東武東上線 各駅停車 3 朝 霞

 急行が朝霞に停まる!
 この春東上線で画期的なダイヤ改正が行われた。急行列車がついに朝霞駅に停車することになったのである。
 朝霞駅といえば東上線開通と時を同じく、1914年に開業した実に由緒正しい駅で、当時の村名の通り「膝折駅」として開設されたのである。それに比して隣接する和光市駅の開業は、ずっと下って1934年(当時、新倉駅)、さらに朝霞台駅に至っては1974年の開業である。はるかに古参の朝霞駅に停車するのが普通・準急のみである一方、他社線との乗換駅である両駅には、急行さらに快速も停車するのみならず、和光市には快速急行、朝霞台には川越特急が停まるという破格な扱いがされていた。
 気の毒だったのは朝霞駅ユーザーである。新参者の両駅を出た列車が目の前を通過していくというだけでも心理的ストレスが重なることであろう。のみならず、相互乗り入れの地下鉄にトラブルが発生すると運転がとりやめられ、乗れる列車がさらに減る。通勤・通学に気を揉んだ乗客も少なくない。ここはひとつ、朝霞駅を拙稿に取り上げねばなるまい。

 朝霞駅には東口と南口とがある。東口は以前は「北口」と呼ばれていたらしい。東上線は池袋から概ね北西に伸びているが、和光市~朝霞間で大きくカーブし、朝霞付近では進路をほぼ北に向けている。西口・東口、という呼称の方がむしろ似つかわしいのかもしれない。とはいえ、「南口」に降りてみると、階段出口の南側に広い駅前ロータリーが広がっており、これはこれで「南口」でもいいかと思う。
 その南口広場には「本田美奈子. モニュメント」が設置されている。白血病で若くして亡くなった彼女は朝霞で育ち暮らしたのだった。市内には「本田美奈子. ミュージアム」もある。もう一人、朝霞所縁の若くして名を遺したアーティストがいる。尾崎豊は小学5年生から朝霞市民となっていた。彼の楽曲「坂の下に見えたあの街に」は、同市溝沼の神明坂が舞台だそうだ。彼らを偲んで訪ねることもできそうな朝霞である。
 かつて膝折と称していたこの地が朝霞になった経緯を紹介しておこう。東京・駒沢にあった名門ゴルフ場「東京ゴルフ俱楽部」が膝折村に移転することとなり、広大な土地に本格的なコースを造成し始めた。1930年の頃のことである。関係者たちの間から「ゴルフをするのに“膝折”ではよろしくない」との声が上がり、当倶楽部名誉総裁の朝香宮鳩彦に因み「東京ゴルフ俱楽部朝霞コース」との名称が用いられることとなった。折しも町制施行のタイミングであった膝折村も、ゴルフ場開設の1932年に朝霞町と改名したのであった。
 膝折の地名は今も市内に町名として残っている。話は違うが鶴ヶ島市には脚折の地名があり紛らわしい。
 ゴルフ場では大きな大会も度重なり、ベーブ・ルースがプレーしたというエピソードも伝えられている。東武の根津嘉一郎がゴルフ場に隣接する土地を買い上げテーマパーク建設に取り掛かったのもこの頃だという。鎌倉をしのぐ国内最大の露座の大仏が計画され、原型まで造られた。原型の前での関係者の集合写真が残っている。巨大な大梵鐘はすでに完成し現地の松の大木に吊られていた。
 ところがゴルフ場、朝霞遊園地敷地に陸軍予科士官学校、および陸軍被服分廠の移転が決まり、1940年以降は軍用地となってしまうのである。敗戦後、駐留米軍が接収、キャンプドレイクとなる。朝鮮戦争、ベトナム戦争等、米兵が多数ここから戦地に派遣された。基地の周りには米兵相手の飲食街、歓楽街が形成され「日本の上海」と呼ばれたりもした。そう、朝霞は基地の町でもある。紆余曲折を経て米軍から返還された土地には市役所や公共施設などが造られたが、いまだに再利用されないままフェンスで囲まれジャングルのようになった広大な土地が市の中心部に残り、国道254号以南は陸上自衛隊朝霞駐屯地なのである。

 冒頭で朝霞駅急行停車化を祝うような表現をしたが、本音は実は微妙である。朝霞以北の急行停車駅を最寄りとする筆者にとって、東上線唯一の複々線区間で急行が各駅停車になってしまうのがややまどろっこしい。池袋へ向かい急行に乗っているとき、隣の線路を準急や普通が並走していると、一緒に走って一緒に停まる。志木、朝霞台、朝霞、和光市と過ぎて、次の成増にも停車だ。さらに、快速急行が通過することとなった志木、ふじみ野利用者たちもガッカリしていることだろう。むずかしい問題である。
                         4/25 尾崎豊 命日に

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