不可思議不可視のオーディエンス

「正直な話、もう来ないかと思ってたよ。君はレントンのことを知ってるかな? あの感動的なラスト! 真っ当な生活を手に入れる為に、彼は今までの全てを捨て去るんだ」
 一週間ぶりに会った嗄井戸は、開口一番にそう言った。夏本番だというのに、真っ白な肌も髪も日差しに真っ向から反抗しているように見える。でも、それも何だか懐かしいから不思議だ。ある程度間を空けると、何でもよく見えるという例かもしれない。
「何言ってんだよ」
「……君には察することが出来ないような繊細な事項なのかもしれないけど、僕はいつだって……」
「たかだか一週間くらいだろ? あがるぞ」
「…………」
 嗄井戸は何か言いたげだったが、結局そのまま通してくれた。実に一週間ぶりの訪問だというのに、あんまり嗄井戸の方に大きな感動やらは無いらしい。室内をゆっくり動く嗄井戸を見ると、何となく都内に帰ってきたな、という実感が湧いてきた。下北沢といえばこうなのだ。
 嗄井戸はいつも通りのソファーに戻ると、俺には一瞥もくれずに映画の再生を始める。スクリーンの中ではいかにも豪華そうな船が悠々と海を進んでいた。タイムリーだな、と俺は一人思う。
「なあ、それ何観てるんだ?」
「……『海の上のピアニスト』だよ。昨日『ニュー・シネマ・パラダイス』を観返たんだけど、流れで同監督作品を流し続けちゃってね。この作品は」
「奇遇だな、俺もちょっと海に行ってきたんだよ」
「どうして会話の流れを切ってまで君のバケーションの話をし始めるんだよ」
 ようやく嗄井戸はこちらを向いて、恨みがましそうな視線を一心に向けてきた。そこでふと、不機嫌の理由に思い至る。つまりは箱庭の憂鬱、葡萄の取れない狐みたいなものだろう。スクリーン上の海じゃ満足出来ない気持ちは、この男にもあるらしい。
「大体君がこの一週間の間に何処に行ってたかくらいはわかるよ。これ見よがしに日焼けして来て、さぞかし楽しかったんだろうね?」
 自分の白い肌に何か思うところがあるのか、粘つく声で返された。楽しかったことは否定しないが、腕を見てもその楽しさの片鱗が色になって表れているような気はしない。これも嗄井戸の観察眼の賜物だろうか? 俺にはよくわからない。
「そんなに日焼けしてねえよ。去年はもっと凄かったし。それに、日焼けを根拠にするなら、一週間無心で日焼けサロンに籠ってたのかもって可能性があるだろ」
「……君が一週間無心で日焼けサロンに籠り続けた可能性を考えたくないんだけど」
「まあ冗談はさておくとして、俺が泊まってきたのは江ノ島のとある旅館でさ、そこが結構面白い場所だったんだな」
「そうして江ノ島とかいう大学生御用達ワードを軽々と出してくるそのスタンスがね……」
「お前、座敷童って信じる?」
「座敷童?」
 突然飛び込んできた非日常的な言葉に、嗄井戸が敏感に反応した。さっきまでバカンスへの憎しみに塗れていた目に、好奇心の影が差している。畳みかけるように続けた。
「そう。俺の泊まった宿がさ、座敷童のいる宿ってことで最近有名らしいんだよな。知らなかったんだけど。んで、面白いことにその座敷童は映画が大好きなんだ。それで――」
「言っとくけど、ここでスネ夫ばりのバケーション自慢をし始めたら追い出すからね」
「まあ待てよ。お土産もあることだし」
「お土産?」
 金持ちであるが故に、特に興味を持たないかと思ったが、意外にも嗄井戸はその言葉に耳敏く反応した。
「お土産……あるの? 奈緒崎くんが?」
「当たり前だろ」
「え、あれだよね? 旅行に行ってきた人間が、友達やら恋人やらに、その土地特有の何かをくれるっていうあれだよね?」
「それ以外に何かあるのかよ」
 何だかとても馬鹿にされているような気がするが、興味を持って貰っている内に話を進めた方がいいだろう。文句を言うより先に確認を取る。
「な? 話だけでも聞いてくれたら、お土産やるからさ」
「そこまで言うなら……まあ……」
