人が、より短い時間で完結する消費行動に収斂されていくのは行動心理学的にも自明であり、背景では広告収益に駆動されたTikTokやMetaなどのプラットフォーマーが単位時間で多くの広告インプレッションを稼ぐというビジネス構造が横たわっている。
そんな時代の最先端にいる今、インターネットとSNSは多くの「言語」を生み出し続けてきたが、最近特に耳にする言葉に「言語化」というものがある。これは多くの場合ポジティブなコンテキストで
「この言語化は素晴らしい」
といった様式で用いられる。かくいう私もこのようにnoteを書いたり本を出版したりする背景もあって「言語化能力」という観点で称賛の声を頂くことが少なくない。これ自体は大変有り難いのだが、同時に心の奥底で「違和感」を感じざるをえなかった。少なからず、私は「言語化」という観点で何か人より遥かに秀でた特殊能力を持っているとは到底思えない。
そこで、この年末年始にそんな違和感とじっくり向き合って思考してみた。その結果の一端を本noteで「言語化」することによって、先の違和感の核心とタムパ思考に洗脳されつつある現代の課題に対して考察してみようではないか。
テクノロジーによる弱体化と言う逆説
結論から先に言ってしまうと、タムパに翻弄されている現代人や思わず
「言語化がスゲぇ」
と言ってしまっている人は、単に「思考力」が劇的に低下してしまっているではないだろうか。「思考」の「力」と表現したが、正確には「思考」に対する「態度」が弱っていると言っていい。
あらゆる物事にインスタントに触れ、大して考えもせずに「分かった」つもりになる。スマホで消費するコンテンツ自体がインスタント主流であり、隙間時間でタイパを求める行動心理が促進される。ゆえに「分からない」や「知りたい」に対してじっくりと向き合うような知的態度は現代の行動様式に則ると徹底的に排除される構造にある。先ずはこのような環境を作り上げてしまっている構造的要因をそれぞれ詳しく深掘ってみたい。
消費コンテンツ短尺化の功罪
先に現代人はコンテンツの消費態度がせっかちになっていると指摘した。背景にはインターネット×スマートフォンとコンテンツの短尺化による合わせ技一本がある。現代(少なからず私が見る都会の光景)では多くの人は信号待ちやエスカレーター・エレベーター移動の数秒〜数十秒でもスマホを開くことを禁じ得ない。むしろ移動しながら小さいスクリーンに没入する「歩きスマホ」なる人種も生み出してしまうに至る。
何を見ているかと言えば多くの人がLINE等のチャットでコミュニケーションをとっているか、インスタやYouTube・TikTokのショートコンテンツに没入している。後者のショートコンテンツにはエンタメ的なそれがマジョリティだが、同時にハウツーや一見すると知的な学びのコンテンツも大量生成と消費のサイクルが拡大し続けている。特に学びを得るようなコンテンツがこの「スマホ隙間時間消費」に入ってくると、多くの人はそこから得た「隙間時間で分かった(気になる)」という成功体験がその「ショート学習ループ」を無意識のうちに強化していく。こうやって、ひとつの物事に対して「じっくり考える」という「知的態度」が削られ続けている。そして、そんな知的態度を維持するには、現代のスマホ脳はあまりに雑音が多すぎるのだ。小さな画面から波状攻撃的に発信され続ける情報は脳を徹底受動モードに制限し、脳をクリエイティブ能動モードにシフトチェンジする隙間を与えない。
電子書籍 vs 紙の本
私は脳科学の専門家ではないが、この"スマホ脳"がパラレルに働く思考の潜在意識を日々無駄にライン拡張させ、一つの物事にじっくり向き合うことを難しくしていることは、自らの体験を通じて容易に想像できる。あきらかにここ10年で私の脳には雑音が増え、集中しづらい環境下に置かれている。それゆえか(もしくは歳のせいなのか…)電子書籍では本をじっくり読めなくなった。スマホのkindleで読むなんて言語道断である。今は特別な理由がなければ紙の本一択で、毎日1冊は何かしらカバンの中に忍ばせている。
