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性善説について

性善説は、この世に生まれて来た時点で、私にはバイアスの掛かったものの捉え方に感じられる。

かと言って性悪説もベクトルが逆さまに向かっているだけであって、基本的には同じことしか示されていない。

どちらにせよ、元々が善だとか悪だと主張する時点で、善や悪の意味が無視されているし、善悪は相対的な方向性でしかない。

つまりは、善も悪も捉え方が自分にとってどうであるかしか本来は示されないのである。

即ち自分と相手のどちらかを善にすれば、その相手は必ず悪になる。その逆も然り。これが分からないから、いつまでも無駄な争いを続けているのだ。

善悪の二元論をいつまでも肯定している限り、人間は、その先の地平を見られない。

それをジャッジメントしているのは、つまり価値観を固定する為なのである。

あらゆる観点においても固定は田舎者の概念である。

田舎者とは田舎に住む者のことを指しているのではない。

古い因習にしがみ付く我良しとなることしか見ていない奴隷根性のムラ社会に棲み付くパラサイトを私は指している。

自分自身がそれにならないことが本来の姿の筈だろう。

二元論のジャッジメントを無くして、その先の地平を観るには、二元論は必要ないことを認識しておけば良いのである。

例えば、ジャッジメントしないことを決めると、その決定がそもそもジャッジメントであり、二元論の枠組みに入る罠なのである。

もっと別な表現をするならば、「善でもない悪でもない、これからは中道だ!」と主張したとするならば、中道か中道でないかの二元論をそこで始めることになる仕組みなのである。

こういう発想がムラ社会を生きる田舎者の奴隷根性なのである。

決める決めないの視点を無視して、そこに注目しなければ良いし、ある時は二元論にもなるし、二元論じゃないことも自由にやるくらいに囚われない感じが自然体に近いだろう。

こうしなければ社会では通用しない!みたいな決めごとを心の中から外していくことが大事だと思う。決めごとはルールを作る。ルールは人を縛る。この繰り返しが現代社会の砦である。

「そうしなければならない」ではなく、拘らないこと、そして拘らないことにも執着を捨てているくらい気にしない状態が普遍化しているニュートラル状態であることが、本当の意味での囚われの無い状態だろう。

自分から観てそうであることを他人から観て気にしている内は、どこかしら何らかの条件を満たそうとしている社会的発想に取り巻かれているのである。

そうであるよりも自分ならこうしたいという根源的な衝動から自分軸を動かして生きることに慣れていけば、社会に合わせる発想や着想からは自由になると思われる

自由になるぞ!と思う人程、余計に不自由な発想をしているのは、条件を満たせばそれに成れるみたいな目標的発想に執着しているのだろう。

それから離れない限り、似た様な永遠のループを巡り続けるに違いない。

性善説には、善しかいないと信じて疑わない発想を押し通せると思っている節がある。

そもそもが善悪を作り出している張本人となっているところから今だに脱却できないのである。

固定観念や自分が勝手に思い込んでいる邪念が、それを辞めない様に自分に強いていることに堂々巡りしていて、そこに気付けないのである。

根本としての本質に目が向けられれば、善を作り出した時点で悪を肯定したことくらいには気付いて欲しいものである。

つまり、神を設定した時点で悪魔を同時に生み出しているのであり、その両極の二元論を肯定しているのである。

この世界では、庶民を善人に仕立て上げる為に、ビルダーとなる創造者的な立場の者の立ち位置は常に悪の枢軸の様に表現されている。

統治的な意味に於いて殆どの庶民が善人面させて貰っていると思える人がどれだけいるのか知りたいくらいである。

誰もが自分は善人だと思い込んで生きている。そして善人だから悪を排除しようと発想するのだ。実際には自分達に不都合な者達を社会的に決め付けて裁いているに過ぎない。

今後はそういう発想は刈り取られて行くことになるだろう。

不都合な存在を面倒だから裁く様になるのである。これはつまり、善人面が飛んだ悪の発想に支えられているのである。

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