よるまち魚編年記

「歳ちー、天国では皆が海の話をするんだってさ」
 手すりにもたれかかりながら小鳩がそんな話をするので、歳華は危うく目の前の男を突き落としてやるところだった。海原を往く船の速度はそれなりのものだから、きっと数秒で藻屑になるに違いない。
 歳華の殺意に気づいていない振りをして、小鳩はなおも笑っていた。ノットで数える風を浴びながら、遥かな海を指で差す。
「ちゃんと見ておかないと、天国での話題についていけないかもしれないからね。歳ちーもちゃんと見ておくといいよ。この景色凄いだろ?」
「……別に天国での話題を気にしなくていいんじゃない? 小鳩は絶ッ対地獄行きだから」
「地獄って映画館が無いんだろうなあ、困るな」
 地獄行きであるところは特に否定しないらしい。殊勝な心掛けだと思った。流石は害悪の名前をほしいままにしている男である。ふんわりとした癖毛と柔らかい微笑みは天国に似合うだろうけれど、この男が天国に迎え入れられるなら、大抵の人間はそこの住人になるはずだ。
「さ、気が済んだら何か食べようよ。目的地まではまだ二時間くらいあるからね。何かお腹に入れとかないと」
「まるで私が拗ねてたみたいな言い方やめてよ。私は拗ねてるんじゃなくてキレてるんだからね」
 目的地まで二時間か、と歳華は思う。結構気の長い話だ。家を出てから既に数時間が経っている。どこまで来たのかが、正直もうよくわからない。 
 ——どうしてこんなことになったのか。話は数時間前に遡る。夏休みを迎えた瀬越歳華の元に、ふらっと菱崖小鳩が現れた朝の話だ。

 小説家を目指していたはずの歳華は、あれよあれよという間に高校三年生になっていた。高校三年生といえば、大学受験を控えた大切な時期である。本当なら現役女子高生小説家として華々しく脚光を浴びていたはずの歳華だったが、どういうわけだかそういうことにはなっていなかった。この時点で、人生設計の大幅な狂いが生じている。
 このままではまずい、ということに気づいた彼女は、差し当たって方向を修正することにした。現役女子高生小説家ではなく、現役女子大生小説家を目指すのだ。これならまだまだ猶予がある。大学なんて四年間もあるのだから、その間にはきっと小説家デビューが果たされていることだろう。歳華は強い気持ちでそう思った。
 というわけで、受験である。
 特に大学にこだわりの無い歳華は、自然な流れで都内にある英知大学を受験することにした。大学としては可もなく不可も無くだが、アクセスがとにかくいい。それに兄の俊月や知り合いの菱崖小鳩の出身でもある。ここは一つ、自分もその一員に入るとしよう。そう、単純に考えたのだ。
「へえ、歳ちー英知大学受けるんだ。それじゃあ僕の後輩ってことになるね」
 そう言って、小鳩が笑ったのを今でも覚えている。それが確か高二の終わりの頃だ。そろそろ真剣に勉強に取り組まないといけないぞ、と先生が口うるさく言うような時期だ。
「……別に小鳩一人の出身大学じゃないでしょ」
「そうだねえ、受かったら一緒に文化祭回ろっか」
 ふにゃふにゃとした笑顔で小鳩がそう言うので、歳華の心はすっかり決まった……わけではなかった。断じて、そう、断じてだ。小鳩は既に卒業しているし、歳華と小鳩が並んで登校することはない。
 それでも、歳華が本気で受験勉強に取り組み始めたのは、小鳩に志望校を伝えたその日からだった。英知大学に入る。小説家になる。そして、小鳩と文化祭に行く。その三つの柱が、歳華のモチベーションを跳ね上げたのだ。

 さりとて、モチベーションではどうにもならないこともある。

 英知大学の入試は困ったことに結構厄介だった。端的に言って、そこそこ難しいのである。嫌がらせのような英語長文にマニアックな歴史問題、殴りつけてくるような古典問題の量。ちょっとはしたないくらい酷いラインナップだ。
 歳華には勉強がわからぬ。小説を書き、小説の為に暮らしてきた。だが、浪人という言葉には人一倍敏感であった。何せ、女子高生小説家がタイムリミットの関係上難しくなってきているのだ。そうなれば、歳華は女子大生小説家になるより他に選択肢が無い。
 初めての模試の結果が返ってきた時、歳華は泡を食って兄の元へと駆けた。
「待って待って待って、お兄ちゃんってもしかして、結構頭良かったとか、そういうことなの……? まさか、英知って、」
「いや、そんなことはないぞ。あの大学は捻った問題も多いが、基本が出来ていれば焦る必要は無い。今の段階で過去問が半分取れれば上々だ。英語長文は量を読む練習をしていけば自然に解くスピードが上がっていくだろう。参考書は何を使っているんだ? ディスコースマーカーか?」
「待って、その段階にいない妹に真面目なアドバイスしないで」
 夏休み前の時期である。受験まではあと半年も無い。しかし、歳華は英知大学の過去問どころか、センター試験の過去問を開いてすらいなかった。兄の期待はすこぶる重い。それはもう潰れそうなほどに!
 かといって、勉強に集中出来るわけでもなかった。英単語を覚える時も、古典文法を覚える時も、チラつくのは試験に関係の無い小説の一節だった。数分勉強して延々と小説を書くような人間の成績が上がるだろうか? 答えはノーだ。砲丸投げの練習はプールでは出来ないのである。
 さりとて焦りが減るわけでもない。一向に通らない新人賞、上がらない成績、増えていく誰も読まない小説! 純粋かつ優しい兄は妹を純粋に応援していたものの、応援で成績は上がらない。
 理由あって歳華は兄と二人暮らしをしているのだが、とうとう母親から「さっちゃんが本気で受験勉強するのなら、実家に戻った方がいいんじゃないかしら?」との声まで掛けられてしまった。純粋な応援だと知っているからこそ、気が狂いそうになる。
 八方塞がりだ。信頼で目が曇り切っている俊月ならまだしも、両親にこの似非受験生っぷりがバレるのはマズい。けれど、歳華は勉強に集中出来ない。どうするか。夏は歳華の魂を焼き焦がし、ぬるぬると取り囲む。
 菱崖小鳩がやってきたのは、丁度そんな夏の日だった。

「歳ちー、久しぶり。勉強は捗ってるかな?」
 ちゃんと数えれば三ヵ月も離れていなかっただろう。けれど、久しぶりに見た柔和な笑顔が、歳華の感覚を狂わせた。殆ど数年越しの再会みたいに、彼女は酷く安堵してしまったのだった。
「……小鳩って全然変わんないよね」
「えー、ここ来る前にちょっと髪切ったんだけど。嫌だな」
「ここでまた面倒な彼女ムーブを……」
 けらけらと笑う小鳩に対し、ちゃんと不貞腐れられたかはわからない。むしろ、兄の俊月の方が憮然とした表情が上手かったようにも見えた。
「小鳩。家に来るなら事前に言ってくれないか。妹は受験生だぞ」
「あっれおかしいな。僕はちゃんと近々戻るって言ったはずだけど」
「そのメッセが届いたのは昨日の夜中だろ」
「数時間後だからそれこそ近いさ。解釈の違いだね」
 出された紅茶を飲みながら、小鳩が小さく首を傾げる。
「ところで、お兄ちゃんに庇護された受験生、瀬越の歳ちーの勉強の捗り具合はどう?」
「……別に小鳩に心配されるようなことじゃないよ。普通」
 歳華の頭にはノートパソコンに溜まった小説の山が過ぎっていた。小鳩がいなかった間に降り積もった物語。進まない過去問。綺麗なままの単語帳。およそ三ヵ月前と変わらないそれが、歳華の表情を曇らせる。
 それを見ておおよその事情を察したのか、小鳩の方が目を細めた。ややあって、彼が口を開く。
「ねえ歳ちー、ちょっとドライブに行こうよ。気分転換をしたら、きっと勉強も捗るよ」
「えっ、ほんと?」
「歳華。やめておけ。こいつの誘いに乗るとろくなことにならないって知ってるだろ。勉強なら俺がみてやるから」
「わかってないな、瀬越。歳ちーは本当は欠片も勉強なんかしたくないんだって。受験生だから申し訳程度に躊躇ってみせてるけど、本心は行きたくて仕方ないはずだよ。大丈夫だよ、歳ちー。僕はそんな歳ちーの気持ちもちゃんと汲んでるから。罪悪感があるなら、僕に全部押し付けちゃえばいい。君はいつもみたいに『仕方なく付き合わされました』って顔をするといいよ。どうかな?」
「……小鳩っていつも四言くらい多いよね? なんでそうなっちゃうの?」
「でも、行きたいでしょ?」
 歳華はちらっと兄の方を見た。渋い顔という形容じゃ足りないくらいの顔をして、溜息を吐いている。気持ちは分かる。相手はあの菱崖小鳩だ。受験生と引き合わせるにはあまりに危ない代物である。
 それでも、歳華は期待を込めて兄の方を見続けた。ややあって、俊月が言う。
「……歳華、俺は警告したからな。小鳩。人の妹に手を出したら、流石の俺も赦さんぞ」
 普段より、一層暗い声だった。友人に向けるには不適切な声だ。それに対して、小鳩は小さく肩を竦めながら返した。
「……わかってるって。歳ちーにそんなことしたら、瀬越に殺されるだろ? 困るな」
「頼むぞ。たった一人の妹なんだ」
「……お兄ちゃんはお兄ちゃんで心配の方向性がおかしくない?」
 張り詰めた空気の中で、歳華はどうにかそれだけ言った。これじゃあまるで、歳華の人生全てを懸けるかのような声色である。これから行われるのは楽しいドライブであって、二人での逃避行なんかじゃないのに。
「こいつにはこのくらい釘を刺しておいた方がいいんだ。何をしでかすかわからないからな」
「大丈夫だって。ね、歳ちー。こんな堅物放っておいて二人で楽しいことしようね。あ、アイスでも買ってあげようか。嬉しいでしょ?」
「……大丈夫だよお兄ちゃん。小鳩のことは私がちゃんと見張ってるから」
「歳ちーは手厳しいよね。困るな」
 肩を竦めながら笑う小鳩に対し、親愛なるお兄様は依然として微妙な目を向けていた。歳華がこの視線の意味にもっと早く気が付いていれば、あんなことにはならなかっただろう。
 けれど、歳華はあっさりと騙された。近くの有料駐車場まで、カルガモのように着いていってしまったのだ。

