トラウメインディッシュ

 松ヶ谷くんが自称天才カメラマンの間宮恭司と出会ったのは丁度松ヶ谷くんがスーパーのカニカマを見ながら吐き気を必死で堪えている時の話であった。
 松ヶ谷くんはかれこれ物心ついた時から呪われている。その呪いというのはバブル崩壊の時から日本に長い間巣食っている呪いの一つだった。貧乏という名前の呪いだ。

 聞けば松ヶ谷くんの家は松ヶ谷くんが生まれるつい五年前くらいまでは所謂中流階級に属していたらしい。あの頃は国民総中流意識というものがあったらしいから、本当はもしかするとそんなことは体の良いお伽噺だったのではないだろうかと松ヶ谷くんは思っている。そんな、中流階級だった筈の松ヶ谷くんの家がどうして社会の最下層に追いやられたのかというと、シンプルなお話だ。松ヶ谷くんの親愛なるおじい様が何を思ったのか「船で沖に出て美味しい蟹を取る会社」を立ち上げて、それを瞬く内に叩き潰してしまったからだ。
 親類も家族も皆が一様になんて馬鹿な事をしたんだ、と松ヶ谷くんのおじい様を責めた。中流階級に属していた松ヶ谷家が、一転して合法的カースト制度の最下層である貧乏に突き落されたのだから当然だ。借金が雪だるま式に増えて、それでもその借金は雪だるまの様に溶ける気配はまったくなく、いよいよ首が回らなくなった頃に、松ヶ谷くんのおじい様である松ヶ谷惣一郎の初孫である松ヶ谷惣太郎、この物語の主人公である松ヶ谷くんが誕生した。
「孫も生まれたことだし、今までのことは水に流して助け合って生きていこうじゃないか! なあみんな!」
 松ヶ谷くんのおじい様は生まれたばかりの松ヶ谷くんをライオンキングのワンシーンの様に捧げ持ち、ところどころ欠けた歯でにーっと笑った。生まれたばかりで何も分からない松ヶ谷くんも、一瞬ぽかんとした後、親愛なるおじい様に合わせてにーっと笑った。その笑顔といえばまるで天使が降臨したようだったと後に松ヶ谷くんの母親である松ヶ谷千歳嬢は語っているが、いくら松ヶ谷くんが天使が降臨したかと見紛うばかりの笑顔を見せた所で、調子の良いことを調子良く言ったおじい様は家族からフルボッコ(※ここでは松ヶ谷くん一家の松ヶ谷くんのおじい様への容赦のない殴る蹴るの暴行を指す)にされたことを忘れてはならない。
 という訳で、松ヶ谷くんは生まれた時から経済界の中の最下層の淀みの中にいたのである。松ヶ谷くんは小さい時から滅多に泣かない子供だったという。もしかすると松ヶ谷くんはこれからの受難の人生をもう悟っていたので逆に天使のような笑顔を見せたのかもしれなかった。が、真相は定かではない。
 私がもし老婆心から生まれたての松ヶ谷くんに一言だけ言ってやるとすれば、間違いなく「赤ん坊の内に泣いておけ」ということを言うだろう。松ヶ谷くんは人生の受難を悟っていたかもしれないが、貧乏という呪いのしつこさは知らなかったのだ。もしその呪いの奥深さを少しでも知っていたら、間違いなく赤ん坊の松ヶ谷くんは大声で泣きわめいていただろう。貧乏な生活というのは、泣いている余裕など一ミリたりともないのだ。
 松ヶ谷くんの父親である松ヶ谷惣太は真面目な男だった。彼は父親の失敗を取り返し、最愛の妻である松ヶ谷千歳嬢と最愛の息子である松ヶ谷くんを守る為に身を粉にして働いた。彼は父親の様に「船で沖に出て美味しい蟹を取る会社」を立ち上げたりなどせず、堅実な地方公務員の仕事を選んだ。しかし、安定はしているものの低い給金では、雪だるま五体分くらいに膨らんだ借金にはもう、焼け石に水どころか焼け石に小石を投げつけているようなものだった。

 松ヶ谷くんが六歳になり、何だかんだで松ヶ谷くんの下に最初の弟が生まれた頃、全ての元凶である親愛なるおじい様が病に倒れた。
 これは松ヶ谷くんのおじい様が失意のままに死にゆく時に松ヶ谷くんを見つめながら語ったことで初めてわかったのだが、おじい様がどうして中流階級から転落するリスクを顧みずに『船で沖に出て美味しい蟹を獲る会社』を立ち上げたのか。それにはちゃんとした理由があったのだ。
「蟹をね、思う存分食べてみたかったんですって、おじい様」
「蟹?」
「赤くてグロテスクで凄く美味しい中流階級にはあまり縁の無い代物よ」
 松ヶ谷千歳嬢は松ヶ谷くんに、魚屋さんの店先で指差しながらそう言った。現代日本は資本主義に則って極めてビジネスライクだった為、物欲しそうな親子二人が店先で蟹を指さしても、笑って無料で蟹を差し出してくれるなんてことは無かったのである。だから松ヶ谷くんは、見せつけられる対象として、初めての蟹を認識した。赤く光る身体、伸びる八本の足、黒い目。
 松ヶ谷くんの家にはおよそメディアの匂いがするものは何も無かったから、松ヶ谷くんにとってそれは初めての蟹だった。おじい様が無謀な賭けに出る程に、彼を魅了してやまなかった、蟹。松ヶ谷くんの好奇心は最早義務感にも似ていた。あれが、自分たちの家を壊したのだ。そして、僕をここまで追いやってしまった。なら、僕たちのルーツは、あのグロテスクなものだったのではないか、そう思った。
「お母さん、僕もあれを食べてみたい」
 松ヶ谷くんは悪意なく言った。そのままだった。愛しかった。素直な気持ちだった。
 松ヶ谷千歳嬢は、そんな松ヶ谷くんの素直な言葉に目を丸くする。彼女はこの息子が何かをねだる姿を初めて見たのだ。自分の家は、蟹に呪われているのかもしれない。そうとさえ思った。松ヶ谷千歳嬢の頭の中は、松ヶ谷くんを、せめて松ヶ谷くんだけでも、解放してあげたいという一心だった。
 松ヶ谷千歳嬢は目線を松ヶ谷くんの位置にまで落としてにっこりと微笑む。そして、きっぱり言った。
「あのね、惣太郎。貴方があれを食べるなんて、今生では無理よ」
 その日は、カニカマすら買わずに帰った。その衝撃的な日の夕食をもう、松ヶ谷くんは覚えていない。無かったかもしれない。夕食なんて。
 松ヶ谷くんは中学を卒業すると当たり前の様に金銭的な理由から就職した。松ヶ谷くんはいつの間にか、六人兄弟の長男になっていた。お金が無かったはずなのに、どうしてこんなに兄弟が増えてしまったのか、可愛い兄弟を見ながら松ヶ谷くんは溜息を吐いた。仕方がない。松ヶ谷六人兄弟の母親である松ヶ谷千歳嬢は現代に生きるお姫様で、お姫様のやることは世継ぎを産み落とすことだけなのである。松ヶ谷千歳嬢は、就職すると言った松ヶ谷くんの頭を、可憐な笑顔を向けながら撫でた。彼女は、崩れかけた家の中であっても、お姫様だった。
 しかし、松ヶ谷くんが海が生活の基盤になっているこの街で就職することは、想像よりも困難だった。松ヶ谷くんに力仕事が向いていなかったという訳ではない。松ヶ谷くんは天使のような微笑みを見せていたあの頃から変わらず、この世のものとは思えない程端正な顔をしていて、かつ均整のとれた細くて美しい身体をしていた。決して非力な訳ではなかった。
 それなのに何故、彼が働く場所が限られていたのかと言えば、それは貧乏以外にもう一つ降りかかった、松ヶ谷くんへの陰湿な別の呪いに原因がある。
 松ヶ谷くんは中学を卒業すると、地元の海産物業者に就職した。それは魚や昆布やよく分からないがなんか海から取れるものを片っ端から水揚げする職場で、力仕事にそこそこ向いている松ヶ谷くんには存外向いているものだった。父親から受け継いだ真面目さで、松ヶ谷くんは懸命に働いた。しかし、家は全く楽にはならない。彼は火の車の家計を回し続ける為にも働かなければならなかった、けれども。
 ある日、魚でも昆布でもその他海藻でもなく、不思議でグロテスクなものが水揚げされた。
「……これ、なんですか?」
「ああ、松ヶ谷お前これ知らないのか? これは蟹だ」
 その日松ヶ谷くんが水揚げしたのは、蟹だった。蟹。ゆでる前だったから、その赤みが隠れてしまっていて、気付かなかっただけなのだ。赤くてグロテスク。中流階級、ましてや松ヶ谷くんの家には縁のない、美味しい生き物。蟹。
 知らない訳じゃなかった。忘れていただけだ。松ヶ谷くんの脳内に松ヶ谷千歳嬢の言葉がフラッシュバックする。一生縁がない代物を、どうして自分は水揚げしているのだろう、不思議に思う。不思議に思うだけならば良かった。問題がない。それなのに、松ヶ谷くんはその物体に吐き気を覚えた。実際吐いた。船の上はパニックである。そのまま意識を手放した松ヶ谷くんは、最早自分があの生き物と同じ世界には生きられないことを悟った。何せ、松ヶ谷くんが脳内で描き出した蟹ですら、松ヶ谷くんの胃の中身を吐き出させようとするのだった。吐き気はしばらく収まらず、松ヶ谷くんは赤色に怯えた。海産業者の控室、トイレの鏡を見ながらまた吐いた。

