カタルシスなんて泣いてもこない


『はーい、おはみお~。今日はリクエストもらった、室内花火をリアルタイムでお届けしようと思いまーす。服に燃え移るのはまずいから、今回のみおちーはスク水でーす』
『あっつ! あっつい! 火花跳ねる! やっぱスク水で花火やるのは無しです! 無し! みおちーのお肌に傷が付いちゃう! きゃー!』
『でも、折角だから、この一袋は全部やり切っちゃいまーす。あー、この花火ピンク色で可愛いー』
『あっ、ちょっと待って、ビニールシートの間に花火落とした、わっ火……あっ』

 その日、美綴真美緒は室内で花火をし、ボヤ騒ぎを起こした罪でアパートの退去命令を下された。部屋にビニールシートを敷き、盥に水を張りつつ室内で手持ち花火をする女のことを赦せる大家はそういない。おまけに当の本人はピンク色のウィッグを被り、高校時代のスクール水着に身を包んでいる。時代が時代なら、これは新手のサバトだと誤解されていたかもしれない。けれど、真美緒は『みおちー』という名前の単なる素人ネットアイドルで、呼ぼうとしていたのは、悪魔ではなく視聴者だ。
 その日の放送を観ていたのは二八一七人だった。つまり、自宅炎上放送として話題になったこの回の「みおラジ」は、奇しくも過去最高の視聴者数を記録したことになる。何せ、スク水姿で自宅を焼いてしまう馬鹿の圧倒的なリアルは、最高のエンターテインメントなのである。何せ単純な話として、他人の自宅が燃える瞬間は大変面白いのである。