「じゃ、助手席乗って。後部座席でもいいんだけどさ、どうせなら隣にいてよ」
 駐車場に停めてあったのは、白いBMWだった。車に詳しくない歳華でもその名前だけは知っている。そのテンプレートな高級車っぷりに慄く歳華を置いて、さっさと小鳩が乗り込んだ。
「さ、遠慮しないで」
「お、お邪魔しまーす……」
 少しだけ緊張しながら、歳華がBMWに乗り込む。ふかふかのシートが更に気持ちをざわめかせた。ややあって、彼女が口を開く。
「小鳩ってお金持ちなの?」
「んー、そこそこの学歴だし、人当たりもいいし、ついでに外国語も堪能とくれば稼いでてもおかしくないだろ?」
「その言い方が異常に腹立つ」
 相変わらず得体の知れない相手だ、と歳華は思う。彼女は、これから一緒に出掛ける相手の職業すら知らない。映画が好きで、兄に言わせれば害悪で、容赦が無くて、歳華の小説を読んでくれる。そのくらいだ。シートベルトを握る手が白かった。ささくれ立った兄の手とは全然違う。
 一体何処まで聞いていいのだろう、と少しだけ怖くなった。気になるなら聞けばいい。一体何処の国に行って、どんなことをしたのか。休日はどんなことをしているのか、どんなものを好きなのか。
 菱崖小鳩の知らない一面を知りたかった。拒絶されることでダメージを受けてしまいそうなほど、切実だから聞けなかった。機嫌がいいのか鼻歌を歌う小鳩の、久しぶりの横顔を見つめる。
 そんな状態だったから、歳華は車が走り出したことにも気づかなかった。高速に乗りながら、小鳩が言う。
「にしても、こうして歳ちーと出かけられて嬉しいな。瀬越は怒るだろうけど」
「私も……嬉しくないわけじゃないよ。確かに気は滅入ってたし、受験勉強も上手くいかないし。気分転換は必要だと思ってたから」
「本当に? 嬉しいな」
「小鳩って昨日日本に帰ってきたんだよね? そのまま来てくれたの?」
「そうだよ。だって歳ちーに会いたかったんだもん」
 さらりとそういうことを言うのだからたまらない。
 そんな甘い言葉で騙される歳華じゃない。その言葉に深い意味は無い。それはそれとして、嬉しいことに違いは無かった。歳華も歳華で、こんな日を待っていたような気もする。隣に小鳩がいて、こうして軽口を叩き合えるというのは、なんだか妙に幸福染みていた。
 笑いそうになるのを必死にこらえる。表向きは冷静に振舞いながら、歳華は静かに尋ねた。
「ところで小鳩。これ、何処に向かってるの?」
「んー、海」
「海? 確かに暑いもんね」
 小鳩にしてはオーソドックスで良いチョイスだ、と歳華は思う。夏といえば海、海といえば夏。斜に構えてはいるものの、歳華もその組み合わせは嫌いじゃない。陽光に輝く海なんて、小説の題材にぴったりだ。浜辺にいる間に短編小説を書いてみるのも悪くない。歳華はそういう分かりやすい雰囲気づくりが大好きなのだ。
「でも意外。小鳩のことだからまた大変な場所に連れて行かれるのかと」
「そう思ってた? 嫌だな」
「そうだよ。パン屋強盗に巻き込まれても困るし」
「あれは僕がやったんじゃない。不可抗力だよ。困るな」
「それはそうだけど——」
 そこまで言って、はたと気づく。そうだ。あのトラブルは確かに不可抗力だったのだ。小鳩が悪かったわけじゃない。小鳩が真に害悪であったのは、パン屋強盗のその後の話だ。
 この男の害悪性は、外的要因に依るわけじゃない。この男は単体で悪い。そのことに気づくのが、どういうわけだか遅れてしまった。
「……小鳩、本当に海に行くんだよね?」
「そうだよ」
 小鳩は涼やかにそう答える。今にも歌い出しそうな、機嫌の良い横顔が見える。それを見て、一層不安になった。
 日本は海に囲まれている。海と一口にいっても沢山選択肢がああるだろう。けれど、小鳩はただ『海』と言っただけだ。東京湾とか南房総とかそういう具体的な場所名を出したわけじゃない。
 法定速度ギリギリで飛ばす車は、全く停まる様子を見せなかった。さっき思い浮かべたオーソドックスな海水浴場は、きっともう既にコースから外れている。
「……信じていいんだよね? 本当に海だよね」
 駄目押しのつもりで、歳華はどうにかそう口にした。現実を直視したくない気持ちと、今ここで聞いておかなければ取り返しのつかないことになる、というセーフティロックが入り混じる。ここで水を掛けなければ、後に残るのは焼け野原だ。
 果たして、小鳩は笑顔で言った。
「うん。嘘じゃないよ。最初に行くのは海」
「あ゛ああああああーーーー!!! やだーーーーッ!」
 思わず絶叫してしまった。趣味のいい車内に、歳華の声がよく響く。『最初』というからには、次があるのだろう。海という言葉に繋がる選択肢の多さに眩暈がした。
 海は世界に繋がっているし、小鳩の笑顔はこの旅が長引くことを暗に示しているようだった。そして、この男は容赦というものを知らない。助手席の歳華が女子高生だろうが受験生だろうが、お構いなくこのオープンワールドを楽しむことだろう。
「ま、待って! 小鳩! こっ、これ、泊まりになるの? 嘘だよね? 私何にも持って来てないんだけど!」
「小さいワープロは持ってるでしょ? 小説家ならそれで充分!」
「人間はポメラのみにて生きるにあらず!!!」
 小鳩のドライブに難色を示した兄の顔を思い出す。彼はきっと、そのドライブがどれだけの規模になるのかを察したに違いない。だからこそ、歳華のことを止めたのだ。流石長年の親友なだけはある。だったら、と歳華は思った。だったら、その可能性を言葉にして欲しかった……!
「大丈夫。港まではあと三十分もすれば着く予定だから。海も好きなだけ見れるよ。そこから数時間船だし」
 更にスピードを上げながら、小鳩が楽しそうにそう言った。騙された。嵌められた、そんな言葉が浮かんだけれどもう遅い。歳華は殆ど泣きそうになりながら叫んだ。まな板の鯉だって生きている!
「やだやだ降ろして! もうやだ帰る! お兄ちゃんに迎えに来てもらう!」
「えー、そもそも瀬越は歳ちーのことを止めたじゃないか。今更瀬越に頼るの? 嫌だな」
「だってこんなことになるとは思ってなかったんだもん! や゛だあ! 停めてよ!」
「嫌だね。僕は絶ッ対に停まらないよ。勿論歳ちーが走る車から飛び降りたいっていうのなら止めやしないけどね。君の心臓と僕の車、止まるのはどっちかな! 興奮しちゃうな」
「何でいきなり命のやり取りしなくちゃいけないわけ!?」
 それでも、冗談交じりのその言葉が嘘じゃないことを知っている。小鳩は言葉通り、絶対にこのイカしたBMWを停めないだろう。歳華が泣いても叫んでも、絶対にこのドライブをやめない。仮に飛び降りようとしたとして、どういう対応をするだろうか。
 そこから先の想像が、何だか恐ろしくて悲しくて、結局歳華はシートベルトすら外せなかった。流石に停車はしてくれるだろう。……でも、ねえ?
「……本当、私何にも無いんだけど、その、旅支度……」
 何だか急に心細くなって、拗ねるようにそう口にした。すると小鳩が、いつものように優しい声で言う。
「買えばいいじゃん。向こうに着いたら現金を渡してあげるからさ。必要なものは全部それで買えばいい」
「そういう問題じゃないんだけど!? ねえ! これ普通に略取だから! 女子高生拉致だから!」
「略取とは難しい言葉を知ってるね、歳ちー。でも、言葉巧みに誘い出されて自分からドナドナされるのは略取じゃなくて単なる誘拐だよ。嫌だな」
「なーに誘拐のエキスパートみたいなこと言ってんの! この害悪! 犯罪者!」
「ストレートに傷つくなあ」
 からからと笑いながら、小鳩がそう呟いた。嘘つき、と歳華は心の中で口にする。この男が自分の言葉で傷ついたりするはずがなかった。歳華の言葉は、きっと小鳩には届かない。
 多分、小説もそうだ。優しい小鳩が読んでくれるそれが、彼の心に響いているかどうかなんてわからない。
 何だか全てがどうでもよくなって、歳華はふかふかの椅子に身を預けた。あと三十分もすれば港に着くという。あとは野となれ山となれだ。海だけど。
「歳ちー、眠るの?」
 返事はしてやらなかった。それが、歳華に出来る唯一の抵抗だった。