 松ヶ谷くんはその日以来海産物業者をやめた。無職でいるわけにもいかない松ヶ谷くんは、火の車の家計の回転を止めない事だけを考えながらひたすらに職を探した。海から逃げ出した松ヶ谷くんが行く先は街しかなかった。海産業で成り立っているこの街は、海産業以外は綺麗に不況の煽りを受けている。勉強と蟹が苦手な松ヶ谷くんは、カニカマ工場にも寿司屋にも就職が出来なかった。そんな時、親愛なる父親の松ヶ谷惣太が過労で倒れた。不毛な未来に期待が持てなくなってしまったからかもしれない。真相は定かではないが、とにかく、倒れてしまったのだ。もうこうなった以上、松ヶ谷くんが松ヶ谷家の家計を支えるしかなくなってしまった。
「モデルのお仕事なんだけどさ、君、やってみる気ない? 全然、全然怪しくないからさ」
 そんな時、耳に飛び込んできた甘言に、松ヶ谷くんが飛びついてしまったのは最早彼の過失ではないだろう。松ヶ谷くんにはお金が必要だったし、海は松ヶ谷くんにとってもう既に相容れない場所になっていた。彼は溺れながら藁を掴んだ。それだけだ。しかし、賢人は言う。
 ――溺れかけている時に藁なんかを掴むから、溺死するのだ、と。
 松ヶ谷くんは写真を撮られるお仕事に晴れて転職を果たした。晴れて、という形容詞が適切なのかどうかは誰も知らない。松ヶ谷くんが撮らされた写真は、どう贔屓目に見ても十八歳未満の人間に見せたり、日の下に出せるような代物ではなかったのだから。松ヶ谷くんは初めてのお仕事で写真を撮られている時にようやくその仕事があまり人に誇れるものでないものだと悟ったのだが、終わった後に渡された皺くちゃの一万円札の枚数が見たこともないような数だったので、服を着てそのまま帰った。その夜はささやかながら肉を買った。
 その後も仕事を続けた松ヶ谷くんの活躍で、雪だるま式にかさんでいた借金が少しずつ相殺されるようになったのは、とても喜ばしいことである。家族は皆松ヶ谷くんにお礼を言ったし、末の妹には殴られたら痛そうな立派なリコーダーを買ってやることも出来た。家の中で妹の吹く「おおブレネリ」が響くようになり、一家は少なからず幸せな方向へ向かっているように思えた。
 しかし、「おおブレネリ」が響いても尚、松ヶ谷くんは蟹を見ると嘔吐してしまうのだった。おじい様があんなに食べたがっていた蟹。松ヶ谷千歳嬢が幼い松ヶ谷くんに説明したあの蟹。赤くてグロテスクな代物。今では本気で無理をすれば蟹ないしカニカマを買うことも出来る筈なのに、松ヶ谷くんは蟹がどうしても見られなかった。見ると胃の中が中身をぶちまけようと大きく脈打ち始めるのだ。視界が生理的な涙で歪んでしまう。
 松ヶ谷くんはお仕事に別段不満を持っていなかったのだけれど、一度だけ涙が止まらなかったことがある。野外で全身を縛り付けられるという楽しくないお写真を撮られて遅く帰ってきた夜、松ヶ谷くんを心配した末の妹に撫でられて、蟹のように地面にへばりついたからかもしれない。その夜だけは涙が止まらなかったのだ。翌朝、出勤する前に松ヶ谷くんは公衆トイレで嘔吐した。泣きながら嘔吐した。

「ねえ、君、モデルやってみる気ない?」
「……はあ」
 そんな松ヶ谷くんだったからこそ、自称天才カメラマンだという間宮恭司と出会ってそんな台詞を言われた時、カニカマで引っ掻き回されていた脳内がスパークしてしまい、結局松ヶ谷くんは貧相な胃の中身を思う存分吐き出してしまったのである。
 それはもう、一瞬だった。
 目の前に現れた間宮は長身の身体に小さなカメラを提げていて、それがもう、既にちょっと松ヶ谷くんには無理だったのだ。松ヶ谷くんは端正な顔立ちをしていたが、少しだけ背が低い。コンプレックスがいい調味料になって、ダメージ倍増だ。
「ちょっ、君! だ、大丈夫!?」
 間宮の方は間宮の方で、自分の一言で目の前の美青年がいきなり嘔吐し始めたのだから顔面蒼白ものである。自分の何がいけなかったのかわからないまま松ヶ谷くんの背中をさすった。松ヶ谷くんの涙で潤んだ瞳に、間宮が大きく写る。
「ごめん、何かしたかな俺」
「すいません、違うんです」
 かに、かにが、と松ヶ谷くんは息も絶え絶えに言った。
「蟹って、あの蟹? 赤くてグロテスクで食べると美味しいあの蟹?」
「俺、食べたことないけど合ってる。そう、あの赤くてグロテスクで海産物業者が水揚げする蟹」
「蟹がどうかしたの」
「その名前言わないで、なんかもうもう一回吐きそう」
「とりあえず外でようか」
 間宮が蒼白を通り越して透けて見える松ヶ谷くんをスーパーから出した。
 一つ言い添えておけば、この時間宮が行ったのは悪意の無いお姫様抱っこである。それも、間宮は自分の買い物袋まで持っている状態で、それを行ったのだ。
 けして、松ヶ谷くんを馬鹿にしているとか女顔を茶化しているだとかそういう訳ではない。ただ単に、効率の問題だ。
 松ヶ谷くんは筋肉質だけど細いから、こうして持ち上げるのに最適だったし、しかも松ヶ谷くんは今現在足腰が立たなかったのだ。
「他意はない」
「それは助かる」
 こんな状況下で、こんな状態であっても、素晴らしい出会いだといえるかもしれない。ある意味。間宮は、松ヶ谷くんでなくたって憧れるような、優秀な人材だったからだ。
 間宮恭司の話をしよう。間宮恭司は自称天才カメラマンでもあるが、お金持ちの家の一人息子でもあった。なんといっても、海しかないこの辺りの地域で、一番大きな海産物業者の社長が彼の父親なのだ。勿論、松ヶ谷くんが働いていた海産物業者も、間宮の家の息がかかっている。間宮は何不自由なく育った。海産物業者の家の息子だから、勿論蟹も沢山食べた。
 彼は金持ちだったけれど、金持ち特有のひねくれ方もせず、誰にでも優しく公明正大な健やかな少年に育った。彼らの両親も、流石間宮の両親というべきかとても素敵な人格者であり、間宮に惜しみない愛を捧げた。また、彼は頭がよく、地元で一番頭の良い大学に進学している。加えて日に焼けた肌と綺麗に染まった茶色い髪を持つ間宮は、松ヶ谷くんとはタイプの違う、けれど疑うことのない美形だった。
 つまり、間宮恭司は全てにおいて完璧だった。色んな意味で、彼は合法的カースト制度の最上層にいたのだ。
 姫抱っこで店外へ連れ出された松ヶ谷くんは、店内に出た瞬間その腕から転がり落ちて、駐車場のアスファルトでしたたかに肩を打ちつけた。うう、あああと、美少年らしい控えめな呻き声を上げて松ヶ谷くんが間宮を見上げる。間宮は、突然魚のように腕から転がり落ちた松ヶ谷くんに対し、ちょっとどうしていいかわからないようだった。
 長い足を折りたたみ、善人である間宮が視線を下ろして松ヶ谷くんを見る。見下されるのには慣れている松ヶ谷くんだけれど、別にそれが好きだというわけじゃない。
「……大丈夫?」
「無理。泣きそう」
 実際、少しは泣いていた。松ヶ谷くんは蟹が苦手だけれど、それ以外のものについて無敵であるというわけじゃない。松ヶ谷くんは自分を水揚げしたばかりの蟹のように扱った男を見た。一目でわかった。彼は、自分よりはるか最上位にいる人間だ。
 本来ならば関わることが無いような二人だった。だって、間宮は普段意気揚々とキャンパスで素晴らしい学校生活を送っているし、松ヶ谷くんは普段、カメラを相手に世間の世知辛さに喘いで妹のリコーダーを買ったりしているのだ。見ているだけで惨めになりそうな相手の前で転がっている自分が情けなくて、松ヶ谷くんはまだ苦しい息を整え切らないまま立ち上がった。それでも彼は、間宮よりもずっと背が低い。
「すいません。お手数をかけました。蟹がね、苦手なんです。はは。だからちょっと、当てられました」
 その言葉を吐きだすのも苦しげに、松ヶ谷くんが言う。言葉の上での蟹は赤くない。けれど、その短い言葉は、どう足掻いても彼を掴んで離さないのだった。
 吐き気をこらえながら、松ヶ谷くんは夕飯の買い物が全く出来なかったことに絶望していた。家にはお腹を空かせた兄妹たちが待っているのだ。蟹なんか食べられない子供たちだけれど、夕飯を抜かなくちゃいけないくらい困窮してはいないのだ。少なくとも、今は。
「蟹が苦手なの?」
 間宮が小首を傾げながら尋ねる。松ヶ谷くんの妹が松ヶ谷くんに対してよくやる仕草だったが、行為の主体が妹ではないということだけでうんざりした。それは異性に対しては効果的で魅力的なものだったが、松ヶ谷くんにとっては自分のコンプレックスに水をやられているようで嫌だった。
 そんな遣る方ない憤懣も手伝って、「さっきそう言ったじゃないか」と悪態を吐きそうになった。けれど、松ヶ谷くんはどうにかその言葉を殺して苦々しく頷く。
「困ったな、仕事を頼みたかったのに」
「何が困るんだよ、蟹関係の仕事? 一応漁港では昔働いてたけど、再就職は難しいよ。何せ蟹に呪われてるから」
 松ヶ谷くんは久しぶりに蟹関係で嘔吐した。カニカマでさえ駄目だった。離れられたと思ったのに、松ヶ谷くんはあの漁船から、一歩も降りられていない。そんな人間に依頼? と、松ヶ谷くんは出会ったばかりの間宮を見下した。捻くれた自尊心が為せる業だった。
 そんな松ヶ谷くんの後ろ暗い気持ちなど露知らず、間宮は慌てて付け足す。
「違うよ、別に漁師のスカウトじゃない。細い割に筋肉ついてそうだけど、そうじゃなくて」
 その言葉に一瞬ぞくりとした。昔、あの絶望色の蟹が水揚げされるまで、家を支える為に必死で行使されていた筋繊維の一本一本を見抜かれたようで怖かったのだ。
 それがバレたからといって、松ヶ谷くんの人生に何の影響もない。ただ、適当に着ているTシャツの裾が、布であることを忘れるくらい重たくなればいいと、そう思った。
「じゃあ、何が」
「だから、さっきも言ってたけど、モデル。俺、こうみてもプロカメラマン目指してるんだ」
 その言葉を聞いた時、蟹とは何の関係も無い部分で吐き気がした。松ヶ谷くんの中のモデルとは、今やっている、自分を見世物にするだけに終始するような、あんな感じの世界である。まさか、その言葉をこんな男から聞くことになるとは、という気分だ。何処かで、目の前の男に期待していたのかもしれない。期待? 唐突に現れたそれに動揺が隠せない。
「……へえ、好青年に見えたけど、お前もそういう趣味なんだな。別にもういいけど、そういうのにはもううんざりしてる」
 なんとかそこまでは言い切った。何だか泣きそうだった。その原因を作った
「うーん、そういう趣味というか、クリエイター気取りであることは認めるけど、俺は一応本気だよ。ほら、漁港近くの役場とかに貼ってあるポスター見たことないかな? あれ、俺が撮ったんだ。ああいう写真を撮ってるんだけど」
 そこでようやく、松ヶ谷くんは自分と間宮の間の認識の違いについて考えた。もしかすると、この男は本当に、『芸術的な』意味での写真を撮る人間なのかもしれない。だって間宮は魅力的過ぎて、薄ら暗い世界などまるで似合わない。
「見たことない。お前がどんな写真を撮るかもわからないし、どうして俺なんかに声をかけるのかもわからない。俺はお前が期待するような写真に見合うようなモデルなんかじゃない、絶対」
「え、モデルやってるの? もう?」
 松ヶ谷くんは黙秘権を行使した。墓穴を掘った、と思った。これ以上何かを突っ込まれたら、自分の要らない暴かれたくないものまで嘔吐されてしまいそうで怖かった。間宮には、そういう感じがある。松ヶ谷くんの苦手な感じだ。
「理由はわかんないけど、お前じゃなきゃ駄目だって思ったんだ。こういうのって、フィーリングが大事だと思うから、多分間違ってないと思う」
 いつの間にか二人称が『お前』になっていたのは、間宮の言葉に場違いな熱が籠っていたからだろう。本気だったのだ。それは、何となくだけれど、松ヶ谷くんにも伝わった。彼は急に居心地が悪くなる。目線を泳がしている内に、間宮の持っている一つのものに目が留まった。
「……その袋の中身、何?」
「え、夕飯の買い物だけど」
 間宮が大きく膨らんだスーパーの袋を掲げながら言った。葱が飛び出たその袋は、なるほど、夕ご飯の買い物以外には見えない。
「今日は寄せ鍋にしようと思って。それがどうかしたか?」
「野菜は当たり前だとして、他の中身には何がある、肉か、魚か」
「肉と魚両方買ったけど」
「これだから金持ち野郎は!」
 松ヶ谷くんは歯噛みした。自分たちは肉や魚のどちらかが鍋に入ることすら珍しい。それなのに、魚も肉も入っているだなんて。もし、その二つを分けたら、二回鍋が出来るじゃないか! せせこましい発想が出てきてしまう自分にも、しっかりと絶望した。
 そして、何を思い立ったか、松ヶ谷くんは急に間宮との距離を詰めた。パーソナルスペースが狭い間宮が動揺するくらい近くにだ。そして、松ヶ谷くんは間宮が持っている袋をおもむろに掴む。しゃく、とスーパーの袋が鳴る音がした。
「……これ」
「え?」
「前金代わりにこれ、くれるなら」
「……うん」
「モデル、受けてやってもいい」
 先のことが上手く考えられなかった松ヶ谷くんは、まず目の前のことを考えることにした。目の前の事とは、お腹を空かせて松ヶ谷くんを待っている松ヶ谷くんの兄弟たちや、母親の松ヶ谷千歳嬢の夕ご飯のことである。さっき、特売のキャベツを買い損ねた松ヶ谷くんは、彼らに夕ご飯として食パンの耳を差し出す羽目になる。
 自分の体質の所為で彼らに迷惑はかけられない。そう思った松ヶ谷くんは、そんなことを要求したのだった。それに、肉と魚の揃った寄せ鍋だなんて、しばらく、本当にしばらく、食べていない。
「え、これ?」
 要求された側の間宮は一瞬呆気に取られていたが、すぐにいつもの笑顔に戻ると、松ヶ谷くんに勢いよく大きくて重いスーパーの袋を渡した。こんなにスーパーの袋には物が入るのか、と松ヶ谷くんは場違いな感動をする。
「そんなことならいいさ! それでお前のことを撮れるなら安いもんだ! よっぽどお腹が空いてるんだな!」
 松ヶ谷くんは反射的に違う、と言いそうになった。けれど、結局そんなことは言えやしなかった。言ってどうなるのだ。言ってどうしたいのだ。家は貧乏で、お腹を空かせた兄妹が待っていて、一番下の弟のランドセルは何処からどう見たってただの風呂敷だけれど、周りから気を遣われて何も言われないんだって? 惨めになるだけだ。
「…………とにかく、これは受け取った」
 そう言うしかないじゃないか。松ヶ谷くんは唇を噛み締める。彼はどん底だけれど、どん底なりのプライドがある。キラキラと輝く人間に踏みにじられたくはない、薄闇色のプライドだ。
「ああ。これで、お前は俺のモデルだ」
 その言葉がやけに響いた。渋々頷く。
「それじゃあ、連絡先を教えてくれないか。依頼したい時は連絡する」
「私用の携帯は持っていない」
 持っていないことも無い癖に、松ヶ谷くんはそう言ってみた。何だか最後までこの男に抗ってやりたくなったのだ。このスーパーの袋の重みを諦められる筈も無いというのに、何処かで「それならこの話は無しにしよう」と言われることを期待していたのだ。
 けれど、間宮は笑顔のままだ。それどころか、良いことを思いついた、と言ったように、瞳まで輝かせている。
「そうか、なら住所でいいから教えてくれないか。依頼をしたい日に、俺がそっちへ行くから。日が合わなかったら断って追い返してくれたらいい。うん、そうしようか。住所、教えてくれるか?」
 そうくると思わなかった、というのが松ヶ谷くんの本音である。なんという特別待遇。カースト最下層の貧乏な松ヶ谷くんは、特別とついたものに縁があったことが無い。間宮の目を見れば、その提案がいかに本気かが容易に察せられた。今更撤回できずに、松ヶ谷くんは自分の家の所在を明かす。松ヶ谷くんも、結構律儀なのだ。
 間宮はしばらく松ヶ谷くんの住所を繰り返した後、「よし、覚えた」と、笑顔で言った。嘘だろ、と松ヶ谷くんは思ったけれど、残念ながら、間宮恭司は頭の回転がはやいだけでなく、記憶力もいい。
「そういえば、名前を言っていなかったな。俺は間宮恭司。お前は?」
「……松ヶ谷惣太郎」
「いい名前だ。良く似合ってる」
 いい名前。この名前を付けたのは、全ての元凶である松ヶ谷くんのおじい様である。勿論、松ヶ谷くんはそれを覚えていない。けれど、その所為でなんだか松ヶ谷くんは泣きそうになってしまった。これも、おじい様が松ヶ谷くんに、松ヶ谷惣太郎に残した呪いの一種だということを知らない。