 神は七日間で世界を作ったが、真美緒が退去までの七日で出来たことといえば、私物を段ボールに詰めることだけだった。大学生活と配信生活の全てが詰まった七箱の行方は未だに決まっていない。
 住んでいたアパートの家賃は破格だった。同じ家賃帯の物件はなかなか見つからない程度には。そもそも即入居可能の物件自体が殆ど無い。田舎から出てきた雑魚大学生の真美緒に、社会的保証があるはずもないからだ。
 こうなってくるともうやることなんて一つしかない。酒を飲むことだ。酒を飲むことだけが、人間を現実から救ってくれる。
 退去まで一日も無いこの日、真美緒は受けている輪講の教授が主催する飲み会に参加していた。学生と飲むのが好きな早坂教授は、参加費千円でいくらでも飲ませてくれる。体のいいトリップ先を求めていた真美緒が、これに参加しない理由は無い。たとえ、輪講に仲のいい人間が殆どいなくても、アルコールだけは裏切らないのである。
 こうして、真美緒は貴重な最後の一日を、飲酒で使い潰した。
 どうやって電車に乗ったのかも分からない酩酊状態であっても、真美緒はちゃんと家に帰りついた。数時間も経たない内に追い出されるアパートは、もう既に他人の城のようだった。
 真美緒の七箱が家の中で待っている。いっそのこと、全部を放置してしまいたかった。どうしてあんなことをしてしまったのだろうと、今更ながらに思う。答えは簡単、視聴者が望んだからだ。二千人程度のささやかなコミュニティ。されど全くの無名というわけでもない。それが望んだものと引き換えに追い出されるなら、悪趣味な錬金術だ。でも、そうなることを決めたのもまた、真美緒なのだ。
 電気の点いていない自分の部屋の窓を見ながらいよいよ泣きだしそうになった時、不意に声が聞こえた。
「美綴先輩」
 声のした方を振り返る。そこには、スポットライトを一身に受けた女が立っていた。
 肩まで伸びる栗色の茶髪が美しい。小まめに染め直しているのか、殆ど地毛のようにも見える。すらっとした立ち姿は凛としていて、猫背気味の真美緒とは正反対だった。ラフなTシャツにシンプルなスカートなのに、それが妙にこなれて見える。
 どちらかといえばずるいタイプの美人だった。全てが正解であるタイプの美女だ。よく見れば、彼女に当たっているのはスポットライトですらない。恐ろしいことに、外灯まで味方につけている。その彼女が、ゆっくりと口を開いた。
「飲み会お疲れ様です。覚えていますか? 私、早坂先生の輪講を取っている、一年の永降頼花っていうんですけど」
「……覚えてる。輪講飲みにも来てたでしょ」
 確か、頼花はテーブルの真ん中で、いかにも人気者らしくちやほやされていたはずだ。隅で一刻も早く酔おうとしていた真美緒は、それをぼんやりと眺めていた覚えがある。
「そうです。さっきはお話出来なかったので、こうしてきちゃいました」
 時間を確認する。既に二十三時を回っていた。このままだと終電を逃してしまう。いや、頼花が住んでいる場所によってはもうとっくに手遅れだろう。そんな時間に『自分と話したいから』という理由で付いてきた女。何とも言えず、口の中が苦くなる。一体どういうことだろう?
「率直に言って、ちょっと怖いわ。……話したいっていうのでここまで来てくれるのはまあいいよ。……でも、怖いって」
「好意ですよ。それでも駄目ですか?」
「……私はどんな種類の好意でもいいってわけじゃないから。そういう風に好意を向けられたら、怖い」
「そうですか? 意外です」
「は?」
 うっかりすれば聞き逃してしまったかもしれない。そのくらいの密やかな声だった。そこで改めて聞き直す勇気なんか無かった。意外? 何が? どれが? どこまで?
 それよりも気になったのは、そうですか? と投げ込まれたその声が、異常に熱を帯びていることだった。冷たく突き放してくるなら理解出来る。それなら、それなのに、その熱っぽい声は何なのか。
 真美緒が何も言えないでいる間に、頼花が距離を詰めてくる。そして、人受けの良さそうな出来た顔で笑った。
「実を言うと下心があるんですよ。早速言ってもいいですか?」
「……でも、それはそれで……何の下心? 正直、あげられるものなんて何にも無いし、成績も多分、そっちの方がいいよ」
 何せ相手は位の高い相手なのだ。輪郭が光を帯びて、背景から浮いてみせるほどの存在感。
 そんな相手が自分に求めるものが想像出来ない。けれど、神様だって卑俗なはずの人間を生贄に求めるものだっけ?
 ややあって、頼花はまっすぐに言った。
「私が欲しいのは先輩です」
「……は?」
 突き放すように言ったのに、頼花は少しも動じなかった。
「みんなから聞きました。住むところ無くなっちゃったんですか?」
 みんな、の響きがいやらしかった。確か、この話をしたのは同期の二、三人だけにである。賃貸情報を得る為に、苦肉の策で頼った数人。それなのに、回りまわってこんなところまで来ているとは。人気者には情報が集まる。挙って歓心と笑顔を買おうとされるのは、一体どんな気分なんだろうか。その中で、永降頼花が高値を付けたのは、他ならぬ自分の情報だと思うとぞっとした。
「……まだ無くなってない、これから」
「あと何日?」
「明日の九時だから、あと十時間」
「その姿勢は美しいですよ。追い詰められていても」
 部屋に積まれた七個の段ボール箱がそのまま処刑台に見えている。頼花に言われるまでもなく追い詰められていた。次の住処が見つからないまま家を追い出されるというのがどういうことか、正直想像が出来ていない。中身の詰まった段ボールを一人で運べる自信すら無かった。
「で? それが? まさかその様子をルポしたいとか言うわけじゃないわよね? そんな淑やかな顔して実はユーチューバーだったりすんの?」
 淀みなく話す真美緒に対し、頼花は少しも動揺していないようだった。殆ど初対面であるはずなのに、頼花は全てを見透かしたような顔をしている。
「リビングが一つ、部屋は二つ。お風呂とトイレは別で、靴箱が多いんですよ。片方の部屋のクローゼットの立て付けが悪くて、使えないのが難点ですが」
 頼花は唐突にそう言った。嫌味なほど涼やかな声だ。言葉の意味を聞く暇すら無かった。畳みかけるように、永降頼花が笑う。
「一緒に住みませんか? 美綴先輩。家賃三万円、光熱費は全て私が持ちます。きっと想像よりずっと上等な生活が出来ますよ」
 真剣な顔だった。シチュエーションがシチュエーションじゃなかったら、口説かれていると思ったかもしれない。
「……嘘」
「嘘だったらこんなこと言いませんよ。どうでしょう、同居しませんか、真美緒先輩」
 いつの間にか呼び名が変わっていた。その距離の詰め方が恐ろしい。拒否なんかされないと、驕っているのが言葉で分かる。
「いいの、家賃とか」
「私、自由に出来るお金が他人より多いんです」
 自慢げな風でもなく、頼花はそう呟いた。
「いい物件なんですけど、一人で住むには広すぎますし。大家さんだって怪しむんですよね。でも、二人で住むなら学生のルームシェアということで、分かりやすいでしょう?」
 選択権なんかない提案だった。ややあって、真美緒は小さく呟く。
「……住所は」
「教えてあげるので、とりあえずはLINEからどうぞ」
 スマートフォンを掲げながら、頼花が小さく首を傾げた。
 抗えるはずもなかった。
 こうして、真美緒は頼花との生活をスタートさせた。これが地獄の門だなんて想像もしていなかった。一人で暮らすには広すぎる部屋は美しく整頓されていて、そこに血の池があることに気づけない。