 既にお土産の方に意識が向いているのか、嗄井戸が既に若干口元を綻ばせている。結構安いやつだな、と思いながら俺の方も笑顔を返した。数秒の沈黙! そこでふと、嗄井戸が思い出したようにこう言った。
「あれ? でも、お土産って普通はそのまま貰えるものなんじゃないかな。何で交換条件を……」
「その宿は子映荘って名前だったんだけどな」
 嗄井戸が正気に戻る前に急いで口を開く。スクリーンの中では超絶技巧のピアニストが素晴らしい演奏を奏でていた。不可解な物語を語るのには最高のBGMだった。

 輝ける江ノ島! 浜辺でのバーベキューを終えた俺達は、海でも一通り遊び、日がとっぷり暮れてから子映荘へと辿り着いた。古式ゆかしい佇まいのその宿は、よく言えば趣があり、悪く言えばボロい宿だった。それでも、戸田にある俺のアパートとならいい勝負だろう。
「篠原、これ本当に大丈夫なのかよ」
「大丈夫だって。というかむしろここ人気なんだからな? 何せ今話題で……」
「嘘だろ! グーグル検索でも最下位に引っかかりそうな宿の癖に!」
 一緒に来た篠原と津川がそんなことをやいのやいのと言っている間にチェックインを済ませておく。
 受付にいるのはピシッとした風体の女将だった。歳の頃は五十代後半だろうか? テンプレート染みた出迎えの言葉を掛けてもらいながら、台帳に『篠崎貴弘』と記入する。
「それでは、ごゆっくりおくつろぎください」
「あ、どうも」
 鍵を受け取ってもなお、篠原津川の馬鹿コンビは何事かを言い合っていた。古式ゆかしい宿のロビーに馬鹿二人はよく目立つ。俺も入れたら三羽烏だ。
「あ、チェックイン済ませてくれたのか、悪いな」
「まあな。さっき世話になったし」
「世話? ああ、あれか。まあ別にいいんだけどさ、しっかし何に使うんだ?」
「色々だよ」
 俺は適当に誤魔化しながら、鍵を篠原に押し付ける。ちなみに、本当は今回能見という別の友達も来るはずだったのだが、何だか色々な理由があって実現しなかったのだ。四人旅になれなかった三人旅はやや寂しいが、そういうこともある。俺は密かに不在の感触を確かめる。例えばこういう時に嗄井戸が外に出られたらな、と思うのだが、奴は首を縦には降らないだろう。むしろ、興味を持つかもわからない。勿体ないことだな、と思う。
 こんな寂れた宿だというのに、意外にも女性客のグループが多いのも特徴的だった。男三人で来ているのなんか、俺達くらいじゃないだろうか。もしかすると、隠れた名宿なのかもしれない。
 ここに嗄井戸がいたら色んな意味で目立つんだろうな、と考えながら、はしゃぐ二人の後を追った。


「にしても奈緒崎もな、今回来るかわからなかったからひやひやしたわ」
 そんなことを考えていたら、津川が急にそう言ってきたので、俺は素直に驚く。寝耳に水の驚きだ。温泉に入る直前だったので、その言い回しが何故か逆説的に頭を過った。寝耳に水。起耳にお湯。
「何でだよ」
「いや、何かよくわかんないけど、奈緒崎最近忙しくない? お前がいないと寂しいんだけどなー」
「そうでもねえよ。ていうか本当にそう思ってんの?」
「なんかさあ、やっぱ留年決定したっぽいから勉強してんのかなって思ったんだけど、そうでもないだろ? だから、何かあったのかなって」
「勉強はまあ……。それにしたって何もねえよ」
「俺もそう思ってた」
 首尾よく服を脱ぎながら、篠原の方もそう加勢してくる。いつのまにやら見えない包囲網が敷かれているようで、俺はあからさまにうんざりした。そんな目を向けられても困る。忙しくなったわけでもなければ、勉強に身を入れようと思ったわけでもない。
 変化があったとしたら映画を観るようになった点だけだろう。スクリーンの前に置かれたソファーだとか、奇縁の男だとかが付け足された日常! それがどれだけの変化を俺にもたらしたのかはわからない。何せ自分の姿はスクリーンの中にはない。客観視は少しばかり難しいのだ。