 甲板には簡易フードコートのようなものが設置されていた。海風を浴びながらご飯を食べられるのも、視界に広がるのが美しい海だというのも、かなり出来たシチュエーションだ。非現実的ですらある。それも含めて苦々しいこと極まりなかった。こういうお膳立てをされても困る。
「本当に信じられないんだけど……」
 オムライスにスプーンを突き立てながら、歳華は暗い声でそう言った。半熟の卵にデミグラスソースが混じって、歳華の心中と同じ色合いになっていく。楽しい気持ちに混じる澱み!
 対する小鳩は特に気にすることもなく、醤油ラーメンを啜っていた。啜りながら食べているはずなのに、何故か全く音がしないのが不気味だった。何かの不具合みたいだ。
「どうしたの? もしかしてオムライスが不味かった? 駄目だな」
「オムライスには罪は無いんだけど。罪があるのは小鳩なんだけど。てか、何でここに来てラーメンなの?」
「海の風を浴びて食べるラーメンの美味しさを知らないのは不幸だよ。潮風と醤油って相性がいいんだ」
「……一口ちょうだいよ」
「いいよ」
 小鳩の言う通り、醤油ラーメンは美味しかった。こんな状況下でなかったら、きっともっと美味しかっただろう。
 菱崖小鳩は害悪である。その言葉を改めて口の中で転がした。知り合いの女子高生を無理やり車と船に乗せ、訳のわからないところへ連れて行こうとしている。これが害悪でなくて何というのだろう。色々な意味で物凄くアウトだ。
 宣言通り海に辿り着いたBMWは、何だかいかした駐車場に颯爽とその身を滑らせた。その後は数分も経たない内に海の上である。麗らかなお昼時を甲板で迎える贅沢には異存は無いけれど、歳華の中では未だに疑問符が浮かんでいた。何がどうしてこうなっちゃうんだろう?
「歳ちー怒ってる?」
「怒っているというか悲しんでる」
「僕もちょっとは罪悪感があるんだよ。やっぱり時間っていうのは値千金でしょ? そんな歳ちーを連れ出すのは、やっぱり申し訳ないかなって」
「うーん、ここにきてそれを申し訳なく思う? 私としては、行き先を告げずに船に乗せたことに思うところあって欲しいんだけど?」
 出来る限り刺々しく言ったはずなのに、小鳩は相変わらずにこにことしていた。それを見た瞬間、何だか全部が馬鹿馬鹿しくなる。罪悪感の処理が上手い相手に何を言ったって無駄なのだ。
「……別に受験勉強なんかどうでもいいよ。あんなの意味無いし」
「意味無い?」
「……大学なんて何処でもいいんだ。私は小説家になるんだもん。小説家に学歴なんか関係無いでしょ」
「うーん、まあ否定はしないけど」
 不実なことを言うならば、歳華が英知大学を目指したのは単に知り合いの出身校だったからだ。……小鳩の出身校だったからだ。何か繫がりが欲しかったし、きっとそこに入ったら小鳩は一言「すごいね」と褒めてくれることだろう。
 恥ずかしながら、歳華はいつぞやの文化祭の約束をよすがにしているのだ。
 それ以外に動機なんてなかった。何しろ、瀬越歳華はいずれ天才小説家になる人間である。英知大学に入れないことなんて、本当の意味で些事なのだ。けれど、それを聞いた小鳩は素直に眉を顰めていた。ややあって、小さく言う。
「うーん、僕はちゃんと受験勉強をした方がいいと思うな」
「正論やめて!」
「だって一応歳ちーより大人だし……。別に大学が全てじゃないけど、瀬越は歳ちーの受験を応援してたし、多分結構期待もしてるっぽいし……」
「ちょっと……常識人みたいなこと言うのやめて……小鳩は破天荒でモラルが無くて享楽的なキャラクターでしょ……ここは『さっすが歳ちー、僕は応援してるよ』じゃないの……?」
「友人の妹の人生設計に破天荒を持ち込むわけないだろ? 困るな。それにしても、歳ちーの中の僕って大分甘くない?」
「うるさいなあ、私のこと分かってくれるのなんて小鳩くらいなんだもん」
 今ここにノートパソコンが無いことが悔しかった。今朝、小鳩が現れた瞬間、歳華は書き溜めた小説を目の前に差し出すべきだったのだ。何がドライブだ。何が受験勉強だ。その全てを置き去りにして、歳華の中で飢餓感が疼く。
「私は小説を書くことに人生の全てを捧げたいの。この身体を全部それで焼き尽くしてやりたい。その為に生きなくちゃ結局私の人生に意味なんかないんだよ」
 熱に浮かされたように歳華が言う。さっきまでの浮かれた感情が全部ノイズに思えるほどだった。もう、小鳩に向けた言葉なのかどうなのかもわからない。
 小説が書きたい、と場違いに思った。小鳩に会うと焦燥感に襲われる。会えなかった三ヵ月間がよく思い出せない。自分の読者が目の前にいるのに、どうして自分は読ませる小説を持っていないのだろう。
「歳ちーのその姿勢は好きだよ。生み出すことに全てを捧げようとするのは凄く真摯だと思う」
 さっきとはうって変わって静かな声で、小鳩が言う。
「……本当にそう思う?」
「たかが人間一人の人生がフィクションに捧げるに値するものなのだとすれば」
 柔らかそうな癖毛が潮風に揺れている。けれど、その表情が普段とはまた違ったものに見えて息を呑んだ。
 歳華は人生を小説に捧げるつもりだ。本当の意味でそう思っている。だからこそ、考えたことがなかった。——自分の人生が捧げるに値するような代物だと、どうして無邪気に信じていたんだろうか?
「……ていうか、小鳩がそんなこと言える立場じゃないんだからね。さっさと何処に向かってるのか教えて」
「ちょっ、いひゃいよぉ」
「はん、間抜けな顔」
 頬をつねられた小鳩が眉尻を下げるのを見て、歳華はようやく安心する。……安心、という言葉のチョイスにも、自分では結構驚いていた。それならさっきは不安だったんだろうか?
「鞠奴島。物凄く有名ってわけでもないけど、最近有名なんだ」
「まりどじま? 何それ。どんなところ?」
「この鞠奴島には人魚が生息しているらしいんだよ。実際に人魚を見たとか人魚を捕獲したって人もいて、その筋では結構有名な観光スポットなわけ」
 小鳩は楽しそうにそう言った。いい年をした男と人魚という単語のミスマッチさは言うまでもない。歳華の訝し気な目に気づいたのか、小鳩が付け足すように言う。
「実はさあ、僕って永遠の命に興味があるんだよね。照れるな」
「……女子高生みたいなこと言うんだね」
「だって、きっと数百年後も映画はきっと作られてるよ。それが観られないのは嫌でしょ」
 意外な理由だった。けれど、小鳩らしいとも思う。分かりやすくて素直な理由だ。
「だから、歳ちーを連れて来たってわけ」
「つまりはどういうこと?」
 小鳩は軽く目を細めて笑う。
「不老不死になった時、一人ぼっちじゃつまんないだろ」

 鞠奴港はシンプルな造りをしていた。今にも折れそうな木製の桟橋を渡ると、コンクリートの歩道に出た。
 振り返れば、普段の生活ではそうそうお目に掛かれない広大な海に視界を埋め尽くされる。こんな場所があることを歳華は長らく忘れていた。
 想像することは簡単なのに目にすることはない大海原は、遠い国のお伽噺に似ている。リアリティー、と歳華は小さく口にする。フィクションが超えていかなくちゃいけないもの。ここから歳華は、それを超えるものを生み出さなくちゃいけない。
「まあ、これも確かにリアリティーだよね」
 耳聡くそれを聞いた小鳩が、そう言ってにっこり笑った。これじゃあまるで目の前の男を喜ばせる為に出た言葉みたいで悔しい。それでも、目の前の海は綺麗だったし、連れてこられた見知らぬ島は魅力的だった。
 港には何台かのバンが停められていた。そのどれにも旅館やホテル、あるいはコテージの名前が書かれている。送迎用の車だ。その様子を見る限り、鞠奴島の観光事業は上手くいっているらしい。
「送迎用のバンは一時間後に来る予定だから、まずは鞠奴港で必要なものを買っておいた方がいいんじゃないかな」
「えっ、ちゃんと部屋も取ってるの?」
「勿論。鞠奴島で一番綺麗な海上コテージを取ってるよ」
「……海上コテージ……」
 まずいな、と心の中で歳華は思う。案外美しい島模様に、非日常的な海。それにコテージまで用意されると、いよいよ怒りづらくなってしまう。むしろ浮足立つくらいの好待遇だ。でも、ここで素直に喜ぶのは歳華のプライドが赦さなかった。これじゃあ知り合いのお兄さんに旅行に連れ出されただけになってしまう。
「コテージ駄目だった? ホテルとか旅館もいいけど、やっぱりリゾート感が強いところがいいかなって」
「コテージ……全然駄目じゃないけど……」
「あ、ちゃんと部屋は別だから。瀬越となら同じ部屋でもいいけど、流石に歳ちーはねえ。あ、どうしてもっていうなら僕は吝かじゃないよ。照れるな」
「……早く死んでくれないかな……」
 端々に滲む不躾さで、歳華はどうにか正気を保っていた。このままだとうっかり小鳩に抱き着きそうで怖かった。もっととんでもない旅行を持ってきてくれないと、好感度が上がってしまう。
「あ、そうだ。これも渡しておくね」
「うん? 何?」
 そうして小鳩が渡してきたのは飾り気の無い茶封筒だった。反射的に受け取って中身を見る。そして、息を呑んだ。
 封筒の中にはちょっと信じられないくらいの大金が入っていた。
 頑張れば、この封筒そのものが立つんじゃないだろうか。景気の良い話である。ちょっと怯むくらいの仕打ちだった。
「ちょっ、これ、これはちょっと……!」
「いいっていいって。だって歳ちー何も持って来てないでしょ? 僕が無理矢理連れて来たんだから、必要なものがあったらそれで揃えてよ」
「でも……」
「鞠奴島って人魚の島だからさ、マーメイドドレス風のワンピースとか有名なんだけどね。歳ちーは似合うんじゃないかな?」
「う……」
 大金を受け取ることへの躊躇いや、無理矢理連れてこられたことへの怒りや、マーメイドドレスの甘美な響きが綯い交ぜになる。そんなの絶対着てみたい! 思わず歳華は口元を押さえた。畳みかけるように、小鳩が尋ねる。
「どう? 歳ちー、来てよかった?」
「うん!!!」
 歳華は大声でそう答えた。ここまで来たら楽しまなければ損だった。ここまでされて楽しくないはずがない。
 素直な感性こそ小説家に必要な素養だろうし、小説家に必要なものを、歳華は全て備えている。だから、手のひら返しが早くたって何の問題もないのだ。差し当たって、そういうことにしておいた。