 美綴真美緒が『みおちー』を始めたのは、英知大学に入学してすぐのことだった。新しく買ったノートパソコンにはウェブカメラが付いていた。大学入学を機に一人暮らしをするようになった。理由なんてそれで良かった。
 有名な動画投稿サイトで、一からコミュニティーを立ち上げた。ピンク色のウィッグを被って少しばかり化粧をすれば、そこには美綴真美緒ではなくみおちーが映る。たどたどしく挨拶をして、誰もいない枠で挨拶をする放送は、アーカイブにもなっていないが、今でも大切な思い出だ。
 物好きはいるもので、続けていればぽつぽつと視聴者数は増えてきた。勿論、大手の配信者には遠く及ばない。けれど、最初にコミュニティーに入ってくれた数人が、駆け出しのみおちーの力になった。根を張ることが出来れば生きられる。
 真美緒はネットアイドルとして疾駆する。コメントを導き手に据えながら、生放送を重ねていく。歌うだけでは足りず、実況だけでは届かなかった。けれど、放送中にホールケーキを丸々一つ食べるという動画は伸びた。喉を詰まらせながら掴んだ転機だった。
 誰かを楽しませること、あるいは自分のやることで何かが響いて返って来ること。それに憑りつかれていなかったと言えば嘘になる。けれど、真美緒は必死だった。その為ならゲテモノでも食べたし、スクール水着で揚げ物をした。水着と熱いものの化学反応といったら凄まじかった!
 その行く末が室内花火という崖際のダンスであったとしても、真美緒にはプライドがあった。観客さえ居れば落下だってエンターテインメントだ。地面に激突するまで浮遊だと言い張ってやるつもりだった。


 ところで、そんな彼女は永降頼花が苦手だった。正確に言うなら、彼女のようなタイプの女は須らく嫌いだった。
最初に嫌いになったのは、確か輪講での発表の時だった。参考文献すらろくに用意しないで行った発表に、無垢な顔で質問をぶちかましてきたからだ。誰も彼もが手を抜くような輪講で、真っすぐに「根拠は?」と尋ねてきた彼女を忘れない。
 その時なんと答えたか分からない。ろくな回答じゃなかったことは確かだ。恐ろしいのは、それが嫌がらせには見えなかったことだ。正しさを振りかざしても違和感が無いくらいの圧倒的な陽の女。
 それを見た時、素直に憎かった。
 そして、こういう女なら、一体どれだけの視聴者数を稼げるのだろう、と思った。


 それでも、頼花との生活は理想的な代物といってよかった。そもそも、リビングに足を踏み入れただけで、圧倒されるような部屋なのだ。その時点でまず敵わない。
 二人の同居生活には明確なルールが決められていた。食事は各自で取る、お互いの部屋にはなるべく入らない。ゴミ出しはルーチンで組む。過干渉を適度に避ける。
「これから何かしら困ったことや、これが遵守されないこともあるかもしれませんが、それはその都度解決していきましょう」と、頼花はにっこりと笑っていた。要するに、このルームシェアで第一に決められたのは、互いの不可侵条約だった。
 一連のことを聞いて「なるほど」と思う。つまり、永降頼花の求めている『同居人』とは、当たり障りのない相手のことなのだ。だからこそ、真美緒が選ばれたのだ。友人だと気を遣うだろうし、お互いに色々と言いづらい。その点、相手が真美緒であれば、ビジネスライクに同居人をやれる、ということだろう。
 理由が分かれば安心出来た。与えられた個室も相応に良いものだったし、ガムテープで封印されたクローゼットも、大したデメリットには思えなかった。
 ただ、この生活には一つだけ難点があった。
 永降頼花がいると、配信が出来ないのだ。


 大学からの帰り道、真美緒は「ああ、それにしても配信がしたい……」と独り言ちた。環状線を降りた瞬間こんな言葉が出てしまうのは、とことんまで末期である。配信がしたい。みおちーになりたい。いや、『みおちー』に会いたい。
 気づけば室内花火放送から一ヵ月が経っていた。みおちーアカウントで呟いてはいるものの、生放送の告知はしていない。数少ない界隈ではまことしやかに失踪説や引退説が囁かれていた。このままではいけない。みおちーを待っている人間はこの世界の何処かに確かに存在するのだ。
 それにしてもハードルは高かった。当然のことながら、隣の部屋には頼花が居る。耳を澄ませば生活音が聞こえるような距離感で、みおちーを召喚するわけにもいかない。段ボールの中で息を潜めてやるような配信ではいけない。何しろみおちーは、タブーをものともしないスペシャリゼアイドルだ。
 リビングや洗面所で頼花とすれ違う度、真美緒は密かに焦燥を募らせる。何かいい案はないだろうか。それにしても、頼花はとことん隙が無かった。キャラメルカラーの巻髪がいつも解けていないのは何故だろう? それでいて、排水溝に一本だけ見つけた彼女の抜け毛は役目を終えたように真っすぐのままでいる。


