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過労死の先を見た話



はじめに


「『おうちのひと』(私)が一体何をしている人なのか、本当に分からなかったんですよね……」というのは、親しいシル友(シルバニア友達)さん達から割とよく出る意見だった。
これに関しては実際にお会いしたことがある、もしくはお会いしたことはなくても本名や住所を明かしてやり取りさせて頂いている、ごくごく一部の相互フォロワーさんにのみ「ん〜とね」と説明しているのだけれど、ここで「ん〜とね」をやると爆速で身バレしそうなので伏せさせて下さい。(※特に面白いことは何も無いです)
……という前置きはあるものの、「私(おうちのひと)が何をしていたか」という話は
①エモりすアカウント(@sylvanian_acorn)こと「シルバニアファミリーのエモいくるみりすの赤ちゃん」そのものの始まり
②2020年から始まった2年半に及ぶ不明熱
の話に深く関わってくる。
実はこの仄暗いシルバニアアカウントを立ち上げた当時、私は「過労死ギリギリ」のところに立っていたから。

この記事では「2年半に及ぶ不明熱」と「その間、実際に起きていたこと」について、かなり詳細に書いていこうと思う。これはほとんど私の頭の中の整理の為でもあるのだけれど、「シル友さん達やフォロワーさん達にものすごく心配されていた」ので、何が起きていたのかきちんと書いておこうと思った。
(※長期入院に必要な物をマシュマロで募集して、入院ド素人なのにコロナ禍でのハードル激高入院ライフを「忘れ物何も無かったな……」という感じで終えることが出来たのもフォロワーの皆様のお陰です。深くお礼申し上げます。そしてあの時、マシュマロの受信箱が「Twitter集合知」みたいなことになったので、これも別記事で整理して書き残す予定です。)

※タイトルの通りここからはかなりエグい話や生々しい感情の発露もあるので、ちょっと今「心や身体」がしんどい人はこんな仄暗そうな記事を読まずに、あったかい物を飲んだり好きな音楽を聴いて心穏やかに過ごして下さい。

2年半の生活をかなり忠実に再現した1枚



不明熱の下地「激務とストレス」


以前、とあるツイートがバズり散らかしてとあるニュースサイトの編集者さんからインタビューを受けた時、「これはYahoo!ニュースにも記事が配信されます」と事前に説明を頂いた。
この時も心の中には地獄が広がっていて随分と苦しい日々を送っていたので、ものすごく言葉を選んで慎重に慎重にインタビューに応じた。「シルバニアを初めたきっかけは?」という鉄板の質問を「いや〜仕事が大変な時にシルバニアと出会いまして」と非常にマイルドな言い方で誤魔化した。
普段は「シルバニア公式と森のおうちは絶対に私なんかをフォローしちゃ駄目だよね」とか「当アカウントは『シルバニア過激派』がやってるので……」とか言ってる癖に、この時ばかりは日和って「善良なシルバニア民」みたいな感じの原稿をお渡しした。
私の信条として「自分の気持ちと相反するようなこと」は一切言わなかったものの、自分から出す情報と伏せる情報の取捨選択を慎重に行って「本当のところ」を煙に巻く、という私の生き方が全面に出ている返し方をした。当然、当たり障りのない優等生的回答のインタビュー記事になった。
……というよりも、そうせざるを得なかった。

インタビュー内でサラッと語った「仕事が大変」というのが度を越していて、血尿と不整脈を出しながら朝6時台から22時とか23時頃まで働き、会社から駅まで歩く気力も残っていない時はタクシーを拾って「着いたら叩き起して下さい」とお願いしてから倒れ込むようにして眠って帰宅、とかそういう生活を送っていた。休日も毎日8〜10時間は仕事に関することをしないといけない+死ぬほどどうでもいい接待に潰され、「心身共に休める時間」というのがほとんど無い。
新卒✕ひとり暮らし✕友人達となかなか会えなくなってしまった、という色んな要因が重なったこともあり、(でも仕事って「しんどいもの」って言うし、みんなこれくらいの苦労をしてたんだなあ……)と本気で思って耐えていた。
そして社内の体制も「仕事出来ない奴にはマジで何にもさせない」「仕事回せる奴に全部任せる」という感じだったので、負担の偏り方が凄まじかった。年次が上の優秀な人達からバタバタ倒れていって、私の尊敬する直属の上司も病んで辞めてしまった。社名への信頼感と給与の良さだけで、内情は酷いものだった。