 鞠奴港近くのスーベニアショップは行きずりの人間や浮かれた観光客に優しい品揃えをしていた。歳華はそこで必要そうなシャンプーなどを買い揃え、まんまとマーメイドラインの緑のワンピースを買った。店員さんを含め鞠奴の女性は揃ってそれを身に着けている。それが何とも可愛いのだ。
「やっぱり歳ちー似合うね」
 鞠奴スタイルに変身した歳華を見て、小鳩は開口一番そう言った。何と言っていいか分からず、無言で小突く。どうしてそういうことを軽く言えるんだろうか。
「迎えも来てるからさ。ほら、この人がコテージのオーナーさん」
 小鳩の隣には、日に焼けた小太りの男性が立っていた。日差しを厭うように顔を顰めている。
「私は鞠奴島でコテージ運営をしております、三島っつうもんです。今回はよろしくお願いいたします。さ、その白いバンに乗ってください」
 ぺこりと頭を下げる三島に合わせて、歳華も一緒に頭を下げる。
 そうして二人を乗せたバンが動き出して数分ほど経った頃、三島がバックミラー越しに尋ねてきた。
「それで、お二人さんは新婚さんか何かで?」
「へあ!?」
「いや、誘拐犯と人質です。困るな」
「わ?!」
「そいつぁ結構なことで」
「鞠奴島は警察の介入が遅そうですから。潜伏先にはぴったりなんじゃないかなと」
「そりゃあー、そうですさね。何せ東京から船で四時間でしょう。何か起こっても初動が遅いですからねえ」
 そう言って、三島と小鳩は朗らかに笑い合っていた。合わせるように、歳華もどうにか笑顔を浮かべる。どこからどこまでをジョークの範疇に収めていいのかわからない。
「この島にはやっぱり人魚が目当てで?」
「そうなんです。やっぱりこの島の人魚伝説は有名ですから。歳華も人魚を見られるのを楽しみにしていて」
「人魚のミイラが人魚館に展示されているんですがね。それがまあ本物だろうってことで、有名ですねえ」
 人魚のミイラ。河童やチュパカブラや宇宙人と同じ場所に、人魚が置かれている。ファンタジーの住人でも渇きから逃れられない現実! 生きた人魚を見た人間がいる、という部分からすると随分地味な着地点だ。そんな歳華の心中を先取りするように、小鳩が言葉を続けた。
「人魚のミイラだけでなく、本物の人魚を見た人もいるとか」
「ええ、ええ。人魚の洞窟っていうのを抜けた先に人魚の入り江っちゅうところがありまして。そこは昔から漁師が人魚を——」
「——いいえ、そうじゃなくて。もっと最近、もっと身近な相手からの目撃情報が」
 三島の言葉を遮るように、小鳩が言う。ややあって、観念したように三島が言った。
「……うちの倅ですわ。まーだ小学生でね。だもんであんまり信用されねえんですが」
「でも、ここは鞠奴島ですから。息子さんが見たのは本物である可能性が高いですよ」
「いやいや、あいつにはその話をするなって言っとるんですが。観光客と見たらすーぐ話しちまってね」
 人魚の話をしているというのに、三島の声はさっきとはうって変わって暗いものになっていた。人魚というファンタジックで素敵な話をするのには似合わない声だ。
「家内が首吊って死んだのと同じ時期ですから。きっと、周りの気を引きたくてそんなことを言ったんでしょうなあ。それを面白がって、まーた鞠奴の人魚伝説が有名になってんでね」
「そう、なんですか……」
 暗い声の正体を察した歳華が、気まずそうにそう呟く。気を引く為の嘘、現実を覆い隠すフィクション。それを繰り返しているとなれば、父親は心を痛めているはずだ。物語のことは好きだけれど、その土台になっているものが暗い背景であるというだけで、何だか居た堪れない気持ちになる。
「ちなみに、奥さんが首を吊ってる姿が人魚に見えたとかいうブラックジョークは無しですよね?」
「小鳩!」
「……だったらねえ。オチがつきますが。遺体が発見されたのは、家内の部屋ですから。倅が見てたってことはないと思いますよ。それに、警察も自殺っちゅう判断で」
「そうですか」
 小鳩は何かを確かめるようにそう言って、にっこりと笑った。

 それきり、コテージに着くまで、三島は一言も喋らなかった。地獄のような空気のままドライブが終わり、三島が押し付けるように鍵を渡して去っていく。
 地獄のような空気を作った本人は、楽しそうに手を振っていた。暴力的なほどの無邪気さだ。耐えられない。
「歳ちーどうしたの? そんな顔して」
「それが分からないとしたらおしまいですよ」
「だって気になるじゃん。旅の恥は掻き捨てでしょ? 困るな」
「私の記憶には刻み付けられてるんだけど!」
「ほらほら、そういうこと言わないで見てみなよ、後ろ」
 小鳩の言葉に合わせて後ろを振り返ると、そこには等間隔で五軒の海上コテージが並んでいた。
 海の中から突き出た柱は太く、しっかりと海の上の建物を支えている。木で出来た柱は腐り落ちたりしないんだろうか、と心の中で思っていると、後ろで「空気に触れていない部分は腐食が進まないんだよ」という声が聞こえてきた。あっさり心の中を読まれているのが悔しい。
「これが歳ちーの鍵ね。一番左端のコテージ」
 真新しい銀色の鍵を渡すと、小鳩はさっさと自分の方のコテージへ行ってしまった。それを見送ってから、歳華も自分の部屋に向かう。
 そう広くない部屋だった。畳数にしたら十も無いだろう部屋の中に、簡易キッチンや背の高いテーブル、白いシーツの掛かったベッドが置いてある。
 このコテージの売りがその眺めであることは重々承知しているのだろう。部屋の正面には海に突き出すような位置取りのバルコニーが、そして東西の壁にはそれぞれ開放的な窓が配置されている。三方面からの海を楽しめるようになっているのだろう。これが本物のリゾート! と、歳華は独り言ちる。こうなれば、もう二度と無いかもしれないそれを、必死に焼き付けてやるしかない。
 ただ、奇妙なことに、東の窓だけは本棚で潰されていた。窓を塞ぐように置かれたそれに、鞠奴島の観光パンフレットと真新しい聖書が差さっている。
 開けられなくはないけれど、これでは完全に『死に窓』になってしまっている。本棚を置く場所なんか他にいくらでもあった。そもそも、この二冊しか無いのに、どうして大仰な本棚を置かなくちゃいけないのだろうか。
 この死に窓が開いたら、小鳩の泊まっている隣のコテージが見えることだろう。死に窓の横に凭れながら、そんなことを思う。
「……まさか覗き防止とか? だったらそもそも窓なんかつけなきゃいいのに……」
 そう独り言ちると、余計に不自然さが目立った。
 その瞬間、コンコンと軽いノックの音がする。ドアスコープを覗き込むと、小鳩の姿が映っていた。
「どう? 歳ちー。コテージの具合はどう?」
「これはかなり創作意欲が刺激されると思う!」
「それはなにより」
「あ、そうだ。小鳩の部屋に本棚あった? ほら、私の東の窓のとこにあるみたいなやつ」
「うん? もしかして僕の部屋に興味があるの? 照れるな。歳ちーだったらいつでも来ていいよ」
「そういうことじゃないから」
「うん。あるよ、本棚。それも、西の窓を潰すような場所に」
 思った通りだ。いよいよ覗き見防止説が信憑性を増してくる。けれど、窓にはちゃんとカーテンが備え付けられているし、わざわざそんなに堅牢な目隠しをする必要は無い。そもそも、小鳩はさっき『西の窓』の方にあると言ったのだ。ということは、東の方に本棚は無い。一番端に位置する歳華のコテージと違って、小鳩のコテージの隣には、また別のコテージがある。目隠し用だとしたら、どうして両側に置かなかったのだろう?
「もし窓が死んでなかったら、窓を開けて話したりも出来たのにね。それはそれで何だかロマンチックだね」
 ぐるぐると思考を巡らせる歳華を余所に、小鳩は暢気にそんなことを言った。その所為で、歳華の頭から本棚の謎はすっかり抜け落ちてしまった。

 もう一度本棚に意識が向いたのは、夜、寝る寸前のことだった。
 ベッドから眺めた本棚は、やっぱり何かしらの意図を感じさせたけれど、その正体が分からない。
 遠く離れた島から兄にメールでも送ろうかと思う。けれど、結局それは歳華はそのまま眠りについてしまった。

「人魚のミイラにございます」
 翌日の鞠奴島観光はそんな言葉から始まったと言っていい。朝早くから叩き起こされた歳華は、鞠奴島名物だという練り物を口に突っ込まれ、咀嚼もそこそこに『鞠奴島人魚館』に連れて行かれた。この島の観光の目玉、人魚のミイラが見られるという郷土博物館である。
 正直、人魚館に辿り着くまで歳華の意識は半分飛んでいた。朝から元気な小鳩と違って、歳華は朝に弱いのだ。
 けれど、人魚館員が恭しく出してきたそれを見た瞬間、歳華の目が一気に覚めた。
「見て頂きたいのは上半身、猿の骨格とは違います。正真正銘人間のもの。その身体に合うように誂えられた下半身は、魚のものにございます。そして何より、このかんばせ、この穏やかな表情、これこそ人間にしか出来ないものでございましょうよ。これが人魚でなくてなんだというのでしょう」
 ガラスケースに手を沿わせながら、館員の老女がうっとりとそう話す。
 全長は幼児と同じくらいだろう。全体がからからに乾いているから小さく見えるだけで、海で泳いでいた時にはもっと大きさがあったかもしれない。鱗の一枚一枚がはっきり見える下半身に、黒ずんだ上半身。そして、人形のような白い顔。首から上だけは、紛れもなく人間だった。
 胎児ほどの大きさしかないというのに、それは成熟した女の顔だった。黒々とした髪の毛は海に生きるものだというのにどこまでも艶やかに輝いている。
 作り物だと断じるには躊躇われるだけの迫力が、その人魚には備わっていた。それは正真正銘歳華のイメージしている人魚だった。思わず息を呑む。それを見た老女が、にっこりと笑う。
「お嬢さん、やはり本物に見えますかい」
「はい!」
 勢いよく言う歳華の横で、小鳩が小さく笑い声を立てる。一聴すると優しそうな声だったけれど、隣にいる歳華は気づく。
 これは、少しばかり馬鹿にしている時の声だ。

