無能探偵ハイムリック北崎
特に理由があって免許を取ったわけじゃない。ただ、北崎を迎えに行く為だけに午前二時に車を走らせるのは、何だか酷く不適切な感じがした。絵里坂が運転しているのは何の変哲も無いただの国産車で、真夜中に似合うほど洒落た車種でも無い。不適切だよな、と彼は確認するように呟く。
成金趣味丸出しの大きな屋敷の前で、鹿撃ち帽を被った男が蹲っていた。まるで靴を隠された子供みたいに、何処にも行けずに震えている。可愛い女の子だったら慰めてもらえただろうが、生憎彼は少しも可愛くない成人男性でしかないので、都会の夜の無関心によく溶け込んでいた。
北千住の街を威嚇するようにクラクションを鳴らすと、弾かれたように鹿撃ち帽の男が顔を上げた。そして、逃げるような速度で車に乗り込んでくる。
「ごめん絵里坂、迎えに来てもらうのはこの間で最後にするつもりだったんだが」
「ギャンブル依存症の人間もアル中もソシャカスもみんな『この間で最後』って言うんだよな」
「私はそんなのとは違う」
北崎が苦々しく否定する。その通り、全然違う。何せ北崎が属するのはそれらよりもっと劣悪なカテゴリーなのだ。
「で、今日はどこまでやらかした? 何まで口にした?」
「『私が来たからにはもう大丈夫です』『全てからっと解決させてもらいますよ』『この名探偵ハイムリック北崎におまかせあれ!』……は言ったかな。言ったな」
「あちゃー、数え役満だな」
絵里坂は字面に反して淡々とした口調でそう言った。いつものことだ。ギャンブルよりも性質が悪く、ボランティアにしては俗悪な行為を、北崎はしてきたのである。
殺人現場への飛び込み、辻斬りのような探偵行為だ。
どういう仕組みかはわからないが、北崎は今日も、とある邸宅で起きた殺人事件の話を聞きつけ、呼ばれてもいないのにその現場に参じたのだ。溺れる者は藁をも掴む、容疑者どもは猿をも頼る! 突然現れた探偵を、意外にも彼らは狂乱の内に受け入れる傾向にある。その混乱こそが、探偵をこの世に蔓延らせる原因にもなってしまっているわけだ。
勿論、それが一概に悪いとも言えない。探偵によって事件が解決することは無いわけではないし、解決したら概ねハッピーエンドだ。ただ、問題はある。
その探偵が途方もなく無能で、通り魔的に立ち寄った事件を解決出来なかった場合なんかは、悲劇でしかない。最悪だし惨めだし、何よりとっても不謹慎だ。丁度、今夜の北崎のように。
「もし解決出来ないってわかってたら、私だって大人しくしてたんだけどね。……ある程度最初に自信満々なところ見せないと、そもそも捜査させてくれないんだもん」
「大見得きった代償は高かったな、ハイムリック北崎」
「…………もうハイムリックじゃない……」
ハイムリック北崎というのは、北崎喜咲の探偵ネームである。漫画家がペンネームを用いるように、北崎は探偵行為をする際に、ちゃんと探偵としての名前を用いるのだ。この名前の由来はそのまま、喉に詰まった異物を、腹部を思いっきり圧迫することで排出する『ハイムリック法』に因んでいる。真実は異物じゃないのだが、この響きが北崎は妙に好きなのだ。
絵里坂が初めてその名前を聞いた時なんかは、それこそうっかり泣きそうになった。壊滅的なネーミングセンスだと思った。完ッ全に当て馬側の名付けである。こんな名前の探偵が事件を解決出来るはずがない。
しかし、それを指摘しても、北崎はしれっとした顔で「メルカトル鮎を知らないのか? 有名だぞ」と言い放ったので、絵里坂はいよいよ泣いてしまった。このままだとファンに刺される。
こんなにもデリカシーと才能が無い北崎が、どうして探偵という夢にこだわるのか。最初は全然わからなかった。けれど、そんなに難しい経緯じゃなかったのだと後になって気が付いた。
それこそ、歌と踊りが好きな子がアイドルを目指すようなものだった。小説を書くことが好きな子が小説家を目指すようなものだ。自然の摂理だ。当たり前の流れだ。好きという気持ちは凄くシンプルな行動原理である。だって好きなんだから!
「好きなのに才能が無いなんてずるい、そんなの酷い……」
「そんなのお前だけじゃないよ」
絵里坂はなるべく優しくそう言った。今日はちょっと疲れているので、言い争いを避けたかったのだ。それに、これだけ頑張って事件現場に赴いているのに、何の成果も上げられない北崎は普通に可哀想だったし。
「でも、今回のは物凄く難しかったんだよ。密室で人が殺されてて、内側のU字ロックもちゃんと掛かってて、それでドアの隙間がガムテープで目張りされてたんだ」
「目張りは外から?」
「外が主だけど、中もされてたよ。特にU字ロックの周りなんかは。だから、糸を通してU字ロックを締めるとかも出来なかったんだ。もう、こんなの無理だよ。不可能犯罪だ。宇宙人か幽霊か自殺したくなるガスとかの仕業だよ」
「それこの前も聞いた」
「ほら、今回は本物の密室なんだって」
そう言って北崎は一枚の写真を見せてきた。さっき言っていた通り、目張りされた扉が映っている。きっと、周りの人間が恐慌に陥っている間に撮影したものだろう。そういうところも反感を買う理由なのに、北崎にはその辺りがよく理解出来ないらしい。『解決の為に役に立つから』と、彼の中にあるのはそれだけなのだ。
扉には確かに目張りの跡があった。扉を封印するかのように執拗にガムテープが貼られている。扉を内側から撮影した写真もちゃんと用意されていて、その写真では確かに、堅牢そうなU字ロックの上下にもガムテープによる封印が施されているのだった。
「ね、凄いだろう」
北崎の口調は自己弁護と感嘆の入り混じった奇妙な明るさに満ちていた。ミステリ好きの彼は、自分を負かした密室であっても愛せてしまうのだから懐が深い。
「凄いっていうか……うーん、そうだな」
絵里坂は車を道路脇に止めると、もう一度その写真を見た。肝心の死体の写真は無いらしい。単にそれがつまんない死体だったからだろう。ということは、この密室の肝はこの扉に尽きるのだ。どうせそれ以外のヒントなんて望めないのだし。
はてさて。重要なのは、ドアノブと鍵穴が一体になっているタイプの扉であるという点だった。縦十五センチ、横七センチの金色の長方形の中に、ノブと鍵穴が慎ましく収まっている。その金色の長方形の端も、がっちりと目張りされている。それはもう頑丈に、それはもう執拗にやられている。それを見て、絵里坂はひらめいてしまった。
「なあ、トリックわかったんだけど」
「えっ、まだヒントが開示されてから数行しか経ってない……」
「言ってもいい?」
「……うーん」
少しだけ逡巡した後、北崎が頷いた。なんだかんだ言って、事件に未練があるらしい。間違ってるかもしれないけど、と言い添えてから、絵里坂が語り出す。
「犯人はさ、被害者を殺した後、普通に部屋の外に出て、そのドアノブと鍵穴がついてる長方形の部分を丸ごと外したんじゃないのか? それで開いた穴から手を差し入れて、U字ロックを掛けて、ロックの上下にガムテープ貼って、長方形の部分を元通りに嵌めて、改めてガムテープで目張りしたんだよ」
「……はあ? そんなの、え、そんなの……」
「扉の鍵の仕組みくらいはわかるだろ? 鍵穴がちゃんと鍵を噛んで、デッドボルトを押し出せればいいんだ。同じように嵌め直せば鍵は掛けられる」
「でも、それだとネジとか外さなくちゃいけないだろ……? あそこ丸ごと外すんだったら、それこそ全部……」
「まあそうだろうな。でも、元より扉はガムテープで目張りするつもりだったんだし。むしろ、その為に目張りするつもりだったんだろうし。さっきの写真、やけに几帳面に鍵穴周りにも目張りがされてただろ? あれ、あの部分がうっかり外れないようにガムテでガチガチに貼ってるんだよ。でも、そこだけガムテープ貼ってると不自然だから、ドア全体を目張りしたんだろうな」
「……あぁ……」
全てを見透かされた犯人のように、北崎がそんな声を漏らした。頭から鹿撃ち帽を取り去ると、後部座席に投げる。その目が光を失っているのを見て、絵里坂は慌ててこう言い添えた。
「いや、俺は現場に行ってないし、第一お前みたいな探偵じゃない。間違ってるかもしれないぞ?」
「そんなことはない……絶対に無い……」
「普通に自殺だったかもしれないし、部屋に自殺したくなるガスが撒かれたのかもしれないし、幽霊か宇宙人の仕業かもしれないだろ。お前も探偵なら自分の推理に自信を持てよ」
「やだもう絶対絵里坂のが合ってるもん……そういうことだよ……トリックなんて大体そんなもんだもん……何が宇宙人だよ、何が幽霊だよ、いるわきゃないんだそんなもん……」
「俺は宇宙人だけは信じてるよ」
そこは譲れないところだったので、絵里坂はとりあえずそう主張しておいた。彼は探偵にロマンを感じなかった分、宇宙に情熱を傾けているのだ。
「宇宙人か……絵里坂が言うならいるかもしれないな……何せ絵里坂は私より賢いからな……密室のトリックを暴けるだけの賢さのある絵里坂なら間違えるはずがない……」
「面倒な奴だな……」
「もう駄目だ……今日の失敗は本当に立ち直れないやつだから……」
「戻る? もう他の探偵が解決しちゃってるかもしれないけど、もしかしたら間に合うかもしれないぞ? そしたら、やっぱり真相がわかったって言って解決すればいい」
その提案に、北崎が一瞬逡巡する。別に推理さえ合っていれば、それを横取りしてハイムリック北崎が披露しても構わないわけだ。小手川邸を出てからまだ三十分も経っていないし、今なら他の名探偵共がやって来ていない可能性もある。
