死体埋め部の有業と遊行

 まだ六時前だというのに、店内は既に沢山の客で賑わっていた。飛行機を降りてからこの居酒屋に来るまで、祝部は今でもどこか夢見心地のままでいる。提灯の下がるカウンター席も、普段よりはまともな格好をした先輩も、その先輩が上機嫌で語ることも、全部何処か遠かった。
 そんな中で、織賀善一は歌うように言う。この旅行に合わせて染め直した茶髪が柔らかく揺れた。
「北海道に来ていきなり蟹や寿司に走るのは素人のやることなんだぞ、祝部。知ってるか?」
「はあ……まあ僕は素人ですからね……北海道、初めて来ましたし。てことは、初手でこの蟹ほぐし出汁巻き卵を頼むのは駄目だと?」
「そうそう。この織賀善一がそんなこと赦すと思うか? なんてったって念願の合宿! 行き先は北海道! そんな最高のシチュエーションで、何で素人染みたことしなくちゃいけないんだよ。そんなの神が赦しても俺が赦せねえっての」
 そう言って、織賀は心底楽しそうに笑った。全く、身体の芯からご機嫌な様子である。いつもくるくる回っている舌が、ここにきて更に乗っているのは、旅行特有のトリッパーズ・ハイになっているからだろう。
「それじゃあ玄人は何を食べるべきなんですか?」
「よくぞ聞いてくれた! さっすが祝部!」
 勢いのまま、織賀が祝部の頭をくしゃくしゃと撫でる。この絡み方は、殆ど地元の酔っ払いじみていた。何というか、スタンダードな酔い方である。スタンダードに害悪な酔い方だ。
「ホッケだよ、ホッケ。北海道に来て何を食べるべきかって言うと、ホッケなんだよ。見ろよこの皿からはみ出るほどの大きさのホッケ! 素人が鮭やヒグマに気を取られてる間に、俺達はこうして本物を頂くってわけ」
「そうですか……本物を……」
「何だよテンション低いなー! もうちょっとこう、テンション上げてけって!」
「運ばれてきた焼き立てのホッケを前にしてさっきの茶番をやらされたら、流石にこのテンションにもなりますって。お腹すいてますし」
「堪え性が無い男はモテないぞ?」
 言いながら、織賀が手早くホッケを解していく。意外なことに、なかなか綺麗な箸捌きだった。それだけで何かのパフォーマンスになりそうなくらいには。織賀が箸を入れて身を分ける度、ふわっと白い湯気が立ち上る。それを見ると「なるほど本物」と、思わなくもない。艶々と白めくホッケの身が組み木のように積まれていく。それを見て思わず息を呑んだ。
「さ、食べていいぞ。俺はこっちの取りづらい方やっつけちゃうからさ」
「え、いいんですか?」
「いいっていいって。後輩に食べやすいところを譲ってやるのも先輩の役目だろ?」
「……ありがとうございます」
 織賀の言葉に甘えながら、積まれたホッケの身を口に運ぶ。
 舌に乗せた瞬間、身からじゅわっと油が染み出してきた。想像していなかった触感に戸惑いながら崩れるそれを飲み下すと、何とも言えない多幸感に包まれる。
「うわ、なんだこれ美味い! えっホッケってこんなに美味いんですか!?」
「だろー? 俺のこと見直しただろ!」
 北海道の手柄に乗じて、織賀が誇らしげにそう言った。相当酒が回ってきているのか、その顔が大分赤い。ホッケを食べながら、あんまり見たことのない表情を横目で見た。織賀もこんな風に普通に酒を飲むのだ。
「ていうかお前ウーロン茶無くなりそうじゃん! 何飲む? お揃いのハスカップサワーとか?」
「俺、未成年なんですけど……」
「はー? じゃあ駄目じゃん。流石に法律違反は見逃せないもんなー。部長として!」
 そう言ってハスカップサワーを楽しそうに飲む織賀を見ながら、祝部は心の中で思う。――それは高度な自虐ネタなんじゃないだろうか?
「今日はこのままススキノ行って遊んで札幌のホテル泊って、明日は温泉行くからなー。やりたいこと全部やるって決めてんだ、今回」
「先輩もう大分酔ってるじゃないですか。ここ出たら大人しくホテル行きませんか? 僕もちょっと疲れましたし」
「何言ってんだよ! それじゃあ死体埋め部の合宿じゃなくてただの合宿になっちゃうだろ!」
「あの、出来ればサークル名は大声で言わないでくれますか」
「ていうかどうだ? 北海道、来て良かっただろ?」
 とろんとした目のまま、織賀が小さく首を傾げる。賑やかな店内、美味しいホッケ、普段に比べて格段に緩み切った先輩の表情。それを纏めて、祝部は言った。
「…………そうですね」
「やったー!」
 織賀は派手に歓声を上げると、チャームポイントの八重歯をしっかりと覗かせた。明るい場所で見る彼の表情は、なかなかどうして魅力的である。……『死体埋め部の合宿』なんておどろおどろしいものに似つかわしくないくらいには。

 死体埋め部の合宿。その発端は二週間ほど前、七月末の部室に遡る。がらんとした『生物』部室の中でぼんやりと過ごしていた祝部の元に、暑くても元気な織賀が飛び込んできたのだ。
「祝部、合宿に行くぞ! 死体埋め部の初合宿! な! 行こうぜ!」
 その言葉を聞いた瞬間、一気に自分のテンションが落ちていくのが分かった。合宿という響き自体は悪くない。むしろ甘美だ。夢見た大学生活の中に、サークルの合宿というものは大きな要素として食い込んでいる。けれど、そこに『死体埋め部』という枕詞が付いてしまうとそれだけでもう駄目だった。ややあって、祝部は言う。
「すいません、ちょっと予定が……」
「はあ!? おッ前夏休み期間の約六十四日間すなわち一五三六時間毎時間予定入ってんのかよ! 俺がスケジューリングしてやるからちょっと見せてみって! だーいじょうぶ俺そういうの得意だし!」
「織賀先輩って暗算とかも早いんですね」
「あ、これは前もって計算しといたやつ! つーか嘘だろ! 英知のクソ長い夏休みをびっしり埋めてる奴なんかいるわけねえだろうが!」
 織賀の言う通り、英知大学は長い長い夏休みに入ろうとしていた。多くの学生が沸き立ち、期待と展望に夢を膨らませる夏休みだ。このやけに長い夏休みの間に、海外旅行をする学生も多い。まさに、どこかへ旅に出かけなさいと言わんばかりの休暇だ。
「でも、予定が無いとしてもそんな遊んでられませんって……」
「はあ? 試験も終わったしレポート提出ももう無いだろうし、やることなんかないだろ? いいから行こうぜ!」
「まだ成績発表もされてないじゃないですか……。実際、俺TOEICの成績とかあんま良くないですし、志望ゼミ行きたいなら夏休みは真面目にやらないと……」
「なーに言ってんだよ。お前が悪い成績取るわけないだろ?」
 そう言って、織賀が目を細めた。それを見た瞬間、背筋が寒くなる。確かにその通りだ。試験の手ごたえもある。レポートもうっかり教授に褒められるくらいの出来栄えだった。このまま発表日を迎えたら、きっと誰からも褒められる代物が返ってくるだろう。
「何せ、真面目な祝部くんだからな。お前がやっただけのものは返ってくるだろうさ」
「……それ、当てこすりですか」
「いや? 俺はお前のそういうところを十全に買ってるだけ」
 ……実を言うと祝部の成績は、大半が織賀の功績に拠るものである。別に祝部が特別勉強が出来ないわけじゃない。単にこの大学の試験や課題の難易度が高すぎるのだ。
「助けてやろうか?」
 初めての事態にてんやわんやしている祝部の手を取ったのは、またしても織賀善一だった。あの日の悪趣味なトレースを行いながら、頼れる先輩が慈愛に満ちた声で言う!