「最初は新しい彼女でも出来たのかと思ったんだけどさ、お前あの是宮先輩と付き合ってた時ですらそんなはしゃいでなかったし、そういう絡みじゃないんだろうなって。お前がそんなんだから是宮先輩も」
「そういうこと言うのやめろ。先風呂行ってるぞ」
「お前相変わらず何考えてるかわかんないけど、今の方が楽しそうだよな」
「んで先に出てやる」
「ちょっと奈緒崎お前さー! 俺も入る!」
 篠原の追及を躱して、そのまま温泉へ向かう準備をする。面倒なことは躱すに限る。「おい待てよ、俺まだコンタクト外してないんだよ!」と津川が悲痛な声を上げた。
「別に付けたままでいいだろ? 『アクセサリー類、貴金属は外してください』だし。コンタクトレンズはアクセサリーじゃない」
「そういうことじゃないだろ! ていうか嘘だろ? この脱衣所、鏡無いんだけど」
「置いていきまーす」
「ちょっマジかよ!」
 わたわたと津川が後を追いかけてくる。結局コンタクトレンズの方は諦めたらしい。英断だ。

「ていうか、何かこの宿薄気味悪いよな」
 風呂から上がった津川は、不遜にもそうぼやいていた。
「篠崎からロビーで、この宿にはSCP-053が出るって聞いてから若干嫌なんだよな。怖いだろ」
「座敷童だって言ってんだろ? むしろめっちゃ良いものだから!」
「座敷童か……。なんか見ると幸せになる子供の妖怪だっけ?」
 座敷童についての知識をどうにか引っ張り出しながらそう口にする。ざっくりした解釈だが、概ね間違ってもいないはずだ。
「そうそう。この宿マジで座敷童がいるらしくてさ。ネットでも座敷童に悪戯された! とか座敷童を見た! とか、あとは座敷童の為に用意されたとあるものを見た! とか色々あるんだぜ? 面白いだろ?」
 さあ褒めてくれ! とでも言わんばかりに、宿をセッティングした篠原が胸を張る。本当は彼女の為にあれこれリサーチしていただけなんだろうが、篠原はこの間愛しの君と別れたばかりなのだ。あまり突っ込むのも野暮だろう。
「でも、奈緒崎もこの宿ちょっと気味悪いって思ってるだろ? この廊下とかいかにも暗いしさ……」
「まあ、ここは確かにな」
 俺は、長く続く外廊下に目を向ける。突き当りの部分が全く見えないその場所は、奴の不安も尤もな薄気味悪さだ。
 浴場から客室のある建物に行くにはこの長い廊下を嫌でも通らなければならない。それなのに、そこがやたらと暗いのだ。廊下の左手には、風情溢れる障子の誂えられた部屋があるものの、人の気配が全く無くて物寂しく、薄気味悪い。しかし、右手に目を向けても、闇の中にとっぷりと沈んだ中庭があるばかりだ。津川のようなことを言うつもりは無いが、確かに結構不気味な光景だ。
 せめて灯篭か何かで明かりを点ければいいのに、と思うものの、そんな気遣いどころか、足元には頼りない明かりがぽつぽつとあるばかりで、何とも心許ない。
「な? さっきはまだマシだったけど、もう完全にキてるだろ?」
「怖がり過ぎだって! むしろ座敷童見れたらラッキーなんだからな! お前らが罰当たりなんだよ」
 篠原が不満そうに唇を尖らせる。俺は別に座敷童に対してどういう感情も持っていなかったが、篠原がそうまで言う曰くつきの宿、というところにむしろ引っかかった。少なくとも、火の無い所に煙は立たないはずだ。座敷童だろうと何だろうと。

 俺が噂の根拠となる奇妙なものに出くわしたのは、その日の真夜中のことだった。同室の二人が寝静まった後、俺はふと目を覚ましてしまった。
 別に何か目的があったでもなく、俺はそのままするりと部屋を抜け出した。起きてしまった以上、このまま眠るのもな、という妙な気を起こしたわけである。静まり返った宿の中は一層物寂しい雰囲気を醸し出していて、得体の知れないものが影から飛び出してきそうな具合だった。
 時刻は午前二時、正しく丑三つ時である。俺はふと、下北沢にいる嗄井戸のことを考えた。あいつは今日も変わらず映画鑑賞に勤しんだのだろうか。もしかすると今も? 暗く広い部屋の中で、スクリーンを観続けているだろうか?