ある時、私の上司からの信頼が厚い別部署の優秀なおじさん社員が、鬱でお正月明けにどうしても出社出来なかったことがあった。私の上司は仕事に対しては鬼のように厳しかったけれど、その時は沈痛な面持ちで「◇◇さん(おじさん社員)に頼むのが1番確実なんだけど、こればっかりは仕方ないか……◇◇さんも辛いなあ……」と呟いていた。
そのやり取りを聞いた後、人事部の馬鹿女(と言っても、私より15歳くらい上のいい歳の社員)が「いやあ〜■■部に◇◇さん(おじさん社員)って人がいるんですけどお〜正月明け早々から欠勤連絡ですよ〜?本っ当に迷惑ですよね〜!?あっ、〇〇さん(私)は鬱じゃなくて本当に良かったですね!鬱って本当に厄介ですからあ〜!」と振ってきた。
衝動的にそいつの首を締めるかぶん殴るかしそうになった。私もその時、既に自分の状態が単なる「過労」ではなく、「鬱」に片足突っ込んでいる状態だと分かった上で、何とか仕事に穴を開けないように心療内科への受診を避けていたから。
「うちらの新卒担当を任された時に社外から大クレーム引き起こしたお前なんかより、◇◇さん(おじさん社員)はずっときちんとした確実な仕事なさっとるわ!!ロクに仕事も出来ねえ、する気すらねえお前に何も言う資格は無い!!てめえは恥を知れ!!」という言葉を飲み込んだ。こいつは私が余計なことを他言しないタイプだと油断しきって発言したんだろう。それまでにも不用意過ぎる言動で(この人、よく社会人やれてるな……)と感じたことは度々あったけれど、この時は赤を含んだどす黒い感情が渦巻く中で、私も何とか言葉を絞り出した記憶がある。
「……うちの現場は◇◇さん(おじさん社員)に大変お世話になっていて、■■さん(上司)もすごく◇◇さんのことを信頼しているので、お加減を心配していました。お辛い状態が少しでも良くなると良いですね」
ご家族もいらっしゃるだろう。年齢的に、お子さんの学費や住宅ローンの返済なんかもあるだろう。◇◇さん(おじさん社員)には、この会社を辞める訳にはいかない事情があるんだろう。
フロアを離れた時、手の甲には自分の爪が食い込んだ跡が真っ赤になって残っていた。というか私自身もストレスで嘔吐が止まらなくなって、少し休んで人事部に顔を出した時の会話がコレなので、何から何まで色々と終わっている。

休日は大体、疲れが噴き出して心臓が鉛のように重たくて動けなくなるので、「誰かと会う」「遊ぶ」なんてHPと時間の消費量の多い選択肢は無い。朝起きてすぐに洗濯機を回し、その間に家中の掃除をする。その後、病院で点滴を打ってもらってほんの数時間だけ昼寝して、それから8〜10時間ぶっ続けで仕事関係のことをこなしていた。疲れや眠気でどうしても頭が回らない時は、壁に頭をガンガン打ち付けて痛みで「ハッ」とした瞬間に仕事を進める。
そして若干余裕のある日は、徒歩圏内にあったおもちゃ売り場のシルバニアコーナーの棚を見に行って、別に何も買わずに(可愛いなあ……)とぼんやり眺めていた。こうして振り返ると、我ながらよく「いや〜仕事が大変な時にシルバニアと出会いまして」の一言にまとめられたなと思う。