一度尻尾を巻いた北崎は快く思われないかもしれないが、それでも事件さえ解決してしまえばオールオッケーだ。探偵はそういうものである。
「いや、いい……」
けれど北崎は脱力したようにそう呟くと、更に深くシートに沈み込んだ。
「何だそれ。プライド? 探偵としての矜持? 捨てちまえそんなの」
「そういうことじゃない……別に、カンニングがどうこうって話じゃないんだ……」
「……じゃあ何だよ。問題ないだろ?」
「いや……さっき現場で滅茶苦茶ストレスかかったからね……。私、事件現場に吐いちゃって、そのまま逃げてきたんだよ……」
「お前本当何なの?」
「自分が一番思ってるよ! 何でそうやって死体蹴るんだよ!」
「お前がまだ生きてるからだよ」
尤も、探偵としての北崎は半死半生ではあったけれど。ここまで無能を晒したら、もう出禁になってもおかしくないレベルだ。今回は無理矢理潜り込んだようだけど、次からはどうなることやら。
巷の名探偵たちは、むしろ招かれる側の立場だというのに、実績の無い北崎はその気配すらない。
一体いつまでこんなことを続けるのだろうか。探偵志望というわけでもない絵里坂より、海外どころか国内ミステリーすら殆ど触れたことのない絵里坂より! ……劣っているのが目に見えているのに。
北崎はぼんやりとした目で窓の外を眺めている。それが正しく敗北者のメタファーのような気がして、絵里坂はたまらなくなった。エンジンをかけて、のろのろと車を発進する。
「ラーメンでも食べて帰ろうか」
あんまり甘やかしてはいけないと思いつつも、絵里坂はそう言った。現場で嘔吐してしまったということは、きっとお腹がすいているに違いない。北崎はまだ落ち込んでいるようだったが、ラーメンの誘いには素直に頷いた。殺人現場を見たすぐ後に食事を摂れる部分は、北崎の数少ない探偵ライクな長所だった。裏を返せば、それ以外探偵向きの部分は無いということでもあった。
努力は時に痛ましい。
報われる努力ならいい。後のハッピーエンドが担保されている努力は美しい。けれど、報われない努力はそうじゃない。醜い場合の方が多い。
人間は適度なモラルを備えて生きているので、必死にもがくネズミが蟻地獄に飲まれているのを見るのは悲しい。鼻先にニンジンを吊り下げられた馬がずっと走らされているのを見るのは辛い。同じところをぐるぐる回って途方に暮れているモルモットを見るのは痛ましい。
そして、たまに苛立ちを覚える。
ところで、探偵としてのハイムリック北崎は最悪だけれど、英知大学生としての北崎喜咲はそこそこ優秀な人間だった。今日も北崎は教室の一番前の席を陣取り、教授の質問に的確に答えている。単なる選択科目だ。そう気を張るような科目じゃない。それなのに、北崎は予習復習を完璧にこなし、教授の求める答えを完璧に弾き出す。優等生なのだ。
対する絵里坂は一番後ろが定位置だった。単位さえ奪取出来れば良い人間が位置取る、魅惑的な堕落の席である。講義中、絵里坂は一言も喋らないのが常だが、それでも単位は来る。評価もそう悪くないのがつく。元々緩い授業なのだ。北崎のような姿勢は素晴らしくはあるものの、正直コスパが悪い行為でもあった。あんなに頑張らなくてもいいのに!
北崎と絵里坂は共に三年生である。大学三年生の夏ともなれば、真面目な学生たちがそろそろ志望業界などに狙いを定め、来春の熾烈苛烈な戦争に備える時期でもある。お粗末極まりない成績に不透明な展望を備えた絵里坂に比べ、優秀な成績を収めている北崎はそれなりに良い企業に就職出来ることだろう。
それなのに、北崎は大手商社や花形出版社や銀行などには目を向けず、『名探偵』という色々ふわっふわなものを目指し続けている。いつまで人は探偵を志していいのかについて確固たる意見があるわけじゃないが、少なくとも就活くらいはした方がいいんじゃないだろうか……。絵里坂は自分のことを棚に上げながらそう思う。
北崎は今日も熱心に授業に参加している。名探偵というものは広範な知識を要求されるものだから、というのが彼の真面目さの理由だ。いつどんなものが暗号やダイイングメッセージの解読に役立つかわからないからね! とキラッキラの笑顔で言っていたことを思い出す。
実際に西洋の宗教画に絡んだ暗号が出てきたとしても、どうせ北崎は解けないだろう。一文字もノートを取らないまま、絵里坂は緩く確信している。
ハイムリック北崎の就活問題。
もしかするとこれは結構重要な問題なんじゃないのか? ということに気が付いた絵里坂は、その日の昼に早速尋ねてみることにした。北崎はお気に入りの鹿撃ち帽を被って、熱心に書き物をしている。日課である『トリック研究』だ。
北崎は今まで読んだ推理小説のトリックを全部ノートに纏めていた。『研究ノート(3)』というナンバリングが生々しい。凡人の彼は、細々と、着々と、探偵を目指していやがるのだ。
絵里坂はふと、MENSAに入ることに情熱を傾けていた同級生のことを思い出した。MENSAとは、IQ200以上の人間しか入れないとかいう、なんていうか高級サロンのような、大昔の遊郭のような、アレである。あれに入る為に、IQテストの過去問を必死で暗記している同級生が昔居たのだ。
彼が結局MENSAに入れたのかどうかはわからないが、それを見た絵里坂は何となく「うわっ」と思ったものだった。努力の形が歪な上に、報われる気がまるでしなかった。そういうことじゃないだろう。その時覚えた気味の悪さが、北崎の日課にはあった。
今日も北崎は必死に探偵を目指している。その不意を衝くように、わざと大きな声を出した。
「なあ。お前、行きたい業界とかあんの?」
絵里坂の声に、ぴたりと北崎の動きが止まる。そして、不安そうな目でこう繰り返した。
「業界……?」
「でもお前金融って感じしないよなぁ。外資系ってのもアレだし……あ、でもお前TOEICの成績良いんだっけ? だったら普通にそういうのでもいいのかもな。別に地元に愛着とか無いだろ?」
「あ、なるほど、えっと……いや、」
「俺はもう就職出来りゃなんでもいいんだけどさ、お前は意外とそういうのこだわるんだろ?」
「……こだわるも何も、私は生まれながらにして探偵の宿命を背負ってるからな。業界を言えというのなら、それこそ探偵業界だよ」
さっきまで戸惑っていた舌が、一拍遅れてくるくると回りだす。北崎はアドリブに弱い。この気取った言い回しも、一回脳内でシミュレーションしないと出てこないのだ。そのあからさまな凡人らしさを見る度、何とも言えない気持ちになってしまう。
「そんな業界無いだろ。ちゃんと考えないと本当にヤバいぞ?」
「そんなことを君に言われる筋合いはない。何せ君は探偵についてはビギナーだ。心配することはない。私は卒業までに探偵として身を立ててみせる」
「実際出来ると思ってんのか? 大体、お前成績良いんだからさ。その時点で予防線張ってるんだよな。お前要領悪いとこあるけど、ESじゃあまず落ちないだろ? だったら、ちゃんと考えた方がいいぞ」
「だから、私は……」
北崎が困ったように目を伏せるのを見て、絵里坂は密かな愉悦を覚えていた。口ごもらせてやった、という暗い喜びが腹を満たす。ミステリーだとか探偵だとかにどれだけ傾倒していようと、そういったものへの憧れは、圧倒的な現実に握り潰される運命にある。そういうロマンを叶える為に必要なのは才能でしかなくて、北崎にはその才能が無い。
それについて薄々気が付いているからこそ、北崎はここを責められると弱いのだ。人の自我が駄目になっていくのを見るのが面白くて、絵里坂は更に続けた。
「学生時代に打ち込んだことは推理小説のトリックをひたすら暗記することです? でも実際に解決出来た事件はありません! お前真面目にそんなこと言うつもりなの?」
「そんなことは……」
「グループワークでもどもるつもりなわけか? 探偵志す前にもう少しコミュニケーション能力育てた方がいいぞ。お前いきなり声ちっちゃくなるしさ。あと、都合悪くなるといきなり目線逸らしたりするのも反感買うんだよ」
「……何だよ。何か機嫌悪い? 先日の小手川家の事件の時のこと怒ってる?」
「いや、そういうわけじゃない」
「……こっちだって何も考えてないわけじゃない。……何も考えてないわけじゃ……」
ノートに目を落としながら、北崎がそう呟く。そして、ぽつぽつと金融はどうだとか、英語が使える職業につくならどうだとか、ぼんやりとした現実の話を続けた。
「なんだ。何も考えてないわけじゃないんだな」
「……今日の絵里坂はおかしいぞ」
「そんなことない」
絵里坂はにこやかに笑ってみせた。さっき覚えたいけない嗜虐心はすっかりどこかに消えていた。北崎に『現実的な進路』を口にさせた達成感からかもしれない。外資系企業に勤め、なめらかに商談を交わす北崎! 想像しただけで愉快だった。そうだ、それでいい。
「そんなことあるだろ」
けれど、北崎は暗い目をして首を横に振った。無能探偵よろしく食い下がるつもりか? と絵里坂は内心でせせら笑う。ややあって、北崎は言った。
「君、何がしたいんだよ。君が言わせたいことは言っただろ。なのに、どうしてもっと不機嫌そうな顔をするんだ」
「え?」
