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気憶とは?

今日夢から得られたインスピレーションは、気憶(夢の中の記憶について、この様に最近は表現しています)について、とても明確な示唆でした。

それは【気憶とは既視感である】というのです。

これについては、とても合点が行きました。私達が覚醒時に記憶していることは、ある意味どれだけの既視感に支えられたものであるのかが、重要なポイントとなります。

よく見たことがあるものは既視感がありますが、初めて見たものには既視感が伴わないのが実際のことですね。

ただ夢の中の気憶には、既視感しかないのです。
これには全く気付いていませんでした。

言われるまで気付きませんでしたが、確かにそうなのです。

夢は常に霊界を表しており、その霊界とは自分の心の中のことであると言えます。

自分の心の中が霊界であるとするならば、その霊界は他の人とは繋がっていないのでしょうか?

いいえ、そんなことはありません。

だからこそ自分というのは、どこまでも際限のないイメージで表されていて、しかもそのイメージは潜在意識の更に奥にある深層意識の中で、更に突き抜けて集合的無意識のレイヤーで、多くの人々だけでなく、意識し得る限りの存在とシェアしている世界があるのです。

私達はこれを夢と呼んでいるのですが、何故この夢の世界には既視感しかないのでしょうか?

それは時空間を超越して、今自分が創り出しているからに他ならないのです。

つまり、この夢の中の世界は、既にある何かではなくて、自分が今作ったからこその既視感となるのです。

夢を観た予言者がそれを正夢として明晰夢として当ててしまうのは、既視感で創り上げた可能性があると言えると思います。

では自分がその場で創ったという場合の、自分とはどこまでの範囲を指すのでしょうか?

これについて言えるのは、自分自身を自分でどこまで認識しているのかと同義であるように思います。

そもそも自分を身体の持ち主だけにしか思わない人には、自分の範囲はその身体だけでしょう。

しかし、この自分を相手も含めて自分と認識する様になると自分の範囲は大きく拡がります。

この自分の範囲が拡がった状態のまま自己認識すると、更にその範囲は広くなって行きます。

これがどんどん拡がり続けると最終的には地球だけでなく、あらゆる世界そのものが自分と一体化します。これが究極の独りぼっちであるワンネスの意味合いでもあるのです。

夢に出てくる登場人物は、全て心の中の存在であり、それが認識できるならば、自分の大きさとは夢全体と認識するのは訳ないでしょう。

しかしながら、この覚醒後の私達は、この世界を現世(うつしよ=コピーの世界)と呼んでいるのにも拘らず、その事実には大して気にも留めていません。

あの世の現世なのですから、この世も自分が創っていると認識できる筈なのです。

世界の創造主と言ってもワンネスという自分独りしかいないのだったら、それは心が創った幻想的な写像であっても何もおかしくないのです。

ここまでが理解できるのならば、自分とは何かなどに迷う必要も全くないでしょう。

既視感は常に自分が創り出している。

そしてこの世界もその写像でしかない。

だからこそ、夢の中で創り出すイメージは最も重要な要素を多分に含んでいるのです。この夢こそはこの写像であるこの世の根幹であると言えるのです。

ここまでがそのまま認識できるならば、あなたは自分という創造主に全てを願うことはいとも簡単であることは説明するまでもないでしょう。

あなたが魔法使いとなって世界を変えるのなんて自分次第だと気付ける筈です。

要はその柔軟な視点に気付きさえすれば、疑問など何も消失するのです😊

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