「……流石に織賀先輩にレポートまでやってもらうのは……」
「そのレポート、結構面倒なんだよなぁ。あの先生の好みの結論にもってけないと、その時点で成績つかないとかよく聞くし。そんな先生相手に対策も無しで突っ込むっていうのはなー。無謀なんじゃねえの?」
 分かりやすい悪魔の囁きだった。人間を誘惑して、堕落させる時の声だ。生温く湿ったその声を聞いて、段々とモラルが溶けていく。そもそも今は夏なのだ。温度が高い分、その声は融解と恐ろしいほど親和性が高い。加えて、今はバックミラー越しでもない。ちゃんと向き合ってこうしてあの笑顔を見ていると、全てが赦されて然るべきという気分になって困る。
 そして、祝部はゆっくりとその手を取った。
「それじゃあ……その、レポートの押さえるべき点だけ教えて貰えますか? 書くのは自分で書くので……」
「お、偉いなぁ祝部。ちゃんと自分でやろうっていう気概がいいよな! 俺もそういう後輩を持てて幸せだよ、本当に。で? 明後日『美学』のテストだよな? そっちの方はどうなの?」
「実を言うとまだ全然頭に入ってなくて……」
「大丈夫大丈夫。俺、それも過去問持ってるから。あの先生の傾向からして、多分問題変えないと思うんだよな。いる?」
「……欲しいです」
「素直でよろしい」
 八重歯を見せながら花の咲いたように笑う先輩を見て、今回だけならいいだろうと思ったのがいけなかった。試験は二週間続いた。その間にどんどんハードルが下がっていったことは想像に難くないだろう。人間、転がり落ちる時は一瞬なのだ。
「な? お互い頑張ったじゃん。ここらで一つ旅行に行っても赦されるんじゃねえの?」
 織賀が指先をすり合わせながら、小さく首を傾げる。含みのある『お互い』という言葉に背筋が寒くなった。要領の良い織賀善一は、一・二年で必修以外の単位を殆ど取り終わっている。この試験期間に彼が頑張ったのは、祝部の単位を取ってあげることなのだ。
「……そ、そんなこと言われても……。旅行とか……」
「はあ!? 何の為にサークルがあると思ってんだよ! 何の為の死体埋め部だよ! 一に合宿、二に合宿! 三、四が無くて五に金の為だろうが! ここで合宿行かないでどうするんだよ!」
「やっぱりビジネスがかなりのウエイト占めてるんですね」
「これで合宿行けないならお前何の為にいるのか分かんなくなっちゃうだろ!」
 子供のように駄々をこねながら床を踏み鳴されてはたまらなかった。色々とズルをした分のツケがこんな形で回ってくるとは、と祝部は思う。やっぱり神様はいるのかもしれないし、その神様は試験に対して異様に厳しいのだ。
 それに、と祝部は心の中で呟く。必死に駄々をこねる織賀の姿が、出会ったあの日の織賀に重なる。
 『合宿』は、あの日織賀が語った〝欲しいもの〟だ。死体を埋めて、人を脅して、それでどうにか手に入れようとしていた織賀善一の願い事。合宿に行きたいのだという場違いな願いを、明け方の織賀は心の底から真面目に語っていたのだ。
 同情しているわけじゃない。同情なんか出来る立場じゃない。織賀がどれだけ可哀想な境遇にあったとして、こういう生き方を選ばざるを得なかったとして、祝部は同情なんか欠片もしたくなかった。
 ただ、叶えてあげたいとは思ってしまった。憐憫ではなく期待に沿いたいと思ってしまったのだ。テディベアをねだる子供にそれを与えることは、どれだけ満たされる所業だろうか。
 だから、そうした。ややあって、祝部は言う。
「……わかりましたよ。合宿でしたっけ? いいですよ。行きますよ」
「え? マジ? やあったー! サンキューな祝部! うわー嬉しい! 最高! 人生ってこれだからいいよな!」
 そう言いながら、織賀が部屋の中を跳ね回る。床を踏み鳴らすのと跳ね回るのとじゃどちらがマシだったのか、今となってはわからない。それでも、表情だけはさっきと雲泥の違いだ。
「やったよー! 俺良い子にしてるからさ、絶ッ対逃げんなよな。ちょっとでも逃げる素振り見せたらその時点でお前のこと埋めるぞ。分かったな。ほら、誓約書書け、誓約書」
「全然良い子じゃない……。で、何処に行くんですか? ……まさか、マジで鳥取とか言いませんよね? 砂丘に死体を埋めるとか正気の沙汰じゃないですよ……そもそも掘るの難しそうだし……」
「あ、それなんだけどさ。一つ目をつけてたのがあんのよ」
 そう言って、織賀が楽しそうにスマートフォンを操作する。そして、とある旅行会社のホームページを見せてきた。ラベンダーに時計台、そしてこれ見よがしに映る海鮮の数々。その写真だけで、祝部にも察しがついた。
「……北海道?」
「そうそう! 俺さあ、北海道行ったこと無いんだよね。なんかよくわかんないけど、北海道ってありえないくらい楽しいらしいじゃん? 俺北海道行きたいんだよなあー! 行こうぜ!」
「それもう死体埋め部関係無くないですか?」
「はあ!? 人間がいるところなんだから関係あるだろ! お前だって今死ねば死体になるんだぞ!」
「嫌なこと言わないでくださいよ」
「人間が存在する限り、死体と関係の無いところなんか無いんだよ。つーわけで埋め部の合宿は北海道に決定!」
 嫌な括りで世界を纏め上げながら、織賀は拳を天に掲げた。こうなったらもう止められないだろう、と祝部も腹を括る。要するに、この人は単に旅行がしたいのだ。ジンギスカンを食べたりヒグマを見たり、白い恋人を買って帰ってきたりしたいのだろう。だとすればもうこれ以上抵抗するのも馬鹿らしい。
「あ、そうだ祝部。心配しなくてもお前の旅行費くらい出してやるから。どうせ埋め部の合宿なんだし、そっちの方がいいだろ?」
 キラキラとした、混じりけのない瞳を向けられる。何の衒いも無い、織賀なりの百パーセントの善意だ。けれど、それ自体が妙に引っ掛かる。ややあって、祝部は言った。
「いいです」
「あ?」
「……合宿代くらい自分で出しますから。そこまで奢られるのも何か違うでしょう。合宿なのに」
 その瞬間の織賀の表情の意味が、祝部にはよく分からなかった。驚いているのか、笑っているのか、それすら判別出来ない。不意を衝かれた織賀が、一瞬だけ言葉に詰まる。彼らしくない所作だ。数秒経ってようやく、織賀の口が開く。
「……俺結構贅沢に遊ぶつもりなんだけど、貧乏学生の祝部浩也くんがその費用自分で出せるかっていうと……」
「そこは学生らしい範疇にしてくださいよ。安宿に泊まってバスで移動しましょう」
「合宿代は貰うわ。ただし、俺の提示した額だけでいい。何てったって合宿費だもんな」
 それを言う織賀の声は、どこか柔らかいものだった。さっきの派手な歓喜とはまた違う、緩やかな喜びに縁どられた声だった。何かを確かめるように、織賀が言う。
「楽しもうな、祝部。きっと楽しいよ」
 織賀の言うことは正しかった。死体埋め部の合宿はそれなりに楽しい。わかっていたことだ。織賀善一と北海道に行って、楽しくないはずが無いのだから。

 合宿二日目、織賀は朝から愛車のジャガーを走らせていた。北海道での移動はレンタカーかバスになるだろうと予想していたのに、なんと麗しのジャガーはここまで着いてきてくれたらしい。「金さえ払えば移動させてくれる奴がいんだよ」と言って織賀が笑う。金銭感覚の狂い方が無邪気でよろしい。大学生のジャガーを運んで金を貰った人間は、一体どんな気分でいただろうか。
「窓開けてもいいぞ。どうせこの一本道だ、何かにぶつかってお前の首が取れるってこともないだろ」
「いや、別にいいですよ……。正直、窓なら普段の方がよっぽど開けたいですからね」
「死体乗せてると窓が開けられない、でも換気はしたい……悩みどころだよな」
 北の大地を駆けるジャガーも、何だか妙に楽しそうだ。最初の頃は不吉の象徴であった黒い車体が、今はなかなか愛おしい。太陽の下であれば何だって好意的に見られるのだ。
 織賀は小さく鼻歌を歌っていた。知らない歌だ。メロディーラインが独特だから、恐らくは外国の歌だろう。根の陽気さに反して、織賀はどこか物寂しい歌を好む。神様嫌いの織賀にとっては不本意かもしれないが、彼に似合うのはきっと厳かな讃美歌だろう。美しく寂しく、切実な歌だ。
「織賀先輩ご機嫌ですね」
「ご機嫌に決まってるだろ」
 なかなか素直な回答だった。素直なものは好ましい。ここに来てから、織賀はずっと箸が転がっても楽しいようだった。実際に昨日の居酒屋では、鮭がバターで焼かれただけで涙が出るほど笑っていたのだ。北海道の麗しさにあてられ過ぎである。
「だってさ、考えてみろよ? 長年の夢が叶ってさー、北海道は滅茶苦茶楽しいし、一緒にいるのはお前だし、言うことないじゃん。ずっと欲しかったんだよな、これ」
「織賀先輩が欲しかったものって案外素朴なんですね」
「幸せは小さなところからなんだぜ、祝部」
 そう言って、織賀がすっと目を細める。暗くない分、ミラー越しの織賀の表情はいつもより鮮明に見えた。車内に流れる鼻歌も、陽の光を浴びて色めく茶髪も、死体を埋めに行く時とはまるで違う。