「無理やり連れて来たくせに、お気に召さなかったわけ?」
 人魚館を出た歳華は刺々しくそう尋ねる。すると小鳩は、軽く首を傾げて「そうでもないよ」と答えた。全く以て白々しい!
 人魚館の目玉はやはりあのミイラに終始するらしく、その他の展示は人魚伝説を再現したパネルや、目撃談に拠るジオラマなど、言ってしまえば冴えないものが多かった。逆に言えば、それらの冴えなさを超えるだけの迫力があのミイラにあるという話でもある。実際、歳華はあのミイラを見ただけで、すっかり鞠奴の伝承の虜になってしまっていた。
「小鳩はひねくれてるから感じられないかもしれないけど、天才小説家であるところの私にはちゃんと分かったからね。あれは絶ッ対本物だよ。だって、あんな人間っぽい顔のミイラある? 顔も大人っぽかったし、なのにすっごく頭小さかったし、絶対そうだって」
「確かに、作り物じゃなさそうに見えたけど……」
「じゃあ何で笑ったの?」
「いや、評価してたんだよ。そこまでするんだなって」
 そう言って、小鳩はもう一度笑った。さっきの笑い声とはまた違う、含みのある笑い方だった。そこまでする、とはどういう意味だろうか?
「ともあれ、ミイラは食べられないからね。不老不死になる為にも、生きた人魚が見られるという人魚の洞窟に行こうか」
「……小鳩のこと本当によくわかんない」
「僕はシンプルに生きてるよ。嫌だな」
 人魚の洞窟は、二人が泊っているコテージから歩いて二十分ほどのところにあった。辿り着くまでに二、三組の観光客とすれ違ったものの、それ以外は静かなものだった。これから更に観光客で賑わっていくだろうことを思うと、いい時期に来たかもしれない。
 今日歳華が着ているのは昨日のものより少し長めの青色のマーメイドドレスだった。丈の長さに合わせて昨日よりも高いヒールを履いているので、砂に足を取られやすいのだ。
 歳華の足取りが遅いのに気づいた小鳩は、こまめに振り返ってくれるけれど並んで歩いてくれることはない。きっと、歳華が頼めばそうしてくれるだろう。けれど、それを言うのは違う気もした。意地でも泣き言を言わないで、歳華は砂の道を進む。
 『人魚の洞窟 すぐそこ』というアバウトな看板に差し掛かったところで、ようやく小鳩に追いついた。ほう、と息を吐いた瞬間、二人の前に何かが躍り出てくる。
「なあなあ、お客さんたちも人魚に会いに来たの? 人魚の話、してやろうか?」
 日に焼けた肌にシンプルなTシャツを羽織った少年だった。年の頃は八歳くらいだろうか。それを見た小鳩が、思い出したように言う。
「あ、君はもしかして三島さんの息子さんかな?」
「え、誰? 何で俺のこと知ってんの?」
 警戒心を抱いたのか、少年の顔が曇った。それに合わせて、小鳩がしゃがみこむ。視線の高さを合わせてから、ゆっくりと微笑みかけた。
「僕はね、菱崖小鳩。君のお父さんのコテージに泊ってるんだ。よければ小鳩って呼んでくれるかな?」
 そう言って、小鳩はすっと手を差し出した。憮然とした表情のまま、子供がその手を取る。そして、小さく言った。
「……小鳩」
「あは、嬉しいな。ついでに君の名前も教えてくれる?」
「三島陽太。……八歳」
 さっきまで強張っていた表情が、あからさまに緩む。まるで魔法か、あるいは手際のいい詐欺のようだ。
「ほら、歳ちーも自己紹介して」
「……おねえちゃんはね、瀬越歳華。歳華って呼んでもいいよ」
「なんだそれ。サイカとか変な名前」
「うっそでしょ、菱崖小鳩の後に変な名前って言われるとかある?」
 それなりに笑顔で応対したというのに、陽太の反応は冷たいものだった。解れた表情が一気に強張る。
「お前、休みで来たの? 旅行? 普段何してんの?」
 矢継ぎ早に質問が繰り出される辺り、観光客にはとりあえず聞いている質問なのかもしれない。お前という二人称や不躾な態度は無視して、歳華は笑顔で答えた。
「お姉ちゃんはね、天才小説家だよ」
「ふーん。何の本書いてんの?」
「えっと、まだ本が出たわけじゃないんだけど、これから小説家になるから小説家なんだよ。それに、一応小説書いてるし……」
「なんだよ、ニセかよ」
「は?」
「歳ちー、顔が怖いよ」
「小鳩は? 小鳩は何してるの?」
うって変わった笑顔で陽太がそう尋ねる。それに対して、小鳩は言った。
「小鳩はね、フィルムアーキビストだよ」
「フィルム? なに?」
「陽太も映画観るでしょ? 小鳩はね、その映画を保存する仕事についてるんだ。未来の人も映画を観られるように守るのがお仕事なの。陽太は何の映画が好き?」
「うーん、ミニオン」
「そうか。陽太の好きなミニオンの映画が、ずっと未来まで観られるようにするのが僕の役目」
「なんかすごいね」
 陽太の素朴な感想と同じ気持ちを、隣の歳華も抱いていた。なんだかすごい。本当にそうだ。
 映画関係の職についている、という言葉自体を疑っていたわけじゃない。けれど、その内容が予想外だった。フィルムアーキビスト、という言葉自体、歳華は初めて聞いたのだ。
 けれど、しっくりもきた。菱崖小鳩は映画が好きなのだし、残るものが好きだ。数千年後も残るような芸術を愛し、その為に人間がその身を捧げることを美しいと思っている。そんな彼が映画を残す為に人生を窶しているのだから。
 それはきっと、とても正しい。
「それ、俺でもなれる?」
「実際、フィルムアーキビングの世界ってまだまだ発展途上なんだ。陽太が僕と同じ仕事に就いてくれるのは心強い。あ、英語の勉強だけはしておいた方がいいかも。どうかな」
 そう言って、小鳩がふんわりと笑う。その笑顔が何とも言えないくらい優しくて、うっかり見惚れた。
「ところで、さっき言ってた人魚の話って何? 陽太は人魚を見たことあるのかな?」
「人魚? あるよ! 俺ん家のコテージのとこから見えたんだよ! 黒い人魚! めっちゃでっけーのが、びちびち跳ねてた! すげえの!」
「へえ、どのくらいの時間か教えてくれる?」
「夕方! 夕日めっちゃ見えた! 人魚の後ろ!」
「いいな。僕も見てみたいな」
 素直に話を聞いてもらえるのが嬉しいのか、陽太は弾んだ声で笑っている。母親の死、というバックグラウンドを知っているからこそ、何だかそれが痛々しくも感じてしまう。
「それじゃあ、また後でね陽太」
「うん! またね小鳩! ニセ小説家も」
「私が有名小説家になってから媚びても遅いんだからね。お前は必ずや今日の日の言動を悔やみ、贖罪に一生を捧げることになるだろう。わかったな」
「歳ちー、小さい子相手にそういうこと言っちゃ駄目だってば」
 陽太は長いこと手を振り続けていた。シルエットすら見えないところまで離れてから、歳華は小さく呟いた。
「……ねえ、さっきの」
「うん? 別に気にしない方が良いと思うよ。僕、何故か子供には好かれやすいんだ。照れるな」
「そっちじゃなくて……小鳩の、仕事のこと」
「あれ、歳ちーには言ってなかったっけ。別に隠してたわけじゃないんだけどな。そもそも、瀬越の奴は昔から知ってるし」
 わかっていた。小鳩は隠していたわけじゃないし、兄は単に言い忘れていただけだろう。説明することでもないと思っていたのかもしれない。だからこそ、余計にたまらなかった。
「その……やりがいとかあるよね。やっぱり」
「そうだね。僕、映画好きだし。面白い映画沢山あるから、未来の人が観られないと可哀想でしょ。そういうの嫌だな」
 さらりと小鳩が言う。そこでもう限界だった。
「正直、格好いい」
「うん?」
「格好いいじゃん! 何それ! 映画が好きで、それを守りたいからフィルムアーキビストって……人生と進路が一致してる! ずるい! あーあ、完ッ全にいいわ。格好よろしい。はっはっは、そのまま順風満帆な人生送ってくださいやぁ。そのまま情熱大陸とか出ちゃうんじゃない? いいなあー!」
「今までにパターンの無い絡み方だね、怖いな」
 軽やかにステップを踏みながら、小鳩が呟く。岩場にあっても、全く転びそうにないのが癇に障った。重力なんかまるで知らないような顔をして、菱崖小鳩は歩いている。ずるい、と歳華は思った。私も並んで歩きたい。
 それ以上何を言えばいいかわからなくて、歳華は黙った。劣等感を文学的に表現出来たら、それで一本書けるかもしれない、と何とも言えないことを思う。ちゃらんぽらんな振りをして、実は恐ろしいほど真摯に自分の人生を生きていた男を主役にとって。
 数分歩いたところで、ようやく目的地に到着した。『人魚の洞窟』と書かれた看板が申し訳程度に下がっていなかったら、うっかり見過ごしていたかもしれない。
「ええ……ここ入るの?」
「どうしたの歳ちー、怖いなら手繋ごうか」
「手を繋いだくらいでこの薄気味悪さがどうにかなるとでも思ったか」
「意外な方向性での拒否」
 人魚と出会えるという洞窟は静まり返っていて、正直な感想を言えば薄気味悪さが先立った。洞窟自体はトンネルのようになっているらしく、数百メートルも行けば『人魚の入り江』に辿り着く。
 洞窟の中には申し訳程度のランタンが下がっており、洞窟の中をぼんやりと照らし出していた。洞窟の中は比較的平らな岩肌になっており、壁には削って書いたらしい落書きがあちこちに残っている。『人魚記念 2014.09.04』『内定出ますように!』『シュウジ♡カナコ』『あいつと別れられますように』といったような言葉を、歳華は絵画のように鑑賞する。
「これどう思う? 観光地って感じするけど、止めたりしないのかな」
「個人的な趣味で言えば嫌いじゃないからね。こういうのって、やっぱりある意味では芸術なんだよ。人魚のいる島に浮かれて落書きを残す観光客。これはこれで人間らしいよ、そう思わない?」
「小鳩は色々なものをそれで赦しすぎ」
 壁画に残されたメッセージは、相合傘や日付などのお馴染みのものに加えて、願い事も沢山書かれていた。何になりたい、何が欲しい、何から離れたい、等々。この洞窟には願いが叶うとかそういう設定は無かったはずなのに、進んでいくにつれそういう方向にメッセージが定まっていく。
 カッターか何かを持っていれば、うっかり『小説家になりたい』と彫っていたかもしれない。さっきまでは批判的な気持ちだったのに、虫のいい話だ。けれど、それをさせるだけの魔力がこの洞窟にはあった。人魚に出会えるのなら、願いだって叶うのだろうか。
 そんなことを考えながらなおも進んでいくと、ようやく洞窟の出口に行き当たった。大きく口を開けたその穴から、抜けるような青色が見える。空の色か海の色か分からなくなるような眺めだった。切り取られた円の中に、夢に出てきそうな景色が見える。
「小鳩、出口!」
「うん。それじゃあそれが件の入り江ってわけだ」
 洞窟を抜けると、静かな海に出た。浜辺じゃなくて本当に岩場なので、リゾート感は浜辺より乏しい。けれど、このくらい閉鎖的な方が物語に相応しいような気がした。閉じられた場所じゃないと、人魚はきっと姿を現わしてくれないだろう。こういう場所じゃなければ。
「綺麗だね。うっかり足を滑らせたら大変なことになりそうだけど」
「……本当に人魚が出たらどうしよう」
「どうしようって。不老不死になりたくないの?」
「え、まさか食べる気?」
「それが目的だって言ったじゃないか。嫌だな。でも、海は相手のフィールドだから、僕で勝てるかどうかは五分かも。前も言ったけど、僕はあんまり運動神経が良い方じゃないんだよね」
 冗談か本気か分からないような顔で、小鳩は言った。不老不死が惜しくないとは言わないけれど、もっとこう……ファンタジックな展開にはならないだろうか。歳華はなんだかんだで異種間恋愛物語とかが好きなのだ。
 それからしばらく、二人は黙って海を眺めていた。陽光にきらめく水平線を、船が過ぎて行くのが見える。けれど、求めている人魚らしき影はどこにも見当たらなかった。
「……人魚って本当にいるのかな。さっきのクソガキも嘯いてたけど、あんなのきっと何かを見間違えただけでしょ?」
「あまりに辛辣が過ぎる」
「小鳩はあいつに好かれてたから信じてるかもしれないけど、やっぱりそうだよね。人魚がいたら、今頃大変なことになってる。フィクションは現実じゃないんだよ」
 少しだけ不貞腐れた声を出しながら、歳華はそう呟いた。
「僕は中立だからね。今まででわかったことはちゃんと受け入れるよ」
「今までにわかったことって?」
「そうだなー。とりあえず、跳ねてたっていう陽太の表現からして、人魚って鯉と同じような泳ぎ方なんだってことがわかった。人魚って実は淡水魚に属するのかも」
「わかった。今度から冗談言う時は右手挙げてくれない? 判別するのが面倒になってきた」
「人魚って普段は肺呼吸だよね? 水に入ると鰓呼吸になるのかな? それじゃあ海水と淡水の切り替えも出来る? それは意識的にやってるのかな? 無意識的にやってるのかな? そもそも人魚はそれの切り替えを適切に出来るような知能はあるのかな? 人魚の歌ってジャンルは何になるんだろ?」
「……色々と粉々にしてくれてどうも」
 人魚の身体構造なんて、実際のところ気にしたこともなかった。それを考えると、何だか人魚というものがとても理屈に合わないものに思えてくる。理詰めでサンタクロースを否定された時みたいな気分だ。一晩で世界中の家が回れると思う? 物理法則どうなってるの?
「物語の強度はどれだけ細部を作りこんでいるかで決まる。表に出ない設定が深みを与え、フィクションの礎になる。その見えない礎の部分にどれだけの敬意と犠牲が払われているかで、物語の強度が決まる」
「……人魚なんていないって、そう思ってるの?」
「さっきも言ったでしょ。中立だって。ところで、物語の起源は何処にあるか知ってる?」
「……知らない」
「実はここ、洞窟の中にあるっていうのが僕の考えなんだ。どうかな?」
「洞窟と物語って何かあるの?」
「今から七十年ほど前、ラスコー洞窟で、約二万年前に描かれた壁画が発見された。描かれていたのは主に狩りの対象となった大型の獣だった。どうしてだと思う?」
「……食べられる動物を教える為? とか?」
「悪くない着眼点だね。でも、壁画に描かれていたものの大半は動物で、植物は殆ど描かれていなかった。食料になる植物だって有用な情報だと思わない? それなのに、植物は口伝で、獣は芸術として伝えられた。それに対して、とある学者が興味深い説を唱えている。『あれは物語なんだ』ってね」
「物語……」
 歳華の呟きに、小鳩が頷く。
「壁画を描いた人間たちは壁画に描かれた動物たちを見て、あの獣がどれだけ恐ろしく、それを打倒した人間がどれだけ素晴らしく勇ましかったかを語り合ったんだ。そして、その獣の肉がどれだけ自分達の恵みになったかを。皆、本当は狩りになんか行きたくなかった。牛やオオジカに無残に殺されていく仲間なんか見たくなかった。だから、物語を生み出したんだ。自分たちは狩りをすることを楽しんでいるのだし、それが自分達にとって素晴らしいことだと納得させる為に。フィクションで現実を覆ったんだ」
 憑りつかれたように、小鳩は語り続ける。
「だからこそ、僕はこうも思う。人間が恐ろしい肉食獣に蹂躙されていたからこそ、素晴らしい芸術が生まれたのだと。彼らの無念さや恐怖こそが、二万年の時を超える物語を生み出すに足る焚き木になったのだと。人間がフィクションの礎になるというのはこういうことだよ。彼らがのびのびと暮らしていたとすれば、ここまでダイナミックな壁画は描けなかったはずだ」
 小鳩の言葉は冷えた洞窟の中で熱っぽく響いた。広がる海原を観た時も、人魚のミイラを見た時も、小鳩はそれなりに楽しそうだった。でも、今のようなじんわりと広がる熱は無かった。彼の口から語られる暗闇の物語は、赤い輪郭を持っている。
「数百の素晴らしい壁画を描くのに、一体どれだけの人間が犠牲になったんだろうね。どれだけの人間が、恐ろしいと思ったんだろう」
「その話、ちょっと、怖いんだけど……」
「そうかな? 良い話だよ。困るな」
 それじゃあ、何だか意味合いが変わってくる。恐怖を克服する為に生まれた物語の色合いが変わってくる。人間の為の壁画。壁画の為の人間? レトリック染みたその顛倒が、何だか妙に不吉だった。二万年という途方も無い時間を超えて残った物語は、確かに素晴らしいだろう。でも、牙に裂かれた肌の痛みは、物語の為の礎以上にはならないだろうか?
 小鳩の話には一理がある。でも全面的に肯定する気にもなれなかった。だって、それを認めてしまったら恐ろしい。人の命は大切なものだし、人間は幸せに生きるべき、という今更過ぎる前提が、崩れてしまいそうな、気が。
「歳ちー」
 名前を呼んだ後に、どんな話が続こうとしていたのかは分からない。けれど、歳華は咄嗟にそれを止めた。単なる雑談でしかないのに、それ以上が聞いていられなかった。震えた声で、歳華はぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「で、でもまあ、肉食動物に怯えながら暮らしてるのって、なんだか可哀想だよね。……うん。可哀想だよ。やっぱり、のびのびと書きたいと思うな……私は」
 伺うように、歳華は小鳩の方を見た。
 相変わらず柔和な笑顔だ。非の打ちどころが無い。それでも、その数秒の沈黙が恐ろしかった。小鳩は何かを見定めている。聞き定めている? 陳腐な表現かもしれないけれど、歳華はその数秒が、永遠に等しいものに感じた。
「うん。まあ僕の意見は偏ってるからね。僕も歳ちーの幸せを願ってるよ」
 数秒後に、小鳩はそれだけ言った。その瞬間、歳華は泣きそうになった。そこにあった断絶に、上手く折り合いが付けられない。どういうわけだか、歳華は小鳩とある一点で交われなかった。
 それが何より寂しかった。並んで歩くことは不可能なのかもしれない、と思わせるほどに。