そんなバグった毎日を送っていたせいか、ある時から「強烈な不安」が煙のように足元から立ち昇ってくるようになった。その煙は常に私の足元にあって、日によっては胸の辺りや喉元までせり上がってくる。
自分でも何が不安なのか分からないけれど、傍から見たら割と順風満帆な感じに見えただろうけど、その不安感はそのうち腹痛から酷い嘔吐に変わり、ある日突然「駅の電光掲示板の文字が読めなくなる」という厄介極まりない形で私の身体に「症状」として現れた。国内なのに、見慣れた風景のはずなのに、もう大人なのに、言葉の分からない国で迷子になってしまったような絶望感。呆然と立ち尽くした時のあの恐ろしさを私は一生忘れないと思う。

その辺りから(これはちょっと命を持っていかれないように注意しよう)と思って、何かの拍子に線路に飛び込まないよう、朝のラッシュ時はしゃがみ込んで膝を抱えて下を向いて電車を待つようになった。でも気が付いたらある日、ドアノブくらいの高さにある「クローゼットの取っ手」で首を吊ってたんですよね。自分でも何でそんなことをしたのか全く覚えていない。「命、持ってかれないようにしなきゃ」という自覚と行動はあったのに、無意識で真逆のことをしていた。
会社での成績は同期の中でトップで、1番忙しい大型プロジェクトに配属されて、更にホールディングスの社会貢献活動みたいなやつを紹介する「感じの良いお姉さん」的な仕事を任されていた一方で、実際のところは涙と鼻水を垂れ流しながら思いっきり首を吊っていた。
「こいつは外面が良いぞ」と会社側が対外に向けて出していた人間が、実はこっそり過労自殺(未遂)をかまして心身共にボロボロで、「最も表に出しちゃいけない類の人間」だったのは、今考えると身体を張った壮大なギャグだったなと思う。

働いていた時の心象風景

マシュマロを開く度に「何か(病気や色んなことで)ものすごく苦しい時にエモりすちゃんのアカウントを見付けたんですよね」というマロを何通も頂くことがあり、(ああ、それは私が生き死にに関わるくらい苦しい場所から投稿しているからだ)とすぐに思い当たった。「いつもツイートを見て下さってありがとうございます。それは不思議なご縁ですね〜」とかまた煙に巻きながらも、「それは『生きることへの苦しさ』みたいなものがお互いの中にあるからでしょう」と私の中には明確な答えがあった。


不明熱の始まり


長い長い前置きになったけれど、2020年の春から始まった2年半に及ぶ「不明熱」以前には、こういう仄暗〜い話があった。

そして更に、私の発熱が始まる直前の2020年3月に「ご近所さん」がコロナに罹患し、その関係で父りすが濃厚接触者となり、私達家族全員も自治体から1週間の自宅待機を命じられることになる。
タクシーの運転手さんに「ここ、□□さんがお住まいですよね〜」とよく言われる「ご近所さん」こと、□□さんのコロナ罹患とその容態はNHKの19時のニュースになって大騒ぎになった。実家を知る幼馴染の何名からかは「□□さん、お前んとこじゃね?大丈夫?」的なLINEが届き始めた。
その時はまだ「COVID‑19」というウイルスが一体どういうもので、どのように対処して、どのように適切に恐れれば良いものなのか誰も分かっていない状況だったように思う。あとこれはド素人が体感的に述べているだけなのだけれど、ウイルスも強くて症状や後遺症の残り方とかも2022年現在のものとはだいぶ違っていたように感じる。
報道よりも先に□□さんの話を聞いていた私は、その頃泣いて泣いて泣きまくって、泣き崩れていた。よく知る人が「生き死に」の境にいること、報道が出てからは周囲やネット上の人達がもうその人の「死」を予想して騒ぎ始めたこと、そしてこのルートで罹患した場合、父りすの命も危ないかもしれないこと。「どうしよう!!どうしよう!?」と泣いているところを母りすに「〇〇(私)、大丈夫だから」と抱き締められた。不安と恐怖のあまり身体がガタガタと震えるという経験は生まれて初めてだった。