それきり北崎は何も言わなかった。絵里坂が一生読まなさそうなお堅い海外ミステリーのトリックが、ノートをひたすら埋めていく。果たして絵里坂がどんな顔をしていたのかは知る由も無かった。北崎には探偵の才能が無い。だから多分、さっきのもクソ推理の一環だろう。とりあえず、そういうことにしておいた。
最近は北崎の無能っぷりにとんと呆れている絵里坂だったが、絵里坂が彼と仲良くなったのは、偏にこの探偵趣味がきっかけだった。因果なものである。
丁度一年ほど前だろうか。絵里坂はカンニング疑惑を掛けられたのだった。答案を回収する際に、絵里坂の机からカンニングペーパーが滑り落ち、優雅に床に着地したのだ。アシスタント・ティーチャーを務める院生はそれを見逃さず、競技かるたよろしくそれを拾い上げた。その時点で絵里坂の有罪は八割決まってしまったのだった。
舐めるように見つめられるカンニングペーパー。一分の隙も無く埋まったそれを確認していく内に、アシスタント・ティーチャーの顔色がみるみる悪くなっていく。それと比例するように、口元だけは微かに笑みを形作っていった。これから起こる騒乱の予感に、ちょっとばかり心を躍らせているのだろう。浅く溜息を吐いて、彼女の口が喚きだした。
「これは何ですか!」
「知りません」
絵里坂は冷静にそう答えた。内心は殆どパニックだったが、ここでの反論は無駄でしかない。あくまで冷静に収めなければ、泥沼に嵌ってしまう。既に教室中の視線が自分達に集まっている。大事になるのは目に見えていた。
「何を言ってるんですか! どこからどう見たってカンニングペーパーじゃないですか! 貴方、カンニングしたんでしょう」
「俺にも何が何だか……。正直、どういうことなのかわからなくて……」
「しらばっくれないで! ……絵里坂瑛士、学籍番号はA1782066。控えましたよ」
「だから、僕はやってないんです」
誰も絵里坂を救おうとしなかった。救おうとする人間なんているはずがない。どれだけ否定しようと、証拠のカンニングペーパーは見つかってしまった。
事件らしく言うならば、彼以外不可能な状況で彼が犯人だということを指し示す証拠がある、という状態だ。疑う余地が無い。彼がカンニングをしたのだと、あの教室の全員が思っていた。
「知りません」
絵里坂はもう一度はっきりと言った。誰にも信じて貰えない状況で、それでも彼は強硬に無罪を主張したのである。どうで死ぬ身の一踊りだ。これだけ注目を浴びたのだから、最後まで見苦しくいってやる、という気概だった。
だから、本当にそんなつもりじゃなかった。誰かに助けてもらおうだなんて、絵里坂は少しも考えていなかったのだ。
「待ちたまえ」
その時、やけに涼やかな声があたりに響いた。
「頭ごなしに疑うのはよくない。彼は犯行を否定しているんだ。誰も彼を信じてやらないのか? 何の証拠も無しに……」
突然立ち上がったその声の主は、この暑いのに上下黒のリクルートスーツを着ていた。頭にはシャーロック・ホームズを露骨に意識した鹿撃ち帽も被っている。首から上だけを見れば、上質でオーソドックスな探偵スタイルだった。『本当は全身シャーロックスタイルにしたかったんだが、お金が無くて帽子だけ買ったんだ』と、後にその珍妙なスタイルの理由を聞いた。
「いや、証拠ならここにありますけど。ほら、カンニングペーパー。絵里坂くんの筆跡とまるで同じなやつ」
「筆跡くらい誰だって真似られるだろう。それなら、絵里坂くんを嵌める為に誰かが仕込んだのかもしれない。それとも貴女は自分が筆跡鑑定のスペシャリストだと?」
「はあ? 貴方何言ってるの?」
アシスタント・ティーチャーがあからさまに怪訝そうな顔をする。その冷たい視線に動じないまま、鹿撃ち帽の男は続けた。
「探偵とは弱きを救い、正義を行うものです。今ここで一人の学生が罪に陥れられようとしている。私は一介の探偵としてそれを見過ごすことが出来なかった。それだけのことです」
教室はすっかり静まりかえっていた。この自称探偵をどう扱っていいのか、皆が皆露骨に困っていたのである。面白がればいいのか、蔑めばいいのか、有難がればいいのか、面倒だと思えばいいのか。このえげつないシンキングタイムにあっても、男は堂々とアシスタントティーチャーを見つめている。
「た、高畑教授……」
この空気に耐えきれなかったのか、ATの方が先に脱落した。救いを求めるかのように、試験監督を務めていた教授の方に視線を移す。その瞬間、教室中の期待も教授の方に移動した。あからさまに面倒臭そうな顔をして、老齢の教授が口を開く。
「北崎くん。私は試験中は帽子を取るように言ったはずですが……」
高畑教授は、差し当たってそう指摘した。冷静極まりない声だった。それに合わせて、教室内が平静を取り戻すのがわかる。
「もう試験は終わったじゃないですか! 『やめ!』と言われたんですから、もう試験は終了ですよ。従って私は帽子を被っていいわけです。そう思いませんか? それに、今の私は北崎ではなく、名探偵ハイムリック北崎です」
「北崎くん。まあ、それでは帽子のことはよしとしましょう。それで、君は絵里坂くんの無実を主張し、彼のカンニングが冤罪だと言いたいわけなんですね?」
「その通りです!」
「しかし、英知大学の試験では、机の中も試験直前にアシスタント・ティーチャーの皆がチェックすることになっています。その時にカンニングペーパーは見つかりませんでしたよね? 森下さん」
森下と呼ばれたアシスタント・ティーチャーが頻りに頷いて教授の言葉を肯定する。それを見た教授は満足そうに頷くと、もう一度北崎の方を見た。
「だとすればそのカンニングペーパーの出どころは絵里坂くんが服か何かに隠していて、試験終了時の気の緩みと共にうっかり落下させてしまった、というのが一番正しいような気がするんですけれどね。名探偵であるところの君の推理では、そのあたりはどうなっているんでしょうか?」
教室中の視線が北崎ことハイムリック北崎に集まっていた。当事者である絵里坂でさえ、うっかり熱の籠もった視線で北崎のことを見つめてしまう。期待の熱だ。
探偵というのは、こういう閉塞した状況から華麗に話をひっくり返してみせる存在だと思っている。だとすれば、高畑教授の言にだってちゃんと反論してみせるはずだ。絵里坂は無邪気にも、そう期待してしまったのだ。
けれど、北崎は唇を震わせたかと思うと、さっきとはうって変わったか細い声でこう呟いた。
「……えっとぉ」
ホーリーシット。言葉に詰まりやがった。絵里坂は弁護してもらっている立場でありながら舌打ちをしそうになった。さっきの威勢は何処へやら、今の北崎は宿題を忘れた子供のような有様だった。
心なしか顔も赤いし、汗もかいているようだ。視線に刺されたまま、完ッ全に委縮している。それを見た高畑教授は眉一つ動かさず「とりあえず北崎くんは帽子を取りましょうか」と言った。北崎が大人しく帽子を脱ぐ。
「それでは……どうしましょうね。答案の回収だけしちゃいましょうか。あ、はい、それでいいです。それじゃあ今日は――」
「待ってください! まだ私は納得してません!」
着々と答案回収を進める教授に向かって、北崎が悲壮な声を上げた。教室の空気が再び凍りつく。引き際を間違えた人間の一踊りが、不幸の気配を漂わせていく。
「あの、北崎くんもそろそろ着席しなさい。さもないと君も単位を落とすことになりますが」
「今の私は北崎じゃない。名探偵ハイムリック北崎です! みすみす冤罪にかけられようとしている人間がいるのに、黙ってろって言うんですか! そんなのあんまりですよ! 高畑教授! そう思いませんか!」
「思いません。正直、収拾がつかなくなるのでこのまま続行するなら君の処罰も停学になりますが……」
その言葉を聞いて、北崎はようやく大人しくなった。健全なラインだと思う。見ず知らずの人間に対して単位の一つなら擲てるが、停学はちょっと重い。そういうことだろう。
教室の空気は混沌としていた。突如として差し挟まれたカンニング事件と、その混乱を延焼させるかのような探偵の登場。最早ちょっとした大惨事である。絵里坂よりもむしろ北崎の方がよっぽど途方に暮れた顔をしていた。あろうことか北崎は、助けを求めるかのようにちらちらと絵里坂に視線を寄越してくる。どうしろと、と本気で思った。
「えー、そうですね。絵里坂くんはちょっとこちらへ来てもらえますかね。残りの皆さんは教室を出て結構です」
教授は丁寧な口調でそう告げた。穏やかな微笑が、暗に『出て行け』と告げている。それを聞いて賢明な英知大生はみんな、そそくさと教室を出て行った。
のろのろと後ろ髪を引かれるように出て行ったのは、賢明でない北崎だけだった。脱出の機会を与えられてなお、北崎は絵里坂に救いを求めていた。絵里坂は心の中でもう一度唱える。俺にどうしろと。
「あっ」
「……何」
「あっ、いや、その、どうかなって……」
「何が」
教室を出てすぐのところで、北崎が待っていた。高畑教授の人払いから優に三十分以上が過ぎていたのだが、その間ずっと突っ立っていたらしい。ここまでくると殆どホラーの領域である。事実、絵里坂の方もいたくドン引いていたのだ。
「……停学とかになったか?」
「とかって何だよ……。いや、証拠不十分で再試。一週間後」
「ほ、本当か? 嘘じゃないのか!?」
「何でこんなことで嘘吐くんだよ」
「……それはほら……私を慮ってくれたのかな、と……」
北崎が心底申し訳なさそうにそう言ってくる。そこで、北崎を三十分も突っ立たせていたものが何なのかにようやく気が付いた。この独りよがりの狂人は、絵里坂を救えなかったことに罪悪感を覚えているのだ。
