最後にして最初の探偵(ノベリスト)

 待ち合わせをすっぽかされたところまでは赦せた。けれど、待ち合わせの前に自殺をされたと聞けば、正直怒りが先立った。歳華はその日、二時間以上待ったのだ。それなのに、やっていたことが自殺なんてふざけている。そんなことで納得がいくはずがない。別の日にやれ。

 一月一日の午前十一時、瀬越歳華は晴れ着姿で新宿駅に居た。元旦の浮かれた雰囲気に合わせて、相応に浮かれて見せた結果である。赤と黒の着物は兄が着つけてくれたものだ。我ながらよく似合う、なんて驕ったものだった。
 待ち合わせに遅刻されたくらいで動揺はしない。何せ相手は菱崖小鳩だ。何をやっているのか分からないふわふわ質量の男である。
 だからその日も、歳華は大して心配もしていなかった。怒りはした。何せ彼女は一月後に受験を控えているれっきとした受験生である。待ち合わせ場所に現れない不実な男を待ちながら時間を浪費していいはずがない。
 けれど結局、歳華は二時間以上菱崖小鳩のことを待った。
 動きづらい着物を着て来たのだから、一言くらい褒めて欲しかった。ただそれだけだった。理由は他にない。

『それじゃあ、新宿駅の東口に十一時で。……何で昼前? 僕、前日ちょっと忙しいんだけど』
 昨日交わした電話越しの会話を思い出す。終ぞ叶えられなかった約束、菱崖小鳩との最後の会話だ。電話の向こうの小鳩が困ったように笑う。それに合わせて、歳華は食い気味に言った。
「だって元旦の日って神社に出店が出るでしょ。お昼にイカ焼きと焼きそばが食べたいの!」
『瀬越の奴がおせち作ってるのに?』
「それとこれとは別! お祭りの時かお正月くらいしか、露店の食べ物って食べられないし……」
 兄がせっせと料理の仕込みを行っていることは知っている。この間、バイト先で殺人事件が起きたとかいうふざけた言い訳をしては調理に勤しむ兄のことを、歳華はちょっと可愛いと思っていたくらいだ。
『まあ、初詣くらい付き合うよ。歳ちー、今年こそ受験成功しなくちゃいけないもんね』
「本当にそれだから! もう後に引けない……もう一年浪人するのは嫌……だから絶対初詣行かなくちゃいけないの……」
 ところで、歳華は去年、ろくに勉強をしないまま英知大学を受験し、流れに乗って普通に落ちた。滑り止めも含めて全部落ちるという、ある意味清々しい結果である。女子大生小説家どころか、そもそも女子大生になれないという逆快挙に震えた。人の人生に小粋な意趣返しを仕込まないで欲しい。
 暢気にリゾートに赴いた二〇一五年の夏休みを思い出す。あの時は、まさかこんなことになるとは思っていなかった。華麗に受験に勝って、小鳩と一緒に文化祭を回っていたはずなのに。
『だからって神頼みっていうのもどうかな』
「いいの! じゃあ、遅れないでよ!」
『善処するよ。それじゃあ、また明日ね』
「善処じゃなくて絶対だって!」
『この世に絶対なんて無いからね、困るな』
 そう言って、電話は切れた。
 それが、小鳩との最後の会話だった。「遅れないでよ」という言葉が寒々しい会話だ。新宿駅の東口に小鳩は現れなかった。十一時どころか、三十分経っても、一時間経っても、小鳩は来るどころか連絡すらつかなかった。
 それも全て仕方のないことだった。その時にはもう既に、菱崖小鳩は死んでいたのだから。