 これが織賀の幸せなのか、と思うと何とも言えない気分になった。幸せの青い鳥が家にいる、という展開が好きなわけじゃない。手の届く範囲に最高の幸せがあったっていいと思う。
 けれど、そこに最上級の幸せを置くということ自体が、彼の人生を思わせるから辛いのだ。そして、彼は全てを踏み越えて手に入れた。自分のことをその最上の中に入れてくれている。それってどういうことだろうか。
「なんだよ、なんかいいことあった?」
 不意に織賀がそう呟く。
「いいこと? 別にありませんけど」
「や、いつもミラー越しにお前を見る時、あんま楽しくなさそうだからさ」
「死体が隣に乗ってるのに楽しそうにしてたら異常者でしょう」
「お前がそんな顔で後部座席にいるのがちょっと新鮮なんだわ」
 そんな顔、とはどんな顔だろうか。生憎、祝部は上手く確認が出来なかった。指摘されたこともあって、今は酷い顔になっているに違いない。
「……それより、これって何処に向かってるんですか?」
「定山渓温泉だ」
 じょうざんけい。頭の中で変換するのに少し手間取る。そんな祝部の前に、誂えられたかのように『定山渓温泉 この先ニ十キロ』の看板が現れる。定めし山とかいて定山。オリガマウンテンに比べて、段違いに美しい名前だ。

 定山渓温泉は札幌駅からバスで七十五分のところにある温泉地である。織賀の運転するジャガーを飛ばせば六十分だ。
 『ようこそ 定山渓温泉へ』という大きな立て看板が見える頃にはもう、温泉地独特の匂いが辺りに漂っていた。札幌周辺も楽しかったが、こうして温泉地にやってくるといよいよ合宿感が強い。
 入ってすぐの駐車場にジャガーを停めると、織賀はパンフレット片手に颯爽と歩き出した。どうやら、定山渓に着く前に、行きたい場所をピックアップしておいたらしい。サッポロピリカコタンや白糸の滝などに、大きな赤丸がついている。どうやら、本気で観光をする心積もりらしい。
「織賀先輩、まさかそれ全部行くつもりですか?」
「あったり前だろ? 何の為にジャガー持ってきたと思ってんだよ。宿がここをちょっと行ったところだから、このルートで行くと全部回れるっつう寸法よ」
「予想以上に本気じゃないですか……。それで? ここには何があるんですか?」
 温泉地とはいえ、ここはまだまだ入口のはずだ。少し下ったところには商店なんかも点在しているが、賑やかになっていくのはもっと奥に行ったところだろう。すると、織賀は満面の笑みで言った。
「ここにはなー『かっぱ家族の願掛け手湯』っていうのがあるんだよ。河童の像にお湯かけて呪文唱えると願いが叶うっていうやつ」
「織賀先輩そういう神様への願掛けみたいなの信じてるんですか? 前は神様のこと敵視してるみたいだったのに」
「神様と河童は違うだろ! さーて、何叶えてもらおっかな」
 色々と言いたいことはあったのだが、織賀が楽しそうなので何も言わないでおいた。ジャガーの運転席に座っているのは織賀善一の方だ。野暮なことを言った所為で、この後何処かに突っ込まないとも限らない。
 浮かれた足取りで歩く織賀に着いていくと、数分の内に目当ての像の前に辿り着いた。『かっぱ家族の願掛け手湯』という看板の下に、ユーモラスな河童の像が建っている。……マスコット染みたそれが願い事を叶えてくれるなんてことがあるんだろうか? と祝部は不遜なことを思った。
「お、やった! あれじゃん!」
 そんな祝部に構わず、織賀が歓声を上げる。それを掻き消すように、河童の前の先客が大声を上げた。
「うるさい! 四年前のことなんかもう終わった話だろ! その名前を今更出すんじゃねえよ!」
「そうやって無かったことにするつもりか! 人殺しめ!」
「何責任押し付けあってんのよ! 全員同罪じゃない!」
 織賀の求めている河童の前で、観光客らしき四人組が揉めていた。男二人女二人の、ある意味よくある編成である。それよりも気になるのは、彼らのあまりに物騒でオーソドックスな言葉だった。四年前のことは知る由も無いが、旅行先で聞くにはあまりに不穏な言葉である。
 冷たいと言われても構わなかった。その上で、祝部は心から思う。定山渓以外で、否、北海道以外でやってもらうわけにはいかないだろうか……?
「信じられない! やっぱりあんた達なんかと来なきゃよかった……」
 黒髪の女がそう叫び、その場の空気が更に悪くなる。
 正直、この状況で一番信じられないのは嬉々として河童にお湯を掛けに行っている織賀だった。そのすぐ傍であれだけ人間が揉めているのに、怖いもの知らずにも程がある。
 とうとう黒髪の女の人が泣き出して、それを見た男が舌打ちをしていた。残り二人も溜息を吐くばかりで、仲裁しようともしない。控えめに言っても地獄絵図である。その横で、織賀は河童の像の写真まで撮っていた。本当に恐ろしい話だ。
 散々堪能した織賀が、ようやく祝部のところに戻ってくる。あの険悪な雰囲気をすっかり無視してしまえるのが信じられなかった。
「おい祝部、なんでやんねえの? お前こういう観光地とかではしゃがないタイプ? 願掛けとか信じてなさそうだもんなー」
「いやあの、そういうことじゃなくて……」
「祝部の分もお願いしておいたから!」
「……ありがとうございます」
 暢気に笑う織賀を急かすようにして、不穏な四人組から離れる。揉めている人間なんかは珍しくないが、今回は何故だか嫌な予感がした。無視できない不穏の気配からは、物理的距離を取るしかない。
「さーて、次はピリカコタンに行くぞ! お前、ヒグマ好きだろ? ヒグマの檻が見れるらしいぞ」
 織賀はいつになく真剣な顔をして、パンフレットを指で叩く。一体どこまでが本気なのか分からない。全部本気だからこそ、織賀善一であるのかもしれない。祝部は、どこか諦めたように呟く。
「そうですね。ヒグマ好きですよ」
「へえ、俺は嫌い。怖いし」

 織賀の行きたがった場所を全て巡り終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。山道を慎重に抜けていくと、内側から光を放つ、大きな宿に辿り着いた。佇まいを外から見ただけで、既に気圧されていた感は否めない。こういう見るからに由緒正しい旅館は、それだけで威圧感がある。
「ちょっとこれ、どういう旅館なんですか……」
「別に昔殺人事件があったとかそういうんじゃないぞ。残念だったな」
「そういう心配をしてるわけじゃないんですけど……」
 落ち着かない祝部を置いて、さっさと織賀がチェックインを進める。
 宿の部屋は、ホテルよりも更に豪奢なものだった。広々とした和室とは別にベッドルームが備え付けられたその部屋は、客室というよりは殆ど別荘に近い。正直、祝部の家はこの部屋の四分の一の広さもないだろう。
「結構いい部屋だろ? ほら、こっちには部屋付きの露天? あー、窓あるから展望か。何にせよ温泉もあるんだぜ? いいよなー、俺も家にこれ欲しい」
 薫り高い畳を楽しそうに踏みながら、織賀がのんびりと言う。この過度に豪奢な部屋に全く動じていない辺り、織賀はこういう部屋に慣れているのかもしれない。金銭感覚が違い過ぎる。
 この時点で合宿費の三万円からはかなり足が出ているような気がするが、あまり考えないことにした。この部屋を十全に楽しめないこと自体も、定山渓へのある種の冒涜だろう。
 部屋の奥には、織賀の言っていた通り部屋付きの温泉があった。何から何まで言うことが無い。展望風呂から見える山の風景は、一枚の完成された絵画のように見えた。
「やっぱり旅行っていったら温泉だろ!」
「そうですね。……俺の考えていた合宿より数段豪華なことになってますが」
「楽しむべき時に楽しまないでどうすんだよ! っていうか、部屋にもあるけど、旅館にも露天風呂あるんだわ。デカいやつ。そっちも入ろうぜ! あー、やっぱあっちの方にある日帰り温泉も入っときゃ良かった」
「どれだけ温泉入るつもりなんですか。どれもお湯じゃないですか」
「温泉とお湯は違うだろ! じゃあお前これからカップラーメン作る時温泉の湯使えよな!」
「無茶言わないでください」
 ともあれ、楽しむべき時に楽しまないと、という織賀の言葉には一理あるかもしれない。祝部の常識と金銭感覚はこの顛倒に悲鳴を上げているけれど、楽しむべき時に楽しまなければいけないという言葉には、ある種の真理があるはずだ。
 ふと、あの四人組はどこに泊っているのだろう、と思った。定山渓に着いた時に、よりによって河童の像の前で揉めていた彼らだ。流石に隣の部屋ということはないだろうが、旅館が集まっているこの場所なら、またすれ違うこともあるかもしれない。夕食を取る時に同じようなエンカウントが起こったら、いよいよ気まずいことになるだろう。
「先輩、夕飯どこで食べますか?」
「いや、ここ部屋に持って来てくれるって」
「あ、そうですか」
 その言葉を聞いて安心する。流石に温泉地に来てまで気を揉みたくない。煩わしいことを避けられるに越したことはない。
 そんなことを考えている祝部を余所に、織賀はさっさと備え付けの浴衣に着替えていた。どうやらとことんまで楽しむ姿勢らしい。その気質が、祝部には少しばかり羨ましかった。