「よかった……本当によかった……。あ、喉乾いてないか? あれなら何か奢るぞ!」
そして、その罪悪感の解消の方法がやけに即物的なのも、絵里坂の趣味に合っていた。ジュース一本でさっきの大立ち回りの責任が取れると、彼は本気で思っていらっしゃる。
ご機嫌を窺うような顔をしている北崎の提案に、絵里坂は結局頷いた。教授との面談の所為で喉が渇いていたからだ。
「何も出来なくて本当に悪かったと思っている」
「あ、いや、別に謝られることでもないし」
北崎からコーラを受け取りながら、絵里坂はそう答えた。そもそも、北崎は無罪こそ勝ち取れなかったものの、間接的に絵里坂を救ったからだ。
「二度目はないですよ」
高畑教授のその言葉を聞いた時、絵里坂は耳を疑った。彼の真意の程はわからない。心の中で何と思っていようが、教授の決定は『再試』だった。
教授の温情は、十中八九北崎が派手に喚き立てたお陰だろう。あそこまで騒ぎ立てて結局何の意味もなかったとなれば、北崎の立場が無さすぎるからだ。あの時の北崎の、哀れな犬のような目を思い出す。あまりに哀れな生き物を見ると、こっちが申し訳なくなるという状況の良い例だ。
あれのお陰で絵里坂は救われた。無罪放免というわけじゃないが、完全なるクロ判定として停学になるよりは遥かにマシな措置だった。
「でも、探偵っていうのは弱きを救い、正義を遂行するものなのに、何にも解決出来なかった。これは、私の責任だ」
「……なんかアメコミヒーローみたいな価値観だね」
「真実を暴き、冤罪を晴らしてこそ探偵なんだ。今日の私は探偵力が極めて低かったと言わざるを得ない」
「探偵力」
いよいよアウトな方向にいきそうなパワーワードだった。北崎はこの暑い日差しに似合わないほど陰鬱な顔をしているけれど、それは全部彼の探偵としての矜持に由来しているらしい。本物だ、と思った。本物の狂人だ。
「あんまり気にすることないと思うよ」
「これは探偵であるところの私と、冤罪との戦いなんだ。最早絵里坂にすら関係ないくらいに」
「関係ないことは無いと思うぞ……」
話があちこちに飛んでいくのを、絵里坂がさりげなくフォローする。けれど、北崎は自分の考えを全く譲らずに、勝手に反省している。一応隣り合って同じ言語で会話しているというのに、意思の擦り合わせがまるで出来ていない。ギリギリのところで反発し合う磁石のようだった。
というか、今回の件は、特に冤罪というわけでもなかった。
絵里坂はその日、普通にカンニングをして普通にバレたのだ。
動機は成績向上、試験の円滑なパスである。何せ英知大学の試験といったら面白味もクソも無い癖にやたらと難しい。その癖、単純な暗記能力で事足りる。カンニングペーパーさえあれば、この煩雑な全てを一気に解決出来るというわけだ。
それなのに、北崎はよりにもよって絵里坂を庇ってしまったのだ。冤罪と喚きたて、本物の悪を見逃したのだ。
北崎の判官贔屓というか、わかりやすい嗜好というか、そういうものの関係で、糾弾されている絵里坂に味方しようとしたのだろうが、無能もここまでくると罪である。弱いものいじめを止める自分の図、はこの上なく甘美だったのだろうが、探偵としては三流もいいところだ。
結果的には絵里坂のピンチを救ってくれたわけだが、それは探偵としての救済ではなかった。単に声の大きいものが幅を取っただけの話だ。いわばおぞましいパワープレイである。でも、停学が再試になった以上、文句を言うつもりもなかった。
「でも、私はこれからも頑張るからな! これからも期待してくれ。そして、絵里坂が殺人事件の容疑者になった時は必ずや救ってやろう!」
「……はあ」
あんなに証拠が揃った状況で絵里坂のカンニングがクロだと見抜けなかった人間が言う台詞だとは思えなかった。しかも、一回失敗した癖に堂々と殺人事件を指定してくる厚かましさにも驚いた。もう少しライトなものに挑め。
「今はまだ力不足かもしれないが、この間ようやく有栖川作品を読み通したんだ。島田荘司作品に続いて一気に読んだんだぞ! これで探偵力の方もかなり底上げされたと言わざるを得ない」
「えっ、お前の探偵力のつけ方ってそういうのなの?」
「だってそうそう事件とか無いし、飛び込んで解決出来なかったらさっきみたいなことになるし……とりあえず次は館シリーズを読もうと思うんだけどな、何分、あれら全体的に分厚くて……」
真面目に言う北崎を見ながら、絵里坂は知らずコーラのペットボトルを握りしめていた。ぎゅうむ、とボトルが無機質な悲鳴を上げる。
「それで探偵になれんの?」
「なれる……と思う。うん。だって他にあるか?」
「わかんないけど、わかんないけどさあ……なんか、なんかなあ……」
その方向性のズレが恐ろしかった。実直だけどどこか外れた勉強法が怖い。
北崎に探偵の才能が無いとかならまだいい。しかし、その才能の無さの度合いが問題だった。ハンバーグにホイップクリームが載ってるのを見て『不味い』と判断出来ないレベルなのは致命的なのだ。そこまでくるとマイナスである。
それでも、北崎は自分がいつか探偵になれることを疑っていないようだった。寝不足なのか濁った眼の奥で、江戸川乱歩に育まれた情熱が燃えている。
その時、絵里坂は北崎に興味を持ってしまったのだった。
「えーと、なんだっけ、お前の芸名? 探偵名? って」
「…………ハイムリック北崎」
北崎はそれを言う時、少しだけ気恥ずかしそうな顔をした。鹿撃ち帽まで被ってそんな態度を見せる北崎を見て、絵里坂は更に複雑な気持ちになった。自分で言うのが恥ずかしいような名前を付けるべきじゃないのだ。
あの時絵里坂は、自分がどうして北崎と友達になろうとしたのかわからなかった。けれど、今ならわかる。有り体に言って可哀想だったのだ。目の前の何かが何者かになれるところを見れるなら、少しくらい好奇の目で見られても構わないと、そう思ったわけである。
ところで、絵里坂は今でもたまに考える。
もしハイムリック北崎が物凄く弁舌巧みな天才だったとして、あの場にいる全員を捻じ伏せられるだけの空論を編み出せていたとしたら。
絵里坂のカンニングは正しく『無かったこと』になっていたのだろうか? 探偵が全てを決めて、世界を歪めてカタルシスを語っちゃうわけだったんだろうか? 絵里坂はそれを思うとぞっとしない気分になった。昨日夜なべして作ったカンニングペーパーが反旗を翻すかのような気分だ。
こうしたわけで北崎と絵里坂の奇妙な友情は始まったのだった。一年にも及ぶ二人の関係を綴る物語の中に、ハイムリック北崎の華麗なる事件解決パートは一文字も無い。不可解な殺人事件が起きなかったとか、北崎がそこに介入できなかったとか、そういうわけではない。
北崎はこの一年で優に三十八件を超える事件現場を訪問し、そこの現場を荒すだけ荒して一つも事件を解決出来ないまま逃げ帰った。密室殺人、アリバイトリック、不可解な暗号に雪に残った足跡の謎! その全ての前に北崎は敗北した。
こうしてみると意外と物騒で不可解な事件は起こっているようなのだが、それらの殆どが北崎には解けないものであるというのも恐ろしかった。世界は謎に満ち過ぎている。人を殺す時にわざわざ密室を作りたがる奴が多すぎる。死に際に戦国武将や囲碁に擬えたダイイングメッセージを残したがる奴が多すぎる。
ここまでくると何か一個くらい北崎に解けるものがあってもよさそうなのに、とも思うのだが、現実は非情だし、ハイムリック北崎はポンコツだった。
就活だって百社受けて内定ゼロとかもあるらしいし、三十八件というのはまだまだ温いお話なのかもしれない。そう思ってはみたものの、ES無し実技一発勝負の探偵業でこれ以上の未来があるものだろうか。
ちなみに、先の三十八件の中には、北崎がA評価を貰った中世哲学史に絡めたイカれたダイイングメッセージの殺人事件もあった。当然とっかかりすら分からなかった。
絵里坂はそんな北崎の様子をただただ生温く見守り、いつになったらこの哀れな生き物が諦めるのかを観察していた。事件現場へ迎えに行ったり、彼が解けなかった数多の謎についての話を聞いたりするのは、自由研究の一環のようなものだ。
たまに突くといい声を出す朝顔みたいなものだった。
「だって、聞いてくれよ。密室で老人が一人ナイフで刺されてて、犯人と目された男は一週間前からイタリアに行ってて今も国内にいなくて、老人が死んだのは昨日の朝なんだぞ? 不可能犯罪に決まってるじゃないか……。部屋は密室で、誰も出入りしてた形跡は無くてだね」
「思うんだけどさ、それもしかして八日前にその怪しい男が刺して、老人は何故かわかんないけど刺さったナイフに気付かなくてそのまま生活してたんじゃないの?」
絵里坂は何の責任も無い単なる一般人なので、北崎から聞いた事件の概要に対して適当な意見を言っても赦されてしまう立場だった。適当なことを言っている時が、いつだって一番楽しいのである。
「えっ、いや流石にそれは……」
「そういえば悲しいことに昨日の明け方地震があっただろ? 結構大きいやつ。その地震で体内にあった刃が緩やかに振動して、それが原因で血が噴き出したのかも」
「そんな……」
絵里坂の大胆な仮説に、北崎は絶句していたが、後に他の名探偵によってこれが正答だと明かされると、泡を吹いて倒れた。この程度の不条理で根を上げていては探偵は務まらないというのに。
