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『バービー』考察:「アレン」という個人≒マイノリティ

タイトル通り、映画『バービー』はマーゴット・ロビー演じる「典型的なバービー人形」を主軸に据えた物語だ。
現実世界の女性に夢と希望を与え、女性差別を無くして世直しに成功したと信じるバービーと、バービー人形のアクセサリーであるケン。
しかし、様々な職業やルックスで多種多様に展開されているバービーやケンと違い、一度発売されたがお蔵入りになった人形が本作には登場する。
妊婦のミッジや、ケンの友達として売り出されたアレンだ。

映画『バービー』において、「アレン」とは誰だったのか。
この問いに対して本noteは、アレンとは
①ジェンダーマイノリティ(ノンバイナリーやジェンダーフルイド、トランスジェンダー)を表彰しうる存在
②現実世界の「一個人」に最も近いキャラクター
であるという、二つの答えを述べるものである。


※ネタバレ有り

全体として映画『バービー』は、現実世界の問題を全て解決するようなものでも、解決したらどうなるかという理想系を描くものでもない。
バービーのドリームランドはバービーにとっては都合が良いがケンにはバービーほどの権利(家などの資産や他社からのリスペクト)が与えられない世界であり、それは現実世界の写し鏡として機能している。
現実世界の女性の扱いや「バービー人形」が結果的に女性の生きにくさの要因ばかり表彰してしまっていることにショックを受けるバービーと、
家父長制により男性の方が社会的な地位を築き上げている現実世界に感銘を受けるケン。

現実世界のロサンゼルスに到着したバービーとケンは、自分たちには男性器も女性器も無いと述べている。彼らは人形であり、人々の創造物、アイデアであるのだが、バービーもケンも自分と同じ名を、身体的特徴を持つ他のバービーやケンたちがいるという店において、バービー=女性、ケン=男性とそれぞれの性別に帰属意識を抱いている。

ではアレンはどうか。
身体的特徴はバービーよりもケンに近く、「ケンの友人」として創造されたアレン人形は、映画冒頭のバービーランドにおいてはケンと同様に家も持たない社会的弱者であるが、ケンのように名前や創造意義を共にする他のケンという仲間も持たない。ケンと違い、他のケン/他の男性というコミュニティを生来持っていないのがアレンである。

そんなアレンは物語の中盤、ケンダム=ケンの王国と化した元バービーランドからおさらばして現実世界へ逃げ出そうと車に乗り込む。
アレンは身体的にはケンに近く、創造意義の面でもケンがバービーにとってそうであるように「ケンのアクセサリー」として売り出された人形だが、では内面はどうか。
「バービーランド」におけるアレンは、ケンと同じに見えてその実ケン以上の社会的弱者=マイノリティであることは先述した通りだ。
では「ケンダム」ではどうかというと、メイド服こそ着ていないものの、他のバービー人形と同じようにケンの足を揉むアレンのシーンがある。
このことから、「ケンダム」におけるアレンは、「ケン」=「男性」としては他のケンたちに認められず、メイド服を着せられる「バービー」=「女性」でもないが、ケンダムにおける社会的弱者となったバービーと同様に社会的強者(ケン)に下る/劣る存在のように描かれている。

しかしバービーたちが憲法改正の票を投じる場面では、アレンもまた議会におり、法改正を喜んでいる。
これはなぜか。順を追っていくと、

①バービーランドにおけるアレンはケンと同等かそれ以下の社会的弱者だった。
②ケンダムにおいてもそれは変わらず、バービーと同等の社会的弱者であった。

この②の時点でアレンは、バービーたちに帰属意思を抱いたのでは無いか。
①の時点ではケンの方により帰属意識を寄せていたと考えることもできるが、もしそうだとしたら②はアレンにとってケンからの裏切りとして映るため、ケン側に帰属意識を持ち続けることは難しいだろう。
ちなみに②の時点でアレンが抱く帰属意識とは、自分も同じバービーだ、ということではなく、バービーとアレンは違うものの、自分もバービーと同じ弱者なのだから、今度は自分がバービー側に回れるのでは無いか、という期待だろう。

かくしてバービーはバービーランドの支配者、社会的強者としての地位を取り戻した。
ナレーションでは、「ケンたちもこの先、現実世界の女性たちと同程度の権力を手にすることだろう」と明示されている。
これはつまりケンとバービーが真に同等の権利を獲得するまでは長い道のりであり、現実世界でそれが実現されない限りはバービーランドでも永遠に不均等な社会格差が存在し続けるということを暗示している。
ではアレンはどうか。
ケンのように言及すらされないアレンというのは、男性と女性という性別の枠組みで言えば、どちらにも単純には帰属できない性的マイノリティ、つまりノンバイナリーやジェンダーフルイド、トランスジェンダーのような人々を表彰するような存在となっている。
本映画はフェミニズムや家父長制についての直接的言及はあっても、そのような性的マイノリティについての言及はない。物語の主軸どころか、話にも出ない、議論すらされず、確かに存在しているのに忘れられている。そんな存在がアレンであり、結果として現実世界において「バービー」にも「ケン」にもなりきれない人々を表彰している。

