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祖母との思い出を語るだけ。

祖母が亡くなった。
亡くなるときは、こんなにあっさりなのかと思ってしまうほど、突然息を引き取った。

思い返せば、わたしは俗にいう"おばあちゃんっ子"だった。
「年寄りっ子は三文安い」なんてことも言われるが、祖母との思い出に嫌なものは何もない。

ただ最後に、もう少しだけ良い話を聞かせてあげればよかったな、とは思う。


***


幼い頃、母はよくわたしの姉の送り迎えに奔走している印象だった。病院に行ったり、ピアノ教室に行ったり、いつもどこかに行ったり来たり。
身体が弱かったのか、習い事が忙しかったのか、小学校にすら上がる前のわたしにとっては、母と姉の状況がいまいちよく分かっていなかったけれど、そんなとき、決まってわたしは祖母の元に預けられた。

おんぶや抱っこは、祖母の記憶しかない。
面倒見の良いおばあちゃんだったか?と聞かれると、必ずしもそうとは言えないけれど、一緒に本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観ていた時間は、言葉数こそ少ないまでも、確かにいまのわたしを形成する礎になっていたのだなと思う。

中でも映画のセレクトはピカイチ(?)で、どう考えても3~4歳の男児に見せるべき映画ではないだろうが、あの『ゴッドファーザー』シリーズや、ヒッチコックの『めまい』『鳥』、ハムナプトラシリーズの『スコーピオンキング』なんかは、祖母と観た思い出の作品だ。

逆に「ひろくんは、どんな映画が好きなの?」と聞いてきてくれることもあり、当時からディズニー映画に大ハマりしていたわたしは『トイストーリー』『ナイトメアビフォアクリスマス』『パイレーツオブカリビアン』と、これまた70歳前後の祖母に見せるべき映画ではなかっただろうが、わたしのお勧めをゴリ押ししていた。だが、それもすべて「面白いねぇ」と言って一緒に見てくれた祖母がわたしは好きだった。

祖母の身体が元気だったころは、よく一緒にディズニーランドへも遊びに行った。
シンデレラ城を目にして「あの塔のてっぺんにお姫様が閉じ込められてるんだっけ」と、その前に見せた『シュレック』とストーリーがごっちゃになったのか、周囲にいたゲストからの失笑を買うほどに華麗なボケをかましてくれたり。ジャングルクルーズの船長が放った「乗組員が迷子になったりしますからね~」という台詞に対して、「警察も大変ねぇ」という見事なノリツッコミを被せてくれたり。祖母と行くディズニーランドは、いちいち面白かった。

そのほかにも、運動会や、プールの補習や、歯を抜くときなど、子供ながらに「ここぞ」と覚悟を決めなくてはならなかったときに、いつも祖母が遊びに来てくれていた。祖母が喜んでくれるから、が、幼少の頃のわたしにとって、大きな原動力になっていたのだなと、今さらになって思い返している。


***


勉強に、部活に、恋愛に、我ながら生活の忙しさに拍車がかかった高校時代は、必然的に祖母と過ごす時間も減っていった。だがこの頃「おばあちゃん、すごくね?」と思った記憶がある。改めて聞いた、戦争体験の話だ。

高校生になり、世界史の面白さにハマったわたしは、世界地図をボードゲームのようにして、これまでの歴史で起きた戦争をなぞらえるという、いささか不謹慎な遊びでその学びを深めていた。そんな時ふと、改めて祖母の話を聞きたくなったのだ。

わたしの通っていた高校から祖母の家までは、自転車でちょっと足を延ばすだけだったので、部活のない放課後、ふらっと祖母の家を立ち寄ると、「わ~!」と手を叩いて迎え入れてくれた。

「覚えている範囲でいいんだけどさ、正直戦争ってどうだったの?」
やや神妙な面持ちで、そうわたしが話を切り出すと、あろうことか出てくる答えはみな「あれが楽しかった」だの「ここでこんな人に会った」だの「生活はこんな風に変わった」だの、こちらの予想とは裏腹にポジティブな内容のものが多かった。

当時、『この世界の片隅に』という映画が公開されたタイミングでもあり、わたしの中で「戦争」というものの見方が大きく変わった出来事だった。だからと言って、戦争が良いという話ではまったくないが。
それでも、疎開先でしっかり友達を作っていた話や、敵国だったはずのアメリカ文化にすっかり適応していた話を聞くと、なんというか単純に「すごくね?」と思えたのだ。

「いや、おばあちゃん。それだいぶすごいことだって。」そう言うと、祖母はちょっと得意げな顔で「そう?」と笑っていた。
楽観的、ポジティブ、肝が据わってる、そんな風に言われるわたしの性格は、どこかこの祖母の血を引いていたのかなと感じる。

ただ、そんな話を交わした頃から間もなくだったと思う。
祖母の認知症が一気に加速して、戦争の話は疎か、わたしの名前もおぼろげになっていった。


***


わたしの大学在学中、祖母はいくつかの施設を転々とした。
ちょうどコロナの影響で、わたしもキャンパスへの入校が禁止され、アルバイトもストップしたため、しばらくの間実家に帰省し、そんな祖母の施設の送り迎えを手伝った。