北崎の彷徨は終わらない。ここまで終わりが見えないと、絵里坂の方も焦るようになった。何も悪いことをしていない人間が、そこそこ優秀な人間が転がり落ちていくように破滅していくのを見るのは恐ろしいものだった。
そしてついにその日がやってきた。絵里坂が北崎の才能に見切りをつけた日だ。そのきっかけは、本当にささやかなことだった。
その日二人は北崎の家で素麺を啜っていた。夏だし食欲も金も無いし、という絵里坂の提案で、大量の素麺を夕食にすることになったのである。素麺はめんつゆと麺さえあれば成り立つという素晴らしく画期的な食べ物なのだ。「せめて揚げ玉と葱くらいは欲しい」と駄々をこねる北崎は「探偵だって事件さえあれば成り立つだろ。薬味無し素麺と似た構造をしてる」とねじ伏せた。五秒で考えた詭弁だったが、北崎はそれで納得がいったらしかった。単純が過ぎる。
北崎の住むマンションは一人暮らしの女の子でも安心なくらい過保護なオートロックで、絵里坂の住んでいるアパートより格段に広い。親からの仕送りも結構潤沢に貰っているから、バイトをしなくても探偵業に勤しむことが出来るのだ。いよいよ良い御身分である。
絵里坂が強硬に割り勘を奨めなければ、もみじおろしまで揃った素麺を用意したのに違いないのだ。金持ちの道楽としての、エンターテインメントとしての探偵! 就職をしなくてものうのうと生きていけそうな北崎の様子を見ると、なんだか複雑な気持ちになった。真っ当な人間の振りをしてつらっと生きていく北崎と、親からの仕送りを貰ってぬるっと生きていくハイムリック北崎のどちらがマシなのだろう。世間一般ではなく、絵里坂の中で。
そんな絵里坂の煩悶を欠片も理解しないまま、北崎は素麺を啜り、テレビを観ていた。文句を言っていた割に、結構素麺を消化している。このままだと追加で茹でる必要があるかもしれないな、と絵里坂は思った。ジャンケンで負けた方が茹でることにしよう。
テレビでは家族向けのクイズ番組がやっていた。この日の趣向は犯人当てだった。テレビの前の皆さんも考えてみましょう、の惹句と共にVTRが流れ、その映像の中のヒントを元に犯人を当てるのだ。さっきから北崎が目を輝かせているのはこれの所為か、と絵里坂は遅れて気が付く。例えファミリー層に宛てたクイズでしかなくとも、ミステリーの匂いがすれば否応無く楽しめちゃうのだ。なんてお手軽なんだろう。
「絵里坂も推理しろよ。競争だ」
「あー・・・・・・うん」
絵里坂は素麺を啜りながら、適当に答えた。テレビに映る雛壇芸能人達がきゃあきゃあ喚き、出題編が始まる。
この番組は後に出てくるクイズほど難しくなっているらしく、最初のVTRの一般正答率は86%だった。「お子さんでもわかるようになっているので、どうぞご家族で!」というテロップが流れた後に、頭を殴られた死体が映し出された。どこがお子さんでも、だ。絵里坂は少し笑ってしまう。死体のエンターテインメント化が激しい。ゴールデンタイムだぞ。
映像自体はなんてことはなく、センセーショナルな撲殺体が映った後は、取り調べを受ける容疑者四人が映し出されていく。取り調べを受ける彼らの利き手が、映像の中のヒントで巧妙に、あるいはあからさまに分かるようになっているのだ。ペンを持つ手、腕時計のはめてある方、カップの持ち方などなど。撲殺体は左側頭部を袈裟掛けに殴られていることは最初に示されており、ご丁寧に犯人は左から殴ったみたい・・・・・・? と番組のマスコットキャラが首を傾げる。ここまでくると、その優しい謎解きに心が震えるほどだった。
正答率86%は伊達じゃなく、ここまで露骨にヒントを出されたら答えを出すのは簡単だろう。そもそも、こういった犯人当てにおいて利き手の問題は結構オーソドックスなのだ。犯人は、右手に腕時計を着けていた中村という名前の男だろう。ミステリーの世界において、人間は絶対に利き手に腕時計を着けない。彼だけが、容疑者の中で唯一左利きなのだ。
「これさ、犯人……」
絵里坂はCM中に、無邪気にそう言い掛けた。そして、すんでのところで思いとどまった。途方もない負のオーラと居たたまれないほどの嫌な予感が、どうにか絵里坂のことを守ってくれたのだ。その先を言っていたら地獄が待っていただろう。言葉を無理矢理素麺と一緒に流し込んだ。そして、CM中にも関わらず画面を食い入るように見つめている北崎のことを、息を殺して観察した。
その必死の形相を見て察する。それこそ簡単な推理だ。北崎は、さっきの手厚いヒントが賜られた犯人当ての答えが、まだわかっていないのだ。正答率86%は伊達じゃない。残る14%の人間は、答えが分からない。でもまさか、普段あれだけ探偵の勉強をしている北崎が、そのマイノリティーの中に含まれるなんて!
勿論、北崎が犯人を当てられない可能性については考えていた。正直、一般正答率が50%を切ったらわからないだろうとも。番組がその段階まで進んだら、さり気なくチャンネルを変えようとも思っていた。でも、まさか一問目からわからないだなんて。
CMが明けて、ご丁寧にもう一度VTRが流れた。北崎はめんつゆと箸を置いて、必死に映像を観ていた。もうやめてくれ、素麺を食べろ、と心の中で絵里坂は思う。もう、ジャンケンとか何にも無しでお代わりを茹でに行ってやってもいいから。
結局北崎は解答編に入るまで一言も喋らなかった。答えが分かったら満面の笑みでそれを伝えてくるだろう北崎は、ただただ真摯にテレビに向き合い続けていた。
解答については絵里坂の予想した通りで、右手に腕時計を着けた左利きの男が犯人だった。芸能人たちの大半が正解し、解けなかったただ一人が派手に弄られている。
どう声を掛けていいかわからない状況の中で、北崎の方が先に口を開いた。
「私の思った通りだった!」
「……え?」
「わかってたんだ! 簡単な問題だよ。セオリーだな。……初めから怪しいと思っていたんだ」
嘘だ、と反射的に思う。北崎はわかっていなかった。わかっていなかったのに、そんな嘘を吐いている。けれど、責められなかった。北崎の顔面は依然として蒼白で、途方に暮れているのが目に見える有様だった。
こんなしょぼいところで見栄を張るのか、と絵里坂は思った。たかだかテレビ番組なのに。ファミリー向けのクイズでしかないのに。
ここで北崎のささやかな見栄を崩してしまったら一体どうなるんだろうか。好奇心よりも恐怖が勝った。こんなバラエティ一つで、友人の尊厳が粉微塵になるところは見たくなかった。
「マジで? お前わかったの?」
「えっ……?」
「凄いな! 俺わかんなかったわ。お前の勝ちだよ」
「え、本当に? 本当にわかんなかったのか? 絵里坂が?」
「俺こういうの苦手なんだよな。お前はすげえよ」
「そうかー……そうか!」
北崎が噛みしめるようにそう繰り返す。安心と優越感がありありと滲むその姿を見て、絵里坂は自分の機転を褒めてやらずにはいられなかった。危ない所だったが、絵里坂は正解を引いたのだ。
無邪気な北崎は、本気で絵里坂もあのクイズの答えがわからなかったのだと思っているだろう。素晴らしい善性だ。
「絵里坂がわからないなんてなー……。これは、私の日頃の努力が実を結んだってことなんだな! 嬉しいぞ!」
調子に乗り倒す北崎のことは多少腹立たしかったものの、気まずいことになるよりは百倍マシだった。
「確かに今回は凄いな。改めて呼ぶよ。名探偵ハイムリック北崎!」
「いやったー! ひゃっほーい!」
たったこれだけのことで、北崎はあられもなく喜んでいた。その喜びっぷりたるや、クリスマスの朝の子供みたいだった。軽くホラーだ。絵里坂はさりげなくテレビを消し、しばらくこの茶番に付き合ってやることにした。心はとても単純な部分なので、こうしてはしゃいでいる振りをするだけでも、そこそこ楽しい気分になってくるものなのである。
謎の高揚感に包まれながら、北崎が事件を解決でもしたら、それはもう凄く楽しいんじゃないかと絵里坂は思った。クイズに正解しただけで全国優勝の気分なんだから、そのテンションの上がり方たるや、金メダル獲得レベルになってもおかしくない。
それと同時に、絵里坂の心の中で何かが冷めていくのもわかった。北崎がはしゃげばはしゃぐほど、絵里坂の脳が冷静になっていく。こんなクイズで一喜一憂するような人間に、実際の事件が解決できるはずがない。そもそも、クイズは解けてすらいない。
どこからどこまで北崎は本気なのか。それすら絵里坂にはよくわからなくなってきていた。実際はもう探偵なんかに見切りをつけて、手堅い企業への就職案内を眺めているのか? それとも本気で自分にはまだ可能性があると信じているのか? 疑問は割合すぐに解消された。
素麺を啜りながら酒を飲み、延々とくだを巻いている北崎は、結局チャンネルが切り替わったことには気づかなかった。吐く一歩手前の顔をして、唸るように呟く。
「もう辛い……」
素直過ぎる弱音だった。さっきまでの楽しさはそう長くは続かなかったらしい。アルコールに触れると精神の強度が下がるのだ。
「もうやめれば? 色々」
「でもさ、私に探偵諦めて欲しくないだろ」
「はあ?」
「きっと寂しいぞ」
この男は一体何を言っているんだろう? と思う。この間、北崎に就活の話を切り出した時と似たような気分になった。北崎の顔はあの時と同じ、何とも言えない表情をしている。
「私の友達に滅茶苦茶絵描くの上手い子がいたんだけどさ」
「うん」