直感的に思うのは電子書籍は限りなくスマートフォンの延長に近い。その延長線は、紙の本へは続いていない。この理由・論拠はどこにあるのだろうか。私はそれは「身体性」にあると思っている。電子書籍を動作させる所作は基本「スワイプ」である。これは脳と身体の認知的にはスマートフォンを動作している時に酷似している。そして、スマートフォンを操るという態度は、常にバックグラウンドで多くのプロセスが走っている。実態のスマートフォンと同じように、目の前でインスタを見ていても脳のバックグラウンドではLINEやYouTubeやTikTokなど他のプロセスが走っているのだ。よほどのことをしてこのプロセスを切らない限り、今の私たちの脳は慣れてしまった脳の並列処理を一本化することができない。これは器用な人間の身体が新しい環境に適応しようとした順応の結果であり、進化の過程と考えても良いだ。ただし、それは長い時間軸で見た時に必ずしもポジティブであると言えるものばかりではない。
一方で、紙の本をじっくりめくって読む体験はスマホの延長線上にはない。一つの骨太なトピックを自らの手でページをめくっていく作業という身体性が、脳のバックグラウンドで走る多くのプロセス並列処理を許さないように思える。スマホで操るSNSが短いトピックの波から波へ移動するようなサーフィンであるならば、特定のトピックに身体性を持って向き合う読書態度は山籠りに近いのだろう。どちらもそれぞれのダイナミズムがあり良さがあるが、少なからずサーフィン的な環境はじっくり思考と向き合うには身体のあらゆる器官が忙しすぎる。本来の読書は純然たるインプットだけでなく、インプットをトリガーとした「深い思考」を伴って完結する大変知的な行為なのだから。
進撃の生成AI
2023年、テックシーンを席巻したのは言うまでもない「生成AI」だった。ここで多くを語る必要はないが、分からないことがあったらとりあえずAIに投げて安易に解を得る(分かったつもりになる)プロセス自体に、私たち人類の「知的体力」の弱体化を垣間見ている。現時点で生成AIを使いこなす人たちはまだまだ限定的であるが、テック業界総動員のクリエイティブな努力によって、人類のマジョリティがこの種の新しい技術の恩恵に日々預かる日が来るのは時間の問題である。
この「知的体力」こそ本論で繰り返し強調したい最も重要な視座となる。何かを調べる時に生成AIを使うことが悪だと言うつもりはない。私が問題だと思うのは「分からない -> AIに投げる -> 分かった(つもりになる)」というプロセスが何度も繰り返すことによって自己強化され、これがつまるところ「学習」であると身体が勘違いしてしまうことにある。
何千回、何年も繰り返された習慣を手放すのが難しように、一度この手の怠惰的なプロセスに染まってしまうとここから離れるのは容易ではない。そもそも人間は怠惰な動物である。自らを律し、理性的に正しいと思うことを貫くには相当なモチベーションや制約を必要とする。そして、テクノロジーの進化は人間を「怠惰」な方向へと誘う。スマートフォンに生成AIに自動運転…。テック企業家は「日常のペインをテクノロジーで解決する」という正義に駆動され、資本家も多くのリターンを求めてここに資金を大量注入し続ける。世界が資本主義というOS上で動く以上、この構造は基本的には変えられない。人類は「便利」を手にする一方で、あらゆる「身体的な怠惰」をテクノロジーから押し付けられることになる。
ややネガティブに書いたが、普通はこれが「人類の進歩や進化」という形でポジティブなコンテキストの上に成り立つ。私はおおいにポジティブに捉える一方で、大変ネガティブにも見ている。むしろその両義性、バランス感覚こそ大事だと思っている。生成AIは私たちの生産性を飛躍的に向上する。その結果、多くの仕事を奪い失業者が大量発生する。そこで賢明な社会システムのアップデートにより失業者のケアが行われ、人類は大量に浮いた時間を多くの知的活動にあてることができる。しかし、実際には怠惰な人類はその時間を不毛なコンテンツ消費にしか使わなくなり…。といったネガとポジの繰り返しや揺り戻しこそが、現実世界の複雑性の一旦を表している。