当時付き合っていた恋人には申し訳なかったが、この時はなぜか彼女よりも家族を優先させたい気持ちが強かった。祖母の死…なんてことは微塵も考えなかったが、なんとなく、こんな時間が取れるのはこの先の人生を考えても、もう最後くらいだろうなと思ったからだ。

2~3日に1回のペースで祖母と顔を合わせたが、会話のはじまりはいつも「どちら様ですか?」からだった。正直わたしは寂しかったし、ショックでもあった。認知症が改善されることはないと分かっていたし、こうした症状の影響からか、言動が攻撃的になってしまう日もあり、母と祖母との喧嘩の防止役をしていることも多かった。

だがそれで良かった。
医学的なことは何も分からないし、認知症の年寄りに何が効果的かなんてサッパリだったけれど、それまで遊んでいたころと同じように、大学の話やアルバイトの話、友達の話、彼女の話、映画の話を祖母に聞かせた。どうせ数日後には、また同じ話をすることになるのは分かっていたけど、そのたびに満面の笑みで「良かった、良かった」と聞いてくれるだけで十分だと思った。

そして案の定、祖母とまともに会話ができたのは、この頃が最後だった。
わたしが社会人になったときには、祖母も病院暮らしになり、束の間の帰省時にも、その面会時間は限られたものとなった。

仮に面会できたとしても、祖母は目も開けず寝たきりか、起きていても、言葉を発することはほとんどなく、ただぼーっと遠くを見つめているだけだった。

「そろそろだろうなぁ」母や叔父たちがそう口にすることも増えた。
祖母にとって、孫はわたしと姉の2人だけ。何かのときにはすぐ帰れるようにしておこうね、そう姉と連絡を取ったのも、まだ記憶に新しい。


***


母からの連絡には、何の前触れもなかった。

ここ2〜3日がヤマかもしれない。
そう連絡が来た数時間後には、先程おばぁが亡くなりました。と書かれていた。2〜3日もなかった。

こんな連絡を受ける3ヶ月ほど前が、祖母と会った最後の日だ。
その日は姉と2人で病院の面会に足を運んだのだが、たまたま姉が途中で席を外し、看護師さんもいなくなり、わたしと祖母、ふたりだけになる時間があった。

もちろん"会話"なんてものはできなかったけど、「こんな病院にひとりでいて、つまんないね。やってられないね。」そう声をかけたら、祖母の目がゆっくりと開いて、確かにこちらを認識してくれた。
本当ならばそこで、今どれだけ仕事が楽しいか、どれだけ彼女が素敵か、どれだけ人生が輝いているか、なんてことを語りたかった。だが、その時のわたしには「最悪だよね。何にも楽しくないよ。何にも信じられないし、何にも信じたくない。」と、自分でも驚くほどつまらない愚痴をこぼすことしかできなかった。まったく情けない話だが、あの時ばかりは、わたしこそ何のために生きているのか分からないほど、心身ともに疲れ切っているときだったのだ。

ふと我に返り、隣で祖母が口をぱくぱくさせているのを見てハッとして、「でも頑張るしかないからね。頑張ろうね。」、慌ててそう付け加えたあと、祖母の左目からすーっと涙が流れた。ただの寝起きの涙だった可能性もあるけど、わたしにとってその姿が祖母の最後の思い出になった。

あの日が最後と分かっていれば、もう少しだけ良い話を聞かせてあげられたかもしれない。だが、人生なんてきっとこんなものなのだろう。悔しいけど、やるせないけど、怒りたくなる気持ちすらもあるけれど、たぶん、こんなもん。
「またね、また来るね」そう言って別れたのは本心だったが、真の想いが必ずしも実現する保証はなく、だからこそ、やっぱり今。今を、大切に生きることでしか、何事も成し得ないんだなと、くさくて当たり前のことを、今は思う。

祖母の最後は、どんな景色だったのだろうか。
どんな記憶が蘇っていたのだろうか。
まったくの"無"だっただろうか。
祖母は生前、「死ぬときは、なーんにも分からずに死にたいな。」と口にしていた。それに対して家族はみな「いやいや、ちゃんとひとりひとりに感謝しながら死んでいってほしいわ!」とか言って笑っていたけれど、こればかりは本当に、祖母の願ったり叶ったりだったのかもしれない。

我が家は良くも悪くも、死に対してあっけらかんとしているところがある。
下手に悲しみを嘆く文化はなく、死はただの生の一部として、恐怖の対象でも、苦しみの対象でもないとする考えは、身内ながらとても素敵なことだ。

だからわたしも、祖母との別れに寂しさはあるけど、悲しみはない。ましてや美談になることも、感動エピソードになることもまったくない。ただひとつ、これから祖母の前で手を合わせるときには、たとえどんなに苦しい状況だったとしても、1つくらいは心底くだらなくて、呆れるような面白い話を用意していこうと思う。

そうしてまた、祖母との思い出を紡いでいきたい。






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