 物理的に離れた距離の中にいる嗄井戸のことを考えていると、何処かから映画のBGMが聞こえてくるような気すらした。随分ひねりのない幻聴だと思う。このまま、何処かから現れた嗄井戸が、楽しそうに映画の蘊蓄を語るんじゃないかという気すらするほどだった。
 けれど、生憎俺はそこまで毒されていなかったらしい。音の出どころは、脳味噌の皺の間では無いようだった。何かが何処かで鳴っている、という確かな確信と共に、数時間前に訪れた場所に足を向ける。そこにはあからさまな変化があった。
 浴場へ向かう廊下が明るくなっている。流石に『煌々と』とまでは言わないが、それでもさっきに比べたら十分明るい。どうしてこんなことに? と思うより先に気付く。
 さっきは真っ暗だった障子の部屋に、明かりが点いていた。人の気配は相変わらず無いが、障子紙越しに柔らかい光が漏れているのだ。そして、音の出所、嗄井戸高久のドッペルと捉え違えたあのBGMもこの部屋からだった。もう一度、障子越しの気配を探る。人がいる気配は無い。それはつまりどういうことだ?
 いけないとは思いつつも、そっと障子に手を掛けた。恐る恐る中を覗き見る。軽快な音楽に、眩く光るスクリーン。
 広い和室の壁には、嗄井戸の部屋に負けず劣らずの立派なスクリーンが掛かっていた。スクリーンの中で踊るは、緑色の怪物にドラゴンである。部屋の中央には無造作にDVDが散らばっていた。『トイ・ストーリー』に『となりのトトロ』など、いかにも子供の好きそうな素敵なラインナップだ。
 座敷童なんかも好みそうな。
「……マジかよ」
 部屋の中を改めて見回しても、真夜中に上映されている映画を観ている人間の姿は無い。これじゃあ本当に、見えない誰かの為の上映みたいだ。そんなわけないだろ、と思う自分と、篠原が力説していた誰かの存在を認めたくなる自分が交差する。
 そして開け放たれた密室の中に一歩足を踏み入れようとした瞬間だった。すんでのところで、俺の脚が止まる。
「どうかされましたか?」
 その声に反応して、弾かれたように障子戸から手を放した。まさしく悪い所を見咎められたような感じで!
 スクリーンの光に照らされた廊下には、受付の女将さんが立っていた。暗闇の中でも凛とした立ち姿から、俺への批難が透けて見えている。
「え、いや、特には……」
「お手洗いなら部屋にございますし、大浴場は閉まっています。もしお客様の目的が座敷童探しなら、あまりおすすめしませんね。座敷童は探されるのを嫌います。そんなことをしても、幸運は舞い込みません」
「あの、そういうわけでもなくて……単に、寝付けなくてぶらぶらしてたら、偶然この部屋が明るくなってるのに気づいて……。すいません」
 我ながらしどろもどろの言い訳だったが、事実なんだから仕方がない。女将さんはなおも訝し気な目を向けていたものの、一応納得はしたらしい。「そうでしたか」という素っ気ない返答があった。
「ていうか無礼ついでなんですけど……。この部屋、何なんですか?」
 正直女将さんからの心証は地の底だろうし、という理由で思い切って尋ねてみた。真夜中、誰もいない和室のスクリーンで、子供向けの映画を流し続ける理由。座敷童の魅惑的な噂。果たしてその真相は?