知的退化を強化する現代テクノロジー
「テクノロジーの進化」を否定するつもりはないし、むしろ私もテック業界のど真ん中で働いている。例えば先ほど触れた「紙の本」が実現しているのは活版印刷の発明というテクノロジーの進化が起点になっていた。ただし、活版印刷がもたらしたのは「知的体力」の強化だったように思える。一方で、本論で展開している多くの現代テクノロジー病は「知的体力」を弱体化させる方向に向かっている気がしてならない。ハサミ一つが便利な道具になる一方で凶器にもなるように、道具やテクノロジーの本質は「使い手の倫理」に委ねられている。
今という時代、特に(日本の)テック業界の人々はこの「使い手の倫理」に対してあまりに無頓着で、あまりに楽観的すぎると私の目には映る。近代日本社会は謙虚さと勤勉さを土台にした実技に強かった一方で、西洋的な独自の思想・イデオロギーを駆動力としたアプローチに弱い。数百年続いた封建社会において最上位に位置した武士における道徳感は陽明学(儒教)の影響を色濃く受けており、思考よりも実行が重んじられた。つまりHowは得意だが、Whyに欠けるのだ。世界史的に透けて見えるこの構造を、現代日本は引きずっているように思える。
生成AIに端を発するAIの躍進や止まらない。シンギュラリティも現実味を帯びてきて、恐らくAIが人間を超えるのは時間の問題のように思える。ただし、それは単に技術の「実現可能性」の話で、その種のテクノロジーに対してこの先人類がどう向き合うのか、どのような挙動を示すかは別問題なのだろう。私は、大変傲慢で自己中心的な動物の「人間」が、自らの能力を大きく超えるような何かを、自らが生み出すことに人類は結局は「耐えられない」のではないかと思う。
人は自然に勝てない。ウィルスの猛威にも勝てない。論点として重要なのは勝ち負けではなく「共存」なのであり、人が理性を持って「共同体」をどこまで拡張できるかに依存するのだが、悲しいかな傲慢な人類は自然もウィルスも、そしてテクノロジーでさえも自らの手で「打ち克つ」ことができるものと考えてしまう。これが自明なのは、限界を迎えつつある地球環境や、コロナウィルスでのパニックを経験した私たちなら腹で理解できるのではないだろうか。ただ、多くの人がそのようには振る舞わない。スマホで思考が埋まってしまうから、そんな複雑な問題に向き合う知的体力もない。極端に現代を切り取ってしまうと、こういった側面は存在すること自体は否定するのが難しい。
言語化という闇
ようやく冒頭の問題提議をそろそろ回収したい。昨今見られる「言語化」という「言語」は、明らかに私たち人類の「知的体力」が低下しつつある兆候なのではないか。これをもうすこし詳しく噛み砕く。
人は頭で分からないこと、何か五感で本能的にひっかかるものに出会うとまず「観察」する。その後もしくは同時に「思考」を開始しはじめ、思考から観察へフィードバックループが生理現象の如く通じている。このインターナルなプロセスが「発話」や「筆記」を通じて第三者が見える形で「言語化」される。図示するとこのような構造を持つと考えられる。
つまり、第三者が理解できるような形で「発話」「筆記」される前に、当然として「観察」と「思考」の終わりないプロセスがある。「観察」と「思考」は直列かつ一方通行なものでは決してなく、ループを繰り返す。この終わりない「観察」と「思考」のループをあらためて「知的体力」と呼びたい。
ちなみに「知的体力」とは何かを、怠惰にChatGPTに聞いてみるとこのような答えが返ってきた。
あえてこの回答から一文をハイライトする。
「複雑な問題解決、学習、記憶、注意力、創造性などの認知プロセスに対する耐久力や柔軟性」