 宿で出た料理も言わずもがな美味しかった。彩りからして鮮やかな小鉢に、バリエーション豊かな前菜が盛られている。山菜と海鮮を折衷したようなそれらの料理は、普段の食生活とはかなりかけ離れた繊細さである。蕗がこんなに甘くなることを、祝部は初めて知った。
 女将さんが地ビールを薦めてくれたのだけは丁重に断る。一日目の夜に泥酔した織賀をなんとかいなしたトラウマは根深く残っているのだ。散々駄々をこねる織賀をなだめるのも結構大変だったけれど、殺人にまで発展しそうだった夜を思えば安いものである。
 いつの間にか、宿の周囲にはほんのりと柔らかい明かりが灯るようになっていた。辺りを照らす行燈の光が、暗闇の中で寄る辺なく浮いている。
「織賀先輩、外凄いですよ」
「んー?」
 小鍋に入った海老を解しながら、織賀も窓の外に目を向ける。そして、フッと笑った。
「これ、旅館の露天風呂入ったらもっと凄いぞ」
 まるで見てきたかのように織賀が言う。硝子の反射で、含み笑う彼の影も、窓の外に緩やかに浮かび上がっていた。

 先の言葉があったからか、食べてすぐに温泉に入りたがる織賀に、祝部は素直に従った。身体には悪い気がするが、雲が晴れて月も出てきたのを見ると、この機会を逃す方が勿体ないと思うようになったのだ。
 織賀に付き従いながら、角の浴場に入る。何個か場所がある辺り、この露天風呂自体も貸し切りに出来るのかもしれない。織賀の金払いの良さを考えれば、ありえない話じゃなかった。
 部屋に備え付けられている温泉も結構な広さだったが、流石の大浴場は貫禄が違った。泳げそうな広さの温泉が、月明かりを浴びてさざめいている。結構高い位置に作られているからか、露天風呂を囲う柵も控えめなもので、付近が一望出来るようになっていた。
 端に肘をついて、定山渓の山々を見る。小さな川を挟んだら、そこはすぐに深い山になっていた。川沿いに置かれた行燈に照らされて、まるでそこは異界の入り口のようだ。
「凄いですね。滅茶苦茶綺麗じゃないですか」
「だよなあ。夜景とはまた違うけど、こういうのもいいだろ?」
 まるで自分が誂えたかのように、織賀が言う。その不遜な口調が似合うのだからたまらない。
 一口で言えば美しかった。星も月も同じくらい目映く光っているし、この場所だけは夏の暑苦しさから赦しを得ているかのようだ。心地よい夜気が辺りを満たして気持ちが良い。
 普段から嫌な意味で親しんでいる山が、まるで違ったものに見えた。これだけ長く湯に浸かる機会が無い所為か、目の前の風景の所為か、それともこのシチュエーションの所為か、ぐるぐると思考が回る。
 食べてすぐ湯に浸かった所為かもしれない。隣の織賀は楽しそうにはしゃいでいるけれど、祝部は普通の人間なのだ。
「ちょっと、俺先に出ますね。若干気持ち悪くなってきた感じが――」
 色々なものを見誤る前に、祝部がそう言った瞬間だった。
 見下ろした暗闇の中を、何かの影が横切る。そして、小さな話し声のようなものが聞こえた。影は少しだけ彷徨った後、光の届かない奥へと消えた。
 再び、辺りが静けさに包まれる。位置関係の問題であの場所の『何か』から露天風呂は見えていないはずだ。ややあって、織賀が言う。
「今の、人間だったよな?」
「そうですね。……こんな夜に、探検にでも行くんでしょうか」
「お前地図見ただろ? この辺りの山ん中なんかオリガマウンテン並に何も無いぞ。こんな時間に行くような場所じゃないって」
「わからないじゃないですか。花火しに行くとか……」
「キャンプ場の広場でやれって話だろ。いくらでもあるのに。山火事になるわ」
 ぽんぽんと推論を重ねたところで、理性が警告を鳴らす。この構図はまずい。ここはジャガーの中じゃなくて温泉だ。いくら山が近くても、普段と同じことをする必要は無い。
 けれど、隣の先輩はそう思っていないようだった。爛々と輝く目はさっきと違った光を宿している。暴力的な好奇心が一心に暗闇の中を射抜いていた。あの中に何があるのか、知りたくて仕方がないらしい。どうにか止めなくちゃ、と祝部が口を開くより先に、織賀が言う。
「あーあ、今から外に出たら、せっかく汗流した意味無くなっちゃうよなぁ。残念だわ」
 そう言う織賀の口調は心底楽しそうだった。少しも残念そうじゃない。野次馬根性ともまた違う、どこか神がかった衝動がそこにある。
「部屋、こういう時の為に展望風呂があるんだろうなぁ、祝部?」
 織賀が満面の笑顔でそう言った。絶対そういう時の為じゃないだろ、と祝部は思う。

 そしてその三十分後には、祝部は織賀と一緒に暗い山の中を歩いていた。
 着いた時には明るく輝いていた山は、一度日が暮れれば鬱蒼とした閉鎖空間になっていた。露天風呂から優雅に眺めていた時は静謐な美しさを湛えていたはずなのに、一歩踏み入れば普段のオリガマウンテンと何も変わらない。……死体を埋めるのに最適な場所だ。
 目の前を歩く織賀は普段と変わらない赤いジャージを羽織っている。浴衣で山に分け入るのは危ないから、当然の着替えだ。祝部だって、ジーパンにTシャツのラフな格好に戻っている。それが余計に現実感と距離を狂わせる。ここはオリガマウンテンから何百キロも離れたところだというのに。
「お前、何考えてる? いつもと同じだなー、とかそういうこと?」
 そう言って、織賀は笑顔で振り向いた。前が織賀で後ろが祝部、という位置取りすら普段と変わらない。その手には、いつも通りのスコップが握られていた。祝部も同じものを持っている。もうすっかり手に馴染んでしまったそれが恨めしい。
「そうですね。何でわざわざ北海道まで来てスコップを持ってるんでしょうね」
「でもさ、死体埋め部の合宿なんだからこれが正しいよな。普段の活動を別の場所に移して行う。これこそ合宿の醍醐味だろ?」
「護身用って言ってたじゃないですか……」
 スコップを持って行こうと言い出したのは織賀だった。ジャガーのトランクに積んであるそれは、北海道の地でもピカピカに輝いている。この時にちゃんと断れば良かったというのに、護身用という堅実な言葉に負けた。確かに、さっきの並々ならぬ状況を考えると、丸腰でいるのは厳しいだろう。
 それでも、とスコップの重みを感じながら祝部は思う。
 このスコップを手に持った瞬間、急に現実に引き戻されたような感覚がした。自分が所属している部がどういうところなのか、織賀善一との関係がどういうものなのかを、この重みがしっかりと思い知らせてくる。
 それに、このスコップを持った瞬間、逃げられなくなる気がした。
 スコップを持てば、必ずよくないことが起こる。持つによって、必ず『活動』が起こってしまう。嫌な引き寄せが起こって、オリガマウンテンと同じことが引き起こされる。――そんな感覚がするのだ。
「大丈夫だって祝部。俺は散々修羅場潜ってんだからさ。プレデターは無理でもジェイソンくらいなら倒してやるよ」
「心配してるのはそういうことじゃないです」
「反論が早くなるといつものお前って感じするよな」
 その時、急に視界が開けた。切り出しでも行ったのか、整地の都合で切られたのか、ぽつぽつと切り株が散在する広場に出たのだ。ぽっかり空いた空間のお陰で、月明かりがゆっくりと差し込んでくる。
 そこに、四人の人間が倒れていた。
 無造作に倒れ伏す人間たちは、どこか現実味を欠いている。だからこそ、祝部は冷静に状況を把握していた。
 切り株を中心に、心臓付近に大きな傷をこさえた男が倒れている。その隣に、真新しいロープで首を絞められた女が倒れていた。――死んでいる。その下、うつ伏せで倒れている男の後頭部がびっしょりと血で濡れていた。――死んでいるだろう。近くに血まみれの大きな石が転がっていた。恐らくはこれが凶器だ。
 そして、最後の一人。切り株にもたれかかるようにして倒れた女に、目立った外傷は無い。けれど、青ざめた彼女の顔を見ただけで分かってしまった。彼女もまた、……死んでいる。
 傷の具合には差異がある。けれど、四人全員が死んでいることは最早疑いようもなかった。それでも、祝部は自分の為に、わざわざ言う。
「刺し傷の人と、切り株にもたれている人は、助かりませんかね……?」
「そういうことをわざわざ口にするのが良心だと思ってんのか?」
 見透かしたような言葉を吐きながら、織賀がゆっくりと死体に近づいていく。
「へえ、四体もあると壮観だな」
 織賀の不謹慎な言動も今は気にしていられなかった。こんなに凄惨な現場は見たことがなかった。こんなに大勢の人間が一堂に会して死んでいるところも。ややあって、祝部は呟く。
「……この人達、俺達が定山渓に着いた時に揉めてた人達ですよね?」
 彼らの顔はしっかりと覚えていた。定山渓に着いてから今まで、あまり他のグループにすれ違わなかったのもあるだろう。同じ宿ではないだろうが、この温泉街に泊っていることは間違いない。
「あー、うん。そうだったかもな」
「そうですよ。あれだけ目立ってたんだから忘れられるはずがない……でも、それじゃあ……」
