手帳記録:過去の自分を読む 今の自分
引っ越しの際、書籍は手放さざるを得ないつらさはあったけれど、
自分が生きている限り捨ててはならなかったのは、
自分が書き続けた膨大なノートでした。
日記や雑感、メモ、心に浮かんだこと、
特にモレスキンに出会ってからの、数十年分。
黒い硬い表紙に閉じ込められた、自分の記録。
かつての職場でうつ状態になり、つらい毎日の中で活路を見出すべく、書き続けた日々もあった。
誰に存在否定されても、虐げられても、書くことによって自分を生かすことができていました。
何かを見て印象に残った言葉や文章や歌も、書き留めてあります。
何かから書き取った言葉は、もととなった本や、それを言った作者名などをつけておくけれど、
たまに、「これ、誰の言葉?誰の文章?誰の歌?いい言葉だなぁ」と、無記名で書かれたものに、感銘を受けたりします。
無記名ということは、自分で書いた可能性が高い。
けれど、とても自分で書いたとは思えない、いい言葉や文章や歌。
心情吐露や雑感を書き殴ったものだから、推敲も何もしていないはずなのに。
私って、実は天才?名作家?!
なんて、自画自賛…
でも、長く書いてきて過去のノートを読み返して思うのは、
過去の自分は、今の自分とは異なる次元の存在だったということ。
その時その時で必死で生きてきた。
今も同じだけれど、
同じ自分のようでいて、すでに別人に近い。
自分では気づかない、自分の変化。
時を経て成長しているのか、退化しているのか…
今の自分は、かつての自分の記録を、客観的に読んで、驚くことができる。
今も、アナログノートに書き続けているけれど、
noteやFacebookのようなSNSに書き残す記録もあり、
時を経て、見返す機会があると、
よくぞ、その時の感性を風に流してしまわずに、記録しておいたものと、過去の自分を褒めてやりたくなる。
おそらくは、自分にとってだけ価値のある記録でしかない。
それでも、自分が生きてきた足跡であり、時に自分マニュアルのようでもある。
市販の書籍は、買いなおしたり、図書館や資料館で探して、読み直すこともできるけれど、
過去の自分の思考記録は、自分の記憶にさえ残存せず、回想も、今の自分の感覚なので、かつての思いとは異なっていることが多いのです。
嫌な記憶と共に焼き捨てたい、破り捨てたい過去であっても、あとあと忘れた頃に見返すと、二度と経験し得ないし、したくもない、その時限定の心の有りようが残されていて、
誰にも相談できないことを、かつての自分に語りかけたいような心持ちになったりする。
他のどこでも手に入れられない、唯一の自分記録。
私が死んだら、荼毘の燃料にしてもらいたいような、大量のプライベート記録ではあるけれど、
自分が生きている間は、決して手放せない、自分の人生歴史の刹那の心を写し留めた、自分にとっての貴重書になっています。