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「こちら返信不要です🥰」と書かれていたから。

優しくて、気遣いができて、真っ直ぐな人なんだろうと思う。

***

先日、とあるコメントをいただいたのだが、その最後に「こちら返信不要です」と書かれていた。

そう言われた以上、わたしから返信をすることはマナー違反だと思うので、心の中で「ありがとうございます」とだけ呟いて、そっとパソコンの画面を閉じようと思った。

…のだが。
その前段に記されていた「同じような境遇で」というひと言がどうにも気になり、勝手ながらコメント主さんの投稿を見に行ってしまった結果、わたしは今こうして「返信」ではない形で、何か言葉を残そうと試みている。


少数派の意見を拾うことは、非常に難しい。
特に、世間一般で「良い」「凄い」「素晴らしい」と評価されているもの、またそうであると自分自身も心のどこかで分かっているものに、異を唱えるような発言をすることは、思っている以上に体力を使うものだ。

異を唱えるだけならまだしも、その対象があまりに尊過ぎるものであると、たとえ自分に非がない出来事だったとしても、すべて自分が悪かった、自分の力が足りないだけだった、自分の理解が及ばないためにそういう仕打ちを受けたまでだと、すべて自己を否定することで、その挫折を乗り越えようとしがちである。

もちろん、本当に、ただただ自分の実力が不足しているだけでしたてへぺろ、という場合もゼロではないが、少なくとも「こちら返信不要です」なんて心配りができる人に限って、そんなことはないだろうと、わたしは思う。



コメント主さんが書かれた「同じような境遇」のその内容。
わたしから知ったような口を叩くことはできないが、おそらく、本当に似たような境遇に身を置いていたのだろうと、綴られた言葉の節々からそう感じることができた。さぞかし、辛かったことだろう。

わたしもその"同じような境遇"に遭って、いろんなものが崩れる音がして、その結果、あまりに偏った愛を欲しがったり、まったく違う世界に足を踏み入れたりした。そうして7年ほど経って、今ようやく目が覚めてきたような気さえするのだ。

わたしも、コメント主さんも、まったく厄介な裏切りに遭ってしまったものだ。



だが僭越ながら、恐らくわたしの方が少しばかり早く、その境遇から抜け出したことと仮定して、当時支えとなった言葉をここに置いておきたい。

それは、こういう言葉である。

好きなことにだけ、のめり込まないように。
そうすると、他への冒険ができなくなってしまう。
自分の好きなもの以外、見えないようにするのは愚かなことだ。

あまりに大好きな言葉だから、もしかしたら以前、他の記事でも同じ内容を書いたことがあったかもしれない。が、良かったらこのまま読み進めてみて欲しい。

これは、あのウォルトディズニーが生前残した言葉のひとつなのである。


偉大な芸術家で、ディズニーランドなどという"夢がかなう場所"の創造主である彼が、自分の好きなものに対して、盲目的になってしまうことを恐れていたと知ったとき、わたしはどこか安堵する気持ちを覚えた。


それはただの結果論と、そう言われたらそうかもしれないが、このウォルトの言葉にならって考えると、わたしやコメント主さんが経験した"ある境遇"は、他の冒険へ進むための引き金として、避けては通れなかった運命なのかなと思ったりする。

いや、本当に失礼を承知で、先輩風を吹かせるならば、7年先で今見えているわたしの世界を考えると、絶対にそうだ、としか言いようがない。好きなものから少し離れて、他への冒険ができること、それはある意味で非常に豊かなものである。わたしが言うと説得力に欠けるが、あのウォルトがそう言うのだから、そうなのである。

ただ、コメント主さんの、今この瞬間の暮らしを想像すると、本当に辛い毎日だろうし、この先も幾度となく余計なフラッシュバックに悩まされることがあると思う。
しかし、必ず、必ず、それが糧となって朗らかに過ごせる日々が待っているから、どうか無理せずに、コメントに溢れるその優しさや、気遣いや、真っ直ぐさを大切にして欲しいと、わたしは思う。


これから訪れる明日以降の未来で、"あの境遇"に感謝する必要はまったくないけれど、ウォルトが言うところの"愚かさ"に身を沈めなかっただけ、わたしたちはラッキーだったと、思える日はきっとくるはず。

ハピネスは、必ずしもあそこにあるとは限らない。ここにも、ここにも、またここにもあるかもしれないなと、思えるようになってくれたら幸いだ。

我々のような"演者"が、一緒に働いていたら、また違った境遇が待っていたかも、しれないけどね。



こちら返信不要ですと書かれていたのに、出過ぎた真似を、失礼した。

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