 考えながら、どんどん血の気が引いていくようだった。
「あのグループにいたのは四人。ここで死んでいる死体も四体。それなら、一体どうなったんでしょう? どうして四人全員が殺されてるんですか?」
 仲間内で揉めて喧嘩になり、勢いで殺してしまうというのはあるだろう。悲しい話だが、考えられなくはない。でも、今回の被害者は全員だ。もしそれで殺人に縺れ込んだにしても、順番が生まれてくる。殺害に次ぐ殺害、奇妙な同士討ち。
「こういう場合なら、犯人が生き残ってなくちゃおかしいでしょう。四人グループの三人を殺した犯人が。でも、今回のケースではなんと全員が死んでいます。おかしくないですか?」
「言われてみればな。みんなでいっせーのせ、で刺し合ったとかなら納得いくけど、見たところ全員違う死に方だしなぁ。てことは、四人を襲った第三者がいるってことじゃねえの?」
「第三者がグループの全員を殺すんだとしても、殺害方法をバラけさせる理由がわかりませんよ。まあ、そういう性的倒錯者で、色々な殺し方を試したかったっていうのはあるかもしれませんが……」
「特殊性癖説は無しって話だもんな」
「まあ、そういうわけで――」
 そこまで言ってハッと気づく。まずい、これはいつものパターンだ。ルールに則ってしまえば場が生まれてしまう。ここはジャガーの中でもオリガマウンテンでもなく、目の前の死体たちは何の関係も無い死体なのに、推理ゲームにしてしまうのはまずい。そうなってしまえば、いよいよよくない展開だ。
 気付いた祝部が急に口を噤んだのを見て、織賀はにんまりと笑った。こうして開けた場所で話し合うのは初めてのことだった。暗闇に目が慣れたのか、織賀の八重歯がするりと覗くのが、やけに鮮明に見える。少し視線を上に向ければ、息を呑むほどの星空が広がっていた。星に対する知識が無いことを悔やんでしまいそうなほど綺麗な空だ。こんな場所で死体を埋めたくなんかない。
「どうしたんだよ、祝部。いきなり黙っちゃってさぁ。奇妙な死体の奇妙さを語る時、あんなにくるくる舌が回ってたのに」
「くるくる舌を回す必要が無いってことに気づいたんですよ。今回は埋め部の仕事じゃないし、織賀先輩にだって一円も入ってこないんですから。僕らがやることはちゃんと警察に通報することですよ」
 そう言って、祝部はポケットからスマートフォンを取り出した。真っ暗な山の中で、スマートフォンの画面が月のように明るい。けれどその瞬間、織賀が祝部の手ごとスマートフォンを掴んだ。
「おいおい、旅行に来たからってちょっとばかり馬鹿になってないか? お前。エンターテインメント精神に振り切れるか保身に振り切れるかどっちかにしろや」
「え? い、いや、ここにエンターテインメント必要ないでしょう! 保身一択で、すぐに警察を――」
「だぁーかーらー『保身』が『保身』になってねえのよ。理由はお前が説明した通りな」
 そう言う織賀の声はいつも通りの陽気なものだったけれど、端々に本気の警告が滲んでいた。浅慮の後輩を窘める時のような、至って先輩然とした声だ。それを聞いて、ようやく意図していることが分かる。
「四人全員が死亡なんて想像し難い、同士討ちにしてもおかしい。それなら、第三者がこの四人を一度に殺害したと考える方が正しい――……ってことですか」
「そういうこと。これは俺らのゲームじゃねえんだからさ。警察はあっさりと特殊性癖説を持ち出してくるかもしんねえぞ?」
 からからと織賀が笑う。嫌な話だけれど、その通りだった。
 この状態で死体が発見された場合、最も説明がつけやすいのは第三者の犯人の存在だ。旅行先でテンションが上がってしまったシリアルキラーが、丁度いいグループを見つけて惨殺したというシナリオである。
 それに、この格好もまずい。英知大学特製ジャージにジーパンのスタイルは、いかにも殺人に向いた格好である。何せとっても動きやすい! 埋め部が普段選んでいるだけのことはある。完全完璧なアウトドアスタイルだ。
 駄目押しのように二人組という条件も付いてくるのだから言うこと無しだ。大の男二人が組めば、四人組を殺すことも可能だと思わられるだろう。悲しいことに、埋め部の活動を経て、祝部は少しばかりたくましくなった。人一人襲うくらい造作もないことだろう。
「……じゃあどうしろって言うんですか。これ、正直詰んでません? 遅かれ早かれ死体は見つかるでしょうし、この不可解な状況じゃ完ッ全に俺達が犯人ってなるんじゃ……」
 それに気づいた瞬間、鼓動が早くなった。夏の山は涼しいというのに、じっとりと嫌な汗をかく。
 けれど、それに対して織賀はにっこりと笑っていた。北海道産の美味しそうなホッケを目の前にした時と同じ表情だった。……楽しいレクリエーションを思いついたかのような顔だ。この流れはまずい、と祝部が思うより先に、織賀が口を開く。
「そこで、だ。そこで一つ提案があるんだよ、祝部」
 ちらりと織賀の八重歯が覗く。それを見て、息を呑んだ。
「もしこの状態で誰か一人を埋めたら、どうなると思う?」
「……え?」
「その埋められた一人が、残り全員を殺して逃亡したって構図になると思わねえ? どうよ祝部。不可解な殺人事件を、いっちょ俺らで解決しようや」
 冗談を言っているようには見えなかった。明るい陽射しの中で見る織賀の表情は晴れやかだった。本気でこの申し出が面白いと思っているからこその笑顔! 今回の合宿は死体埋め部念願のバカンスで、織賀はそれを楽しむことに全てを懸けている。だからこその笑顔だ。素晴らしい。
「……解決、ですか」
「そうそう。たまには名探偵の側に立つのも悪くないだろ?」
 何の疑問も持っていない顔で織賀が言う。果たして、事件そのものを作り上げることが何の解決になるんだろうか。
「そんなの赦されるんでしょうか……だってそれ、間違ってるかもしれないんですよね? それを、俺達が勝手に決めるなんて……」
「なーに言ってんだよ。生きとし生けるものは全て、そういう勝手な物語の中で生きてくんだよ。誰かが枠に当てはめることなんて、今に始まったことじゃないって」
 まるで神様染みた言葉だった。残酷で利己的で、無邪気に悟りきった言葉だ。諦念と慈愛が奇妙なグラデーションを取っている。
「大丈夫だよ。何も変わんない」
 大丈夫だよ、の声が悪魔的に響く。悪魔的というのは底抜けに魅力的であることに等しい。それを見て、祝部はなんだか泣きそうになった。今までの楽しい旅行のあれそれが全て、この悪夢の前振りだったようにすら思えてしまう。
「……あんたが大丈夫だって言って大丈夫だったことがありますか」
「俺がお前を助けてやらなかったことなんてないだろ? さ、祝部。いつもの作法でやろうや。お前が誰を犯人にするか選ぶんだよ」
 あまりの展開に眩暈がした。今までの無害で無益な推理ゲームと違って、今回の『正答』には明確な責任が伴うのだ。もし、埋める人間を間違えれば、祝部は――死体埋め部は? 無実の人間に罪を着せることになる。
 困ったことに、目の前の織賀はそのことをちゃんと意識して、それでもなお楽しんでいるようだった。ゲームには添え物が必要だろ? と言わんばかりの態度だ。
 それでも、祝部は断れなかった。まともに拒否することすら出来ない。
「それにしても、四人もいると判別が難しいな。いつもと違って、死体の名前もわかんないし。これだとお前も感情移入出来なくて困るだろ?」
「俺はいつも死体に感情移入しながら推理をしているわけじゃないんですけど……」
「それじゃあ差し当たって『首絞め』『刺殺』『撲殺』『ニュートラル』って呼ぶか」
 祝部の言葉を聞き流しながら、織賀がそう言って笑う。まるでハムスターの名づけでもしているかのような態度だった。けれど、名前が無いと不便なのも事実なので、祝部も黙って頷く。
「ていうかまあ……一番気になるのはこの『ニュートラル』ですよね。彼女、正直目立った外傷が無いのでこの中では一番死体らしくない死体だと思うんですが」
 言いながら、祝部は『ニュートラル』に近づく。真っ白な顔色と青紫色の唇以外は、生きている人間と殆ど変わらない外見だ。それでも彼女には、〝活動〟の経験で何度も触れてきた死者独特の雰囲気がある。
「息してる?」
「……してませんね」
「あーやっぱ全滅か」
「ていうか織賀先輩は何もしないんですか」
「俺はオブザーバーなの」
 そう言って、織賀は近くの切り株に腰掛けた。愛用のスコップにしな垂れかかりながら、完全に傍観者の風情で居る。運転という役割の無い織賀は、いつもよりずっと純粋なオーディエンスだ。
「目立った外傷も争った形跡も無い……ってことは、多分この人は心臓麻痺でも起こしたか、突然の脳卒中に倒れたのか、さもなければ……毒でも盛られたんでしょうね」
 切り株にもたれかかる彼女は、どこか眠っているようにも見えなくはない。そこまで苦しんでいるようには見えなかった。
 『ニュートラル』がもたれかかっている切り株には、何かの証であるかのようにナイフが突き立てられている。その辺りも何処か儀式めいていて、メッセージ性が強かった。