 それから更に一週間ほど経った頃、好機は向こうから訪れた。
 その日は一緒に朝食を取った。同居開始から三週間が経って、初めてのことだった。どうしてこんなことになったのか分からない。その朝は二人ともリビングに出てくる時間が同じだった。二人は何も言わずダイニングテーブルに着いた。妙な展開だった。
 買っておいたマヨコーンパンを頬張る真美緒の向かいで、頼花は妙にフルーツ塗れなシリアルを食べている。食事は個々で用意することになっているので、台所に並ぶ得体の知れないそれらに手をつけたことはない。一体どんな味がするのかも想像出来なかった。
「一口食べますか?」
 じっと見ていた所為か、小さく笑いながら頼花がスプーンを差し出してくる。
「へ? い、いいよそういうの」
「そうですか」
 調子が狂う。同居の話を出してきた時もそうだったけれど、未だに真美緒は彼女のことがよく分からない。大学内での絡みは早坂輪講だけだ。参考文献まできっちりと揃えた、完璧な発表を行う女。
 その中身にあるものは、一体何なんだろう?
「あ、そういえば真美緒先輩に言っておかなくちゃいけないことがあったんでした」
「……何?」
「私、ちょっとした用事があるので土曜日は外しますね。夜八時くらいから」
「ど、土曜日? どうしたの?」
「大したことはないですよ。でも、毎週この時間は手が離せないので、一応教えておこうと思いまして」
「ああ、そう。分かった。まあ、私は別にそういうのも気にしないから。別にそっちも私の出かける時間とか気にしないでしょ」
「そうですね」
「だから、全然いいし、何なら伝えてくれなくてもいいから」
 口ではそう言いながら、真美緒の頭は別のことで浮き立っていた。
 ――永降頼花が家を空ける。それは即ち、配信のチャンスだ。
 予定が何かは分からない。頼花は友人も多いようだから、何処かに遊びに行くのかもしれない。あるいはバイトだろうか? 見るからにお嬢様育ちでありそうな彼女が働いている姿が上手く想像出来なかったけれど、言われてみれば塾講師か何かをやっていそうでもある。
 ともあれ、重要なのは用事の内容じゃなく、彼女が不在であることの一点だった。もしも毎週この時間にいないのなら、配信をこの時間に合わせることも出来るだろう。
 晴れてみおラジの復活だ。
「ちなみに帰って来る時間とか――わかる? 鍵、とか……」
「ああ、二十三時には帰りますから。チェーンだけ外しておいてくだされば、寝てくださっていて構いません」
 余計に好都合だった。生放送の時間を八時半に設定して、四十五分ないし一時間の放送で九時十五分から半。片付けの時間を考えても全然余裕がある。以前の時間から多少ズレてしまうが、そんなものは何の問題にもならない。
 完璧だった。誂えられたようなシチュエーションだ。
 内心を悟られないように、小さく呟く。
「うん、分かった。チェーンだけは外しておく」
「お願いしますね」
 頼花はそう言ってたおやかに笑った。
 その時初めて真美緒は、永降頼花が案外子供っぽく笑うのだということを知った。


 そして、待ちに待った土曜日がやってきた。頼花は宣言通り七時半には家から出て行った。逸る気持ちを抑えながら、ここに引っ越してから一度も開けていなかった段ボールを開いた。
 ウェブカメラ。UA-4FX。舞台用のメイク用具に、ピンク色のボブウィッグ。美綴真美緒をみおちーにしてくれる一式が、その中に入っている。開けただけで、何だか泣きそうな気分になった。結局自分は、ここに帰って来たのだ。
 生放送前には栄養ドリンクを飲む習慣があるので、わざわざコンビニに買いに行った。少しだけ高めのものを買って、急いで戻る。それが終わったらメイクをして、ウィッグを被る。ルーティーンは三十分程度で終わった。それからは、何故か真美緒の方が居住まいを正して放送時間を待った。
 八時半になり、いよいよ配信ボタンを押す。
 そして真美緒は、画面の中で久しぶりに『みおちー』に再会した。
「み、みんなー! ばんみおー! みおちーだよ! 元気だったー?」
 来場者数は三百人弱だった。派手な予告をしていない復帰放送にしてはまあまあの人数だと思う。画面の上を『ひさみおー』や『炎上乙』などの温かいコメントが流れていく。それだけで、何だか酷く安心してしまった。胸をいっぱいにしながら、真美緒は笑顔で言う。
「なんと、みおちー引っ越しちゃいましたー! 引越しの理由は……まあ、分かるよね?」
 コメント欄に、室内花火や炎上騒ぎを揶揄するコメントが流れる。この、ある種の定型的なやり取りこそ、真美緒の求めているものだった。この温いキャッチボールがとっても楽しい。
「というわけで、引っ越し記念リクとかあったらどーぞ、やるかはわかんないけど、追い出されない範囲でやったげるから」
 前みたいに裸足でケーキを踏むとか、水着で室内花火をするとか、そういうものは止めよう、と真美緒は密かに思う。ああいうパフォーマンスをすることで、確かに注目は集められた。でも、もうそこに安寧は無い。頼花と一緒に暮らしている以上、路線は変更しなければいけない。
 でも、その先に一体何があるのだろう? ある種の悪趣味さや過激さを失ってもなお、自分は本当にアイドルで居られるだろうか? ピンク髪のウィッグで届くものって何だろう?
 そこまで考えて、放送中だったな、と思い直す。物思いに耽るのは放送が終わってからでもいい。
 悪ふざけとしか思えないようなきわどい要求の陰で『コメント読み上げ質問コーナー』や『デザート大食い実況』『住所バレ覚悟新居実況』というまだ穏当なコメントが躍っていた。
 適当に質問コメを読んで、その後適当に部屋の中だけでも見せようかな、と思いながらコメントを流す。

