萬葉集歌より〜雨にとじこめられて
〜藪波の里に宿借り 春雨に隠りつつむと 妹に告げつや〜
(大伴宿禰家持 『萬葉集』巻十八・四一三八)
大伴家持が越中守として赴任していた折り、砺波郡の藪波という里の墾田地の視察に出かけ、郡司の家に宿を借りたところ、
“時に、たちまちに風雨起こり、辞去すること得ずして”と題詞にある状況となり、
「藪波の里に宿を借りて休息していたら、急な春雨に降りこめられたので、帰りが遅れる……と、妻に伝えてくれましたか」
現代人の私たちが、古歌を鑑賞する際、その意味よりもまず心にとめるのは、言葉の余韻の美しさであるべきと思います。
「妹に告げつや」……伴の者か宿主に、穏やかな口調で優しく訪ねている、そのままを歌にしているようで、
この言葉が印象に残り、私には、雨が降るたびに思い起こす万葉歌です。
雨を歌う万葉歌で、印象的な「雨ごもり」「雨つつみ」という言葉。
今の時代でも、雨の日に出歩くには、傘やレインウェアでしか雨を防げず、服や靴がしっとりと濡れたりして憂鬱になりがちだし、
室内にいても、雨が水のすだれのように家を取り囲み、屋外とは切り離され、結界に閉じ込められたような、引きこもり感にとらわれます。
よほどの用事でなければ、雨の日はなるべく出かけたくないもの。
昔はさらに不便だったろうし、ある程度の身分の人は、濡れることを忌みとして、雨の日は潔斎のように、閉じこもって過ごしたようです。
……雨だから出かけられない……
恋歌としては、これは言い訳として、ふた通りに使われます。
・想い人のところで過ごしたまま雨になり、帰るに帰れなくなったから、それを幸いとして、しばらく留まろう…という場合と、
・通いたいけれど、雨だからご無沙汰ごめ〜ん、しばらく行けないよ…という場合。
後者に対する女性の側としては、
〜雨つつみ 常する君は
ひさかたの 昨夜の雨に 懲りにけむかも〜
(大伴郎女 巻四ー五一九)
「雨だから、いつも出かけないなんていう貴方は、ゆうべいらした時に降られた雨に、懲りてしまわれたのかしら」
……今夜は来ないんかい!て歌でしょうか。
〜春雨に 衣はいたく 通らめや
七日し降らば 七日来じとや〜
(大伴坂上郎女 巻十・一九一七)
「ささやかな春雨なんだから、びしょ濡れになるほどには降らないでしょうに、春の長雨、七日降り続いたら、七日も来ないっていうの」
……雨降りを、通って来ない言い訳にしないで!てところでしょう。
この下句の「七日し降らば七日来じとや」という言い方が、ストレートな抗議そのままで、すごく好きです。
通い婚の時代、雨の日は人恋しい女性と、雨の日は気が向かない男性、
雨の日でなくともお互いに何かを口実にして繰り広げられる、駆け引きの手段のひとつが、雨ごもり・雨つつみなのかと想像します。
冒頭の大伴家持の歌は、
「急な雨で早々に帰れなくなったと、家で待ちわびる愛する妻に伝えていただけましたか」
と、妻を心づかう優しい夫の言葉のようですが、
これが光源氏だったら、実は出先で美しい女人の接待を受けていることを、「雨になったから帰れなくてさぁ」なんて、うまい言い訳にして、手紙を受け取った紫の上にはバレバレ……なんて流れになっていそう。
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