 家に帰り、松ヶ谷くんは間宮からそっくりそのまま受け取った寄せ鍋の材料で、豪華な寄せ鍋を作った。スーパーの袋には、松ヶ谷くんの好きな春菊もちゃんと入っていた。鍋の具の趣味が似通っているということで、松ヶ谷くんは少し間宮に好感を抱いてしまう。
 松ヶ谷くんの兄弟達と、松ヶ谷千歳嬢は、皆寄せ鍋を大いに喜び、楽しんでくれた。魚と肉の両方がメインに据えられた鍋、という豪華さには勢いよく目を剥いた。妹の一人、松ヶ谷粥子は無邪気に「お兄、給料一杯貰ったの?」と松ヶ谷くんに尋ねた。松ヶ谷くんは無言で頷くだけだった。
 皆を寝かしつけてから、松ヶ谷くんはすぐに、間宮恭司をスマートフォンで検索した。スマートフォンはあくまでバイト先との連絡をする為に貸し与えられているもので、実のところ私的に利用するのなんてこれが初めてだったのだが、そんなことを構っている暇は無かった。
 個人情報なんか魚介類以下のぞんざいさで投げ捨てられているネットの海で、松ヶ谷くんは間宮恭司についての詳細を知った。フェイスブックは、怖い。松ヶ谷くんが抱いた感想は案外他愛の無いものだった。へえ、くらいのものだ。彼と自分は生きる世界が違い過ぎる。それは、妙に安心する事実だった。
 地虫の自分が妬ましいと思っていたものがそもそも種族の違う鳥だったという事実は、甘い。彼は蟹を見ても吐き気を催さず、美味しいと言って笑うのだろう。久しぶりの寄せ鍋でお肉ばかり食べていた松ヶ谷千歳嬢のたおやかな笑顔を思い出す。彼女はそういうことを知っているから、この状況下でも姫なのだ。
 プロフィール欄に映る間宮恭司の笑顔と蟹が奇妙に結びついてしまい、また吐き気がした。トイレにまで行く元気があるかなぁと思いながら狭い家の廊下に目を遣ると、横歩きの人影が見えた。松ヶ谷智以だった。松ヶ谷くんの、上から数えて三番目の妹だ。
「お兄、大丈夫?」
 眠そうな目の彼女は、松ヶ谷くんにそう尋ねた。妹も、何かただならぬ気配を松ヶ谷くんから感じ取ってしまったのだろう。心配そうだし、不安そうだ。
 スマートフォンの画面に照らされて亡霊のように染められた顔を無理矢理笑顔に直し、小さな妹に向ける。
「大丈夫だよ。智以はもう寝ないと、大きくなれないぞ」
「お兄は寝ないの?」
 答えにくい質問に答えられないまま、妹が距離を詰めてきた。床屋さんにあまり連れて行ってあげられない所為でお姫様のように長く伸びた髪が、右左に揺れながら、松ヶ谷くんの背中に着地した。
「寝るよ、いい子だから」
 スマートフォンの電源を切り、背中に弱々しくしがみ付く妹をそのまま背負う。
「このまま布団まで運んであげる」
 耳元で小さく笑う妹の声を聞き、松ヶ谷くんは決意を改めた。妹に自分のような道を歩ませない為なら、いくらでも自分を売りとばそうという決意である。もし、この薄暗い廊下に唐突に間宮が現れたなら、きっと松ヶ谷くんは彼の靴を恭しく舐めてみせただろう。しかし彼の、生きるのには無駄なプライドは、朝日を浴びたら生命力を蓄えて戻ってきてしまう。生き辛い話だ。