これがいかに人類にとっていかに重要なポテンシャルであるか、容易に想像がつく。そう、知的体力とは人類のポテンシャルなのだ。残念ながら人類は怠惰な動物であり、歴史を紐解くと何度も悲劇を繰り返し、学習しきれないその有様に絶望を抱くことも少なくない。一方で、そんな"不完全さ"を引きづりながら、もがきながらも歴史を紡いできた先人・人類に可能性を感じざるをえない。だからこそ「知的体力」が大事だとわざわざ回りくどく考察している。そして、私は「知的体力」に対する希望の光を、幾度も「問い」の力によって目撃してきた。
人類を駆動させる「問う」力。
最新のリーダーシップ論において「問い」の重要さを否定するのはあまりに難しい。私の20年近いビジネスキャリアの後半は「問い」による気づきと進化の歴史だったように思える。それは単に己に問う態度ではなく、チーム内における双方向的な「問い」の再考であり、リーダーシップにおける「問い」の権威付けだった。
昨年惜しまれながら亡くなった心理学者のエドガー・H・シャインは、ビジネスフィールドに多くの学びを提供してくれた。中でも2014年に発刊された「問いかける技術」はリーダーシップのあり方を「旧態剛腕的」なものから「新生包含的」なものへパラダイムシフトする契機になったのではないかと考える。
ちなみにグーグルがプロジェクトアリストテレスで優れたチームにおける重要な要素を科学的に証明したとして「心理的安全性」を挙げたのが2012年の出来事だった。強いリーダーではなく、むしろ弱いリーダーが「問う」能力を梃子にリーダーシップ論の存在感を急速に強めはじめたのかだいたいこれぐらいの時期で、最新のリーダーシップ論では「心理的安全性」が不動の地位を確立するに至る。
剛腕が必要な極端な有事を除き、VUCA(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)な時代に人々が求めたのは実質的にも理論的にも「問い」によってより良い解をチーム全体から引き出すリーダーシップだった。
「問い」は強力であり、「問い」はそもそも力である。
特にいわゆる1on1の状態において「問い」は対峙する相手の意識を即座に一点のみに集中させることができる。スマホ脳のような浮ついた状態や複数の並列プロセスを一気に強制終了する力を持つ。優れた問いは相手の「内省プロセス」の強烈なトリガーとなり、人間が持つ思考力の可能性を一気に引き上げる。
ゆえにリーダーは「問う」能力が重要であり、1on1は最良の実践フィールドとなる。「問う力」こそが怠惰な人類の「知的体力」を半永久的に高位に維持させる基礎体力だと思う。優れたリーダーは、優れた「問い」によってチームのポテンシャルを最大限に引き出し、結果を出す。
コーチングが流行る理由
以上の時代背景を理解できると、昨今ビジネスフィールドで「コーチング」が流行っているのも理解がいく。コーチングは相互の信頼関係を土台に「問い」によって相手を導いていく。あらゆる問いの"テクニック"を駆使して、相手の脳を内省的なフル回転に導く。
多くのビジネスパーソンがそういった第三者による「問い」を求めるのは、単独で思考を深めることが難しい現代の課題を浮き彫りにしているのではないだろうか。知的体力の低下を、第三者的な介在で補っていくのが端的に言うとコーチングが流行る理由に思える。自らの規律や習慣によってではなく、ライザップやパーソナルトレーナーに頼るような"拘束具"によって、かろうじて怠惰な自分を律するような身的トレーニングプロセスと同様な構造が「知的体力」領域においても現出している。
その結果、多くのビジネスパーソンが得られた「気づき」の蓄積に価値を感じているのはもちろん、それは同時に「問い」の重要さを物語っている。そして、得られる果実は決して「気付き」のストックだけではなく、「知的体力」も同時に養われる。このように、知的体力を維持するためには個人の意識だけに依存すのでは現実的にもはや頼りない。身体的体力と同様に、第三者の介在を通じてかろうじて維持される知的体力。そんな現代の知的体力維持に欠かせないもう一つ重要な"コインの裏"に最後に触れておこう。
身体的体力と知的体力