「就職するからやめちゃうんだってさ。つっまんないよなー。絶ッ対才能あるのに。なのにやめちゃうなんて悔しいだろ」
「お前の探偵としての才能よりはマシかもしれないけど、それでも現実には敵わないこともあるわけよ、多分」
「えーでも嫌なものは嫌だ」
「他人の人生を保証出来ない以上、やだやだ言ったって仕方ないだろ」
「最早遺憾を通り越し、生理的嫌悪感を覚える……」
「お前大分酔ってるだろ」
実際のところ、単なる酔っ払いの妄言であることは何となくわかっていた。切実な風に聞こえるのはただの変換ミスである。
「ずっと探偵になりたかったんだ。その為に沢山の時間を費やしてきたし、努力も重ねてきたつもりだ。いつか探偵になる為に。でもこれ、一生探偵になれなかったら、私はどうなるんだろう……」
「どうにもならないよ。お前はお前のままだよ。ずっと北崎のままだ」
14%に入ってしまうような人間でも構わないのだ。何かになれないまま生きていくのはそんなに怖いことじゃない。
「探偵が駄目だったらどうしよう」
北崎はそう呟いてとうとう眠った。傍迷惑な奴だ、と他人の家に陣取りながら絵里坂は思う。ハイムリック北崎の名前が『いい思い出』でしかなくなる日はそう遠くないのだ。
駄目だったらどうしよう、と絵里坂は密かに復唱する。駄目だったらどうしよう。
それから夏が終わるまで、ハイムリック北崎の出番は無かった。探偵が必要なほど珍妙な事件が起こらなかったのもあるし、そもそも北崎程度の情報網でキャッチ出来る事件現場が無かったのもあった。北崎と絵里坂は何のドラマティックも無い普通の大学生として日々を過ごすようになった。
変化が無かったわけじゃなかった。絵里坂は北崎の才能に見切りをつけ、その結果、妙に凪いだ気分で彼の奮闘を見つめるようになった。終わりが見えると楽になるものである。マラソンとかと同じだ。
終わりが見えてしまって焦りを覚えたのが北崎の方で、大人しく就活方面に向かうかと思った北崎は、より一層無茶なやり方で事件に介入するようになった。十年に一度の奇祭が行われる村に単身乗り込んで、山姥伝説に擬えた殺人事件に遭遇した挙句、余所者ということで散々疑われたり、怪死した天才画家の住んでいた曰くつきの屋敷に張り込んで通報されたりしたのである。特に後者は探偵界隈では『事件待ち』と呼ばれて忌み嫌われる行為だというのに、北崎はそのタブーを犯してしまった。
結果的に『事件待ち』を行った屋敷では殺人事件が起こったのだが、北崎が解決出来るはずもなく、タブーに不祥事を重ねるようなことになってしまった。ハイムリック北崎の名前は嫌な意味で有名になっていた。
「北崎」
「うん? どうした?」
「最近お前おかしくない? 大丈夫?」
「私のどこがおかしいって言うんだ? 平気だよ」
「この間連続殺人事件が起きた土路村にお前がいたって聞いたんだけど」
「人違いに決まってるだろ」
「鹿撃ち帽にリクルートスーツで山の中に分け入る人間なんてそういないだろ。せめて今度からマスクとサングラスで顔を隠そうな」
北崎は絵里坂に失敗を言わなくなったし、真夜中に事件現場に迎えに来てもらうこともなくなった。北崎の方も思うところあったのか、自分の時間の無さに気が付いたのかわからないが、若干の変化があったらしい。まだまだ暑い九月、来年の今頃には骨を埋める会社が決まっているかもしれないのだ。
絵里坂は北崎の探偵活動について本人に聞いたりしなかった。その代わり、インターネットという文明の利器でその動向を監視していた。恐ろしいことに、嫌な意味で有名になったハイムリック北崎の名前のお陰で、週末彼がどこでどんなことをやらかしたかが筒抜けになってしまっているのである。
『無能探偵、この間の某村に行ってたってマジ?』
『写真ある。完全に面白がってるよな』
『野次馬より酷い。北崎の方を誰か逮捕しろよ』
『警察何やってんの? この間は事件待ちしてたって言うしさ』
『不謹慎すぎる、死んでくれ』
絵里坂はそれらの書き込みを見て、北崎の週末のバカンスについて知ったのだった。一時は北崎が犯人ではないかと疑われたらしいが、通りすがりの名探偵が彼の冤罪を晴らしてくれたらしい。有能な探偵の有能さに感謝した。
探偵を名乗り事件現場を荒した上で、何も出来ずに帰っていく北崎がヘイトを集めないはずがなかった。正義で動こうが義憤で動こうが、やっていることは愉快犯である。不謹慎だと名指しで叩かれ、ネットに晒される北崎の姿を見て、絵里坂は普通に心を痛めた。
けれど、探偵なんて須らく不謹慎なんじゃないだろうか? 一体どうして事件を解決した探偵は『お前、楽しんでるだろ?』と糾弾されないんだろうか? 絵里坂にはその辺りがよくわからない。
それもまた才能とか貢献度の話になってくるのかもしれない。犯人さえ捕まえてトリックだけ解いてくれれば、探偵側の心構えとか別にどうでもいいのだ。結果を出せていない北崎のやる気と善性なんて今のところゴミである。
ネットの中に流布された北崎は思い思いの物語を付け加えられては誹謗中傷を繰り返されていた。自称プロファイラーの見立てによると、北崎はサイコパスの部類に入るらしい。意外とひねりのない診断結果である。
探偵になりたがる奴なんて心がぶち壊れてるんだよ、というストレートな指摘もあって、その点については絵里坂も同意せざるを得なかった。本当なら小学生で脱していなくちゃいけない欲望だ。
当の北崎自身は、自分が無能クソ不謹慎野郎としてネットに晒されていることに全く気が付いていなかった。北崎は悪い文明であるインターネットに染まっていないのだ。
絵里坂の方も特に教えようとはしなかった。見たって仕方がないものは闇に葬ってしまった方が良い。世の中の大体は見なくたって困らないものなのだし。
でも、闇に葬れないものもある。人気は集められない癖に悪意を集めるのだけは得意だったハイムリック北崎は、とうとう無視できない領域まで行ってしまったのだった。
その日、北崎は絵里坂の家に遊びに来る予定だった。夕飯を一緒に食べて、普通の大学生みたいにゲームをするのだ。絵里坂の中ではその後北崎に、明後日提出のレポートを代筆させるところまで予定を組んでいたというのに、初っ端の待ち合わせから、北崎は予定を狂わせた。待ち合わせ時間を一時間二十分過ぎても、彼は現れなかった。
約束を忘れて、また事件に首を突っ込んでいるんだろうか、と絵里坂は少し不機嫌になった。どうせ解決出来ない事件に取り組むより、レポートをやってくれた方が万倍良いに決まっているのに。そこで絵里坂は、いつもの匿名掲示板にアクセスした。立ち回りの悪い北崎が、どこかで馬鹿にされていることを期待したのだ。
するとそこには、もっと直接的なヒントがあった。『北崎捕獲!』という不穏でポップなタイトルの横に、URLが添えられている。躊躇いも無くクリックした。ポップアップが開く。すると、閲覧数九人という極小の枠の中で、北崎がボッコボコにされていた。
スマートフォンのカメラを使ってリアルタイムで配信される光景は、何だか酷く現実感が無い。けれど、薄汚れた部屋の中で、北崎が縛られているのは見えた。オーイエー、なんてわかりやすい展開だろうか。そのまま眺めていると、サングラスとマスクで匿名性を手に入れた誰かが、北崎のことを蹴り上げるのが見えた。絵里坂を除く八名が、どんなモチベーションでこれを観ているのかはわからない。こんなの単なる暴力でしかないのに。
配信に添えられた文言によると、どうやらこれは制裁の一種であるらしかった。不謹慎にも現場を荒らしまわる、サイコパス似非探偵への罰である。……なるほど。
要するに顔や住所やその他諸々の個人情報が悪意をもって晒されている北崎を体のいい玩具にする為の理由付けでしかないんだけれど、御旗があると無いとじゃモチベーションがかなり違う。ついにここまで来たか、悪意。絵里坂は溜息を吐いた。右目の奥が鈍く痛みを持つ。
北崎はもう随分暴力に晒されているようで、既に意識が無かった。外国製の抱き枕のように横たわる北崎は、人間とは程遠いものに見える。そんな北崎のことを見ていても楽しくないので、背景に注目した。そこはどうやら廃ビルようで、窓の外にちらちらと外の風景が見える。夕焼けに染まる風景、具体的に言うならばビルの並びに、見覚えがあった。
「あ、結構近い」
思わず呟いてしまった。
普通ならわからないだろう。絵里坂だって、見ず知らずの赤の他人だったらわからなかったに違いない。けれど、北崎がボコボコにされているその場所は、絵里坂の家の近所だった。歩いて十数分のところにある建物だ。北崎はきっと、時間通りに絵里坂の家に行こうとして、そして捕まったのだろう。簡単な推理過ぎて泣けてきた。なんて鈍臭いんだろうか。
制裁の様子を配信している彼らは、多分北崎のことを人間として認識していないのだろう。そこにあるのは単なるコンテンツでしかなくて、『ハイムリック北崎』に本名があることすら思いついていない。北崎にお友達がいることも、北崎がこれから就活を控えていることも知らないはずだ。
エンターテインメントとして不本意に消費される北崎を画面越しに五分ほど観てから、絵里坂はゆっくり出かける準備を始めた。コメント欄もわいわいと盛り上がり、配信者たちが動画を自主的に削除する頃には、絵里坂は件の廃ビルにやって来ていた。画面越しに観ていた場所に実際に降り立つのはなんだか愉快な気分だった。エンターテインメントと地続きの現実!