「松ヶ谷くんいますか」
 翌日、間宮は本当に松ヶ谷くんの壊れそうな家の扉を叩いていた。いつもバイタリティーの溢れている間宮が、彼に似合わない程優しくノックをしたのは、ボロ家過ぎてなんかの拍子に壊れそうだと思ったからに違いない。そのことに松ヶ谷くんが気が付いた時、彼は間宮に住所を教えたことを心の底から後悔した。
「松ヶ谷くーん」
 四回目の呼びかけで、ようやく松ヶ谷くんは扉を開けた。迎えに来られた苛立ちは、爽やかな笑顔を向けてくる間宮自身への苛立ちに覆い被されて見えなくなってしまった。間宮は、松ヶ谷くんを苛立たせたり、憔悴させたり、泣きたくなったりさせてしまう。
「あ、おはよう松ヶ谷。ここを探すのは大変だったよ」
「まあ、外から見たら家だとわかんないようなボロ小屋だからな」
 少々卑屈に松ヶ谷くんがそう答えた。卑屈や皮肉に慣れていない間宮は、その反応に素直にしゅんとしてみせる。それが一層、松ヶ谷くんを苛立たせた。けれど、こんな男でも、間宮は松ヶ谷くんの雇い主で、松ヶ谷くんは指の先まで間宮のものなのである。昨夜の靴まで舐められそうだった切実な気持ちを必死で探した。見つからない。
「それじゃあ、もう撮影始めたいから、今日空いてる?」
「……いきなりだな、空いてる」
 扉を閉めてしまいたがったが、今日は生憎の土曜日で兄弟達は皆家にいるし、もう一つのモデルのバイトだって今日は入っていない。ここで間宮について行けば、金が貰える。結局のところ松ヶ谷くんに選択肢なんて無いのだ。
 そんな松ヶ谷くんの鬱屈とした感情とは裏腹に、一々間宮は本気で喜んだ様子を見せた。見ているこっちが心臓を傷めそうな笑みだ。
「そうか! よかった! 急に押しかけたから迷惑なんじゃないかとひやひやしたよ」
 そもそも家にまで来られて、無下に追い返す方が難しい。松ヶ谷くんはこのおうち訪問システムの欠陥に、今更ながら気が付いている。それに、狭い松ヶ谷くんの家では、玄関に立っているだけの間宮からも、大体その全容が見えてしまう。自分は間宮のことをフェイスブックでしか知らないのに、間宮は自分の生活の八割方を見てしまっているのだ、という居心地の悪さが、松ヶ谷くんには、ある。
「……じゃあ、用意するから待ってろ」
 松ヶ谷くんがぶっきらぼうにそう言ったが、実のところ用意するものなんて殆ど無い。準備に手間がかかるというのは、多くのものを持っている人間にしか与えられない贅沢なものなのだ。松ヶ谷くんの準備といえば、薄いジャケットを羽織るくらいのもので、大した時間などかからない。
 一枚しかないそのジャケットを松ケ谷くんが羽織れば、兄弟の誰かしらが目敏く松ヶ谷くんの外出を察知する。ちなみに、松ヶ谷千歳嬢が気が付いたことはない。
「お兄、出かけるの?」
 そして、今日のその役目は、松ヶ谷くんの妹であり、小学生の松ヶ谷伊央だった。伊央はまじまじと間宮と松ヶ谷くんの顔を見比べている。
「うん。でも、母さんもいるし、俺がいなくても大丈夫だよな。智以と粥子と報介は、伊央も注意してやってな」
 小さな妹は、任せておいて! と、小さな胸を逸らせた。
「こんにちは、間宮恭司です。君のお兄ちゃん、少しだけ借りるね」
「は、はい! 私は、松ヶ谷伊央です! お兄をよろしくお願いします!」
 何故か伊央は真っ赤になった。まだまだ子供なのに、もう既に間宮にあてられてしまったらしい。松ヶ谷くんには気に食わない話である。それに、間宮の丁寧さも少しだけ気に入らない。何故だかはわからないけれど。
「いいから、行くなら早く行くぞ。俺は暇じゃない」
 ぶっきらぼうに松ヶ谷くんはそう言った。慌てて間宮が松ヶ谷くんの後を追う。松ヶ谷伊央は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。これも、松ヶ谷くんにとっては気に食わない話だ。

「俺は、その内個展を開こうと思ってる」
 撮影場所であるところまで歩いている時に、間宮はそう自身の展望を告げた。松ヶ谷くんはあまり間宮と話したくないというのに、間宮は積極的に松ヶ谷くんと話そうとしてくる。利害の不一致極まりない話だ。
「個展か。金持ちだしな、間宮海産の御曹司じゃ」
「俺の事知ってたの?」
 これも松ヶ谷くんの皮肉だったのだけど、間宮は素直にそう驚いた。目まで輝かせている。自分と松ヶ谷くんに過去接点があったかもしれないという可能性だけで、これまで喜べるのだ。何故だか松ヶ谷くんは少しだけ申し訳なくなる。そこが、間宮の魅力の本懐なのかもしれないとまで思った。
「……フェイスブックだよ、フェイスブック」
 その後に、あれって怖いよな、と続けようとした松ヶ谷くんは、間宮の「あれって便利だよな」と笑う屈託のない笑顔に打ちのめされた。そういうことを言われてしまうと、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「その個展に、松ヶ谷の写真を使いたい」
「……個展ねえ」
 松ヶ谷くんは芸術というものに触れたことが殆ど無い。強いていうなら、駅によく貼ってある芸術展のポスターに印刷されている名画達なら見たことがある。しかし、それだけだ。実物を見たり、芸術展に赴いたり、ましてや感動したことは皆無に近い。松ヶ谷くんの考えでは、芸術というものはお金が有り余っていて、なおかつお腹がいっぱいの人間がお金の使いどころに迷って選ぶ選択肢の一つであり、教養のある自分を見せつける為だけのそれは、ブランド物のバッグやアクセサリーとなんら変わらないものだ。つまり、セルフプロデュースの範疇なのである。ケーキが無ければブリオッシュの世界なのだ。
 松ヶ谷くんのその穿った考えを裏付けるかのように、間宮はお金持ちでお腹も満たされていて、なんだかやけに幸せそうである。松ヶ谷くんの芸術への偏見を覆すことは難しい。
「俺は、芸術っていいもんだと思うよ。俺が撮った写真で、誰かが感動してくれたら凄い嬉しい。その為には、松ヶ谷が必要だと思っている」
「生憎だけど、俺は芸術をヴィトンやシャネルと同列に見ているような人間だからな。お前が撮ろうとしている芸術を小馬鹿にしているような」
「ああ、ヴィトンやシャネルにもあまり良くないデザインのものがあるよな。ただ、あれだけ洗練されたものを作り出せるのはやっぱり凄いと思うよ」
 オーイエー、アーハン、何かおかしい。
 松ヶ谷くんを翻弄する為だけにわざと訳のわからないことを言っているんじゃないかと疑ってしまうくらいだ。当の間宮はシャネルやルイ・ヴィトン等のハイブランドがいかようにして生まれたかについてを、その素晴らしさを、延々と語っている。コイツの頭の中にはおめでたいことしか入っていないんじゃないか、と思ってしまうような暢気さだ。けれど、話している言葉達には無駄が無く、洗練されている。本物の教養があるのだ。間宮には。
 結局、松ヶ谷くんは楽しそうに語られる間宮の芸術論を、撮影場所に着くまで延々と聞く事になった。実のところ、間宮の話は上手過ぎて、松ヶ谷くんは途中から素でその話に聞き入ることになってしまったのだけれど、悔しいので言わないでおいた。それに、自分の賛辞で間宮の話を遮るのも、何だか申し訳ないような気がしたのだ。
「着いた、ここだ」
 歩き始めてから三十分、間宮が連れて来たのは何の変哲もない海だった。この町に住む人間にとってはさして珍しくも無い。磯の香りがしていたから、嫌な予感はしていたんだ、と松ヶ谷くんは一人嘆く。松ヶ谷くんは、蟹がのびのびと生きている海なんて、大嫌いなのだ。
「綺麗だな。この海を見る度に、この町に生まれて本当によかったって思うよ」
「俺は生臭いから嫌い」
「生臭いか。これって、海の生き物が死んでいる匂いなんだってさ」
 松ヶ谷くんはそれを聞いて、少しだけ嫌な気分になる。けれど、間宮は気にせず続けた。
「死んだ生き物の匂いで充満している場所で、生きているものを写すって、なんだか変な気分にならないか?」
 松ヶ谷くんはそんなことを考えたこともない。松ヶ谷くんのおじい様が死んでしまった時は、子供ながらに悲しかった覚えがあるけれど、小さい頃の記憶というものは、焼き切れかけたフィルムのように危うさと霞みがかった切なさを生み出してくる。正確なことなど、何一つわからない。
「俺は親しい人を亡くしたことがないから、死をまだ正確に捉えたことはないのかもしれない。でも、この世界で綺麗なものとか感動するものとかに出会う度に、俺はその尊いもの達が無くなってしまうこれからを哀しく思う」
「だから写真を撮るのか」
「多分な。まあ、何にも考えず、楽しいって気持ちだけがある時もある。しっかりとはわかんないな」
 松ヶ谷くんは、間宮が首に掛けている一眼レフを見つめた。間宮には夢がある。そして、その夢をしっかりと立たせるような理由がある。また松ヶ谷くんが、間宮を羨ましく思ってしまうような原因が出来てしまった。
「それで、モデルって何やるんだよ。蟹が苦手だと厳しいものなのか?」
「いや、もし松ヶ谷が蟹大丈夫なら、タラバガニとかを持って撮影して貰おうと思ってたんだけど」
「嫌過ぎ」
「松ヶ谷の嫌がるようなことはさせないから、……ちょっとそこの堤防に座ってみてくれるか」
 嫌なことばかり強要されるようなお仕事を経験していた松ヶ谷くんには信じられない要求である。松ヶ谷くんは大人しくその指示に従った。
 堤防は案外高く、登ると磯の匂いが殊更鼻についた。けれど、松ヶ谷くんは今、その匂いに不快感を覚えてはいない。何だか懐かしい匂いのする場所に来てしまった、そう思うだけだった。
「それじゃあ、楽にしてていいから少しだけ目線右にやってくれ。あとは、俺がシャッターチャンスに合わせて写真撮るから」
 松ヶ谷くんにタラバガニを持たせた写真を撮ろうとしていた割には、間宮の要求は自然で飾り気の無いものだった。松ヶ谷くんは表舞台に出られるようなモデルじゃないから、そういう自然さを出すのが難しくて、少し緊張してしまう。けれど、間宮は辛抱強く松ヶ谷くんの準備ができるのを待っていた。
 少し経って、頭上を舞う海鳥の声が無遠慮に聞こえ始めた頃、その声に紛れ込ませるかのように間宮がシャッターを切った。デジタルカメラのシャッターを切った後、続け様に間宮が一眼レフのシャッターも切る。
「撮れた。動いてもいいぞ」
「何で二回も撮るんだ?」
「レフだとその場で仕上がりが確認出来ないからな。デジカメで撮るのも必要なんだ。ほら、デジカメならすぐ見れる」
 間宮はそう説明すると、嬉しそうに松ヶ谷くんのいる堤防に近づき、デジカメの画面を松ヶ谷くんに見せた。
 そこには、太陽にさんさんと照らされた海を背景にした、なんだか穏やかな表情の松ヶ谷くんがいた。月並みな表現かもしれないけれど、松ヶ谷くんはこれが自分だとは信じられなかった。だって、松ヶ谷くんはこんな幸せそうに生きていない。もっと蟹の蠢く地獄をサバイバルしている。
「…………ふーん」
 綺麗だ、と言うのが悔しかった。被写体は自分で、あまつさえ間宮がカメラマンだ。それに、背景は天敵である蟹のいる海。悪条件が重なっているというのに、間宮の写真は美しく、その写真に写っている自分一つの作品だった。
 薄いコメントしか返さない松ヶ谷くんを気にせずに、間宮の方はいかにこの写真が素晴らしいかを語っている。それが、松ヶ谷くんには気恥ずかしくて堪らない。
「被写体が松ヶ谷じゃなかったら、こんないい写真は撮れないんだよ」
 だなんて酷い台詞を吐いてくるのだ。敵わない。
 ふと、松ヶ谷くんは思った。
 これは、間宮が見ている世界なのだ。
 だから、こんなに違うのだ。間宮の目に映るこれは、なるほどこんな風になっているに違いない。間宮の見ている景色は美しい。芸術なんて何の腹の足しにもならないけれど、間宮の写真は、間宮の見ている美しい世界を誰かに共有することが出来る。それは、多分尊いことだ。
 けれど、間宮の写真を見ても、松ヶ谷くんの世界では海は生臭くて間宮は疎ましくて自分は浅ましい。
「俺は写真が嫌いだから見せられても何も思わない」
 そういう複雑な気持ちが混ざって、松ヶ谷くんは間宮に向かってそんなことを言ってしまった。羨ましいというのは、本当に困る。自分が間宮の立場だったら、と思ってしまうのも困る。
「写真嫌いなのか。見るのが? 撮られるのが?」
「両方」
 写真に関しては、最高なものと最悪なものを同時に見せつけられているようなものなのだ。今まで撮られてきた写真と、間宮が撮る写真に写る自分とのギャップが大きすぎて、上手く反応が返せない。
「見世物にされて嬉しい人間は頭がおかしいんだよ」
 松ヶ谷くんはどうにか間宮を傷つけてやろうと画策した。上手い皮肉が思いつかなかったのは、間宮の写真の完成度の所為だろう。それだって、最早疎ましい。
「そうか、でも、仕事だからな」
 間宮は意外にも松ヶ谷くんにきっぱりと言い放った。ビジネスライクな関係がお好みだったはずなのに、松ヶ谷くんは勝手に突き放されたような気分になる。
「それじゃあ、もう何枚か撮るから、もう一度ポーズ撮ってくれ」
 一眼レフを弄りながら間宮が言った言葉に、松ヶ谷くんは黙って従う。仕事なのだ、という言葉がここまで心にくるのは初めてだった。その言葉は、今まで松ヶ谷くんが救われてきた言葉だ。間宮はその後の撮影でデジカメを使わなかったから、松ヶ谷くんが間宮の撮った写真を見ることはなかった。