(これで仮に父りすが罹患して死んだらこの家は団信でローン完済にはなるけど、私が母と猫達を養わなきゃ……また死ぬ気で馬車馬みたいに働かなきゃ……いや、というか優しくて大好きな父りすを「失う」ということに私自身が耐えられない。耐えられないぞ)
そんなことを考えていた矢先に、父りすではなく私の方がぶっ倒れた。38℃とかの酷い発熱で、スマホも持てないくらいの苦しみ方をした。家族は私が「罹患した」と思ったし、私自身も「罹患したな」と思った。
身の周りで起きていたことが「こと」だったので、朦朧としながらも全ての通帳と暗証番号と実印と、そしてエモりすアカウントを母りすに託した。母りすは慣れないTwitterで、私の容態をぽちぽちと発信してくれていた。
(※代理の母りす宛に頂いたリプは、全て母りすが枕元で読んでくれていました。あの時は呟けなかったんですが、こんなにも言い辛い経緯がありました。)

ワンフロア上から重症者が出た、その人は既に予断を許さない状態になっている、父りすはその方とエレベーター内で談笑した、私の発熱のタイミングはその後、そして受診の目安とされた熱の高さと継続日数も余裕で超えた。
自立歩行が出来ないほどの苦しさだったので「頼むPCR検査を受けさせてくれ〜!頼む〜〜〜!」と、上記の理由を伝えてお願いしたものの、検査キットがまだまだ足りていない状況だったので「コロナビンゴの一列空いてる」みたいな私でも「レントゲンで肺炎の所見は無い」の一点張りで、結局この時PCR検査は受けさせて貰えなかった。
受け入れ態勢もまだ整っていなかったので、「コロナじゃない」という診断を下されても、PCR検査で白黒を付けていない。でも実際に酷い発熱はあるので、「病院の待合室は使わないで下さい」「調剤薬局にも入らないで下さい」と外に放り出された。寒かった。壁を背にズルズルと座り込んで寒さで縮こまっている私に、何人もの人達が「大丈夫ですか?」と声を掛けて下さった。中には「そこの病院から人を呼んで来ましょうか!?」と聞いて下さった方もいらした。本当に有り難かったけれど、ここの病院の先生と看護師さん達の指示で、この北風吹きすさぶとこにぼっちで置かれてるんです私。

結論から言うと「どう考えてもコロナだろう」みたいな紛らわしいことこの上ない始まり方をした私の長い長い不明熱は、一応「コロナの類」ではなかった。ただ、入院してからこの話を聞いた先生のひとりは「えっ!もちろんあのニュースは見てましたよ!」とひとしきり驚いた後、「『お父様が罹患したら』という凄まじい不安と恐怖が、この発熱の引き金になった可能性はありますね……」と言った。
この発熱は、私自身もこれまで全く知らなかった「先天的な身体のつくり」と、それに対して非常に相性の悪い「私の生き方」に起因するものだった。



不明熱が始まって2年目の春


大きな病院をいくつも受診して、その度に精密検査をしても全く発熱の原因が分からず匙投げられまくりの中で、2022年の春にとうとう自力では歩けなくなった時があった。その時点で、発熱が始まってから既に2年が経過していた。
車椅子の上でぐったりしている私を見て「限界に来ている」と、私の症状に合致する症例の論文を探し回って下さった先生がいらした。その数ヶ月後、その先生が紹介して下さったとある病院のとある先生の元でとうとうこの発熱に病名がつき、急転直下、その日のうちに入院治療の方向で話がまとまることになる。

春になって急激に状態が悪くなった

長かった。
ハンターハンターの最初の試験でクラピカが(これは……)みたいに分析していた通り、「終わりが見えない」というのは物凄いストレスだった。1次試験のマラソンで置いて行かれて早々に脱落して、トドメにメンタルをバキバキにへし折られていたお坊っちゃんみたいなデブキャラの絶望を痛いほど感じるくらい長かった。
そしてあとはもうシンプルに、気が狂うかと思うほどに苦しかった。平熱が35.8℃しかない私が、2年半ほぼ毎日37℃〜37℃後半、日によっては38℃後半まで出ていたので、苦しさの表現としては「インフルエンザが2年半続いた」くらいが適当かもしれない。
2021年の下半期辺りからは、月に2〜3日しか外出出来ないのが「当たり前」になり、月に5日も外出出来た時は「めちゃくちゃ体調の良い月」になった。外出できた日に街の風景とシルバニアを大量に撮影しておいて、それらのストックを少しずつアップしていた。