果たしてあの少ない閲覧者の中に、証拠を揃えて警察に通報する人間はいるんだろうか。耳を澄ませたものの、特にサイレンの音などは聞こえなかった。名探偵様の清廉な足音も聞こえない。絵里坂は安心して、薄汚れた扉を開けた。黴臭い臭いがした。
最近はこういうことばかりだ、と思う。だから、これは単なる意趣返しだ。
いつもいつも見苦しいばかりの北崎に、人間が人間に与えられる最上のものを与えようと思った。動機はそんなところだった。
このビルは、随分前に見捨てられてしまったうら寂しい場所である。あちこちが崩れ、危険だから出入りが推奨されていないし、水道から出る水は錆で赤い。元は一フロアごとにオフィスとして貸し出されていたらしいが、その名残は少しも残っていなかった。
汚い階段を四階まで上がり、扉を開けた先に配信と同じ光景があった。ギャハギャハとダイレクトに響く笑い声が鬱陶しい。
配信の際に着けていたマスクが無く、素顔が晒されている。ボロボロの北崎を囲んで楽しそうにはしゃぐ彼らは、絵里坂や北崎とそう歳も変わらないように見えた。
躊躇いを脇に置いて、絵里坂は一気に駆け出した。色々なものが捨てられているこの場所は、物騒なものだってそこそこ拾えちゃうのだ。
「おい、大丈夫か?」
「…………」
返事は無かった。
北崎は依然として意識を失ったままだった。体力も暴力への耐性も無い男なのである。この調子だと、きっと明日には熱を出すだろう。廃ビルの廊下は寝苦しいだろうに、そこが終の棲家であるかのように動かない。
時間が無いので、絵里坂は手っ取り早く北崎のことをビンタで覚醒させた。ギャッと小さな悲鳴を上げて、北崎が目を覚ます。これで目を覚まさなかったら根性焼きも辞さないつもりだったので、絵里坂は少し安心する。
「絵里坂……?」
「よし、起きたな」
「え、ちょっと……」
「よしよし、重要なのはここからだ。事件が起こってからじゃないと探偵は何の意味も無いからな」
「事件……?」
「ほら立て。お前の大好きなミステリーが待ってるぞ」
満身創痍な北崎を無理矢理立たせると、絵里坂はとある木製の扉の前に北崎を立たせた。そして、ドアノブを握らせる。
「よし、開けてみろ」
言われるがまま、北崎は何度かドアノブを回した。けれど、扉は全くと言っていいほど動かなかった。
「開かない……」
「そうだな。密室だからな。確認したか?」
「か、かく……確認した……」
「よし、ぶち破るか」
「どうしてぶち破るんだ? もう帰った方がいいんじゃないか……」
「何言ってんだよ。密室があったら破るのが探偵だろ。俺は詳しいんだ」
適当なことを言いながら、絵里坂は予め用意しておいた手斧でひたすら扉の中央を叩き始めた。あっさりと扉の中央に裂け目が入る。古ぼけた扉が徐々に壊れ、無理矢理開いていく。扉の中央に大きな穴が空いたところで、絵里坂は慎重にその中へ手を差し入れた。ややあって、半壊した扉がゆっくりと開く。
ミステリーにおける様式美を間近で味わうことで、彼は柄にもなく高揚していた。その脇で、ただただ北崎が茫然としている。御誂え向きの展開の中で、探偵志望の方が取り残されていた。
「ほら開いたぞ!」
「何でそんなに楽しそうなんだ……?」
「ほら早く!」
米倉を襲撃した主婦のように、息堰切って絵里坂が部屋の中に入っていく。のろのろと北崎もそれを追った。
果たして、その中には三体の死体が転がっていた。一体は部屋の中央に、一体はベッドに、一体はなんと壁に磔にされていた。麗しき大盤振る舞いだ。長編にだってなれちゃいそうなポテンシャルだ!
「死体だ! ほら、見てるか?」
ここまで鮮烈な光景にあっても、北崎はぼんやりとしていた。腫れ上がった目を死体に滑らせると、震えたように息を吐く。探偵としての口上も、張り切った現場検証も無かった。ただ彼は、噎せ返るような惨劇の臭いを嗅いでいるだけだった。探偵らしからぬその素振りに、慌てて絵里坂が尋ねる。
「大丈夫か? 意識ははっきりしてきたか?」
「えー、あー……? うん。……うん?」
「ちょっとまだ難しいかー。よし、一旦落ち着こう」
それから絵里坂はボロボロの北崎がはっきりと事態を飲み込めるようになるまで、たっぷり一時間休憩を挟んだ。焦ることは無い。この密室はただただ彼の為にある密室なのだから。
休憩を挟んで、ようやく北崎が事態を把握し始めた。廃ビル、ボロボロな自分、特に普段と変わらない様子の絵里坂。
「……私は誰かに連れ去られて……何だかよくわからない暴力を受けて……それで……どうしたんだろう……」
「その点についてはもういい。些事だから」
「些事」
「そうだ。前置きみたいなもんだよ」
「死んでいるのは、私のことを殴ってきた人達だな……」
「そうだな。まあ別にそこは関係ないっちゃないんだけどな。ミステリー小説においては死体のバックボーンなんて添え物だって、お前も言ってただろ?」
「いや、それにしたって……」
何かを言おうとした北崎を無言で制し、改めて絵里坂が状況を説明してやった。
「いいか。密室の中に死体が三体だ。中央に転がっているのは柳瀬、ベッドの上にいるのは松原、壁に磔になっているのは下崎だが、この際名前も殺され方も大して意味が無い。こういうのは見た目のインパクトだからな。ただ、柳瀬だけは犯人の名前を示していると思わしきダイイングメッセージを残しているな。えーっと、何かチェス絡みっぽいぞ。右手に握られてるのは白のルークだ。左手に握られているのは多分動物暗号だ。五十八種類の動物の名前が書かれたメモがあるぞ。お前、チェス得意だし動物も好きだし、こういうの得意だろ」
「私、動物そんなに好きって言った覚えないんだけどな……」
「まあ、一番大事なのはこの部屋が密室だったってことだな。扉が開かなかったのはお前も確認しただろ?」
「確認した……いや、確かに確認したんだけど、待って、少し理解が追い付かない……展開がお早い……」
「大丈夫、いくらでも待つぞ。何せ時間はたっぷりあるからな」
そう言いながら、絵里坂は踊るような足取りで磔られた死体に近づいた。そして、これみよがしにジャケットのポケットから鈍く光る何かを取り出す。
「ほら、下崎のポケットに鍵が入ってるぞ。本格的にミステリーだな。扉はさっき開かなかった。完全に密室だな」
「何でそんなにノリノリなんだ?」
「お前こそもっとはしゃげよ。さあ、この不可解な殺人をお前が解明するんだ」
絵里坂はアドレナリンの出尽くした声でそう言った。舞台は整っている。探偵もいる。完璧に誂えられた朝食みたいだ。焼きたてパンの幸福と、スクランブルエッグの完璧と。求められるものが全てある部屋。
「こうして密室の中で複数人が殺害されてると、どうしても三人が殺し合ったんじゃないかと思いがちだけどな。そうなると磔にされてる下崎が最後に殺されてることはないとか血の具合とか細かな推理を重ねていくのがセオリーなんだろうが、俺は三人を殺した犯人は同一人物で、この三人以外の誰かだと思うな」
「絵里坂の推理、早いな……。まるで名探偵だ」
「いや、俺はあくまでサポートだ。ここに探偵はお前しかいないよ。さあ、何から解く? 暗号か? 密室か?」
「ここに探偵は私しかいない……」
絵里坂の言葉に嘘は無かった。
だって、容疑者になりそうな人間は軒並み死体になっている。探偵の北崎を除けば、残るは絵里坂だけだ。
そして、消去法で導かれる美しい結論の通り、これらの殺人は、全て絵里坂の犯行である。三人を速やかに殺害し、壁に磔にしたり、暗号を握らせたりしたのも絵里坂だ。柳瀬の手元にある暗号を解いたら、ちゃんと絵里坂の名前を示すようになっている。結構力作のクイズなのだ。
そして、肝心要の密室トリックだが、これにも結構な時間と手間が掛かっている。実際にはあの扉は鍵によって施錠されていたわけではなかったのだ。しかし、扉は開かなかった。何故か? 何のことはない。この廃ビルは前述の通り、随分前に見捨てられてしまったうら寂しい場所である。あちこちが崩れ、危険だから出入りが推奨されていないし、水道から出る水は錆で赤い。
差し当たってビルに足を踏み入れた絵里坂は、その床のボロボロ加減に少しばかり退いた。けれど、これは使える、とも思った。これだけボロボロな場所なら好き放題してもある程度まで赦されるだろう、という勝手な期待をかけたわけである。
躊躇いを隅に寄せて、したたかに三人の若者を殺した絵里坂は、とりあえず北崎のことを廊下に出した。途中意識を取り戻されたら面倒なことになるので、もう一度きつく縛り直しておいた。まあ、意識を取り戻したら取り戻したで、何らかの方法でもう一度昏倒させるつもりだったのだけど。双方にとって幸いなことに、北崎は呑気に眠り続けた。
死体を所定の位置に配置し、暗号を作り終えた絵里坂は、数分だけ考えて、扉に向き直った。
そして、おもむろに木製のドアの内側面、その中央に穴を空け始めた。あくまで貫通を避けながら、穴を大きくしていく。
ある程度まで穴が空いたら、絵里坂はホースを買いに近所のホームセンターへと向かった。三十メートルのホースが三千円以下で買える環境に、何だか妙に感動した。
ホースを買って死体祭りの部屋に帰ると、かつて洗面台があったと思わしき場所の蛇口に装着し、慎重に捻った。赤く錆びた水が緑色のホースを流れ、ホースを黒く染めていく。
ホースの先からゆっくりと流れ落ちる水を、絵里坂はそのまま扉の穴に注いだ。乾いた地面が雨を喜ぶように、ボロボロの扉が水を吸う。上手くいくかはわからなかったが、絵里坂は三千円も払ったんだから、という理由で慎重に作業を進めた。
そうして無理矢理扉に水を吸わせるのを一時間ほど繰り返してから、そっと扉に手を掛けた。扉はさっきよりずっと引っ掛かりを訴えるようになっていた。それを確認してから、急いでホースを回収して廊下に出た。
かなり強引なやり方で扉を湿気させ、扉を疑似的に施錠したものの、絵里坂に罪悪感は欠片も無かった。どうせ廃ビルだ。誰も困らない。ホースを近くのゴミ収集所に捨てに走ると、急いで北崎を起こした。多少無理矢理起こしたのもこの密室処理の為だ。密室だと認めさせた後にどれだけ休憩を挟んでも構わないが、いい塩梅の時に確認して頂けないと、扉の膨張が直ってしまう。
あとは穴ごと扉を粉砕し、鍵を内側から開ける振りをするだけでよかった。北崎の反応は何だかイマイチだったけれど、急ごしらえにしては及第点のものが出来上がったと思っている。
トリックに気付かせる手筈はいくらでもあるが、一番スマートなのは、長い間使われていないはずの水道の水が、この階のものだけ赤くないことを指摘することだろうか。他の階は真っ赤な水が、この階に至っては透明なのである。水は何に使われたのか? を考えればおのずと答えは出るはずだ。……北崎の手にかかったら出ないかもしれないが、ここには絵里坂もいる。北崎一人でなければどうにでもなる。
問題編の数行後にいきなり解答を書いてしまうミステリーなんか前代未聞だ。加えて犯人である絵里坂は目の前の無能クソ不謹慎探偵にとても協力的だし、慈愛の目すら向けている。こんなにお膳立てされた物語なんて他にない。それで構わなかった。北崎は今まで本物の事件に翻弄され、本物の密室の中に哀れに敗れ去るだけの単なる人間だった。
才能が無い人間が蹂躙される様を見飽きたのだ。だったらもう少し違う景色が見たい。それならこうするしかなかった。逆転の発想である。探偵なら事件に介入しても怒られない。名探偵なら北崎は後ろ指を指されない。しかし、彼には才能が無い!