 それから先はよく覚えていなかった。夕飯を食べてコテージに戻ると、ベッドに寝転がりながら小鳩のコテージに面した東側の窓に——正確に言うならそれを潰している本棚に——目を向ける。
 殆ど中身の無い本棚は頑張れば動かせそうだ。動かしてみようか、と暗い部屋の中で思う。だからどうというわけではないけれど、この本棚が何かしらの暗喩のような気がしてならなかった。断絶のメタファー? 相互不理解のメタファー? 小説家はそういうところに意味を見出すのが得意なのだ。センチメンタルな解釈だって、赦されるのが物語の特権でしょう?
 その時、絶妙なタイミングでドアがノックされた。一見すると非常識な時間なのに、それは全然不躾じゃない。歳華はそれを待っていたのだし、小鳩の方も小鳩の方で、そのことをちゃんと理解しているのだ。
 何も言わずに扉を開ける。ドアスコープでの確認すらしなかった。この扉を開ければ、見慣れたあの笑顔がそこにあることを知っていた。まるで、それがずっと前から決まっていたみたいに。
「歳ちー」
「……小鳩」
「中、入ってもいい? 人魚の話がしたいんだ」
 歳華は小さく頷いて、暗い部屋の中に小鳩のことを招き入れた。
「まず、人魚のミイラについて話したいんだけど」
「あ、もしかして、映画の特殊技術を使ってるとか? ほら、小鳩ってフィルムアーキビストなんでしょ? 映画の知識を使ってバシッと解決! みたいなこと出来るんじゃないの? 探偵みたいに」
「フィルムアーキビストに求め過ぎじゃない? まあ、出来たら面白いだろうけど」
 手近にあった椅子に座りながら、小鳩はくつくつと楽しそうに笑った。
「ところで、人魚のミイラっていうのは結構な地域で見られるものなんだ。有名なものだと和歌山の寺のものとかね。それは頭部を精巧な紙細工で作り、竹ひごに魚の皮を貼り付けたものだった。あとは江戸時代に見世物として好評を博したミイラは、毛を剃って乾かした猿の頭部と鮭の下半身を繋ぎ合わせたんだって。凄いよね」
「それはまた夢の無い話で……」
「そうそう。映画の特殊技術だっけ? 今の技術だったら、確かに合成素材か何かであの絶妙な人魚の顔を作り出すことも可能だと思う。骨組みとなる素材を作ってしまえば、あとは特殊メイクで外殻を盛っていくんだ。ハリウッドでは未だにこういった昔ながらのSFXが使われていることも多い。CGで何もかも作るより、そっちの方がリアリティーがある」
 リアリティー、という言葉を小鳩が選ぶ度、歳華の心は嫌な具合にざわめいた。洞窟での一件が、未だに尾を引いているのだ。
「僕がこの鞠奴島の人魚伝説をそれなりに評価したくなったのは、とどのつまりそこに払われたある種のコストの所為なんだよ」
「あのミイラ、何だったの?」
「下半身は鮭の干物か何かじゃないかな? 本当は海の魚でやりたかっただろうけど、鮭っていうのは皮が丈夫で伸縮性があるんだ。乾かしてニスを塗って固めるんだ。中南米の民芸品……フィッシュ・キーホルダーにもよく使われてるし、近いところではアイヌなんかでも作られているね」
「それじゃあ上は? あの顔とか……」
「顔。うん、顔ね」
 ややあって、小鳩が言う。
「あんなの生首使ってるってだけの話だろ。簡単な話だ」
 つまらなそうな声だった。単純な手品の種を明かすかのような声だ。
「干し首って言ってさ、頭蓋骨を抜いて、乾燥させるんだ。その間に色々防腐処理はしておくんだけど……そうすると、人間の顔形は崩壊しないんだけど、人間のものよりずっと小さい生首が出来上がる。丁度、子供の人魚の死骸にぴったりのサイズまで」
「…………うそでしょ」
「いや、干し首自体は別に珍しい習俗ってわけじゃないよ。元を辿ればエジプトのミイラと同じだ。それに、あのミイラの具合からして、作られたのはだいぶ前だろうしね。別に最近起きた悲劇じゃないはずだ」
 そういうことじゃない、と歳華は思う。小鳩の話が正しいかどうかとか、その首が最近の死者のものじゃないんじゃないかとか、そういうことじゃない。歳華のことを置き去りにして、小鳩が口を開く。
「それを踏まえて、今度は陽太の話だ」
 人魚なんてファンタジーだ。そのことは重々承知していた。ただ、その裏に隠れているものが、単なる想像力であって欲しいとも思う。小鳩が褒めそやしたリアリティーが、歳華にはどうしても受け入れられない。どうしてわざわざそんなことを言うのだろう。あの人魚の正体が、人間である可能性なんて、本当は指摘しなくたっていいはずだ。
 ふと、腰の辺りに無機質なものの感触がした。いつの間にか、後ずさってしまっていたらしい。部屋の中央に置かれていたはずのテーブルに行き当たっている。別に怖がることなんか何にも無いのに、無意識に歳華は小鳩と距離を取っていた。
「どうしたの歳ちー。何か遠くない?」
「……いや、何ていうか、立ち話もなんだと思いましてね。私も座ろうかと」
「それなら僕が立つよ。テーブルに座るのは行儀が悪いし」
「ここで正論言わないで」
 どうして電気を点けなかったのか、歳華は今更になって後悔していた。差し込む月の光が照らす小鳩は、何だか別人のようにも見えた。
 小鳩がゆっくりと近づいてくる。純粋な恐怖が身を焼いた。これから先が予想出来ない。それ以上下がれなくて、結局仰け反る羽目になった。それが運の尽きだ。歳華の足がふわりと宙に浮く。
 気づけば歳華はテーブルの上に押し付けられていた。天板に縫い留められるように身体が浮いている。小鳩が目の前にいることを加味すれば、押し倒されていると言っても過言では無かった。その状態を意識した瞬間、血の気が引いた。
「ちょ、ちょちょちょちょい待って! えええ! いぎゃあ! 何! 待って!」
「待たない。君こそちょっと待って」
 どこまでも冷静に小鳩が言う。そして、更に力が込められていった。いつになく真剣な小鳩の顔が、歳華の耳元に寄せられた。発狂しそうなシチュエーションだった。だって、菱崖小鳩はそういうことをするキャラじゃない。
 このまま強引なラブロマンスに移行するには、何かしらの心の準備が必要だった。告白というイニシエーションとか、エモーショナルな言葉とか、そういうものを済ませないでこんなことをされても困る。
 歳華は咄嗟に足に力を込めた。ばたつく足で小鳩の脛を思いきり蹴りつける。このまま転結に向かわれてはたまらない。
「痛い! 痛い! いったいって! 困るな! いいの!? 大の大人が泣いちゃうぞ!」
「じゃあ離せこのクソ害悪馬鹿!」
「やー、他意は無いんだけどさ、困るな」
 そう言って、小鳩はあっさりと歳華を解放した。押し付けられる力が無くなったことで、跳ね上がるように歳華が立ち上がる。昇った血が下に降りて行くにつれ、引き攣った笑い声が漏れる。
「もう駄目だ、ここで小鳩を殺して私も死ぬしかない。ありがとう小鳩、この天下の才能と心中出来ることを誉に思って死んでくれ」
「早まるの早すぎない? 困るな。僕ここに不老不死を求めに来たって言ったじゃない」
「ここがお前の墓場だ」
 腰を落として突進してくる歳華を華麗に躱しながら、小鳩はテーブルに手をついた。そしてにこやかに笑う。
「ところで、この備え付けのテーブル、結構背が高いよね。さっき歳ちーを押し倒した時に確認したけど、多分テーブルに乗った歳ちーの身体は窓から丸見えになると思う」
「何の話してるわけ……死んで……」
「大丈夫大丈夫。窓は本棚に潰されてるから、歳ちーのもがく姿は誰にも見えてない。安心だな」
「お前に見られてるんだけど! 叙述トリックかよ!」
「よかったよ。窓が潰れてて、あのコテージに誰もいなくて」
 まるで、確かめているかのような声だった。その声に、歳華の方も少しだけ冷静さを取り戻す。小鳩はつまり、何を言いたいんだろうか?
 目を細めながら、小鳩は続ける。
「マーメイドドレス風のワンピース、歳ちーに本当によく似合ってる。もう少し背が高い方がいいのかもしれないけど、歳ちーの背丈でいくと足首まで裾が纏わさって、本物の人魚みたいだ」
 歳華が今着ている青色のワンピースは、うっかりすると裾が地面についてしまいそうな丈だ。だからこそ、歳華は無理をしてでも踵の高いヒールを履いていたのである。それでも、歳華の下半身は大部分がこの美しい生地に覆われていた。……まるで、人魚のように。
「……ねえ、何が言いたいのかわかんないんだけど、小鳩は、何を言いに来たの?」
「簡単なことだよ。歳ちーはさ、陽太が見た人魚が本物かどうか知りたがってるんじゃない? だから、僕の考えを話しておこうと思って」
 嘘だ、と反射的に思った。歳華が聞きたがっているわけじゃない。小鳩が話したがっているのだ。小鳩はこうと決めたら、絶対に自分を曲げたりしない。非常識でも女子高生を拐かすし、自分が考えた『物語』を語って聞かせるだろう。耳を塞ごうが赦してくれない。相手はそういう男なのだ。
 だから、歳華に出来ることは、なるべく毅然とした態度でそれを受けることくらいのものだった。
「三島さんの奥さん、背は高い方だったのかな? 僕の予想では歳ちーと同じくらいなんじゃないかなって思うんだけど」
「………………知らない。わかんない」
「奥さんの死体は首吊り自殺だったそうだね。事件になっていないところからしても、疑う余地は特になかったんだろう。首に残った縄の後なんかもしっかりしてたかもしれない」
 歳華は基本的にオーソドックスなラブストーリーが好きだけれど、ミステリーを読まないわけじゃない。首を絞められて殺された時と、自ら首を吊った時では、首に残る痕が違うことくらいは知っている。
「例えば奥さんがこのテーブルに乗っていたとして、その状態で首に縄を掛けられたとしたら——テーブルの下にいた何者かが奥さんの首に掛けられた縄を引いて絞め殺したんだとしたら——話は多分変わってくる」
 例えば、背負うようにして縄を掛けられた時なんかは、首に掛かる力の向きが、自殺の時と同じものになるという話も知っている。
「その場合、痕は自分で首を吊ったのと変わらないものが出来るだろうね。睡眠薬か何かで眠らせた奥さんをテーブルに乗せて、思いきり首を絞めるだけで偽装が出来るんだから簡単な話だ。いくら眠らせられていたとしても、殺される瞬間は流石に動きがあるだろう。マーメイドドレスを着た母親は、テーブルの上で跳ねたんじゃないかな?」