「それじゃ、これ今日のバイト代」
 間宮からの給料は手渡しだった。世の中のいかがわしいバイトの大半は給料が手渡しなのである。夕焼けの所為で赤く染まった封筒の中身を松ヶ谷くんが検めたのは、透けている金額に驚いたからだった。松ヶ谷くんが身体を張って稼いだ時の給料と同じくらいある。
「こんなに貰えないだろ!」
 松ヶ谷くんはそう叫ぶ。松ヶ谷くんの自己評価がいくら低いからと言っても、高すぎる。
「どういうことだ、説明してみろ」
 間宮はゆっくりと首を振り、笑顔で言った。
「妹さん可愛いな。兄弟も多くて、楽しそうだ。今度遊ばせてもらっていいか?」
 間宮は恐らく松ヶ谷伊央のことを考えているに違いない。それか、玄関から見えた、松ヶ谷浪介と南伊と智以と報介のことを浮かべているのだろう。松ヶ谷くんは喉の奥が引っ繰り返そうな感覚に陥った。
「卑怯者」
 絞り出した言葉はそれだけだった。けれど、その言葉が間宮に一番似合わないことを、松ヶ谷くんは知っている。そして、間宮はこういう場面で絶対に譲らないだろう、ということも。
「それでいいから、受け取ってくれ」
 間宮はそのまま走り去ってしまった。松ヶ谷くんが何かを言う前にいなくなってしまう。間宮の足は速かった。間宮は真っ当にご飯を食べ、自由に生きているのだろうと思わせるような走り方だ。松ヶ谷くんは封筒を握り締める。次に会ったら突き返してやろうと思っているのに、松ヶ谷くんの頭の中では、弟の浪介の体操着や、妹の南伊の勉強道具の値段が回っている。粥子はまた、寄せ鍋が食べたいと言うだろう。
 松ヶ谷くんには選択肢が無かった。松ヶ谷くんは、お金が必要なのだ。

「あの、今日来た間宮って人ってお兄のお友達?」
 親愛なる妹は、よりによって間宮の元から帰ってきたばかりの松ヶ谷くんに、いきなりそう尋ねた。華麗なる追い討ちはいつだって予想外の場所からやってくるものなのである。
「伊央、どうしたの? そんなこと聞いて」
 松ヶ谷くんは松ヶ谷伊央を少しだけ無視してやりたくなったけれど、全力の理性でそれを止めた。松ヶ谷伊央は悪くない。悪いのは貧乏だ。
「ねえ、あの人、今度伊央と遊んでくれるかなぁ」
 松ヶ谷伊央が満開の笑顔を見せる。食べ物関連のこと以外で妹がそんな顔を見せるのは久しぶりだった。松ヶ谷くんは、妹が小学生らしからぬ、あるいは極めて小学生的なませ方をしていることに気が付いた。だって、間宮は完璧な好青年なのである。外見だって、美少年である松ヶ谷くんに劣らない。
 完敗だった。
「伊央、何が食べたい? あ、でも報介がタコさんウインナー食べたいって言ってたっけ」
「報介が食べたいのはカニさんウインナーだよ、お兄」
「タコさんウインナーにする」
 いくら可愛い兄弟の頼みでも、それだけは断固拒否しなくてはならない。

 それからの松ヶ谷くんは、なかなか間宮に協力的だった。
 松ヶ谷伊央が間宮に恋をしているということはほぼ確定していたので、ネガティブ思考が板についた松ヶ谷くんは、間宮に『お義兄ちゃん』と呼ばれる可能性を恐れたのである。
 スマートフォンの番号も教えた。なんだかよく分からないので本体を丸ごと間宮の方に投げてやったら大型犬のようにじゃれた後、松ヶ谷くんにはよくわからないような操作をした。そうして返ってきたスマートフォンには、アルバイト先の番号の他に『間宮恭司』の名前が記されていた。
「これで連絡が取りやすくなるな。ありがとう!」
「家に来られたくないんだよ。特に伊央には見せたくない」
「何で?」
 松ヶ谷くんは答えなかった。蟹以外に口に出したくないものが出来てしまったのは、即ち世界が広がったということなんだろうか。
 間宮は色々な場所に松ヶ谷くんを連れて行き、写真を何枚も撮り続けた。けれど間宮はあの時以来松ヶ谷くんに写真を見せなくなった。その場で確認する為のデジタルカメラも持ち歩くことが無くなった。ということは、あのデジタルカメラは、自分に写真を見せてあげようとした結果だった、ということなのだろう。そう松ヶ谷くんは思った。
 何となくもやもやとした気持ちになった松ヶ谷くんが「デジタルカメラを使わなくてもいいのか」と尋ねると、間宮は笑顔で一眼レフのシャッターを切る回数を増やした。もう、デジタルカメラを使うつもりはないらしい。
 それに対して何を言うこともなかった。松ヶ谷くんは、写真が嫌いだったのだ。少なくとも、間宮の前では。
 間宮の報酬は十分な額だったし、彼の依頼は頻繁だった。松ヶ谷くんのあまり日に当たらなそうな不健康な様子が気に入らないとかで、間宮はどうにかして彼を引っ張り出そうとしていたのだ。太陽が嫌いなわけじゃなくて気持ちに余裕が無いから不健康に見えたのだとわかってからは、一層松ヶ谷くんは連れ回された。そうして、間宮はいつか開く個展のタイトルを延々と語った。間宮が考えたとは思えないくらい絶望的にダサかった。
 こんな生活をしていて、なんだか間宮に飼われている感じがしなかったわけではなかったけれど、もうそれも段々どうでもよくなっていた。それは松ヶ谷くんが自暴自棄になったのではなく、松ヶ谷くんが間宮の写真に惚れこんだということだったのだが、彼は気が付いていなかった。気が付かない内に、松ヶ谷くんはあの時のたった一枚の間宮の写真で間宮に魅了されていたのだった。
「どうして写真を撮るのが好きなんだ?」
 松ヶ谷くんから間宮に対して間宮に関する質問をしたのは、もしかしたら最初で最後かもしれなかった。その日の撮影場所は海とは反対の深い森だった。その森の静かな深さは海に似ていて、少しだけ恐ろしい。
「多分、忘れるのが怖いんだと思う」
 間宮が間宮らしからぬ言葉を言った時、松ヶ谷くんは少し驚いた。間宮は真面目くさった顔で続ける。
「全てのことを覚えていたいんだ。人間の生きた証っていうのは即ち記憶だと思ってるから、余すことなく忘れたくないんだと思う」
「……へえ」
 松ヶ谷くんには忘れたいことが沢山あった。今までのことも蟹のことも嘔吐癖も、過酷な人生を生きるのに邪魔なものは全て忘れてしまいたかった。間宮が忘れたくないというのは、結局のところ彼の人生が忘れたくないと思えるような輝かしい思い出で埋まっていることを証明している。……それを考えると、あまりに切ない。
 松ヶ谷くんはこんな状況になっても気が付かない。間宮の写真に納まっている時点で、彼がその輝かしい思い出の一つに陳列されてしまっていることに気が付かない。
「ほら、撮るぞ」
 松ヶ谷くんは真っ直ぐにカメラの方を向いた。