だったら、一から探偵を生んでやるのだ。ハンバーグに生クリームがどうしていけないのかを、絵里坂がちゃんと啓蒙してやろう。
「ハイムリック北崎、どうなんだ」
押し黙ったままの北崎を導くように、優しい声でそう言った。あからさまに困った様子の北崎が、軽く目を伏せる。
「えー……密室なんだろう? 難しいな……。ていうか無理じゃん……超常的力くらいしか……」
「せめて三人が殺し合ったって発想からいけよ。いきなり超常現象に頼るな」
「三人が殺し合ったのかも……」
「いいぞ、そっちの方がまだミステリーに寄ってる。でも、探偵ってのは密室を暴くのがセオリーだろ? 暴こうぜ、密室! とりあえず水道捻ってみない?」
「え、嫌だよ。絶対汚いじゃないか……」
「そこでごねるなよ」
絵里坂は既に、十段階に分けたヒントを用意している。北崎がそれでもわからないというのなら、穴埋め形式で真相を教えてやってもいい。それでも駄目なら最早四択クイズでもいい。もう〇×でもよかった。それより簡易な回答形式を思いつかない。というか、二択ですら選べない北崎を想像するのが怖かった。
絵里坂は鞄に入れておいた鹿撃ち帽を取り出して、そのまま北崎に被せた。いつぞやの時に、北崎が車に忘れていったやつだ。
どんなにボロボロだろうが、どんなに普段着めいていようが、鹿撃ち帽を被るだけでそれなりに探らしく見えるのが不思議だ。コーディネートアイテムとして優秀過ぎる。
「ハイムリック北崎」
絵里坂はもう一度その名前を呼んだ。相変わらず酷いネーミングだ。けれど、その名前に、絵里坂は若干わくわくしてしまう。思えばこれはカンニング事件の再演だった。はからずも同じ構図だ。果たして、北崎は今度こそ間違えないでいられるだろうか。
「その通り、私はハイムリック北崎……」
「どうだ? 頑張って考えられそうか? もう考えなくてもいいんだけどさ。正答を吐き出せそうか? まあ、答えから先に聞いちゃってもいいんだけどさ。大事なのは結果! お前が事件を解決したっていう実績! もうそれが正解かどうかもどうでもいいんだよ。適度に適切に解決したってことにしちゃおうぜ。就活とかも同じだって。一回どうにかなっちゃえば、学生時代に頑張ったことが嘘でもいいの。サークルの副部長だったって言い通さなくてもいいの。お前に才能が無くても一回密室解けたらそれでいいんだって」
教え諭すようにそう言って、絵里坂は技巧を凝らされつつ放置された死体たちを見渡した。北崎はそれらを写真に撮ろうともしなければ、積極的に探偵をやる素振りも見せない。自分が当事者になってしまってびっくりしているのだろうか、と絵里坂は一人慮る。――本当に無能だな。麗しいくらい。
「容疑者軒並み死んでるんだから、もう迷う必要ないだろ。流石にもう一択まで絞ったんだから頑張ってくれよ名探偵」
「一択って……」
「トリックは抜きにして、犯人は誰だと思う?」
「犯人は……」
「外部犯説は無しだ。このビルにいるのは俺とお前と死んでる三人だけ。じゃあ、誰が犯人だと思う?」
「えっ、あの、少し過ったんだけど……」
「ああ、お前が犯人っていうのは無いよ。そもそもお前じゃあの三人に勝てないだろ。ボコボコにされてた癖に」
「あ、はい……なるほど」
「もういいんだよ。ハイムリック北崎がここでやるべきことは『犯人はお前だ』って指差すだけだからな」
「……誰を?」
絵里坂は答えなかった。あのクイズバラエティと同じだ。答えを言ってしまっては意味が無い。100%の人間がわかるだけのヒントを出すのと答えを出すのは趣が違う。
絵里坂は北崎の言葉を待ってみた。誰だってわかる一択を叫ぶのに、北崎はたっぷり五分ほどかけた。普段ならここでキレてもおかしくないくらいの時間の掛け方だったが、最初で最後かもしれないので黙って待った。絵里坂は無粋な人間なんかじゃないのだ。
北崎は探偵めいた帽子を被って、探偵ライクな表情をして、探偵が最も輝く部屋に立っていた。その口がゆっくりと開く。
「いや、……そうだな」
「何が」
「犯人なんかいないんだよ」
北崎は静かにそう言った。
新しく解答欄を生み出す小学生みたいな真似だった。けれど、北崎は探偵めいた口調で、静かに繰り返す。
「簡単な消去法だよ。そして誰もいなくなったんだ」
「アガサ・クリスティーがもうやったやつだろ」
「そう、もうやったやつだ。でも、別に悪くないだろ? それにあれは結局」
「おっと、それ以上いけない」
肝心なところに触れかけた北崎のことを慌てて止める。実を言うと、絵里坂はアガサ・クリスティーの小説なんか一冊も読んだことが無いのだ。従って、タイトル通りそして誰もいなくなってしまうのかすら知らない。そんな結末が赦されていいのかも知らない。
それよりも、明後日の方向に行きそうな目の前の物語に掴まることの方が重要だった。こんなにはっきりと喋る北崎のことは殆ど初めて見たから、どう対処していいかわからない。まるで名探偵のような顔をして、北崎が淀みなく推理を語る。
「密室とか全然よくわかんないし、鍵が中にあったんなら自殺なんじゃないかな。宇宙人がハイパーテクノロジーでどうにかしたのかもしれない。絵里坂って宇宙人は肯定派なんだろ? だったら多分、宇宙人がやったんだよ」
「それはちょっと、最悪が過ぎるぞ」
「いいんだよ」
まるで神託のような顔をして、名探偵はこう締めくくった。
「私は君を疑わないからな」
暗号と密室と消去法を華麗に無視して、ハイムリック北崎はそう言って笑った。
そんな信頼が何になると言うんだろうか。結局北崎は何一つ成長していないのだ。探偵らしからぬ無能さを晒し、最後の最後まで失敗し続けている。何一つ解決出来ないまま、かなり高濃度の殺人犯を見逃そうとしている!
廃ビルの窓から見える空は、薄い紫色に染まってきていた。時間を掛け過ぎたオーダーメイドの密室が、明け方に侵食されている。普通の大学生として過ごし損ねた夜が、じわじわと明けていくのが分かった。二時間もすれば、外は完全に朝を迎え入れるだろう。
絵里坂はふと、北崎喜咲に頼もうとしていたレポートのことを思い出した。勤勉で賢いこの男なら、きっとA評価の取れるだろうレポートだ。代筆を頼めば、北崎は何だかんだ言って引き受けてくれるだろう。
「…………そろそろ帰るか」
「そうだな。私もちょっと疲れたよ」
あちこちに幅を利かせる痣を考えれば、疲れたどころの話じゃなかった。適度な倦怠感と夜明けの高揚が入り混じって、現実との距離感を失っている。これは果たして現実なのか? それとも悪趣味なスラップスティックコメディなのか?
警察が踏み込んでくる気配は依然として無かった。あの動画の視聴者数なんてたかが知れていたし、ハイムリック北崎のことを本当に案じている人間なんて絵里坂くらいのものだ。誰も北崎の為に警察を呼ぼうなんて思わなかった。全てはエンターテインメントの範疇に収まって、きっと何処にもいけやしない。
絵里坂は考える。ここを出る前に、三人で殺し合ったってことにする為に細工しておこう。暗号も密室も全部無かったことにして、都会に埋没する、一つのつまらない諍いにしてしまおう。何故なら、隣にいるのは敬愛すべき探偵で、彼が語ったことが真実なのだ。ハイムリック北崎は多分これからも無能だけれど、例えばたった一人の読者、唯一の観客みたいに、それを承認してやる人間がいたとすれば。それは紛れもない本物なんじゃないだろうか。
はてさて、これから待ち受けるはきっと恐ろしくも堅実な就職活動だったり、麗しくも煩雑な社会生活でしかないだろう。しかして、人生は終わらない。
差し当たって、絵里坂が北崎に言うべきことは一つだった。
「これから殺人現場に出入りする時はサングラスとマスクして行こうな」
遍く悪意とカメラと才能の壁に負けない為に、一番シンプルで画期的な方法がそれなのだ。果たして、北崎は少しだけ首を傾げてから、ゆっくりと「わかった」と呟いた。わかってないんだろうな、と絵里坂は思う。朝の浸食が進んでいく。
この世界はわからないことだらけの癖に、探偵なんてものが赦されてしまっている。それなら、末席にこの無能を座らせて欲しい。死体塗れの部屋に、絵里坂は勝手に約束する。きっとその日が来るまでに、八十六パーセントの壁は超えさせてやりますので。
(了)