「それ、ナイフか? 見るからにキャンプ用って感じだな」
「結構深いところまで血で濡れてますし、『刺殺』を殺した凶器は多分これでしょうね」
「人を殺した凶器を誇らしげに飾るってのもなかなかの趣味だよな」
 果たしてこのナイフはそういう意図で突き立てられているんだろうか? けれど、わざわざ凶器を抜いて切り株に突き立てる理由が分からない。一応確認したものの、ナイフの刺さっている場所には何も無い。メモか何かを留めたというわけでもなさそうだった。
 気を取り直して、今度は『ニュートラル』の死体に向き合う。目当てのものはすぐに見つかった。ぽこんと膨らんだポケットから、茶色い瓶がはみ出している。まるで見つけてくれと言わんばかりの入れ方だった。
「『ニュートラル』の服に入っていたこの瓶……これが毒でしょうか」
 瓶の中身を少しだけ傾けると、さらさらとした白い粉が溢れてくる。流石に舐める気にはなれない。砂糖や塩とは違った風に見えるそれは、半分以上中身が無い。使われた後だ、と祝部は思う。
「てことは『ニュートラル』は毒殺ってことか。まあ、毒持ってたからって心臓麻痺でないってわけでもないだろうが」
「でも、十中八九そうでしょう。こんなにこれ見よがしに瓶が入っているのに、これが無関係ってことはないと思います。この人は毒で死んだんですよ」
 ともすれば強引な論理だったけれど、祝部も織賀も検死の技術は無い。偶発的な心臓麻痺の診断が下せない以上、こうして仮定を重ねていくしかないのだ。
 その時、織賀がパッと目を輝かせた。
「あ、それじゃあ簡単じゃね? 残りの三人を殺した後、『ニュートラル』が罪悪感から服毒自殺したってことだろ」
「オブザーバーはどうしたんですか」
「だってわかっちゃったんだもん。クイズ番組とかでも答え言いたくなっちゃうし」
「『ニュートラル』犯人説ですか。……うーん」
「何だよ。俺が先に正解言っちゃったからって意地悪すんなよな」
「そうじゃなくて」
 祝部はもう一度転がる死体たちを見る。
「そもそも『ニュートラル』が凶行に及んだ時、残りの人間はどうしてたんでしょうか? 流石に目の前で殺人行為が行われようとしているのに止めもしないっていうのは考えにくいでしょう」
「わかんねえぞ? 例えば『首絞め』が全員から恨みを買っていたとすれば、残りの三人がグルになってそいつを殺したのかもしれないじゃん?」
「そして、その時に何かしらのハプニングが起こって『刺殺』も殺されたと? 同じように『撲殺』も?」
「じゃあ、組んでたのは『撲殺』と『ニュートラル』で、残り二人を殺した後仲間割れでドン! とか。これなら文句無いだろ。まあ『ニュートラル』が組んだ相手は誰でもいいんだけどさ。要するに、トーナメント形式で『ニュートラル』が残ればいいって話で」
 織賀がそう言ってウインクをする。こうして向かい合ってあれこれ言い合う機会が無いからか、その仕草はやけに新鮮だった。
「もう一つ。それじゃあ、元々『ニュートラル』と誰かが殺人の計画を立てていたとして、どうして殺害方法をばらけさせたんでしょう? 首を絞めるなら首を絞める、刺し殺すなら刺し殺すで統一するべきじゃありませんか? 殺すことは決めてたんですから」
 グルになって犯行計画を組むのなら、そのくらいの打ち合わせくらい行って然るべきだろう。実際に、犯人は絞殺用のロープを用意しているのだ。上手くやれば数秒もかからず相手を殺せるだろうし、絞殺が殺害方法として採用されていた可能性は高いだろう。
「それも説明がつくよなぁ? 要するに、『刺殺』の奴を殺す時に、あいつがナイフ出して抵抗でもしたんだろ。だから咄嗟にナイフを奪って、奪ったそれで刺し殺したんだよ」
「それなら殺し方に統一性が無い理由にはなるかもしれませんね……」
「だろー? お前の織賀先輩のこと、褒めてもいいぞ」
 けれど、祝部はまだ納得のいかない顔をして、切り株の上のナイフを見つめていた。北海道に相応しい大振りのサバイバルナイフは、何かを捌くのには勿論護身用にも最適だろう。咄嗟に取り出すには最適の武器だ。
「でも、なんか引っ掛かるんですよね……。『刺殺』がナイフで抵抗したから、咄嗟にその凶器を奪って反撃したとします。だとしたら、残る『撲殺』の時にどうしてそのナイフを使わなかったんでしょう? わざわざ身体からナイフを抜いたのに、それを切り株に立てるなんて不自然じゃないですか? だって、さっきの話でいくと『ニュートラル』は結局全員を殺そうとしたみたいですし……。死体から抜いたナイフは自分用の武器として持っておくべきじゃないですか?」
「単純な話だろ。だったら『首絞め』『撲殺』の後に『刺殺』の順なんじゃねえの? 『撲殺』が逃げようとしたから絞め殺すのやめて石で殴る方にシフトしたとか」
「あ、そうか……。そうですね。それならまあ不自然じゃないか。でも『ニュートラル』さんって結構小柄な女性ですよね? 不意を突いて撲殺出来たとして、ナイフを奪って反撃とか出来るんでしょうか?」
「お前『ニュートラル』を舐めてるだろ。この子はなあ、実はCIAに所属するエージェントなんだよ。ナイフくらい余裕」
「織賀先輩ちょっと飽きてきてません?」
「ちょっとね」
 素直でよろしい、と祝部は思う。元よりこのゲームの全ては、他ならぬ織賀善一に捧げられたものなのだ。彼の為だけに演じられ、彼だけを楽しませる閉鎖的な演目である。その彼が退屈するようなことはあってはならないのだ。
 今はもう、織賀が自分を見捨てることはないだろうと思っている。それは祝部の中の信仰にも似た自惚れだった。出会った時こそ、あの車から死体諸共放り出される恐怖があったけれど、今はそれが無い。色々な意味で、織賀と祝部の関係は変化していた。
 かといって、祝部が全身全霊を懸けてこれに挑まなければならないことは変わっていない。前に賭けていたのは人生だった。卑俗に言うなら前科だろうか? けれど、今は別のものを賭けている。
 ――それがどんなものか、上手く言葉に出来ない。心の奥底が灼けつくそれは、以前と変わらないくらい重い。
「……大丈夫ですよ。俺がやります。織賀先輩はいつものように高みの見物を決め込んでいてください」
「お前、俺のこといつもそんな風に思ってたの?」
「あんたを退屈させませんから」
 いつもと違う山の中で、祝部の声はよく響いた。織賀の持つ独特の声色には到底敵わないけれど、彼の声だってずっと語り手向きになっている。
 そんな祝部の様子を見て、織賀がくつくつと笑い声を漏らした。軽い笑い声の奥で、織賀が密やかに期待している。それを理解した瞬間、背筋が震えた。
 とはいえ、織賀の満足いく回答を編み出す目途は立っていない。このまま『ニュートラル』を埋めるのも気が引けた。今までの死体と同じように、彼女だって何かを語り掛けている。他の死体もそうだ。
 『ニュートラル』ほどでは無いにせよ、『刺殺』の方もなかなか穏やかな死に顔をしていた。深く切り込みの入った胸さえ無視すれば、眠っているようにも見える。それに対して『絞殺』と『撲殺』はあまり良い死に顔とは言えなかった。
 それを見た瞬間、祝部の脳裏にとある物語が過ぎった。四人の死体から、切り株のナイフに至るまで、全てに説明がつけられるエンターテインメント性の高い物語だ。
 祝部は浅く息を吐いてから、麗しの先輩を振り返った。
「整いました。俺なりの結論をお話しします」
「やるじゃん。それじゃあ一席頼むわ」
「恐らく、この事件の真犯人は『撲殺』です」
 生々しく血に濡れた死体を指さしながら、祝部は言う。後頭部から流れた血は既に固まって、どす黒い錆色の物体に変わっていた。
「どうしてそう思った?」
「それを話す前に、まずはこの人がやろうとしたことをお話します。要するに『撲殺』が行おうとしたことと俺らがやろうとしたことは同じなんですよ」
「つまりはどういうこと?」
「『撲殺』は『撲殺』の考えたストーリーの中で物事を動かそうとしていたんですよ」
 そう言って祝部はさっきの瓶を取り出した。『ニュートラル』のポケットにこれ見よがしに入れられていたものだ。
「毒を所有していたのは『ニュートラル』じゃなくて『撲殺』だったんだと思います。そして、この男は夕食の時に、自分以外の全員に毒を盛ったんですよ。よくよく考えてみれば『ニュートラル』一人が服毒したにしては中身が減っていますしね」
 何かに混ぜるならまだしも、毒物をこのままの状態で飲み下すのは至難の業だろう。この山で彼女がそれを大量に飲んだとは考えにくい。
「んで? どうして毒が『撲殺』のものだって思ったんだ?」
「単純な話で、〝この人だけ毒を飲んでない〟からです。逆に言うと、他の三人は全員毒を飲まされていたんですよ」
「解剖もしてないのに何でわかるんだよ」
「それについては、もう少し早く気づくべきでした。『絞殺』はともかくとして『刺殺』は刺された時にはもう死んでいたんだと思います。心臓付近を刺されたのに、あの死体は不自然に出血が少ないですから」