 そんな松ヶ谷くんにも一つ、忘れていることがあった。
 松ヶ谷くんには間宮に写真を撮られる以外のバイトがちゃんとあったのである。あの、よくわかんない方のモデルのお仕事だ。よくわかんないといえば、間宮の写真だって十二分によくわかんないのだけど、そうではなくて。
 松ヶ谷くんがその仕事を忘れていたと言えば嘘になってしまう、だって松ヶ谷くんは確かにそれで生計を立てていたのだから。松ヶ谷くんの命綱を握っていたのは確かにその仕事だったのだから。
 スマートフォンを持たされていたのはそのお仕事の連絡の為であって、松ヶ谷くんが間宮と連絡を取る為じゃない。それでも何回も何回も、松ヶ谷くんはバイト先からの着信を無視し続けた。
 モデルじゃなかったのならよかったのかもしれない。モデルじゃなく、もっと直接的に泥に塗れるような仕事だったらよかったのかもしれない。客観的に見ればそんな状況は最悪かもしれないけれど、泥に塗れれば塗れる程、間宮から離れられるような気がして、却って楽だった。写真という共通項に意味を見出してしまうのは仕方がない。古来から掛詞にロマンを求めてきた日本人なのだし。
 皮肉なことに、カメラの向こうの松ヶ谷くんに価値を見出してくれるところはダーティーな御勤め先も間宮も同じだったのである。間宮が目を輝かせて写真を撮ってくれることも、売れ筋を考えながら御仕事先が松ヶ谷くんをプリントアウトすることも、同じステージ上に載ってしまうのが悔しくて、松ヶ谷くんは喘いでいたのである。
 しかし、松ヶ谷くんにはなんにせよお金が必要だ。お金が必要だったから、まんまと縄に掛けられた。縄が二本に増えたからといって、それを忘れてしまえばおしまいなのである。
「百六十七万円払って貰おうか」
 その一見突飛な台詞はちゃんとした文脈に沿ったものだった。つまり、そのダーティーで気の進まないお写真を撮られる方のバイトをもう辞めたいと言った松ヶ谷くんに突きつけられた金額がそれだったのだ。
 百六十七万円とはどこからきた金額だろうと思えば迷惑料ということらしい。その金額は今まで松ヶ谷くんがこのアルバイトで稼いだお金に等しいので、つまり、そういう因縁の付け方なのだろう。あまりに大金なので、逆に松ヶ谷くんは薄ら笑っていた。
「俺の家にそんなお金があると思いますか」
「無いと思ってるから言ってるんだよね」
「つまり逃げるなと」
「そう、お前は黙って働けってこと」
 あまりにシンプルな結論だった。対する松ヶ谷くんは、為す術もなく立ち尽くす――と思いきや、それより先に走って逃げだした。敢えてそこで華麗なる脱出劇なんか起こさなかった。相手方には松ヶ谷くんの住所も顔も何もかも割れているのである。だからこれは相手方からの逃走というよりは現実からの逃走だった。
 走って逃げた松ヶ谷くんが逃げ込む先には結局のところボロボロの松ヶ谷家しかなく、そこでは心配そうな兄弟達が今までの松ヶ谷くんにはありえないくらい早い時刻のお帰りに戸惑っている。松ヶ谷伊央も松ヶ谷くんを怯えたような瞳で見ていた。何に怯えていたのだろう。
「伊央」
 もしかすると松ヶ谷伊央はそうして松ヶ谷くんに引き留められることを一番に怖れていたかもしれない。
「もし色々駄目になったら間宮恭司のところにいきな。あいつなら何だかんだできっと働き口を斡旋してくれそうだしさ。ねえ、そうしたらきっと、生きていけるから」
 間宮に頼るのは本意ではなかった。
 でも、松ヶ谷くんには他に頼れる知り合いがいないのも事実だった。松ヶ谷くんの世界は、間宮に出会うまではこの家だけだったのだから。他のものなど、介入する余地があったはずがない。間宮なら多分、人の好さに付け込ませて、松ヶ谷くんの家を助けてくれるだろう。悔しいけれど。松ヶ谷伊央の旦那さんになる可能性は、この際目を瞑っておいてやってもいい。死ぬほど悔しいけれど。
 家の中は相変わらず騒がしかった。皆が皆の世話を少しずつ受け持っているから、あんまり外には遊びに行けないのだ。松ヶ谷くんは、自分と血の繋がった人間達を、癒着して海に漂う大きな海月みたいな家族を見た。
 自分は家族を守る存在ではなく今や単なる火種でしかないのだということを、松ヶ谷くんはちゃんと理解していたのである。それなら、松ヶ谷惣太郎がこの家にいる意味なんてない。
「お兄」
 松ヶ谷伊央は既に目を潤ませていた。もうそんな簡単な話じゃないけれど、もし松ヶ谷くんがここからいなくなる理由が純然たる貧困だと思ったなら、松ヶ谷伊央は迷わずに自分の勉強道具さえ差し出しただろう。松ヶ谷伊央は、松ヶ谷くんが大好きだ。当たり前じゃないか。
 松ヶ谷くんの方も、理性とか本能とか、そういう次元じゃない部分が揺らいだ。今すぐ決意を揺らがせて、泣きそうな松ヶ谷伊央の傍にいたかった。松ヶ谷くんは家族が大好きなのだ。そうでなきゃ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
 松ヶ谷くんは浅く息を吐いた。その瞬間だった。
「惣太郎」
 よく通る声だった。
 声の方を向くと、松ヶ谷千歳嬢が松ヶ谷くんのことを見ていた。松ヶ谷千歳嬢が松ヶ谷くんを見据え、あまつさえ、名前を呼んだのだった。
 怒っていた訳じゃない。困惑していた訳でもない。人生経験の豊富な方であろう松ヶ谷くんにも読み取れない不思議な目をしていた。松ヶ谷千歳嬢が松ヶ谷伊央でも松ヶ谷粥子でもない名前を呼ぶのは久しぶりだった。
 その声は一つの合図になった。
 松ヶ谷伊央の切ない声も、家族の中に流れた不穏な空気も、泣きだす前の一瞬の間も、全てが帳消しになったかのように、松ヶ谷くんは飛び出した。立てつけの悪いドアが壊れるくらい乱雑に閉まって、お互いの姿を見えなくさせる。
 松ヶ谷くんは逃げ出したのだった。
 この逃走は松ヶ谷くんが働いていた所――なんだか結構薄暗くて、労働法規も守らなくてどうしようもないようなポルノ写真会社――も、積極的に犯罪沙汰に手を染めないだろうという確信から行ったものだった。つまり、松ヶ谷くんが家から消えたからといって、松ヶ谷くんの家族に無差別な攻撃を仕掛けるようなことはしないだろう、ということだ。蟹を見るだけで嘔吐するような人間がいたって、この世はそこまで浮世離れなんかしていないのである。……多分。
 ダーティーな仕事先も、逃げ出そうとした松ヶ谷くんから少しばかり金を搾り取れれば万々歳なのだ。払えなくて捕まった松ヶ谷くんがもっとディープで嫌なお仕事に沈める口実に出来たって構わない。クレバーな御仕事先は、律儀にスマートフォンを持って逃げ続ける松ヶ谷くんを気まぐれに、それも手の空いた時に捕まえてどちらかを選ばせればいい。松ヶ谷くんなんて、どのみちその程度の存在なのだ。
 そんな自分だからこそ、と松ヶ谷くんは思う。そんな自分だからこそ、多分少しは逃げられる。気が向いた時に、網にかかった蟹を水揚げするように、仕事先は自分を絡め取ればいいのだ。それまでに少しの自由を楽しんで、視界にこちらに手を伸ばしてくる相手の姿が見えるまで。
 松ヶ谷くんは死ぬつもりだった。
 保険金をかけておかなかったことを後悔したけれど、保険をかけるだけのお金がないから松ヶ谷くんは死ぬのである。なんという美しい皮肉。舌先で転がせるアイロニー!
 覚悟を決めたところで松ヶ谷くんはどこにも行けない。逃げるにしたってそこまで選択肢はないのだった。親から貰った足は、自転車に負ける代物だった。
 そんな松ヶ谷くんがやってきたのはやっぱり海だった。漁業で発達したような街だから、海くらいしか、今の松ヶ谷くんの煩悶よりも大きくて、真綿で首を絞めてくれるものなんてない。間宮のこともちらりと考えたけれど、間宮は海と違って、松ヶ谷くんを殺してくれたりなんかしないだろう。身なんかどこにもない砂を蹴る。追っ手がやって来たら、波の来る方へ駈け出して行こうと決めていた。
 海は当たり前だけど、磯の香りがした。松ヶ谷くんを苦しめた蟹も吹っかけられた借金も、百六十七万円も、ポルノ写真も、松ヶ谷くんも間宮も大きく元をたどってしまえば海から生まれたものだから、松ヶ谷くんがこれを見て癒されるなんて本当は違うのかもしれない。けれど、海は確かに間宮の世界の物の側だった。それは松ヶ谷くんにとっては慈しむべき対象なのだった。
 奥の方で胎動するかのように何かが蠢き、松ヶ谷くんの元まで波を運んでくる。自分のこの状態もこのような大きな流れの所為にしてしまえれば楽なのだけど、松ヶ谷くんの今の状態は、紛れもなくお祖父様の所為だし、家族を守ろうとした努力の結果だった。何の所為にも出来なかった。
 蟹の所為くらいにしか出来なかった。それも、今の吐き気の責任だけしか求められない。蟹じゃ駄目なのだ。もっと大きくて、強い何かの所為にしないと。
「ちょっとそこのお兄さん。時給五千円でバイトしませんか」
 例えばその五千円でもいい。松ヶ谷くんの価値がその程度だとはっきり示してくれたなら、松ヶ谷くんは安心して飛び込めるだろう。自分にその程度の価値しかないのなら、松ヶ谷くんが自分を好きになれなくたって仕方がない。
「仕事って何。五千円で何をさせたい?」
「モデルのお仕事なんですけど」
 松ヶ谷くんは聡明だった。昔は少し世間知らずだったし、今だって知識自体は足りない部分もあるけれど、聡明だった。だから、松ヶ谷くんは狭い彼の世界の中で、素晴らしい検索機能を働かせる。彼にモデルの仕事を頼むのなんて、なおかつその声が少しだけ上擦っている相手なんて、一人しかいない。松ヶ谷くんはゆっくりと振り向いた。波の音が背中を滑る。
「GPSだよ、GPS。知らないの?」
 言われるべき言葉を察知したのか、エスパー並の早さで間宮がそう答えた。松ヶ谷くんはまさにその通り「どうしてここが」と聞こうとしていたので、どこまでも正しい答えだった。でもまあ、その内容については、あまり正しくないけれど。
「いつ付けた」
「お前が携帯貸してくれた時」
 松ヶ谷くんは歯噛みした。仕事先にいくら発信機をつけられているからといって、二重に付けられないという訳ではないということを実感した。
「いいのかと思って」
 間宮が眉を寄せながら松ヶ谷くんにいけしゃあしゃあとそんなことを言ってのけた。いいはずがない。道徳的にも仁愛的にもその他諸々全てにアウトだ。雇用主が須らく従業員のプライベートを知る権利があるのなら、この国の法律は改正を考えたっていい。こんな時まで松ヶ谷くんは、間宮がその行為を行き過ぎた親愛の情から行った可能性を考えたくなかった。
 少しだけ浅く息を吐いてから、松ヶ谷くんは見慣れたはずの間宮に対する違和感の正体を探り出すことにした。なんてことはない、すぐに見つかることだった。間宮は首から下げたいつもの一眼レフと一緒に、肩から大きな、間宮の肩幅くらいある大きなクーラーボックスを担いでいたのである。大きすぎて中にマグロが入っているとでも言われないと納得できないようなクーラーボックスだ。
「そんなに怒るなよ。俺も代わりに、教えてやるから」
 松ヶ谷くんはそのクーラーボックスに対して訝しげな目線を送っていたのだが、勘違いをしたらしい間宮が困ったように笑う。そして、何を思ったのか、首に掛けていた一眼レフをおもむろに外した。
「教えるって、何を」
「蟹のこととか?」
 間宮はそう言いながら首から外した一眼レフを松ヶ谷くんの足元に投げた。ここが砂浜でよかったと思わせるような、柔らかい音があたりに響く。そのまま間宮は綺麗に松ヶ谷くんに背中を向けた。
 松ヶ谷くんは間宮の投げた一眼レフを拾い上げる。静かに砂を払う。何故だかこれから見る光景は安易に予想出来た。予想材料は間宮の優しさと、間宮が松ヶ谷くんを慈しむ時の目だ。
 果たして、カメラの中にはフィルムが入っていなかった。
 きっと、今までだってずっとそうだったのだろう。間宮はそういう男だ。
 松ヶ谷くんが写真を撮られることを嫌っている、だなんてお話を、間宮は律儀に信じていたのだった。まるで、童話の主人公のような純真さじゃないか。笑おうとしたら、喉の奥が引き攣った。松ヶ谷くんは、間宮の姿を泣きそうな気持ちで探す。
「間宮」
 間宮はすぐに見つかった。間宮は、クーラーボックスを放り出し、波打ち際に立っていた。足元にあるものは、そして、間宮が両手に掲げているものは、まごうことなき松ヶ谷くんの天敵、蟹である。
 放りだされたクーラーボックスの中身を確認した。やはり蟹だった。あの大きなクーラーボックスを、ブリの代わりに埋めているのは大量の蟹だ。
 あんなに沢山。それなのに、吐き気はしない。頭痛も起きない。間宮は笑っている。笑って蟹を持っている。そして、間宮は右手に持った蟹を水平線に向かって勢いよく投げた。美味しそうな、実際に茹でて口に運べばきっと美味しいであろう蟹が、ぼちゃんと音を立てて海へ沈んでいく。それを見届けながら、間宮は大声で叫んだ。
「松ヶ谷! これが海に還るっていうことだ!!」
 意味が分からない。
 間宮はそれからも次々と新鮮な蟹達を海へ投げこんでいく。少し前の松ヶ谷くんなら勢いよく砂浜に嘔吐していたか、高級食材をみすみす海に住む生き物たちの餌にくれてやる間宮を全力で止めていたのだろうけれど、今の松ヶ谷くんは、さっぱり動けない。
 間宮が投げ終わった蟹の所為で、海は何だかやたらグロテスクに染まっていた。松ヶ谷くんは結局嘔吐しなかった。ただ、間宮だけを見ていた。
「これでお前を脅かすものはもう何処にも無いよ」
 くるりと松ヶ谷くんに向き直った間宮は、晴れ晴れしく松ヶ谷くんにそう言った。海は月が優しく引いてくれるから、蟹だって一緒にその内何処かに消えて、海の生物たちの美味しい御馳走になることだろう。松ヶ谷家においての寄せ鍋のように。蟹よりも弱いもの達が、蟹を食べ尽くすのだ。
「百六十七万かかった」
「百六十七万」
「蟹って高いな。知らなかったよ。買ったこと無かったからさ。貯金も全部下ろして、親に土下座して金借りたよ。必ず返すから、無休で無給のどうしようもない働き蟻になる覚悟もあるからってさ」
 その金額には聞き覚えがあった。恐らく、確証はないけれど、松ヶ谷くんを追いたてる電話はもう鳴らないような気がした。そして、間宮がきっと百六十七万を魚市場で使ったんじゃないような気がした。彼はきっと嘘を吐いている。わかっている。わかっている、けれど、松ヶ谷くんに一体どんな言葉が吐けるだろう? だって、松ヶ谷くんは大分吐き気を我慢しているし、百六十七万円はもう間宮の手元にはないのだし、なんだか泣きたいし、困ってるし、気持ちがぐっちゃぐちゃだし。
「どうしてこんな馬鹿なことしたんだよ」
「蟹は海に還した方がいいと思ったんだ」
 そういうことじゃない。それじゃない。間宮も松ヶ谷くんもそんなことは百も承知だ。けれど、間宮はどう松ヶ谷くんが責めたってしらを切り、蟹のことだと曲解するだろう。そうでなければ、高級でグロテスクで美味しい蟹を海に投げ捨てた意味が無い。
 松ヶ谷くんは浅く息を吐く。素数を数えようとした。出来なかった。だから、意を決して、素数代わりの告白をした。
「間宮、俺は蟹が怖いんじゃないよ」
「松ヶ谷、お前」
「俺は変わんないよ」
 例え、あの場所から逃げ出しても、蟹が海に還っても。
「どう頑張ったって変わらないよ。変わるわけないだろそんなもん。借金が収まっても、俺は変われないよ。兄弟はこれからだってお金が必要だし。蟹を見るのが嫌なのは、きっとそれが大したことないって、知ってるからなんだよ。俺は蟹を買えるけど、こんな変な体質じゃなきゃ食べられるけど、蟹が食えても俺の家は社会の最下層の最底辺の貧乏人だよ。まともな仕事も無くて、何にも無くて、趣味も無くて、友達も無くて、何にも無い。それを知ったから、それを知れるだけの歳になっちまったから、それに対して吐き気がするんだよ! 俺は!」
 松ヶ谷くんは泣いていた。生理的な涙ではなく、久しぶりに見せた感情的な涙だった。感情を見せる暇がない程忙しかったのだ。彼は。
 松ヶ谷千歳嬢が松ヶ谷くんに言った呪いの言葉は、美しいけれどおよそ母親らしくはない松ヶ谷千歳嬢の、最初で最後の母親らしさだったのかもしれない。
 彼女はお姫様だったけれど、奇跡を信じてはいなかった。彼女をカースト制度の最下層から救い出してくれるものなんて、彼女にはちょっと想像が出来ないものだったのだ。
 松ヶ谷くんだってそうだった。それなのに、どうしてこうなったのだろう。
 松ヶ谷くんには希望が無い。生まれた時から、希望が無い場所に生まれた。希望を持ったら潰されるということを、小学校に上がる頃には知っていた。
 希望と絶望はとても仲がいい。それは、松ヶ谷くんと間宮の仲がいいことからも明らかだ。
「どうして俺のことを助けたんだよ」
「助けたわけじゃないだろ。俺は何もしてないよ。お前だってそんなこと、わかってるだろ?」
「わかってる。でも、そういうことじゃないってことも、お前はわかってるんだろ」
 松ヶ谷くんは松ヶ谷千歳嬢の息子だ。その目は、彼女と同じく雄弁なのである。間宮は、仕方なく呟いた。
「なんだろうな、ほっとけなかったんだろうな。お前じゃなくちゃ駄目だって思ったんだ。外見だってそりゃ大事だけど、もっともっと別な部分で、俺はお前を諦められなかったんだよ」
 少し前までの松ヶ谷くんなら、ここでも間宮を突っぱねていただろう。けれど、そんなことはもう出来なかった。カースト制度から脱け出せなくても、ポルノ写真を撮られるくらいしか仕事が無くても、松ヶ谷千歳嬢に呪いと祝福を同時に授けられても、松ヶ谷くんは間宮と同じ世界が見たかったのである。いや、松ヶ谷くんは確かに見た。デジタルカメラに表示された自分の姿、あれはどうしたって自分だったし、あの一瞬、松ヶ谷くんは間宮の見ている世界の一部だったのだ。確かに。
「松ヶ谷、これからもお前のこと撮ってもいいかな」
 それは変わらないという宣言に等しかった。
 変わらないということは松ヶ谷くんにとって、確かに絶望の象徴だったはずである。松ヶ谷くんはこれからの不変を蟹に重ねていたのだ。不変の理由を貧乏でも自分でもなく蟹に求めていた。それなのに。間宮にあんな真似をされて、こんなことを言われてしまえば、松ヶ谷くんはその手を使えない。
 蟹に対する恐怖症は松ヶ谷千歳嬢のかけてくれたありがたい呪いだった。海に流した助け舟でもあった。けれど、間宮は今、そんなことをすべて無視して、松ヶ谷くんに聞いているのだ。
「もうフィルム入れ忘れんなよ、馬鹿!」
 松ヶ谷くんは、目の前にいる間宮に大声で言った。涙がぼろぼろと溢れてきた。そういうことじゃない。そんなものでもない。だから、敢えて大声で言ってやったのだ。
「もう忘れない! 絶対!」
 間宮は偉そうにそう返した。
 間宮は松ヶ谷くんが蟹が苦手で嘔吐しても、貧乏という名のカースト制度の最下層にいても、写真が嫌いだとのたまっても、一眼レフに松ヶ谷くんを収め続けるだろう。松ヶ谷くんは逃げられないのだ。蟹は海に還れるけれど、松ヶ谷くんはあの家に帰らなくちゃいけない。だって、間宮は松ヶ谷くんの代わりに蟹を海に還したのだから。松ヶ谷くんは、もう海には帰れない。
 お礼なんて言わないだろう。間宮は蟹を買っただけだ。あまつさえ、あの美味しい蟹を海へと捨てた。食べ物を大事にする貧乏な松ヶ谷くんが、そんな行為を許せるはずがない。寄せ鍋の具材の為に自分の身を売れるような松ヶ谷くんは、絶対に許さない。だから未だに、松ヶ谷くんは泣いているのだろう。それ以外に、理由をあてはめたくなかった。それ以外に間宮の前で泣きたくなんかなかった。