 菱崖小鳩の葬式は、三が日が過ぎてすぐ行われた。
 棺に横たわる小鳩のことを、歳華は信じられない気分で見る。十七階建てのタワーから落下した小鳩は、どういうわけだかすっかり修復されていた。今の技術だと、たとえどんな状態でも復元出来てしまうらしいのだ。それを聞いた時、余計なことをと思わずにはいられなかった。あんなに出来過ぎた復元じゃ、まるで小鳩が死んだみたいじゃないか。
 例えばこれがミステリーであったなら、この死体が小鳩じゃないという展開もありえたかもしれない。あの死体が首無しであったなら、あるいは落下した小鳩が粉々に砕け散ってくれていたら。それでも現代の科学はあれを小鳩だと明らかにしてしまうかもしれない。いっそのこと、死体すら見つからないでくれていたら。
 小鳩がふらっと目の前に現れて、ふにゃっとした笑顔で歳華の名前を呼んでくれる日のことを夢に見たかった。そういう甘さを打ち砕くだけの力が、目の前の死体にはある。現代の技術は素晴らしい。眠っているようにさえ見える。
 一旦巻き戻して欲しい、と切に思った。ここで死なれると困る。だって、死ぬと分かっていたら、もっとこう何か、もう少しだけでも何か、……あったのに。
「歳華」
 その声に振り向くとそこには俊月が立っていた。
 目の前にはもう棺の中の小鳩もいない。どのように式が進行したのかもわからないけれど、事態は歳華を置いてどんどん進んでいるようだった。
「小鳩の奴、焼くって」
「あ、うん、そう、そうだよね……」
「別れを言ってやらないと」
 呆然と行方を見守っている歳華に対して、俊月は毅然とした態度を崩していなかった。涙の一つも見せずに、何も言わなくなってしまった親友のことを見送っている。この兄は弔辞も読んだらしいけれど、聞いたはずの内容すら思い出せない。
 歳華とは大違いだった。俊月はちゃんと別れの手順を踏んでいる。
 さりとて、式は進んでいく。菱崖小鳩は焼かれて骨になる。
 焼かれた小鳩の遺骨の一つでも食べてやろうかと思って、結局やめた。そんなことが出来るはずがなかった。何しろ歳華は普通の人間なのだ。普通の、小説家志望の、人間だった。
 最後に小鳩の父親らしき人が簡単な挨拶をして、そこで本当におしまいだった。取り残されたような気分のまま家に帰り、涙の一つも流せないままベッドに寝転んだ。
 喪失感は柔らかく日の差す森のようで、抜け出すのが難しい。どこか現実味を欠いているのに、どういうわけだか途方も無く寂しい。こういう時に小鳩がいてくれたらいいのにな、というぼんやりした思いと、その小鳩には二度と会えないという事実が噛み合って現実を食い荒らす。

 歳華が本当の意味で小鳩の死を実感したのは、その夜のことだった。
 動けもせず、かといって眠ることも出来ないままベッドに横たわっていた歳華の耳に、小さな物音が聞こえた。それを聞いた歳華は、音を立てないようにして、リビングの方に向かった。
 二人暮らしの家だ。物音を立てる相手なんて一人しかいない。どうやら、俊月が不注意でカップを割ってしまったようだ。床に細かな破片が散っている。
 散らばったそれを拾いながら、俊月が泣いていた。
 押し殺すような泣き声だった。葬式の時には全く見せなかった涙が、兄の目からぼろぼろと零れている。堪えているのだろうに漏れ出す嗚咽は、暗い部屋の中で恐ろしいほど響いていた。
 本当は、ずっと耐えていたに違いない。歳華は今更ながら気づく。小鳩の訃報を聞いてから今まで、一体どんな気持ちで過ごしていたんだろうか。
 殆ど見たことがない兄の泣くところを見て、初めて歳華は菱崖小鳩が死んだことを実感した。音を立てずに部屋に戻ると、今度こそ歳華は泣き始めた。ぼたぼたと流れる涙の止め方がわからなくて、息が苦しかった。
 菱崖小鳩の不在がこんなにも苦しいことだとは思わなかった。この不在が永遠に続くのだと思うだけで、気が狂いそうになった。それが喪失で、これが死だった。