 その時、雑然と流れていくコメントの中に、不意に『朗読』というものが流れた。そのあまりに場違いな二文字に、一瞬だけ目を奪われる。今まで、室内花火やらスライム作りやら大食いやらのリクエストはあったけれど、『朗読』については初めてだった。そもそも、ただ本を音読するだけで、放送映えするとも思えない。
 だからこそ、何だか妙に印象に残った。
「えーっと、沢山リクエストありがとう、それじゃあねー」
 その時だった。真美緒の部屋のクローゼットが、音も無くゆっくり開いた。
 立て付けの悪いはずのそのクローゼットから、綺麗に染め上げられたキャラメル色の巻髪が滑り出てくる。
 見間違えるはずもなかった。出てきたのは永降頼花だ。真美緒の今の生活を牛耳っている美しい同居人。けれど、それがクローゼットから出てくることの不条理さといったら!
 頼花の手には小さなスケッチブックが握られていた。白い紙の中央に、シンプルな三文字が書かれている。

『続けろ』

「つ……」
 頼花がスケッチブックを捲る。次のページにも、文字が書かれていた。

『放送を切れば 晒す』

 それを真美緒に見せたまま、頼花は器用にマジックペンを走らせる。それに伴って、少しだけ歪んだ文字で『全て』という言葉が付け足された。全て、と心の中で反芻する。全て。全てとは何だろう。個人情報をネットに晒す? あるいは大学にこのことを報告する?
 ただ一つ言えることは、そのどれもが真美緒にとって致命的であることだけだった。首に縄を掛けられたまま、真美緒はカメラの方に笑顔を向けた。
「……っと、空調の様子がおかしくなったみたい、ちょっと止まっちゃってごめんねー! みおちーの可愛いお顔の鑑賞タイムにぴーったりだったでしょ?」
 ナルシスト気味のキャラクター設定に沿って、そんなことを言ってみたものの、永降頼花を前にしている状況では高度な自虐ネタにしか思えなかった。
「さっ……さて、リクエストにお答えして――」
『朗読』
 スケッチブックには、その二文字が流暢に書かれていた。気づけば、カメラに映らないギリギリのところまで、永降頼花が近づいてきている。カメラと一緒にスケッチブックが見える位置に。それでいて放送の阻害しない位置に。そうして頼花は、カメラの横に『銀河鉄道の夜』の文庫本を置いた。どうやら、それを読めという指示らしい。どうしてこんな? どうしてこれを? と思ったものの、拒否権があるはずもなかった。
「……じゃー……あ、リクエストにお答えして、今日は朗読をしてみようと思います。ちょうどみおの読みかけだった『銀河鉄道の夜』を朗読していこうと思いまーす……」
 その言葉を聞き終わると、頼花は小さく頷いて部屋の隅に戻っていった。どうやらお気に召したらしい。画面上に『文学少女キャラ?』『朗読いらん』『待機』などの言葉が流れていく。確かに、今までのみおラジを楽しんでいる層からすれば、異色の展開だろう。でも、やるしかなかった。
 薄くて古い文庫本には栞が挟んである。その栞を抜き取って、適当な部分から読み始めた。
「〝ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした細長いもので、あの見えない天の川の水の上に飛び出してちょっと弓のようなかたちに進んで、また水の中にかくれたようでした〟」
 真美緒は『銀河鉄道の夜』を読んだことがなかった。名前くらいは知っているし、銀河を渡る鉄道のことも、主人公のお友達が川に落ちて死ぬことも知っている。けれど、その間が何で結ばれているのか、果たして宮沢賢治がどんな言葉でそれを綴ったのかは知らない。こんな機会がなければ、一生知らずにいただろう。
 当の頼花は、真美緒のことをじっと見つめていた。それも、スマートフォン越しに。
「〝「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥。」その声もはっきり聞えました。それといっしょにまた幾万という鳥の群がそらをまっすぐにかけたのです〟」
 不思議な場面だ。恐らくは銀河への旅をしているのだろうが、情景が想像出来ない。
「〝どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない〟」
 声が響く。
「〝あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ〟」
 元から少ない視聴者数が刻一刻と減っていく。朗読を面白がる人間と今までに無い流れに戸惑う人間がコメント欄で交差する。その中で、真美緒は何だか酷く孤独な気分になった。どうしてこんなに寂しい気持ちになるのか分からない。『銀河鉄道の夜』が持つ魔力だと言うのならそうなのかもしれない。
「〝――ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか〟」
 泣きそうになりながら、その一文を読む。そして、何故か分からないけれど、ふと部屋の隅に目を遣った。自分をこんな状況に追い込んでいる永降頼花の方に目を向けた。
 その時の彼女の顔を、何と表現すればいいだろう。
 頼花はスマートフォンから顔を上げて、真美緒のことを見ていた。
 さっきのような有無を言わせない無表情でもなく、あるいは無茶振りを楽しんでいる風でもなく、それでいて喜色満面の笑顔というわけでもない。細められた目の奥で、静かに熱が煮立っている。それでいて下がった眉は泣く寸前の子供みたいだった。ぞっとするほど白い肌の下で筋肉が震えている。恐ろしく顔の美しい女がこんな雑然とした表情を浮かべていいものなんだろうか? 薄ら笑いを浮かべた口元が、ゆっくりと動いた。