 最初に死体を発見した時、祝部は『ニュートラル』と『刺殺』はまだ生きているんじゃないかと思ったのだ。一見して出血量が少なく、外傷が目立たなかったからだ。
「毒が循環器系に効くものであれば、血流自体が鈍くなっていてもおかしくはありませんし、刺された時に『刺殺』が半死半生であったのであれば、それでもやっぱり血は流れないと思います。『首絞め』は絞殺が故に判別出来ませんが、万が一刺されていれば同じような状態になったと思いますよ」
 そして、祝部はもう一度『撲殺』の方を見た。
「それに対して『撲殺』の方は結構派手に血が流れてますよね。それも、殴った瞬間じゃなく、この男が地面に倒れてから大量に。だから、この男は殴った瞬間は何の問題も無かった――服毒していなかったんじゃないかと」
「身体は正直だなっていうやつ?」
「四人の中で一人だけ毒を飲んでいない人間がいるなら、それは彼が犯人だってことを示すでしょう」
「お前って結構つれないよね」
「誰の為にやってると思ってるんですか」
「あ、俺だな」
 織賀はそう言って、不意に凪いだ目をした。その目の奥底にあるものに気づかない振りをしながら、祝部は続ける。
「……遅効性の神経毒であれば、回るのに多少時間がかかります。症状が完全に出る前に、『撲殺』は何らかの口実で全員を山に誘い出します。そして、ここに辿り着いたら、あとは時間を稼いだ」
「毒が回るまでってことか」
「……そうですね。そして、『ニュートラル』が毒に倒れました。それを見た残りはパニックに襲われるでしょう。そうこうしている内に、毒を飲まされた残りの人間――犯人以外の残りの人間も倒れていきます。そして、犯人は毒に倒れた『絞殺』の首を絞め、『刺殺』の護身用のナイフを奪って刺した。そして『ニュートラル』の服のポケットに毒の瓶を滑りこませます。さて、この状況で、どんな風に判断されるでしょう? ただし、犯人も微量の毒を摂取しているものとします」
「……なーる」
 織賀がそう言って含み笑う。どうやら、既に祝部の言わんとしていることの察しがついたのだろう。
「命からがら山から旅館へ帰って来た犯人……『撲殺』は、今しがたの凶行を話して聞かせるでしょう。食事の時に『ニュートラル』に毒を盛られた。山に誘い出されて着いていったら、残りの人間が殺された。自分だけは命からがら逃げだしてきた……」
 毒を口に含んだ量に差があるのは、適当に理由をつけられるだろう。何となく食欲が無かった、たまたま嫌いな食材に毒が盛られた。そうして、安全圏から事を運んだ後は、意気揚々と惨劇を迎えに行けばいい。毒を盛られ、首を絞められた死体。その隣にはナイフで刺された死体。そして、最早逃げられないことを悟り、自ら死を選んだ服毒死体。
 犯人である『撲殺』の描いたシナリオはそういったところだろう。けれど、現実はそうならなかった。
「そうして最初に死んだ人間に罪を着せるつもりだったのか。でも、実際はそうはならなかったよな?」
「恐らく、最初に倒れた『ニュートラル』が、まだ死んでいなかったんでしょうね。山の中で『ニュートラル』が倒れてからは、彼女をダシに時間を稼いで残りの二人を始末したんでしょうが、彼女はその時、まだ生きていた」
 朦朧とした意識の中で、彼女は自分の友人達が次々に手に掛かっていくのが見えていたに違いない。首を絞められた彼女の叫びが、ナイフを突き立てられた彼の呻き声が、死に際の鼓膜を揺らしたはずだ。そして『撲殺』は予定通り『ニュートラル』のポケットに毒を忍び込ませて立ち去ろうとする。そこで彼女は、最後の力を振り絞って手元の石を引き寄せ、彼の後頭部を――。
「『ニュートラル』の毒の回りが遅かったのは、やっぱり毒の摂取量でしょうか。彼女は小柄ですし、そう食べる方にも思えません。症状が出るのは早かったかもしれませんが、死ぬまでには時間がかかった」
 そして、この奇妙な状況が生まれたというわけだ。真犯人である『撲殺』が『ニュートラル』に殺されたことで、結果的に四人ともが死んでしまった。復讐を果たした彼女は満たされた気持ちでいただろうか? 俯き青ざめた顔からは、何の感情も読み取れなかった。
「つーことは、ナイフも『ニュートラル』か?」
 織賀がそう言って血の着いたナイフを指さす。それに合わせて、祝部は大きく頷いた。
「そうですね。『刺殺』から凶器を抜いたのは彼女だと思います」
「なるほどな、俺らみたいな奇矯な変態の存在を期待したのか」
「……実際に期待を懸けたのは警察だと思いますけどね。これさえ抜いておけば、もしかすると誰かが真相に気づいてくれるかもしれない」
 賢い『ニュートラル』は、死体となった自分達が発見されるのは数時間後だろうと察していたに違いない。そうなっては遅いのだ。『ナイフ』が刺された時既に死んでいたことを示す為には、今の内に凶器を抜いておかなくちゃいけない。
 発見時もナイフが刺さったままだと、血が噴き出なかった理由が『凶器が栓をしていた』からということになってしまう。数時間後の発見、十数時間後の司法解剖に向けて、彼女は第二の復讐も完遂したのだ。そうして『ニュートラル』の抜いたナイフは切り株に突き立てられ、彼女はその横で眠るように死んだ。
 恐ろしい執念だと思う。けれど、みすみす殺されると思った時人間は思いもよらない抵抗を見せるものなのかもしれない。自分の思いがどうだろうと、死ぬ気で何かをしようとしてしまうのかもしれない。
「よくよく考えたら、この『ニュートラル』や『撲殺』という名付けすら同じ構造なんですよ」
「どういうことだ?」
「この事件で、倒れるのは誰でも良かったんです。俺達が適当に付けた名づけと同じです。誰が『ニュートラル』になっても、誰が『首絞め』になっても構わなかった。最初に倒れた人間が罪を着せられる奴で、続く二人が被害者。そして、計画を立てた一人が生き残る。……まあ、なかなか上手くはいかないですよね。相手は、人間だから」
 人間に役割を着せることの冒涜、自分の思い通りに動かそうという有業。構造が同じであるということに薄ら寒さを覚えたのは、似たようなカルマが何処にでも転がっていると知っているからかもしれなかった。けれど、それを直視する勇気が出なくて息を呑む。
 差し当たって、目の前の男は全てを引き受けたような顔をしていた。それなら、祝部がやるべきことは一つしかなかった。
「これが今回の事件の俺なりの正答です。……どうですか?」
「承認しよう、それが今回の正答だ」
 ジャガーに乗っているわけでもない。オリガマウンテンにいるわけでもない。美しく星が瞬く麗しの北国で、織賀は優雅に微笑んで見せた。月の光が地上に等しく差し込んでくれるもので良かった。オリガマウンテンでもこの場所でも、承認を授ける織賀の姿は少しも翳ることなく光の中に在る。
 それがどれだけ安心を得るものか、言葉にするのは難しかった。
「やー、いよいよ埋め部の合宿って感じだよな! 完璧なハイライト! さっすが祝部! お前はやっぱり埋め部の為に生まれてきた最高の後輩だよ!」
「どんな人生ですか。最悪じゃないですか」
「何だよ。じゃあ俺の為に生まれてきた最高の後輩?」
「どれだけアンタに人生喰われてるんですか」
 うんざりした声でそう呟く祝部に対して、織賀はくつくつと笑っていた。そして、切り株の上から勢いよく立ち上がると、勢いのままスコップを地面から引き抜く。彼の手にあると、スコップすら重力から解放されているかのようだった。
「それじゃあ埋めるのは『撲殺』でいいよな! 真犯人であるところのこいつは、三人を無残に殺害した後、北海道の山奥に消えたのでした……っつーことでハッピーエンドだろ! そして、数か月後、埋め部が再び冬の雪山に分け入ったら、『その声は、我が友、李徴子ではないか?』という声が……」
「織賀先輩が楽しそうで何よりですよ」
 そう呟いて、祝部も立ち上がる。温泉に入ったというのに、一席ぶったお陰で疲労困憊だった。これじゃあ何の為に温泉地へ来たのかわからない。部屋に帰ったら備え付けの展望風呂があるところが唯一の救いだろうか。ありがとう定山渓温泉! ありがとう展望風呂のある部屋! 分かりやすい救いが脳内を満たした所為だろうか。そこで祝部はふと、とあることに気が付いた。
「……思ったんですけど」
「うん? いいぞー、織賀先輩に何でも言ってみ」
「ここで三人の死体が発見されるじゃないですか。捜査の最中に地面を掘って何かしら見つけよう! ってことにはならないんですかね? そうしたら、折角埋めたこいつの死体が出てきて、結局第三者説と僕らへの疑いが……」
「…………えええ、その可能性を考えちゃったらもうなんか全部終わりじゃね? 大体、全員が服毒してるんだし、俺らがやったってことにはならないんじゃねえの?」
「いや、そうかもしれませんが……埋め部の意義ってそもそも『死体が見つからないと露見しない』からじゃないですか。ちょっと不安が残るっていうか……」
 実際のところはどうなるか分からない。織賀の言った通り、このまま『撲殺』を埋めるだけで話は終わるのかもしれない。『撲殺』が真犯人ということになって事が終わるのかもしれない。