「この部屋ですか。座敷童の為ですよ」
「あ、なるほど」
「私どもの宿は座敷童の為に映画を上映し続けなければならないのですよ」
「座敷童の為に?」
「ええ。座敷童の為に」
 俺の言ったことを繰り返すと、女将さんは深々と頷いた。冗談を言っている風には見えなかった。果たしてその真相は、可愛い座敷童ちゃんの為のものである! 結構夢のある回答だった。それがショービジネス的なものであるかスピリチュアル的なものなのかは定かじゃないが、おかみさんの公式解答はかくあるらしい。
「この部屋は元々和製シアタールームとして先代が作りました部屋だったのですが、利用者が減少し、取り潰される寸前だったんですよ。しかし、この宿に映画好きの座敷童が現れ、真夜中に自分好みの映画を観せてくれるなら、この宿の繁盛を約束すると、そう言ってくれたのです」
「……なるほど」
 ファンタジックな部分と現実的な取り潰しが上手いこと絡み合っているのが面白い。映画好きの座敷童と聞くと、どうしても嗄井戸のことを思い出してしまう。あっちは特に幸運を呼ぶわけじゃないが、この和室とあの部屋はよく似ていた。
「毎日流してるんですか?」
「ええ、大浴場が終わる午前零時から日が昇るまで。大浴場が終わってから映画を流すのは、座敷童が映画に集中する為の配慮にございます」
 女将さんは、そう言ってにやりと擬音が付くくらい不敵に笑った。映画好きの座敷童がいる宿。彼女はそこの支配者なのだ。

 そこまで話して、嗄井戸の反応を見る。嗄井戸はさっきより幾分かつまらなそうな顔をして、指で髪の毛を弄っていた。わかりやすく話半分である。それが気に入らなくて、食い気味に尋ねた。
「な? 面白いだろ? 映画観る座敷童の話聞いた時、一番にお前に教えようと思ったんだよな」
「……なるほどね」
「でも、本当に座敷童なんかいるのか? とも思うんだよな。だって、座敷童が映画好きとか……なんかイメージと違うっていうか……ただ、座敷童がいないんだったら、無人の部屋で映画を流す理由が無いんだよな」
 だとすれば、あの行為自体が座敷童の証明にもなりうると思う。もしかしたら空き部屋で映画を流し続けるっていうのが、座敷童の実在アピールなのかもしれないが、だとすれば大浴場が開いている時にも流し続けた方が良い気がする。勿論、真夜中に流すということが神秘性とかそれっぽさを担保しているんだとしたら反論のしようもないけれど。
 嗄井戸はしばらく何かを考え込んでいるようだった。毛布に包まり、ソファーに鎮座するその姿は、ややサイズの大きい座敷童に見えなくもない。百七十センチ以上ある肢体を一回り小さくすれば、立派に子映荘で働けるだろう。
「僕は座敷童はいないと思う」
「夢が無いやつだな。いた方が面白いだろ。それとも、無人の部屋で映画を流す理由があるのか?」
「座敷童よりも僕はドッペルゲンガーやスレンダーマンに浪漫を感じるけどね。それはともかく、それじゃあ奈緒崎くんが宿泊したその宿は一体どうして無人の部屋で映画を流し続けなくちゃいけなかったのか? 今から言うことは何の証拠もない単なる推論だ。そこを踏まえて聞いて欲しいんだけど、いい?」
 嗄井戸が注意書きの多い前置きをする。俺は大仰に頷くと、黙って先を促した。それを見てから、ようやく嗄井戸が続きを語る。
「映画を流すことの効果は様々挙げられるけど……まず第一に、単純な話をすると、スクリーンで映画を上映すると明るいんだよ。この部屋もそうだけど」
「……確かにな」
 嗄井戸の言う通り、この薄暗い部屋の中をぼんやりと照らしているのは、スクリーンであり、映る煌びやかなパーティーシーンだ。映画を上映していたら明るい、というのは文字通り自明の話ではある。現に、あの廊下も障子を隔てた部屋の向こうの明かり――上映される映画で、ぼんやりと照らされていたのだ。
「でもまさか、部屋を明るくする為だけに映画を流し続けてたって言うのか? 電気を点けろ、電気を」
「その通りなんだけどね。……まあ、筋道を立てて僕の考えを言うよ」
 嗄井戸はそう言うと、骨ばった指先を重ね合わせながら続けた。
