自撮りは祈り


私は高校2年生の頃に不登校になり、引きこもりになった。

その理由は家庭内の問題、学校生活での違和感など様々だったが、大きな理由の一つが、自分の容姿に対する過剰なコンプレックスによるものだった。


きっかけは高校2年生の冬。

その日は休日だったが、中学生の頃から大人になったらファッションに携わる仕事に就きたいと意気込んでいた私は、名古屋にある、ファッションについて学べる専門学校のオープンキャンパスに友人と行く予定があった。

その友人は小中学校の同級生で、背が高くすらっとしたスタイルの良い、美人な女の子だ。

私は以前から彼女に憧れている。

中学時代、私は地味で真面目で引っ込み思案の、所謂陰キャでクラスカースト下位というような生徒だったのだが、彼女から気さくに話しかけてくれたり、手紙をくれたり、音楽の趣味が合うと分かるとCDをMDに焼いてきてくれたりと、親しくしてくれた。

なんでこんな可愛い子が私なんかに?と不思議だったが、心底嬉しかった。

一方、私は自分の顔立ちやニキビだらけの肌、スタイル、体重に悩んでおり、鏡や体重計で自分の容姿と向き合っては酷く落ち込むというのを毎日繰り返していた。

そんな頃に彼女と行ったオープンキャンパス。

憧れの彼女の隣に座って乗った電車。並んで歩いた名古屋の栄の街。その中で綺麗な彼女と醜い私を不意に写し出すガラスや鏡。私はそれに釘付けになった。そして自分の心がどんどん壊れていくのを感じた。

なんとかオープンキャンパスを終え、外に出ると空はもう暗かった。
その頃には私はもう無理に表情をつくることが出来ず、黙って下を向き、彼女の少し後ろを歩いて帰るしかなかった。彼女はそんな様子の私を心配してくれていた。けれど私はこんなにも醜いのに、美人なあなたが羨ましくて仕方がないだなんてとてもじゃないが言えなかった。

自宅に着き、私はドタドタと勢いよく階段を上り、真っ先に自分の部屋に向かってドアを閉め、思いっ切り泣いた。そんな私を見て両親が心配してきたが、ここでも私は何も言えなかった。こういう時にいつも「何があったの!?」「言わなきゃ分からんでしょ!!」と声を荒げる両親が嫌だった。

その日以降、私は学校に行かなくなり、引きこもりになった。


因みにこれは後日談で、大人になった20代半ばにその友人と、別の日に私の母からも聞いた話なのだが、友人とオープンキャンパスから帰るなりいきなり自分の部屋に閉じこもって泣いているのに、頑なに何も言わない私を見兼ねた父が、もう夜だというのにすぐさまその友人の家に行き、友人とその両親にことのあらましを説明し、何故私が泣いているのか分からないだろうかと必死に尋ねたという。
父がそんな風に動いてくれていただなんて思いもよらなかった私は、友人とその親御さんにお騒がせして申し訳ないという気持ちと、普段見せない父親らしい行動に、驚きと感謝の気持ちを抱いた。


話は戻り、自分の容姿が嫌で外に出られなくなり、ひたすら家に引きこもるようになった高校生の私は、一日に何時間も鏡を見つめ、この角度ならまだマシかも、今日はまだ顔のコンディションがいいかも、と思うこともあれば、今日は特に不細工だ、この角度だと不細工が尚更際立つ、などと一喜一憂したり、気を紛らわす為に弄った携帯電話の画面が一瞬でも暗くなると自分の顔が不意に映し出され、その醜さに吐き出しそうになり携帯電話を投げ、布団に潜り声を殺して泣いた。銀のスプーンは歪んだ自分の顔が映るので、絶対に使えなかった。