 けれど、それだって織賀と祝部が勝手に組み立てた理想のシナリオなのだ。
 ややあって、織賀が言う。
「仕方ねえな。全員埋めちゃおうぜ」
「…………はい」
 一体埋めるなら全てを埋めてしまった方が良いのだ。
 勝手な物語を生み出すくらいなら、全部無かったことにしてしまった方がいいし、物事はシンプルであればあるほどバレにくい。それだけのことだ。
 北海道の土もオリガマウンテンの土はそう変わらない。穴掘り作業に慣れた二人には、楽ではなくとも不可能ではない作業だった。
 織賀は慎重なことに、わざわざ場所をずらして全員を埋めた。慣れた手管だった。流石死体埋め部の部長である。この広い山の中で、どの辺りが本物の死角なのかを直感的に理解しているようだった。そんな才能があってたまるか、と祝部は思う。けれど、恐らく彼らの死体は見つかりはしないだろう。
 この地にあっても、織賀善一はしっかりと手を併せた。バラバラに埋められた四人に対して、一回一回分けて手を併せる。汗と土でドロドロになっているのに、相変わらず寒気がするほど美しい所作だと思う。もしかすると、目の前の男はこの為にこの場所に引き寄せられたんじゃないかと思うほどに。
 『首絞め』から始まり、最後に『ニュートラル』を埋めた。示し合わせたわけでもないけれど、祝部が思う死亡順に沿った形になる。
「この人達、どういう扱いになるんでしょう」
「さあな。暗くなってから山に入ってヒグマに襲われたって話にでもなるんじゃねえの」
「この山ってヒグマ出るんですか!?」
「北海道なんだからヒグマくらいそこら中にいるだろ。ここではカレーの具に熊を入れるんだぞ」
「それ色々間違ってますよ! ちょっと、早く帰りましょうって!」
「そんな焦んなくても、ヒグマくらい――いや、ヒグマは無理かもな」
 泥まみれのスコップを引きずりながら、織賀はそう言って笑った。祝部は別に、先輩がヒグマと戦うところを見たくはない。耳を澄ませば獣の声が聞こえてきそうな山の中で、祝部はぶるりと寒気を覚える。
「大丈夫だって、ほら行くぞ」
 いつの間にか織賀は祝部の前に立ち、暗い山の中でひらひらと手を振っていた。何の手掛かりも無い暗闇の中で、織賀は恐ろしいほど軽やかに歩く。オリガマウンテンでも北海道でもそれは変わらない。
 だからこそ、祝部はそれを必死に追うことが出来るのだ。

 泥まみれのままこっそりと部屋に戻ると、祝部は素早く英知大学ジャージを投げ捨てた。こんなものに北海道を脅かされてたまるか、という感じである。織賀も粛々とジャージを畳む。どこまでも埋め部の合宿らしいのが悔しい! 二人はそのまま、この為に用意されていたかのような展望風呂へと駆けこんだ。
 部屋付きの展望風呂ではしゃぐ織賀を見ながら、何だか異常に腹立たしくなった。露天風呂で怪しい影さえ見なければ、たとえ見たとしても追いかけさえしなければ。きっとこの旅行は十全に楽しいただの旅行になってくれただろうに。
「織賀先輩」
「んー?」
 散々はしゃいで満足したのか、粛々と湯に浸かる先輩を横目で見る。細めた目は、試すような調子で祝部のことを見ていた。上等じゃないですか、と心の中で呟いてから、言った。
「あの時点でどこまで予想してました?」
 織賀の表情は変わらない。ぱちゃぱちゃと何回かお湯を叩きながら、彼は歌うように言う。
「どこまでだったら満足なんだよ?」

 その後、ただでさえ疲れているというのに、織賀はなかなか祝部のことを眠らせてくれなかった。やれ『まだ眠くない』だの、『合宿でのうのうと眠るのは死に値する罪』だのと喚く先輩は、一言で言えば喋る災害に近かった。一日目の夜はお互いにテンションが上がっていたから耐えられたものの二日目もこのテンションであるというのは辛い。しかも、死体を埋めた直後だ。二重に辛い。
 挙句の果てには、祝部が少しでも寝ようとすると、ぽたぽたと顔に水滴を垂らしてきやがったのだ。これには温厚な祝部も発狂しそうになった。何をどうしたら先輩に中世の拷問をされる羽目になるんだろうか? 祝部には全く理解が出来ない。
 祝部が本気でキレてあわや大惨事という段になっても、変わらず織賀は楽しそうだった。箸が転がっても楽しい人間に敵う術は今のところ無い。
 結局、二人がどうにか眠りについたのは、空が明るくなってからだった。
 空が白む寸前、祝部は織賀の昔の話を聞いたような気がした。織賀が死体埋め部を始める前、出会った日に少しだけ聞いた彼のバックグラウンドの話を。けれど、疲労と眠気にやられた脳は、その話の欠片すら朝を超えさせてくれなかった。
 あの織賀善一が辿った人生を、祝部は終ぞ知らないままだった。それが幸福であったのか不幸であったのかすら、彼にはわからない。

「お家に帰るまでが合宿です、って最初に言ったの誰なんだろうな? つーか、お家を合宿に含めんなよ! とも思うよなー。だって、ルンルンでこなした旅程の最後の一ピースが家って。それはちょっとエンターテインメント性に欠けるだろ」
「…………織賀先輩、何でそんな元気なんですか。それはちょっとずるいでしょう」
「俺からしてみたらいきなりダウナーになってるお前の方があり得ないっての! あ、名残惜しいから今日お前の家泊っていい?」
「ここだけの話ですけど、俺、織賀先輩のこと嫌いになりたくないんですよ。勘弁してください」
 シートベルトを締めながら、祝部はキツく釘を刺す。飛行機がこのまま無事に飛び立てば、とうとう北海道とはさよならだ。勿論、北海道自体が楽しくなかったわけじゃない。織賀との旅行も悪くなかった。そこにジャガーとスコップと死体が混じったから、おかしなことになったのだ。
 飛行機が離陸するまで、織賀はぱったりと黙り込んで窓の外を見ていた。さっきまでは窓側の席じゃないと嫌だと駄々をこねていたというのに、やけに静謐な雰囲気だった。その横顔が何とも言い難くて、自然と祝部も黙り込む。
「……本当に楽しかったなー」
 ゆっくりと飛行機が地上を離れた瞬間、織賀がそう呟いた。きっと、祝部に向けた言葉ですらないだろう。
 『楽しい』とか『嬉しい』とか『最高』だとか。そういうストレートな語彙が沢山出てくる旅行だった。そこに嘘や衒いなんてきっと無くて、一緒にいればいるほど、織賀が純粋にこれを求めていたのだとわかってしまう。
 この類の感傷を飼い慣らすのはよくないだろう。心の底から思う。でも、それがやめられない。自分たちは極限状態の共犯者だった。最悪の事態に訪れた不可避の災禍だ。けれど、これじゃあまるで、ただの、先輩と、後輩と、愉快で楽しい合宿のような、気が。
「終わらないで欲しいな、夏」
 織賀がぽつりとそう漏らす。
「今日はやけにセンチメンタルですね」
「いやあ、俺さ、結構夏が好きなわけよ。秋とか冬って寂しいじゃん。合宿もさあー、冬はさあー」
「何言ってるんですか。別に――」
 その時、祝部はすんでのところでその言葉を飲み込んだ。言葉を待っていた織賀との間に、奇妙な沈黙が下りる。言い逃れなんか出来そうにもない、切迫した無音だった。
 もう少しだけ祝部の理性がイカれていれば、言葉はこう続いたことだろう。『別に、冬なら冬でありでしょう』と。尤もな言葉だ。その気になれば行く場所なんていくらでもあるし、何なら冬の海だってきっと美しいだろう。
 でも、それを祝部が言えるはずが無いのだ。死体埋め部の幸福な展望。巻き込まれただけの後輩が口にするには、あまりに愉快なこれからを、口にする勇気があるはずもなかった。
 全ては織賀善一が選ぶことだ。織賀が望み、織賀が承認するのが死体埋め部の構造だ。それなら、どうして祝部が提案出来るだろう? 普通のサークルみたいな華やかな遊行を、裏側にあるものを全部無視した生活を。全ては織賀の掌の上なのだ。自分たちはただのサークルじゃない。そういう風に出来ている、共犯関係でしかないのだから。
 何かを言い澱んだ祝部を、織賀は試すように見ていた。全てを見透かされているようなその目が恐ろしい。ジャガーを降りた後も、死体から解放された後も、自分はいよいよ値踏みされ続けるのだ。祝部は何故だかそう思う。
「……ま、冬なら冬の遊びもあるよな。っていうか俺スキー行きたいもん、スキー。んで、かまくらの中で鍋食べんの。俺、小さい頃からかまくらに憧れてたんだよなー」
「……前言撤回早過ぎじゃないですか? 冬なら冬で楽しそうじゃないですか」
 例えば目の前の一人の先輩の為に、何かしたいと思ったりとか。あの日助けて貰ったことを忘れずにいたいとか、いつまでも織賀善一がこのままでいて欲しいとか。
 誰かに何かを期待すること自体が罪なのかもしれない。業なのかもしれない。でも、それだけが祝部の本当だった。
 いつか場違いな期待は目の前の男を殺すだろうか? そうとは思えなかった。麗しく自由な織賀善一が翳るところが、祝部には全く想像出来なかった。

(了)


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