 車の中での三島さんの表情を思い出す。あの暗い声が、後ろめたさの賜物だとしたら。奥さんが自殺じゃなく、何らかの理由であの人に殺されてしまったんだとしたら。
 そこに飛び込んできた、三島陽太の見た人魚の話。三島はどれだけ驚いただろうか。興奮した様子で語る息子のことをおぞましいと思っただろうか。それとも、そこから何かが発覚してしまうことを危ぶんだろうか。想像しただけで背筋が寒くなった。それじゃあ、陽太は。
「……それじゃあ、陽太は、お母さんが殺されるところを見たってこと?」
「潰されているのは君の部屋から見て東の窓、僕の部屋では西の窓だ。夕暮れに見たっていう彼の証言が正しいなら、逆光でシルエットしか見えなかっただろうさ。それが救いかどうかは怪しいけどね。複雑だな」
 小鳩の言っていることは、あくまで可能性の話でしかなかった。でも、その声で言われるだけで、それが本当のことに思えてしまうから恐ろしい。テーブルの高さ、死んだ窓、マーメイドドレスに至るまでがそれを裏付けているようで嫌だった。
「ともあれ陽太は、これからも自分が見た人魚の話を語らざるを得ないんだ。子供が必死に語るそれは、この島をもっと神秘的なものにする」
「……おかしいでしょ! そんなの、そんなの可哀想だよ! そんな、」
「果たしてそれは不幸なのかな? 母親が殺されるところは、陽太にとっては過剰なストレスだった。それこそ肉食動物に立ち向かうほどの恐怖だ。でも、この島に伝わる人魚の伝説が陽太の心を守ってくれたんだ。良い話じゃないか。フィクションが現実を救う。それも、実の母親が礎になったフィクションがね」
「でも……」
 泣いたら駄目だ、と思った。良い話、だなんて。小鳩がそういう結末にそういう感想をつけることは、何となく知っていた。物語の裏側や瞬きの合間にあるものがおぞましくても関係が無い。小鳩はそれをきっと良しとするだろうということも。
 あの洞窟で、歳華は既に知っていた。だから、泣かないようにした。『どうしてそんな酷いことを言うのだろう』とか、『陽太の話を聞きながらそんなことを考えていたのか』とか、そういうことは全部意識の外に追いやることにした。
 菱崖小鳩はそういう人間なのだ。
「……僕はそれを可哀想とは思わない。誰かが死ぬことで強固な物語が生まれ、その強固な物語を拠り所に今日を生きる少年がいることも、同様に尊い」
 小鳩は真剣な顔でそう口にする。いつになく真剣な表情だった。切実と言い換えてもいいかもしれない。
「人魚伝説の補強の為に、結果として人間が犠牲になったとしても、それはそれで僕は肯定するだろう。僕はそういう生き方を選択してきた。それはこれからも変わらない。絶対に」
「小鳩」
「だからこそ僕は忘れない。あそこで祀り上げられている誰かのことも、殺されたかもしれない奥さんのことも。フィクションの為の礎になった者たちの為に、僕だけはこのことを覚えておこう」
 そうして、小鳩は恐ろしいほど寂しく笑った。その表情が正しいのかどうなのかもわからない。馬鹿げた連想だと思う。ただ、歳華の中でその小鳩の姿は、たった一人きりで佇む墓守でしかなかった。
 その時、不意に思い出す。この間のパン屋強盗の帰り道、小鳩は「僕らだけは」と言っていた。あの時は歳華だって当事者で、同じ物事に出会ったからだろうか。鞠奴島の物語は、歳華と直接交わっていない。忘れてしまっていいことなのかもしれない。
 それは赦せなかった。ややあって、歳華は言う。
「私も入れて」
「え?」
「私も覚えておく。礎になったものも、礎になれなかったものも、私も全部覚えておくから。だから小鳩のその言葉の中に、私のことも入れて欲しい」
 その時の小鳩の表情を、どう表現したらいいか迷った。困惑したような、傷ついたような、はたまた軽蔑しているような、安心したような、奇妙な表情だった。それが数秒で解けて、いつものような柔和な笑顔になる。そして、小鳩は小さく言い直した。
「……僕たちだけはこのことを覚えておこう」
 映画が観たいだのなんだの言っていたけれど、不老不死を求めたのも結局はそれが理由なのかもしれない。
 本当のことを言えば、物語の為に誰かが犠牲になっていいとは思えない。人魚伝説の裏の血生臭い話なんか聞きたくないし、洞窟の壁画は楽しい気持ちで描かれていて欲しい。小鳩の与太話が本当でなければいいと思うし、それが本当であるのなら、陽太は人魚の話なんてして欲しくない。
 ただ、覚えておこう、とは思う。そういう可能性があったことも、裏に隠れたもののことも、きっと全部を覚えておこう。小鳩のような考え方は一生出来ないだろうし、しようとも思わない。ただ、同じ方法で、同じものを見ていたい。……そんなことを思った。
「人魚がいないとしたら、不老不死もないんだろうね」
「そうだね。それはちょっと困るな」
「小鳩の骨はきっと拾ってあげるよ。大丈夫」
「ちょっと待って、歳ちーの中の僕って早々に死ぬの? 嫌だな。僕は長生きしていっぱい映画を観るんだ。数十年後にまたキングコングがリメイクされるのを知って『えー、またリメイク? 今度はパシフィック・リムだろ。わかってるぞ』って言いたいんだ」
「その詳細な未来計画がムカつく」
 一体どこからどこまでが本気で、どこからどこまでが小鳩の掌の上なのか。同じ火の上で踊る覚悟はあっても、自分一人だけが踊らされるのは癪だった。
 そこではた、と気づく。車の中での浮かれた質問が意図的な揺さぶりだったとしたら。リアリティーフェチのこの男が、実は人魚じゃなく地に足の着いた物語を探しに来たのだとしたら。華麗な誘拐から華々しい船旅、そして人魚を巡る島での冒険を思い返し、歳華は恐る恐る呟いた。
「待って。もしかして小鳩がコテージを選んだ理由って……」
「いやあ、インターネットって便利だよね。鞠奴島での不審死についての記事もちゃんと出て来たよ。コテージのオーナーの奥さんが自殺ってさ、気になるだろう? わくわくしちゃうな」
「最悪! 死ね! 私の感動返せ馬鹿! ていうかその検証の為に私を押し倒したんだったら先に言ってよ! うっかり心中するところだったじゃん! 死ねこのロリコン!」
「だって、テーブルの上に寝っ転がってください、とか言ってもやってくれないでしょ? 歳ちーは」
「まあ、確かにやらない……。小鳩の言うこと聞いたらろくなことにならないし……」
「でしょー。だから勝手にやるしかなかったわけ」
「にしてもあの雰囲気は無いでしょ! どういう了見だ、このファッキンパフォーマー!」
「僕さ、歳ちーには手を出さないって瀬越と約束してるからさ。あんまり疑われるようなことしたらまずいし。ちょっと恥ずかしい感じのシチュエーションにしておけば、瀬越の奴にチクることもないでしょ? 歳ちーってそういうところあるし」
 その通りだった。お兄ちゃんに密告すれば小鳩はそれなりに痛手を受けるだろう。どういう仕組みになっているかはわからないが、とにかく小鳩は俊月に弱いのだ。
「はーあ、帰ったらお兄ちゃんにあることないこと吹き込んでやる…………」
「ちょっと、帰りづらくなっちゃうだろ。困るな」
 小鳩がそう口にすると、急に現実に引き戻されたような気がした。人魚の住む島も、あったかもしれない殺人事件も、洞窟での落書きも、ここを離れてしまえば関係の無い話なのだ。
 距離を隔てたリアリティー、されども麗しいフィクション。
「……小鳩は帰ったらどうするの?」
「うーん、特に決まってないけど、ちょっとジャンキーなもの食べたいかな。ほら、駄菓子とか……。知ってる? 海外で買うビックカツって値段が四倍とかなんだよ。発狂しそうになる」
「そういうことじゃなくて」
 ややあって、小鳩は言う。
「日本は日本でやることがあるんだよね。結構僕忙しくてさ」
 言われなくても分かっていた。フィルムアーキビストがどんな職業なのかはわからないけれど、遊んでばかりもいられないに違いない。それに、今回だって三ヵ月ぶりだった。
 それなら、一体次はいつになるのだろう。
「…………小説、読んでくれる?」
「勿論。……会えなくてもさ、送ってよ。歳ちーの小説だったら絶対に読むから」
 そうじゃなくて、と言おうとしてどうにか思い留まった。それだけで十分なはずなのだ。歳華は。
「……冬にさ、英知大学のイブ祭とかもあるでしょ。小鳩、一緒に行ってくれない? ほら、最後の下見で……」
「……実をいうと、その時までいるかわからないんだよね、日本に」
「そ、そうなんだ……」
 予想していないわけじゃなかった。むしろ、その一言を確かめたくて、歳華は遠回りな疑問をぶつけたのだ。
 フィルムアーキビストがどんな職業なのか、歳華は今だによく分かっていない。今日聞いたばかりの仕事だ。ずっと海外を飛び回る必要があるのか、それともいつかは日本にずっといてくれるようになるのか。
「今、こっちでも進めてる計画があるんだ。だから、その仕込みにちょいちょい日本には戻ってくると思う」
「……でも、基本的には向こうに行っちゃうんでしょ」
「あれ? 歳ちー、もしかして寂しいの? 嬉しいな」
 咄嗟に否定出来なかったのは、偏に歳華の心が弱っていたからだった。受験勉強なんてやっぱりよくない。人間の心を弱らせて、目の前の男の言葉一つまともに否定出来なくなってしまう。
 当たり前だけれど、歳華はまだ天才女子高生小説家志望で、菱崖小鳩は社会人なのだ。そこにはどうにもならない距離がある。
「大丈夫。日本に帰ってきたら、その都度歳ちーに会いに行くよ。瀬越の料理も恋しいしね。帰ってきたら、またこうして何処かに行こうよ」
「……本当に? 嘘じゃない? 旅行に連れ出す時はちゃんと行き先を言ってくれる?」
「それは保証しかねるけどね」
「何ッでだよ! そのくらいいでしょ! どうしてそれが出来ないかな!?」
 あはは、と笑って小鳩が歳華のことを撫でた。歳華は気安くそういうことを赦す人間じゃないし、小鳩もそのことはちゃんと理解している。暗黙の合意の中で、二人は静かに人魚のいない海を見つめた。綺麗だけれど、不老不死の生き物は泳いでいない。
「……私の小説は残るかな」
「歳華の小説が本物なら、きっと残る」
 小鳩は淡々とそう言った。本物じゃなかったらその時は? なんてわざわざ聞いたりしない。その時は然るべき報いを受けるだけだ。