2年半の間にあった苦しみの形


この2年半の間は肉体的な苦しさに加え、「病院を回る」「先生を探す」という精神的な苦しさも大きかったように思う。
「内科的には何の問題も無い!よって何の問題も無い!!」と言い切った某有名大学付属病院の医者とは「日常生活に非常に大きな支障をきたしていて私的には問題があるので、こちらの病院まで伺っているんです」「内科的には問題ない!」「先生と私の使う『問題』という言葉の定義が違うことは分かっています。そこは大丈夫です。でも原因が分からずとも、耐え難い苦しさはあるんです」「内科的には!!」というクソみたいなやり取りもあった。

「あの医者は私のこと馬鹿な猿か何かだと思ってんのか?な〜にが『何の問題も無い』だクソが。じゃあてめえは『内科的な疾患』は全てカバー出来てんのか!?そんな訳ねえだろうがふざけんなよ!!」と付き添いの母りすに捲し立てながら、履いていたマーチンの厚底で病院の入口に咲いていたたんぽぽの綿毛をぐっしゃぐしゃに踏んだ日もあった。
元気な時は未だに片っ端からたんぽぽを引っこ抜いてフーフー飛ばす人間なので、母りすは私のキレ方を見て悲しそうな顔をしていた。小さな花壇に呑気に咲いていた何の罪も無いたんぽぽには本当に気の毒なことをしたと思う。
でも正直に言うと、肉体があまりにも苦しくて、苦し過ぎて、「エモい」とか標榜してはいけないんじゃないかと思うくらいに心も荒んでいった。いつも鞄に入れて連れ歩いていたシルバニア達を撮影する気力も湧かない。そもそも家と病院間しか移動しないので、「おっ」と心惹かれる場所もない。とうとうシルバニアを入れてる小さなポーチを鞄から放り出し、ダイニングテーブルの上に置いていくようになった。
「りす達は連れて行かなくていいの?」と聞く母りすに「え〜病院行くだけだし、りす達がコロナになったら可哀想だなと思って」と笑いながら返していた。

発熱で体力が削られてどんどん病状が悪化していく、動ける時間が日に日に短くなっていくのを肌で感じる、今まで感じたことのないマスクの息苦しさで座り込む、「病院に行く」ということ自体も難しくなっていっているのに何も進展しない、そしてその辛ささえ理解しようとしない医者に当たって、病院に行けなくなった時期もあった。
そして2021年の夏頃からは手の震えが酷くなり、シルバニアや小物を素手でうまく掴めなくなっていた。とあるシル友さんが「精密ピンセット良いですよ〜」と仰っていたのを思い出し、タミヤの精密ピンセットを買ったけれど「今まで普通に出来ていたことが出来なくなっている」という事実に落ち込んでしまった。

手の震えが酷く、並べるだけで1週間以上かかった1枚

入院中に仲良くなった同室の「ファンキーなおばちゃん」(※入院中のツイート参照)も科こそ違ったものの、何十件も病院を訪ねて回り、私と同様に数年がかりで主治医を見付けて手術に漕ぎ着けた人だった。
「あれはねえ……『お医者さんに分かってもらえない』ってのは本当にキツいよねえ……私もしんどかったなあ」という静かな合槌の中に、私が経験したものと同じ地獄を見た。