『わたしがいる』

 声には出なかったけれど、頼花は確かにそう言った。その瞬間、タイマーが鳴る。放送枠の残りが五分を切った合図だ。
「あーっと、タイマーが鳴っちゃったみたい! みおちーの美声に聞き惚れたかな? それじゃあ、今日はちょーっと早いけど、ここでバイみお~」
 それだけ言って、急いで放送を切った。切れる寸前に見た『さっきのみおちどっか見てた?』『部屋に誰かいる?』『男?』のコメントを頭から追い出す。
「今日はちょっと早めですね。まあいいでしょう」
 永降頼花は、さっきとはうって変わって涼やかな表情を浮かべていた。その手にはまだスケッチブックが握られている。それを見た途端、忘れていた怒りが込み上げてきた。文庫本を放り投げて、頼花に掴みかかる。
「っざけんな! ふざけんな! 何よあれ! 何!」
「ああ、みおちーでもそんな言葉遣いするんですね」
「今はみおちーじゃないから! っていうか何、何で……」
「どこのことを言われてるのか分からないのですが、そうですね。今のことは単なる興味です。今までこれを何度夢想したかわかりません。放送中のみおちーを、間接的に支配してやったらどうなるんだろうっていう。痴女の露出妄想みたいなものですよ」
 言いながら、頼花がゆっくりと真美緒のことを押す。体格差は確かにあった。何せ彼女は発育がいい。けれど、その体重差が暴力になるところを、想像したことがなかった。
 段ボール塗れの部屋なのに、頼花は真美緒を器用に壁際へと追い詰めた。逃げられない。そもそも、この家自体が永降頼花の用意した檻なのだ。頼花がゆっくりとピンク色の髪を掬い上げる。そして、笑った。
 逃げられない。
「ね……ねえ、あんた……いつからあそこに居たの?」
「真美緒先輩がコンビニ行った時からですよぉ。上手く入れ違いで家に戻って。でもねえ、あのアパートの前での待ち合わせに比べたらマシでしたよ」
「…………あ、あたしが、クローゼット開けるかもしれなかったでしょ……」
「そうしたら内側から開かないようにしてましたよ。クローゼットの立て付けが悪いって言っておいたじゃないですか」
 そうだった。頼花はいかにもそれが酷いデメリットであるかのような顔をして、真美緒にそう言い含めておいたのだ。だとすれば、と真美緒は思う。この女は、あの夜のアパート前で既にこのことを計画していたことになる。それはつまり、どういうことだろう? ややあって、真美緒は震える声で言った。
「……知ってたの? あたしがみおちーだってこと」
「そうですね。ずーっと前からリスナーなので」
「ずっと、」
「気持ち悪いですか?」
 頼花はしれっとそう尋ねた。
 気持ち悪いと答えるのは簡単だった。だって、気持ち悪いという感想に嘘は無い。でも、それ以上に湧き上がってくる感情の量が多すぎて、そんな言葉じゃ伝えられない。
 天才詩人でもなければ無理だ。しがないネットアイドル風情が相手に出来る激情じゃなかった。
 だから、本当に簡単な言葉が出た。行き所の無い動揺が、口の端から漏れている。
「何でそこまで……」
「ファンだからですよ」
 躊躇いも無く、頼花はそう言った。
「私はみおちーのファンなんです。ラジオだって全部聞いていますし、タイムシフトが視聴出来る間に、みおラジは全部データとして残しています」
「ちょっとやめてよ……。ちゃんとアーカイブ上げてるでしょ……」
「みおちー、事故回はアーカイブ化しないでしょう。ダジャレ連続企画でありえないくらい滑った時とか、虫を食べる企画で異常に引かれた時とか、この前の大家凸だって」
「いいでしょ別に! みおちーのイメージが悪くなっちゃうじゃない! っていうか、運営が消しやがるやつもあるし……」
「私は貴女の全てが見たいんです」
 隙間なく染め上げられた柔らかな茶髪は、生活の余裕を表している。対する真美緒のピンク髪は、さながら粗雑なフェイクファーだ。自分と対比するのもおぞましいはずのそれが、触れ合うほどの距離に居る。
「好きですよ、みおちー。いえ、真美緒先輩のこと。いっぱいいっぱいで頑張っている姿が好き」
「…………それ遠回しに馬鹿にしてない?」
「それに声がいい」
「付け足したように言わないでよ」
「極めつけは――」
「極めつけは、何」
 その時、さっきまで淀みなく喋っていた頼花が不意に口を噤んだ。ややあって、躊躇いがちに呟く。
「……いいです。知らなくて」
「は!? そんなんで――」
「駄目ですか。これだけじゃ」
 何でだろう。泣きそうになる。焼けつくようなその熱量が、刺さるような愛が、人間の形を取って自分を押し倒している。自分より美しく、自分より人望があって、自分より賢いだろう女が、『みおちー』に狂っている。
お察しの通り、訳の分からないものって怖い。誇りを持っていたはずの活動が他愛の無い灰のように思えてくる。粘土細工に数億の値がつけられることが、こんなに恐ろしいなんて思わなかった。
「ど、どうすんの……このまま一緒にとか無理、で、出てかないと……」
「駄目です」
「だ、めって……」
「同居は解消しません。とはいえみおちーの活動は続けてもらいます。勿論、無理矢理放送に介入するのはこれで最後にします。どんなことをしてもいいですよ。貴女のみおラジをやってください。私はそれを楽しみにしていますから」
「……こっ、こんな後に出来るわけ……」
「もし嫌であれば、私はどんな手を使ってでも貴女の人生をめちゃめちゃにします。幸せになれるとか思わないでくださいね。その代わり、条件を飲んでくださったらどんなことでもします。真美緒先輩の、そしてみおちーの為に、全てを捧げると誓いますから」
 淡々と告げていい内容じゃなかった。人生はそう簡単に切っていいカードじゃないだろう。それとも、永降頼花はこれを最大の勝負所だと思っているんだろうか? そんなの、本当に、……。
「……『晒す』って何? ネットの掲示板にでもあたしの個人情報を晒すってこと? それともあたしがこんなしょっぱいネットアイドル活動をしてることを大学に暴露するってこと?」
「両方、あるいはそれ以上も」
 手首に更に力が込められる。
「……あっ……あんたほんと犯罪だからね! ぜっ、前科つくわよ分かってんの⁉」
「前科ですか」
 その時、不意に頼花が表情を和らげた。一緒に朝食を食べた朝のような、好ましい笑顔だった。多幸感に焼かれた微笑のまま、頼花が言う。
「それはまだ誰もみおちーに捧げたことのないものかもしれませんね。あげましょうか? 私の前科」
 ぞっとした。狂っている。
 そこでとうとう涙が零れ落ちた。零れたそれの熱さに驚く。恐怖だけじゃない。ここには怒りも詰まっている。その涙で目の前の女を刺し殺せたら、と本気で思った。
 それでも、真美緒は頼花と暮らしていくしかないのだ。
「あ、勿体ないですね」
 涙の伝った頬を、もっと熱いものが撫でる。
 それが永降頼花の唇であることには、数秒遅れて気が付いた。