 その後、歳華は懐中電灯を片手に一人であの洞窟に向かった。願い事が刻まれた、物語塗れのあの洞窟だ。
 どうせ、あの話を聞いた後にあのコテージで眠れるはずがない。それなら、やるべきことは一つしかなかった。
 海の音がする。人間が文字を獲得する前から、否、物語を獲得する前からずっとそこに在り続けるものの音がする。
 例えば人類そのものに夜が来たとして。文明が跡形も無く消え去り、語り伝える人間すらいなくなったら、物語なんて何も残らないかもしれない。歳華が必死に書き上げる小説も、小鳩が残し続けていく映画も、等しく意味が無いのかもしれない。
 そのことを想像するだけで震えるほどに寂しい。でも愛おしい。結局のところ、歳華は書くしかないのだ。
 岩壁にもたれかかりながら、歳華はナイフを取り出した。あのコテージの中にあった、魚を捌く為の小さなものだ。そして、岩盤に丁寧にそれを突き立てる。
どれだけの間このナイフが保つのかは分からない。それでも、歳華は即興で小説を刻み始めた。岩の表面に刻まれた不格好な文字がどれだけ長く残るのか、歳華には分からない。
 昔々、という様式美的な書き出しから始まる物語を、どう進めるかすら決めていない。けれど、差し当たって、そこに人魚を出さないことだけは決めていた。

(了)

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