「まず奇妙なことに、その宿の脱衣所には鏡が無かったんだろ? いくら宿によって設備は様々とはいえ、鏡すらないのは不自然だ。アクセサリー類を外す指示があるなら尚更ね。脱衣所でその指示を目にした女性は素直に指示に従うものの、脱衣所で鏡を見ながらピアスなどを着け直すことは出来ない。鏡無しで着け直せる人も少なくないだろうけど、鏡が無いと着けられない……というより、部屋に帰って着ければいい、と思う人もいるだろう」
「……つまりどういうことだ?」
「部屋から浴場までの長い廊下を、それらのアクセサリーを手に持ちながら移動しなくちゃいけなくなるってことだよ。あるいはポーチや、服のポケットなんかに入れてね。でも、アクセサリー類って失くしやすいだろう? お風呂上りなんか特に。薄暗い廊下で落としてしまうかもしれない」
 あの廊下で物を落としたらさぞかし大変だろうな、とは俺にも想像出来る。ましてや小さなアクセサリー類なら、そのまま気付かず去って行ってしまうかもしれない。あるいは、探してもそうそう見つけられないかもしれない。
「旅館で失くし易いものとしてアクセサリー類は定石なんだ。フロントにも多く届け出が出されるしね。でも、少なくともその廊下で落としたアクセサリーが持ち主の元に戻ることはないんじゃないかな? おそらく、夜中の内に女将さんが回収してしまうからね」
 嗄井戸があの夜の女将さんと同じような笑みを浮かべる。あの時女将さんがあの廊下にいたのは、落し物が無いかを探す為だったんだろうか? あの廊下が、大浴場開放時間よりもむしろ真夜中の方が明るいと知っていたからなんだろうか?
「最初は単なる思いつきだったんだろうけど、回収を念頭に置くようになってから、その割の良さに気付いちゃったんじゃないかな? 小遣い稼ぎにいいと思ってからは、くすねるのをやめられなくなったんだ」
「……マジかよ」
「暗い廊下に意外と落し物があるとわかった女将さんだったけど、懐中電灯片手に探し回るのは何か言われるかもしれない。奈緒崎くんのような客に見られたら邪推――この場合は邪推じゃなく本当にネコババされているわけだけど――をされるかもしれない。だから、使われてないスクリーンを照明にしてたんじゃないかな? 『座敷童が映画を観たがるから、あの部屋は仕方なしに中が明るくなっている』ってことにしてね。そして、朝までにアクセサリー類を回収してたんだろう。明るくなる内に回収しないと、客が見つけちゃうかもしれないからね」
「そんなのありかよ……」
 でも、誰もいない部屋の電気が点けられているより、映画が流れている方が疑いの目は向きにくいだろう。『暗闇の中のアクセサリー探し』が『座敷童の上映会』のインパクトに競り負けるのだ。
「子映荘はそうこうしている内に座敷童のいる宿として有名になり、繁盛し始めて尚更良いこと尽くしだ。でもね、子映荘の評判を辿ってみると、面白いことが書いてある」
 嗄井戸はスマートフォンを弄りながら、駄目押しのように笑ってみせた。
「……なんて?」
「『座敷童が私物を隠してしまう? カルティエのピアスを紛失しました』」
 そこまで聞いたらもう充分だった。どうやら俺はスレンダーマンもドッペルゲンガーも座敷童もいない世界に生きているらしい。
「まあ、こんなのは邪推なのかもしれないけどね。本当に映画好きの座敷童があの宿にはいたのかもしれない」
「お前の話を聞いた上でそれを信じられねえよ」
「こんなことを続けていたらいずれ子映荘は立ち行かなくなっていくだろうとは思うんだけどね……。それとも、デメリットがあるが故に、一層客は座敷童のことを信じようとするかな? 数年後が楽しみだ。……さて、」
 そう言い終わると、嗄井戸は手を受け皿のように形作ると、ここ最近で一番の笑顔を見せた。さっきは口元だけだったのが、今では満面の笑みである。何のジェスチャーだ? と首を傾げると、焦れたようにこう言われた。
「ほら、早く渡しなよ」
「何を?」
「お土産だよお土産。話を聞いた上に推論まで披露したんだからね。この期に及んで嘘でした、なんて言われたら、殺人事件に発展しかねないぞ」
「そこまでかよ」
「さ、早く」