 *

 あの日のことを、永降頼花は一生忘れないだろうと思っている。
 早坂輪講は、グループワークをこなしていれば難なく単位が取れる他愛の無い講義だった。近代文学という広すぎる括りの中で、適当に調べた発表をするだけで済む。誰も彼もが特に目新しいところの無い発表をしては、教授に及第点を与えられるような講義だった。
 頼花は欠伸を噛み殺しながら、殆ど儀式と化した発表を聞いていた。誰も真面目に聞くことのない、誰も真面目に語ることの無い講義。そんなのが、何回続いただろうか。
 不意に、聞いたことのある声がした。
「えーっとぉ、私が……や、私はぁ『魚服記』を取り上げようと思います」
 しどろもどろとした口調なのに、滑舌だけが妙に良い。そして、耳にこびりつくようなざらつく高音。その声を、頼花は数ヶ月前に聞いたことがあった。
 インターネットを巡回している時に、とある炎上動画が回って来た。ピンク色のウィッグを被った女の子が布団の中に包まりながら、唸り声を上げている動画だ。タイトルは『発熱実況』という色物極まりないもので、どうやら彼女は風邪に倒れた自分の姿を配信したらしかった。
 病気で苦しんでいる姿を配信、というなかなか狂気じみた様相に対し、オーディエンスは敏感に反応した。ある者は手を叩き、ある者は狂ってるとの評価を下し、漠然と不謹慎であると言った者もいた。それに対し、顔を真っ赤にした彼女――『みおちー』は、カメラを睨みながら言ったのだった。