やがて私は携帯電話のカメラで自撮りをするようになった。
初めはノーマルカメラで撮る角度を試行錯誤し、何百枚も撮った内の、なんとか自分で納得出来る顔が写った数枚だけを保存しては見返し、自分を安心させていた。
そのうちプリクラのような、盛れた顔を写すことが出来る自撮りの加工アプリが流行り出した。
私はそれを使い、整った自分の顔の写真を心の拠り所とした。
この類のアプリは一発で撮っても肌や顔の輪郭やパーツ、明るさが自動的に補正された自分の顔が写し出されるのだが、そこから更に自分で目を大きくしたり、輪郭を尖らせたり、肌のアラを無くしたりと加工することも出来る。何故だか私はこの頃から、自分で加工は加えないというプライドだけはあった。なんなんだ。

そしてその自撮りをSNSにアップするようになった。現実とは違う顔の自分でも、いいねがついたり、「かわいい」とコメントして貰えたりすれば嬉しくなった。インターネットで見られる典型的な承認欲求の満たし方だ。しかしその行為はやはり、同時に虚しくもあった。

一般人がSNSに自撮りを載せるというのは、一方では支持される行為だが、大多数の人間からすれば不快であることは知っていた。
何かのニュースで、SNSの投稿で嫌いな内容ランキングみたいな特集で自撮りが1位だったのを見たり、「自撮りをアップするなんて恥」「そんなことするなんて相当自分に自信があるんだろうな」「可愛くもないのに載せるな」「加工されすぎでキモい」などといった他人の意見を聞いては、自分を否定されているような気持ちになった。

しかし私は自分がこんな経緯で自撮りをあげているので、他人の自撮りを見てももちろん、嫌な気持ちになどならない。むしろ私だけじゃないのだと思えて嬉しかった。撮った本人でない人間からすればどれだけ加工で歪んで見える自撮りでも、本人にとってはその自分の顔が好きで、理想で、願いなのだろうと思う。そうやって祈るかのように自撮りをし、SNSに投稿する行為そのものが、私には愛おしく思えるのだ。

30歳になった現在の私は、若い頃に比べたら自分の容姿へ執着することは少なくなったと思う。
しかし決してゼロではなく、今でも出先で大きなガラスや鏡に出くわす度に自分の姿を確認するのは当たり前で、自分の目に格好良く映ればそれだけでご機嫌になり、思っていた通りの自分でなければその日は一日元気がなくなったりする。健康管理の為に毎日体重と体脂肪を計っているのだが、前日より数値が増えていればちょっとへこむ。それにまだ自撮りもするし、SNSにも載せる。

しかし自撮りをする中で自分としては大きな変化が出てきた。自撮り補正アプリをアンインストールし、iPhoneのノーマルカメラでサッと1,2枚だけ撮るようになった。あとはカラコンを装着せずに外出が出来るようになったことも大きい。相変わらず自分の顔に納得はいっていないが、まあちょっと味のあるような顔をしているかなと思う。同時に精神年齢の低さが顔に出ているとも思うが。

思春期に自分の容姿について悩むのは誰しもが通る道だと思うが、あの頃を振り返ると自分は異常で、もしかしたら身体醜形障害だったのではないかと考えることがある。当時、自分が醜くて仕方がないから引きこもっているだなんて恥ずかしくて誰にも言えるはずがなく、通院していた心療内科でも相談しなかった。つまり診断された訳ではないので、今となっては知りようがない。

そもそも何故私は自分の容姿に執着するようになったのか心当たりがなかった。

親に「可愛い、可愛い」と溺愛された訳ではないが、ブスだのと罵られたことももちろん無い。
学校で容姿についていじめられた覚えも特に無い。

ふと気になって、身体醜形障害についてネットで調べた。

するとこんな記述が出てきた。

身体醜形障害

成因.
特定はされていませんが、幼いときの育った環境で、過剰な干渉があったことや、両親や家族などと一緒に楽しんだり悲しんだりした経験が少ないこと、良好な親子関係が作れなかったことなどが関係するのではないかといわれています。

一般社団法人 日本小児心身医学会



......う〜ん、なるほどね!


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