なお、アレンが議会にいたことやケンの足を揉んでいたことは、「友人」として創造された存在だからと考えることもできる。友人として隣人の成功を喜び、応援し、疲れを癒しそばに居る者としてのアレンは、物語のヒーローでもヒロインでもなく、あくまでも脇役の脇役。
しかし視点を変えれば、アレンのような社会の大枠に下ることができない人物は、社会的強者にとって都合の良い存在でいることでしか安全性やなけなしの権利を勝ち取ることもできないことを表しているとも言える。


ここまでは物語の構造上、女性でも男性でもない性的マイノリティとしてアレンをとらえてきた。
しかし、実際にトランスジェンダーやノンバイナリーとしての性自認を抱くか抱かないかに関わらず、自分の身体的性別に異和を覚えていようといなかろうと、どのような性自認を持っていようといなかろうと、本来「個人」とは「アレン」のような存在ではないか。

人間とは社会的な動物である。人との関わりの中で人は生きている。村八分にされて生き続けることは、様々な困難と痛みを伴う。
故に人間はコミュニティを築き、その内に加わり、コミュニティの一員として求められる特性や行動、言動、思想をはじめとした規範に従う。
人間社会においては今まで、男性と女性という二つの性が前提とされてきた。その二つしか選択肢は与えられていない、という場合がほとんどだったのだ。
これに加え、生来の性器がどちらの性別のものであるかに基づいた、つまり自分の自由意志で選択したわけではないどちらか一つの性によって、男性とはかくあるべき、女性とはかくあるものという「男性規範/女性規範」に縛られる。
これに迎合しきれなければつまはじきにされる。
迎合せず、またはすることができないとしても、「性的マイノリティ」と名付けられたカテゴリにおいて「ノンバイナリー」など様々な語を充てられたコミュニティに属することはできるようになったのが近年だ。
だが「迎合できる」ことは必ずしも、その性規範に従うことを心地よく行えるということではない。
女性として生きるにも男性として生きるにも、それぞれの生きにくさがつきまとう。
それは、女性であればバービー人形のような理想系であったり、「女性であること」にまつわる様々なアイデアの集合体、社会規範に組み込まれたイメージや現社会における地位や格差、権利や制約等々の全てであり、身体的に決定づけられた性別のまま規範に従うことにある程度の利ーーつまはじきにされないことであったり、同じ女性同士、男性同士というような同等性を獲得できる場合があったり、単にレールを切り替えることのハードルが高かったり必要性が感じられなかったり…
様々ではあるが、生来の身体的性別に基づいた性で、まわりの期待や思い込みのままに生き、あえて逸脱までしないことのほうがラクでスムーズだった、ただ周囲の期待に答えようと、周りの人や社会メディアが発するメッセージを雨のように受けながら日々を歩む。
その結果、個人は「男性」または「女性」という人間社会が築いた概念を内包し、内在化させ、また自分の一部としていずれかの性を自分とイコールのものとして同一視する。
男性である、女性であるというのは、そういうことではないかと思う。
生来の身体的性別をきっかけとして、男性的、あるいは女性的になっていく。男性性や女性性の獲得とも言い換えられる。
性的マイノリティ、という言い方は男性や女性というマジョリティに対しての言葉であり、いずれかのバイナリーな性の獲得や社会的迎合に成功したか否か、それぞれの性のレールに乗ったまま進むことを是とできたか否かという点では確かに異なるが、
個人が個人、つまり他者とは一線を画する別個の意思や特性、特徴、思想、理想、性格などを持つユニークな存在であるのなら、その時点で画一化された「マジョリティ」(男性や女性など)と完全一致することは難しいのではないだろうか。
個人は誰しもマイノリティたり得るというのは、例えば一度事故に遭って身体的障害を負ってしまった場合などを考慮して言われる場合もあるが、個人という概念とマジョリティという概念は本来相容れないものではないだろうか。

アレンはケンの友達で、ポロシャツと半ズボンを着てビーチで共に過ごすし、バービーと議会へ行動を共にもすれば、変人ハウスの一員としてもその顔を見せ、ケンの足を揉んだり、かと思えば現実世界への壁を作るケンらをパンチで強行突破しようともする。
そんなどの要素も持ち得るのがアレンであり、個人だ。

自分は女性であると思うのも、男性であると誇るのも、卑下するのも、コミュニティに帰属意識を感じるのも、どれもそれだけでは悪いことではないかもしれない。
けれどその帰属意識や努力、自己認識が、それらの社会規範を取り払った時に在る自分自身としての本来の特性、ないしはアイデンティティを、傷つけ、囚え、制限しないものであればいい。

アレンがバービーのような物語の主軸であれば、バービー(女性)でもケン(男性)でもない、誰でもないアレンとして、自分自身の生を歩んだことだろう。

バービーに憧れても、ケンに同情してもいい。
けれど、自分は、本当は誰なのか。
それだけは見失わないように。

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