不明熱の原因


不明熱が始まってから2年以上が経過した2022年の夏、色んな先生方の紹介のリレーで辿り着いた病院で、目の前の先生は私のレントゲン写真をじっと眺めて、何度も何度も何かを確認していた。
「…………心臓が極端に小さいです。そのことはどの病院でも言われませんでしたか?」
衝撃の事実に言葉を失う。
そんなことは誰からも全っっっく指摘されなかった。というか、人生で一度も言われたことがない。各病院のPCR検査でコロナの線が潰れると、踏み込んで「でも一応、胸部レントゲンを」と言う先生はほとんどいなかったし、撮った病院でも本当に何も言われなかった。
「心臓がね、身体の成長と共には育っていないんです。子供の心臓くらいのサイズ」
普通の人の胸部レントゲンと並べてもらった時、それは顕著に現れていた。私のレントゲンでは「あ、こっちが左胸ね」と分からない。明らかに心臓がツルペタだった。

心臓のミニチュアを持っていて良かった

「コロナの線」を真っ先に考えないといけない時勢であるということを加味しても、あんなにでっかい病院で何度も何度も何度も何度も精密検査を受けたのに、こんなにシンプルなことが2年半も見過ごされるってある?という疑問が湧いたので、目の前の先生にそのまま質問してみた。
「それぞれの先生がそれぞれの切り口で発熱の原因を考えられたと思うんですけど……その中に『心臓の大きさと〇〇さん(私)の発熱』を結び付けた先生はいらっしゃらなかった……ということです。でもこれは僕の患者さんの中に、この症例の方が過去に何名かいたから結び付いたことです」と返された。めちゃくちゃ丁寧かつ各方面に配慮した「俺でなきゃ見逃しちゃうね」的回答だった。
「よくこの病院まで辿り着かれましたね」
漫画でめちゃくちゃ強いキャラの元に辿り着いて、これから形成逆転する時のアレじゃん。でも確かに、紹介元の病院からこの病院へ初診予約の申込みをして貰った際は、当初「この先生の初診を受けられるのは半年後です」という話だった。「半年も保つか分かんないや。その間に野垂れ死ぬかも私」とか母りすに話していたら「急遽キャンセルが出て枠が空きました。来られますか?」と電話があった。その電話から数日後、私は紹介先の病院の診察室にいた。

入院中、手術&長期の入院経験が何度もあるファンキーなおばちゃんにこのエピソードを話したら、「ええ〜!お姉ちゃん、それはすごい入り方したねえ〜!あ、でも『治してくれる先生』に辿り着く時ってそういう感じかも。私のコレは日本に数人しか執刀出来る先生がいないくて、どこの病院も初診で半年とか1年待ちなんだけどさあ。それが今回、海外から帰国してここの病院に着任した先生と、地元の主治医の先生がたまたま繋がってたからすぐに手術出来たんだよねえ〜」と教えてくれつつ、のり塩ポテチを分けてくれた。
あまりにも病院食を食べない私を心配して、干しいもとかプリンどら焼きとか「おばあちゃんが孫に与える感じのおやつ」を下のコンビニで買って来てくれていたファンキーなおばちゃん自身も、今回の手術&入院がこの手の勝確パターンだった。

「子供サイズの心臓で大人の身体を維持すること自体にかなり無理があるのに、更に〇〇さん(私)の場合は激務をこなしてたので肉体が限界に来ました」と言われた時、忙しいと必ず不整脈や頻脈が出て「心臓が重いよ〜」と胸を押さえていた自分の姿が浮かんだ。そして遡れば高校卒業辺りから(何でこんなに心臓が重たくて身体が苦しいのかな……)と度々感じていたことを思い出した。さらに遡ると、幼少期から「この子は頻脈気味」と母りすは度々お医者さん達から言われていたらしい。
(「それは大丈夫なんでしょうか?」と心配する母りすに対して、誰もそこに深く言及したりアドバイスしたりしなかったそうなので、これは「大人になってみないと分からない」ものだったのかな、と勝手に思っている。それにしても人生のどこかの時点で、もっと早くに誰かに指摘して欲しかった。)

「あと〇〇さん、身長高めですよね。小柄な方よりも更に負担は大きかったかと思います」
確かに私は162.5〜163cmくらいあるので、日本人女性の平均的な身長より若干でかい。「ええ〜っ」と驚きつつも、その瞬間に今まで感じていた様々な疑問が「線で繋がる感じ」だった。