 その後の話を少しだけすると、松ヶ谷くんの愛すべき家族は、無事にカニさんウインナーを食べられるようになった、ということだろうか。……一番にお伝えするべきなのは。
 松ヶ谷くんがめでたく職無しとなって松ヶ谷家に帰ってきた後、自称天才カメラマンである間宮の撮った写真は、地元の小さな写真展で銀賞を頂いた。評価が別れたものの、何故か人を惹きつける写真として話題になったその写真には、一人の美少年と沢山の蟹が写っている。蟹は海に投げ込まれぷかぷか浮かんで背景となっており、美少年はそれを物ともせずにカメラに向かって笑っている。背景に浮かぶのは蟹も彼も赤く染めるグロテスクな夕陽だ。モデルの少年が泣いているように見えるのは何の効果だろうかと見た人間は噂していたが、何のことはない。彼はあの時、泣いていたのだ。
 加えて間宮は今百六十七万円の借金を両親に返済する為、普通に健全なアルバイトをしている。両親の仕事の手伝いとして、海産業者のお仕事に携わっているのだ。順調な人生設計も、呪いになるのだろうかと松ヶ谷くんは考える。けれど、間宮はきっと笑いながらこう答えるだろう。それは、祝福だ。それに、間宮は堅実なお仕事に携わりながらも、ちゃんと天才カメラマンだ。それが、呪いと祝福の違いだった。
 松ヶ谷くんも、普通に働き始めている。蟹を見ても嘔吐しなくなった松ヶ谷くんがこの街で働く術はいくらでもあった。水揚げの仕事も、スーパーで働くことも出来た。松ヶ谷くんはどこにでもいけた。
 そんな松ヶ谷くんが選んだのは、間宮の通う大学の事務の仕事だった。こんなところまで間宮と接点を持つのもなんだか思うところはあったのだけれど、募集していたのだから仕方がない。書類の整理や構内の掃除をするのが主な業務内容であるこの仕事は、空き時間にこっそり授業を聴講できるのがメリットだった。
 世界を広げることは痛ましいことだと思っていた。それは主に、松ヶ谷くんのあの妙な恐怖症の所為だった。諦めの良さを長所であり美徳と見ていた松ヶ谷くんは、蟹と一緒に可能性を砂に埋めた。だって、今までの松ヶ谷くんにそれはちょっと、劇薬過ぎる。
 そんな松ヶ谷くんが今やっていることは、埋めた蟹を少しずつ掘り起こしてやっているようなものだ。今思えば、どうしてこんな美味しそうな代物に吐き気を催していたのかなんてわからない。けれど、松ヶ谷くんはそれが無ければ、泣くことも吐くことも出来なかったのだ。蟹はいつだって、松ヶ谷くんを救っているのかもしれない。
 大学構内では、たまに間宮を見かける。松ヶ谷くんは友人に囲まれて幸せそうに笑う間宮を何回も見た。そんな時、松ヶ谷くんはふと、妙な気持ちに襲われた。間宮が陽光の元で髪を揺らす時、そこには間宮の世界が確かにあった。松ヶ谷くんにも確かに見えた。現実には存在しないはずのフレームが間宮の世界を切り取り、松ヶ谷くんの世界を浸食する瞬間が。
 松ヶ谷くんはその一瞬を忘れないように、静かに指でそのフレームを模ってみたことがある。丁度、子供がカメラごっこをするような時の形だ。不思議なことに、松ヶ谷くんがそれを行うと、決まって間宮は松ヶ谷くんに気が付いて、首から掛かっている一眼レフを松ヶ谷くんに向けるのだった。