先程のChatGPTの「知的体力」の解説に、無視できない重要な指摘があった。
「知的体力を高めるためには、適切な休息、栄養、運動、そして知的活動の多様性が重要です。」
そう、心身の健康である。心身が不健康な状態では、ものごとをじっくり考えることが大変難しいことは容易に想像がつく。二日酔い、39度の高熱、過度なストレスや怒り…こういった身体的環境下では、人間の脳は驚くほど低性能にとどまる。先ほど触れた「身体的体力」と「知的体力」はここでも明示的にリンクしているのである。
また「脳」の活性化という視点でも「運動」が最も効果的であるという科学的な論拠をまとめた「運動脳」が昨年スマッシュヒットした。
個々のエビデンスだけでも十分示唆に富むが、本論通じた認知の土台として特に重要だと思った事実に「24時間人類史」がある。
人類の誕生から「脳」自体はほとんど変わっていない。その全体で人類史を24時間で表現すると、私たちがインターネットの恩恵を受け始めたのはラスト1秒の出来事となる。一方で狩猟生活は23時間40分にも及ぶ。故に、いかに技術の進歩が目覚ましいとしても、その恩恵に授かる私たちの身体自体はほぼ変わらず、未だに古来のスペックと習慣を引きずっていると考えていい。私たち人間が積んでいる器官は「年式」自体は個々の年齢によるが、その「仕様」自体は太古から大きく変わらない。この冷静なメタ認知を持った上で、テクノロジーと対峙、共存していくことが何より重要なのだろう。
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躍動する身体と、健全な心がない限り、人類は豊かな「知的体力」を維持することは危うい動物なのである。資本主義OSが駆動するテクノロジーの劇的な進化は、そんな危うい動物を徹底的に怠惰な状態に追い込む。AIが飛躍的な進化を遂げ、そんな私たちとは"似て非なるモンスター"を作り出した時、ようやく全人類が「人間とは何か」を問うことになる。これは決してネガティブな物語ではない。ただ、己の生を人間らしく全うしたいのなら、今こそこの問いを自らに投げかけ、じっくりと思考する時間を持とうではないか。
知的体力を養う4つの習慣
最後に、理屈だけを述べるに止まらず、実践的なまとめによって「知的体力」を奪う現代環境に皆で打ち克っていきたいと思う。2024年、ぜひ個々の習慣として継続することによって豊かな「知的体力」を維持していきたい。これを4つの習慣にまとめることで、本論に幕を閉じようと思う。
1) 読書
身体性を伴う紙の読書体験は知的体力を養う絶好の知的態度。自らの心が呼ぶテーマの本にじっくり没入しながら思考を深めることで、単なるインプット以上の知的な筋トレとなる。
2) 定期的にパソコンやスマホから離れる
特に完全リモートで仕事している人は意識的にパソコンやスマートフォンから離れる時間を小刻みにとったほうがいい。パソコンの前に座することは自らを「受動モード」に置くことと等しい。「散歩」は身体性と心的なリフレッシュ感覚も伴った最も効果的・簡易的で知的な時間となる。散歩は単なる休憩ではなく、脳の知的活動に対する"デフラグ"と言っていい。
3) 運動
先に触れた「運動脳」でも繰り返し指摘されていた「ランニング」をオススメしたい。2で触れた「散歩」で十分ではないかと思うかもしれないが、散歩では身体的な負荷が低すぎる。単に脳の活性化に効果的というだけでなく、健康に重要な三大要素「栄養・睡眠・運動」の睡眠の質にも間接的に寄与するので、一定の身体的負荷の高いランニングを習慣とすることを強くオススメする。
4) 「問い」を常に意識する
「問い」において重要なのは、先に触れた「問い」の重要性や効果、メカニズムをメタ認知することにある。「問い」というツールに対する正しい認識があれば、日々あらゆる場面で自分や相手に対して「問い」を動員することの合理性に合点がいく。つまり「問い」の重要性の腹落ちが何より大事。腹まで落ちれば、あとは自己強化ループが働いて「問い」をベースにした知的体力がどんどん養われていく。