「これ以上肉体は頑張れないし、頑張らせない為のSOSとしての発熱だったのが2年半も続いてしまったことで、その間〇〇さんの身体はずっと過労状態のままでした。発熱しているから、寝て身体を休めていたと思うんですが、実際には全く休まっていません。もう寝ているだけでは治らない程度に心身共に疲労しているので、身体は走り続けてマラソンしてるような感じです」
「……2年半もほぼ寝たきりみたいな生活をしていたのに、それでも過労状態ってそんなこともあるんですね」
「行き過ぎるとこうなります。人よりスローに生きなくちゃいけない身体なのに、普通の人でもキツい仕事をされて無理に無理を重ねてる状態が続いたんでしょう。あと〇〇さん、仕事も出来たんじゃないですか?」
「でき……ん~『出来る方』だったかもしれないです」
「やっぱり。そんな感じです。普通、これだけ発熱しているとスムーズに受け答え出来ない患者さんがほとんどなんですが、それが出来ています。仕事の時とか普段はそれで良いんですが、発熱していても『それが出来ている』というのは、逆にどれだけしんどくても脳はフル回転し続けているということなんです。脳からの疲労というのはものすごく大きいですからね。……こちらで治療と入院をされるとして、その後は同じ仕事というか同じ業界に戻られますか?」
「給与的には満足してたんですけど、気持ち的には二度と戻りたくないです。メンタルはズタズタになりましたし、身体もこんなことになっちゃいましたし」
「…………それが良いと思います」
この時、本当の「キャリアぶっ断たれマン」になったけれど(また教授に頭を下げて、どこかこのコロナ禍で手の足りていない研究関係のとこでバイトさせてもらうか〜)とかぼんやり考えていた。
というか入院前、私はよたよたしながら大学に足を運び「何かリモートでお手伝い出来る仕事があれば回して下さい」と教授に直接お願いして仕事を取ってきていた。(※就職で院を離れるまで私がやっていた業務)
発熱があとどの程度続くか分からない、死ぬ気で稼いだ貯金も目減りしていく、という不安と焦りに耐えられなかった。耐えられなかったのだけれど肉体は限界にきているので、自宅に送られてきた資料の山を読みながら、私は酷い熱を出してぶっ倒れた。

リアルの世界は明日も 私抜きで機能して回る〜

話は病院の診察室に戻る。
後に主治医になるこの先生は、一通りの検査をした後、今までどの病院でもしてこなかった検査をいくつも行った。初めて見る機材みたいなものまで、ドラえもんのように奥からゴソコソと出してくる。その場で結果の分かるものは数値をじっと眺めて、それを見てから「次はこの検査へ」と案内される。物凄く丁寧な診察と検査だった。と、同時にこれはこの先生の初診予約がものすごく取り辛いはずだと納得した。
全ての検査を終えた先生は、しばらく無言のまま検査結果を眺めていた。先生は先生の頭の中でぷよぷよの連鎖みたいなものを組んでるんだな、と先生のひよこの毛のようにふわふわの頭を眺めながら私も無言で待っていた。

「心臓が極端に小さいだけで、この発熱には何の問題も無い!解散!!」みたいなことを言われたら、今度という今度は立ち直れそうにないなと思ったけれど、先生は明らかに脳内でぷよぷよの連鎖を発動して、ぷよ達を消しまくってるような顔をしていた。私はその間、(もうちょっとその……ふわふわのとこをどうにか整えられないものかなあ……)とか、真面目そうな顔で先生の頭を観察しながら非常に不謹慎なことを考えていた。
「さて、これから説明に移るので診察室にお母様も呼んでください」と言われた瞬間は流石に緊張したけれど、その一方でこの苦しみにやっとやっとやっと「名前」が付くのだと安堵していた。