「あたしは自分が殺される瞬間だって配信してやるから」

 結局のところ、それが炎上の種だったのだと思う。みおちーの発言は、病んだネットアイドルとのタグ付けをされ、歪んだ自己顕示欲の文脈に回収されていった。
 けれど、その目が忘れられなかった。はっきりとこっちを見て放たれた負け犬の遠吠えが、何だか妙に美しかった。
 この騒動でみおちーのコミュニティ登録者数はようやく千人を超えた。この後もみおちーはこっちを挑発するような動画を上げ続け、小規模な炎上と冷笑によってどうにか登録者数を二千人に伸ばした。気づけば頼花は、そのコミュニティの中の一員になっていた。
 壇上に上がった弱々しい女子大生に、ピンク色の髪の毛を幻視する。根拠も論旨もてんでなっていない発表に、耳を傾ける価値は無い。でもその声は。コミュニティーの二千人余りを少なからず楽しませている声なのだ。『あたし』という甘ったるい一人称が添えられていないのが勿体ない! あれは『みおちー』だ、と確信の内に思う。あれは、みおちーだ。
 二千人の内の一人が、この早坂輪講で出会う可能性はどのくらいだろう? これを運命と呼ぶほど厚かましくはない。何せ、凸案件ならいくらでも見ている。ある場所にはある可能性が、今目の前に現れただけだ。北極だって誰かが見つけた。タイミングの問題だ。
「……それでは美綴さんの質疑応答に入ります。何か質問等がある人は挙手で発言してください」
 気づけば、発表は終わってしまっていた。
 壇上の美綴真美緒は、所在無げな顔をして、ぎゅっと身を縮こまらせている。この後の数分が無事に済めば、前期の単位は何事もなく約束されたも同然だ。洞窟に隠れる子供みたいに息を殺して、真美緒は時計を気にしていた。
 ――その唇をもう一度こじ開けたい。そうなれば、頼花の取るべき選択肢は一つしかなかった。
「はい、永降さん。発言をどうぞ」
 信じられないものを見るような目で、真美緒が頼花のことを見た。洞窟から見える手を引いて、頼花は優雅に微笑んでみせた。
「そうですね。『魚服記』の内容と作者の自殺と絡めて論じているのはいいのですが、具体的な論拠の無いまま、スワの死はこう、作者の死はこう、と解釈しているのが気になります。美綴さんの見解を改めて聞かせて頂けますか?」
 このぬるま湯のような講義において、一つ暗黙の了解がある。それは、参考文献の乏しさを指摘しないことだ。勿論、発表とは本来なら隅々まで調べて、何冊もの文献を参照しなければいけない。けれど、この講義においては何となくその甘さを指摘しない了解がある。参照していない事柄について、何となくで語ってしまっていい緩さがある。
 だからこそ、この質疑応答には答えられるはずがないのだ。一番どうしようもない部分なのだから。
 暗黙の了解を破った瞬間、教室内にさざ波のような緊張が走った。頼花の方に困惑の視線が向けられる。それに対して、頼花は完璧に応じてみせた。即ち、自分は純粋にこの輪講に向き合っているだけですよ、という顔をしたのだ。
 美綴真美緒はもう怯える子供の顔はしていなかった。

 見開かれた目に憎悪の光が宿っている。完膚なきまでに臨戦態勢の顔だ。炎上だと騒ぎ立てるオーディエンスの前で、九度越えの熱を出しながら笑ってみせた時の目だ。

 その目がいい、と反射的に思った。率直に言って興奮した。日向にいる人間に向けるそのハングリーな目は、頼花の求めるみおちーの目だった。嫉妬と野心と憧憬が混じって炎になる。その目で焼き尽くされたい、と思った。もっとその敵意を向けて欲しい。その為だったら、どんな自分になってもいいとすら思った。
 その瞬間、頼花は全てを理解した。人間はこうして自分を作っていくのだと。その誰かの視線を戴く為に、人間は自分を作り上げるのだ。
 真美緒がその目を向けていたのは、時間にすれば数秒でしかなかっただろう。それでも、頼花はその数秒で一度焼き尽くされた。教室内に落ちた沈黙が、自分たちのことを包んでいることにすら、気付かなかった。
「……美綴さん? 何かありますか?」
 早坂教授が困ったようにそう言うのを受けて、ようやく時計の針が動き出した。真っすぐな憎悪を向けていた目が急に萎み、口から弱々しい声が溢れ出る。
「あっ、は、はい、その、……す、すいません、勉強不足で、その、永降さんの、言う通りだと思います……」
 後輩にしてやられたことに真っ直ぐ反発するあの視線が、それだけしか見られないことが悔しかった。今目の前にいたのは紛れもなく我の強い、美しい、野心的なアイドルだった。アイドルは屈しない。アイドルは負けない。
 あの輝きを教室内にいる誰もが知らなかった。頼花だけだ。そのことが、頼花を永降頼花にしてくれる唯一のものだった。

 そして転機は訪れる。記念すべきみおラジ八十六回目。みおちーがスクール水着を着て、室内で花火をした回だ。騒音を注意しに来た大家さんが乗り込んできて、そのまま退去命令を下されるという伝説の放送事故回。あの時の二八一七人の中に、頼花は当然入っていた。
 やるなら今しかないと思った。あの熱を、あの美しさを、自分のものにしたかった。
「美綴先輩」
 声が震えていなかったかどうか、正直自信が無かった。一世一代の勝負だった。愛でも恋でも、名称はどんなものでも良かった。美綴真美緒に焼き尽くされたかった。
 ややあって、彼女は言う。
「私が欲しいのは先輩です」

 
(了)


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