 嗄井戸の目は期待に縁取られてキラキラ輝いていた。お土産一つでここまで胸躍らせるとは、なかなか安い奴だな、と思う。元々渡すつもりだったしな、と言ってから、俺は嗄井戸の手に、江ノ島から遥々下北沢まで持ってきたお土産を載せた。重みで少しだけ撓んだ手を助けながら、しっかりと持たせる。
 その瞬間、嗄井戸の顔が、謎の困惑で凍り付いた。
「…………えっ何?」
「お土産」
「……これが?」
「そうだけど」
 嗄井戸が、持たされたものを確認する。そして、躊躇いがちに言った。
「ごめん。僕江ノ島に詳しくないんだけど、これ、タッパーに砂が詰められたものに見えるんだよね……」
「合ってるぞ。江ノ島に詳しくなくてもわかるんだな」
 嗄井戸は持たされたタッパーをしげしげと見つめると、おもむろにその蓋を開けた。擦りきりまでして入れた砂が、存在を主張するかの如くタッパーに限界まで詰め込まれている。なかなかいい詰め具合だ。我ながら綺麗に詰められたと思う。
 嗄井戸は何故か困惑したような表情で砂を見つめていたが、ややあってようやく口を開いた。重かったのか、タッパーをそっと膝の上に移動する。
「ねえ奈緒崎くん。これ、何が埋まってるの?」
「は? 何も埋まってねえよ」
「えっ、何これ全部砂?」
「全部砂だけど」
 まさか、何かしらが砂に埋まっているサプライズを期待していたのだろうか。なるほど、秀才の考えることは一味違うな。でも、普通に考えて砂にお土産が埋めてあるなんて嫌だろ。
 そういうわけで、嗄井戸の期待を裏切って申し訳ないが、これは純粋に江ノ島の海岸の砂をタッパーに入れたものだ。篠崎に頼んで、バーベキュー用の肉が入っていたタッパーを一つ譲って貰い、せっせと詰めたものである。何に使うのかも聞かず、快く譲ってくれた篠原に改めて感謝した。
 けれど、目の前の男は喜ぶどころか段々と青ざめた顔色になってきていた。それでいて、口の端には笑顔の名残のようなものが見て取れるのが痛々しい。一体何でそんな顔をしているんだろうか?
「……えっ、何で砂? 僕何かした? 奈緒崎くん怒ってる?」
「何でそんなびっくりしてんだよ。甲子園だって砂持って帰るだろ」
「どうしていきなり高校球児の価値観を持ち込んじゃうんだよ」
 嗄井戸は丁寧に蓋を嵌め直すと、そのままタッパーを床に置いて、何故か声にならない声を上げ始めた。奇妙な声の合間合間に、期待した僕が馬鹿だった……! という言葉が混じっている。気付けばスクリーンで上映されている映画も佳境に入っていて、主人公のピアニストが悲し気な視線をこちらに向けていた。
「砂は無いだろ! 砂は! もっとお菓子とかキーホルダーとか! 何でもいいけど砂は無いだろ! 何でそうなるんだよ!」
 ここでようやく、何かミスったんだな、と気付いたものの、既に事態は収拾のつかないところまで進んでしまっていた。賽は投げられたし、タッパーは開けられた!
「喜ぶと思ったのに……」
「思うなよ! ピッチャーマウンドに帰れ!」
「いや、違うくて……俺思ったんだよな」
「……何を」
「江ノ島で遊んでる時にさ、お前がここにいたらいいなって。お前は外に出るとか考えたこともないんだろうけど、俺は考えちゃうんだよ。海で遊んでる時も、バーベキューしてる時も、嗄井戸に味わわせてやりたいなって思っちゃうんだよ」
 真夏には向かない風体だろうが、浜辺には似合わないスタンスだろうが、いつか嗄井戸と一緒に海に行ってみたいのだ。勿論、一筋縄じゃいかない話だろうが、だからこそ、今は最大限の譲歩を与えてやりたいわけである。
「だからせめて、砂だけでも持って帰ってやろうって思ったんだよ。江ノ島の海も座敷童の為の映画も観せられなかった分、お前に持って帰ってやりたくて」
 俺は床に置かれたタッパーを拾い上げると、もう一度嗄井戸の手にそれを持たせる。今はこれだけだが、この部屋にとってはそれでも大きな意味があるはずだ。
「奈緒崎くん……」
 嗄井戸が渡されたタッパーの表面を撫でる。ややあって、言った。
「いや、それで納得するわけないだろ」
「マジか、だよな」

                           (了)

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