病院のエントランスホールにあった椅子に深く沈み込んで、さ〜て今日のウマ娘のログボでも貰うかとか思った瞬間、(あ、忘れてた)と思ってすぐに立ち上がり、エントランスを出て父りすに電話を掛けた。診断の確定と、入院治療の方向で話が決まったことをその場で伝えたが、優しい父りすも「ああ……やっと原因が分かって良かったねえ。しんどいのに頑張って行った甲斐があったねえ」とホッとした声をしていた。父の後ろで賢い方の猫が電話越しに私の声を聞いていたようで、「おねえぢゃ〜〜〜ん!!」と、私を呼ぶ時の声でギャン鳴きしていた。

この日、この瞬間、長い長いトンネルの先に細く光が差したような気がした。
でもたぶん、トンネルを抜けただけでは終わらない。そう簡単に終わるはずがないことは頭で分かっている。現にこの文章を書いている今も37.6℃の発熱があって、「トンネル抜けても湿原にヒソカがいた」ような日々を送っているし。しかもこの熱の低減にはこれから最低でも半年近い時間がかかると説明されていて、その間は引き続き療養の身で、入院中に私の性格を把握した主治医の先生には「仕事なんてまだまだ先の話だからね」と強く念押しされている状況だ。

それでもゴンやキルアやクラピカやレオリオも「トンネルの先に光を視認した瞬間」、その瞬間だけはほんの少し安堵したんじゃないかな、と思った。

アカウント開設からまだ日が浅かった頃の1枚



最後に


2年半の間、ずっと私の発熱の心配をして下さっていたA先生。そして同じく2年半の間、嫌な顔ひとつせず紹介状を何通も何通も書いて下さったかかりつけ医のB先生。そのB先生から学会で私の話を聞き、私の症状に当てはまる論文を当たって下さり、D先生を探し出して繋げて下さったC先生。そして初診のその日のうちに診断名を下し、入院中も親身に治療して下さった主治医のD先生に、この場を借りて深くお礼申し上げます。

入院先のD先生に関しては非常に温厚な方だったので、ポプ子みたいな性格の私が入院中「俺はこういう人間!俺はこういう人間だ!」ムーブをかましまくり、本当に厄介だったと思う。
「んも〜!〇〇(私)さんは、ああ言えばこう言う人なんだから〜!」と入院3日目で仰ったものの、最後らへんなんか「よく頑張りましたね。それだけ『治りたい』という気持ちが、〇〇さんの中で強かったということなんですよね」と労って下さったのに、最後の最後まで「いや、予定の入院期間を途中で放り出して治療から逃げるのは『死ぬほどダサい』と思ったからです。自分がダサいと思うことは絶対にしたくない。その一点に尽きます」って返して、虐げられた時のちいかわみたいな顔をさせてすみませんでした。
…………でもそれが心の底からの本音だし、あらゆる場面で私を突き動かす原動力にもなっているんです。この病の根の深いとこですね。

何かエモい1枚で締めとこう



最後の最後に


大学時代、ものすごい田舎道を歩いている途中「お好きな値段で どうぞお持ち帰りください」という手書き看板を置いた「野菜の無人販売所」を見付けたことがあった。生まれて初めて見る販売形態に(いや〜これ面白いけど、値段を付けるのって難しいな)と頭を抱えた。そんなんだから過労になるんだよ。
でもこの記事を書き終えてみた今、何だかその「『野菜を置いていた側』の気持ちを味わってみたい」という気持ちが芽生えた。無料で持って行って良いのか、めちゃくちゃ安い金額を入れるのか、それとも市場流通価格くらいをよく考えて入れるべきなのか。この「野菜の無人販売所問題」は、私の中でもまだ答えが出ていないので、読者の方に委ねたいと思う。
もしこの記事を読んで、ほんの少しでも「読む価値のあるものだった」と感じて下さった方がいらっしゃれば、お好きな値段を付けてくださると非常に嬉しいし、非常に有り難いです。





ほんの少しでも「読む価値のあるものだった」と感じて頂けるのが1番嬉しいのですが、もしもう一歩踏み込んで「サポートを」とまで思って下さる方がいらっしゃれば、文章を書く身としてはこんなにも嬉しいことはありません。