玉川上水を歩く 2

 小学4年生のわずか2㎞余りの探検は、確かにささやかなものであった。しかし多大な興奮をともなって、知的興味と世界の広がりとを少年だった筆者に味合わせた。これをここで終わらせてはいけない、その先をきちんと見極めたい…。とはいえ全長43kmを歩けるなどとは思わない、兎も角、行けるところまで歩いてみたい、と仲間と相謀って次なる計画を立ててみた。今度は家族にも協力してもらい、休日に弁当を携えて朝から歩いてみよう、とのプランである。水路沿いに行くならば道に迷うこともあるまい、大人たちも容易に理解してくれた。
 「第2回玉川上水探検」と名付けた計画の当日、前回と同様、幡ヶ谷駅南側の二字橋から出発する。午前9時頃のことだったのだろうか。「字」を「あざ」と読むこと、それが「村」と同じような意味をもつらしいこと、そんな理解での出発である。前より少し賢くなった。
 バス折返し場、消防学校、三田用水分水口、南ドンドン橋、笹塚駅等々、あっと言う間に通過した。さすがに三田用水分水口は、前回の興奮の極みの地点であったから、愛おしいものに再会したようなちょっとした感慨に包まれた。
 前回終点とした環七通り、ここから先が未踏の地、道路の下を地下道で横断し、いよいよ未知の領域へ進んでいく。が、例によって暗渠が続き遊具がときどき現れる。一基のコーヒーカップに遭遇した。渋谷区北部でこれを目にしたことのなかった4年生たち(4人で出かけた)は珍しい遊具との出会いに、どれだけここで時間を費やしてしまったものか。カップの中の円いベンチに4人で座り、真ん中の円盤を力の限りに回し続けて、大はしゃぎをしながら、悲鳴をあげながら遊んだ。かなり消耗した記憶がある。
 やがて水路跡が甲州街道の下に消えてしまう。地図での事前調査で、数百メートル先の和田堀給水所(正しくは和泉水圧調整所。当時の筆者は巨大なタンクを「給水所」と誤認していた。)まで歩いた所から、暗渠の旧水路跡が始まるはずであった。排気ガスと喧騒の充満する甲州街道に辟易しながら歩く少年たち。当時はおそらく首都高延伸工事が行われていたであろう、空を見上げると高架工事に圧迫されたのではないか。ひっきりなしに車が行き交う甲州街道は、子どもにとってはストレスであった。
井ノ頭通りに少し入ったところで、進むべき暗渠に出会う。これぞ我が進む道、勢い込んで旧水路跡を進むのであったが、いささか空腹にもなってくる。残念ながら甲州街道に沿うように水路跡が続くので落ち着けないまま先へ行く。築地本願寺和田堀廟所のインド風の建物には驚いたものだった。下高井戸駅付近でようやく甲州街道から北へそれ、玉川上水公園は静かな住宅地の中へと続いていく。ほっとできるような、くつろげそうな場所を見つけてようやく昼食だ。
 4人で並んでベンチに腰かけ、うれしそうに弁当を使っていると、そんな子どもを不思議に思ったか、通りがかりのおじさんが声をかけてきた。自分たちの遠足の趣旨を伝えると、彼は満足そうな笑顔になり「今でこそ、こんな公園になってしまったけれど、以前はとても流れの速い、たくさんの水が流れる川だったのだよ。○○○という作家がここで自殺をして、人喰い川と呼ばれるほどだったのだよ。」と話してくれた。真っ昼間、笑顔で聞かせてくれた話ではあったが、人が溺れたと聞いた小学生たちはゾッとしたものだった。そして、よもやそれが、十代後半の年齢で筆者が耽読しデカダンに沈むこととなる太宰治その人だとは知るよしもなかった。
 冬の午後は陽の傾くのも速い。住宅地の中の遊歩道にとりたてて見るべきものもみつからぬまま、足早に西日の方角へ歩いていくのであった。杉並区も西の方へ近づき、畑や空き地も目立つようになったころ、一瞬甲州街道に戻り、またすぐ右にそれていく旧水路跡、なんだか様子が変である。ずっと続いていた遊歩道がここで途切れてしまったのである。そしてその先上流に向かい、旧水路跡に土が盛られ、土手が長く築かれている。フェンスにさえぎられ仕方なくその土手に沿って歩くしかできなかった。冬のこととて、盛り土は乾燥し、空気もなんとなく砂っぽく感じられた。なんとも釈然としないまま行くと、最近できたような幅の広い、しかし車がほとんど来ない道と交差する。環状八号線はまだとびとびにしか開通していなかったのだろう。京王線に乗って帰るには、この先へは踏み出さないほうがいい。環八を南へたどって、八幡山駅へと向かった。

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