 松ヶ谷家で催された二回目の寄せ鍋には間宮も訪れることになった。
 相変わらずお金が無いので豆腐ばかりが目立つ鍋の予定だったのだが、間宮はあの時の大きなクーラーボックスを持って現れた。勿論、その中身は蟹だった。ちゃんと茹でてあるその蟹は、相も変わらずグロテスクな赤色で、松ヶ谷くんの目を焼いた。けれど、吐き気はもう催さなかった。
「間宮さん、蟹って高いんじゃないの?」
「うん。百六十七万位する」
 松ヶ谷伊央が間宮の言葉に驚いて放心している間に、間宮がてきぱきと蟹を捌き、ぼちゃぼちゃと鍋の中に入れていった。豆腐しか目立つものの無かった鍋の中に、いきなり現れた赤が綺麗だった。食べ物を綺麗だと感じる感性なんて、今まではなかったものだ。
 松ヶ谷伊央も、松ヶ谷粥子も、松ヶ谷報介も、松ヶ谷南伊も、松ヶ谷智以も、松ヶ谷浪介も、松ヶ谷惣太郎も、間宮恭司も、そして、松ヶ谷千歳嬢も揃って鍋を囲んでいた。少し前の松ヶ谷くんには信じられない光景だった。これが、蟹を克服して得られたものなのか? と、松ヶ谷くんは少しだけ考える。
 間宮は松ヶ谷粥子に蟹をほぐしてあげていた。少し前なら、松ヶ谷くんがその役割のはずだった。けれど、今ではもう既に、松ヶ谷くんの目の前にはほぐされた蟹が、小皿に盛られてちょこんと置かれていた。
 赤くてグロテスクなのに、どうしてこんなにも中身は白くて綺麗なんだろうか。これを何かの啓示だと呼ばないのは、神様の設定ミスに違いない。そう思わないと、何だか泣きそうだった。
 目の前の光景を写し取りたいと思うのが写真を撮ることへのモチベーションなのだ、ということに、松ヶ谷くんは今更気づく。そうして自分達は、いつでも被写体になるのだ。
「今、幸せ?」
 不意に、隅で蟹を食べていた松ヶ谷千歳嬢が華麗な動作で箸を動かしながら静かにそう聞いた。松ヶ谷千歳嬢が松ヶ谷くんに話しかけてきたのは、逃げ出したあの日に放たれた呼びかけを除けは随分久しぶりのことである。貧乏であろうと不幸であろうと、松ヶ谷千歳嬢は純然たるお姫様だったからだろう。
 松ヶ谷くんは久しぶりに自分に向けられた松ヶ谷千歳嬢の声に、少しだけ狼狽した。上手く言葉が返せなくて、箸を取り落としそうになったほどだ。カクテルパーティー効果を綺麗に体現したかのように、その時松ヶ谷くんと松ヶ谷千歳嬢は確かに二人きりだった。
「蟹、美味しい?」
 松ヶ谷千歳嬢はたおやかな笑顔のまま、もう一度松ヶ谷くんにそう尋ねた。松ヶ谷くんがいつまでも答えないので、松ヶ谷千歳嬢は松ヶ谷くんがきっと自分の質問を聞き逃したのだと判断したのだろう。さっきと質問の内容が変わっているのは、松ヶ谷くんの純然たる聞き間違えか、はたまた松ヶ谷千歳嬢の何かの意思なのかはもうわからない。
 松ヶ谷千歳嬢から授けられた祝福は、今目の前にちゃんとある。
 松ヶ谷くんは質問なんかどちらでも構わないので、とりあえず大きく頷いた。どちらだって、きっと同じ答えになる。間宮がほぐしてくれた蟹は、まだ一口も手を付けられずお皿の中に残っていた。

                                        

                                (了)

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