「小鳩ってさ、悩みとかあったのかな」
 小鳩の葬式から一週間ほど経って、ようやく歳華はその言葉を口にした。食パンにジャムを塗っただけの簡単な朝ご飯を食べながら、兄のことを見つめる。俊月は少しだけ考えてから言う。
「さあな。俺にはわからん」
「そうだよね。小鳩のことなんてわかんないよね。ていうか絶対悩みとか無さそうだしね! 何あれ!」
 苺ジャムを塗ったパンを口に詰め込みながら、歳華は大声でそう言った。勿論まだ悲しいけれど、怒りも当然あるのである。何が悲しくて、待ち合わせ前に自殺なんかされなくちゃいけないんだろうか。それも、大晦日に。新しい年の前日に。
「あいつの為に悩んでやるのも馬鹿らしい」
 俊月も俊月で、どこか呆れたように呟く。あの夜の嗚咽には触れなかった。長年の親友を失った悲しみは本物だろうけれど、その呆れた様子にも嘘は無いのだろう。ずっと小鳩に困らせられてきた経験が、そういう複雑な感情を生んでいるのかもしれない、なんてことを歳華は思う。何しろ相手は害悪なのだ。
「あいつ絶対天国行ってないよ」
「それはそう思う」
「地獄にも映画館があるといいね。退屈な映画ばっかり流れてるの」
「小鳩はどんな映画でも割と楽しんで観れる奴だったからな。あんまり苦にもならなかったかもしれん」
「それはそれでいいよ。……別に小鳩に苦しんで欲しいわけじゃないんだもん」
 本当は、これから公開される映画だって地獄で観れたらいいと思う。小鳩がいなくなったって映画は生み出され続けるだろうし、何だかんだでパシフィック・リムの続編やリメイクを、彼は楽しみにしていたのだ。
「でも、天国には行けないよね」
 歳華は言い聞かせるようにそう呟く。一体、誰や何に言い聞かせているのかも分からない。単なる恨み言だったかもしれない。可愛い女の子を二時間待たせるというのは、天国に行けないくらいの大罪なのだ。

 そんな中で迎えたセンター試験も、殆ど身が入らなかった。
 元より、浪人生になっても歳華はまともに勉強していたわけじゃなかった。けれど、それにしたって酷い結果だった。センター利用なんか期待していなかったけれど、こんなタイミングで死んだ小鳩のことを恨む。半分ほど済ませた自己採点を投げて、歳華はぼんやりとこれからのことを考える。
 小生意気な英知大学は、センター利用受験が出来ない。正真正銘の本試験一発勝負だ。それは、センター試験がどれだけ失敗しても関係がないということでもある。頑張れば巻き返しは出来るかもしれない。
 でも、果たしてそれに何か意味があるだろうか? 今更英知大学に入ったところで、何かが変わるだろうか? もし、去年英知大学に受かっていたら、小鳩が死ぬ前に一緒に構内を歩けていたかもしれない。でも、今となってはもう遅いのだ。
 正解がわからない、と歳華はぼんやりと思う。黒く塗り潰したマークシートを思い浮かべながら、頭の中で別の問題を思い浮かべる。ニッチ過ぎる英語長文や複雑な古典問題じゃない。もっと切実で、胸を焼くような問題。

 つまり、菱崖小鳩は何故死んだのか、という問題だ。

 誰も知らない苦悩があって、菱崖小鳩は人知れず追い詰められていたのかもしれない。小説的にはあり得る話だ。歳華は小説家志望なので、様々なパターンを網羅している。あの飄々としていた害悪が、歳華の知らない事情で苦しんでいたというのは、想像しやすいエンディングだろう。
 ——でも、小鳩は私と一緒に初詣に行くはずだったのだ。
 それは、自殺を思い留まらせるには足りない約束だったろうか? すっぽかしても構わないようなものだったのだろうか?
 いや、そんなことはない。と、彼女はどうにか思い直す。そんなはずはない。
 何しろ彼女は天才小説家になるはずの女である。そんな女と行く初詣を前に、死のうとするだろうか? あの男だったらあるかもしれない。あの男だからこそないと言い切れるかもしれない?
 嫌がることなら沢山された。でも、今回ばかりはただの嫌がらせとは思えなかった。
 去年歳華が大学に落ちた時、小鳩は真面目な顔で「頑張ったね」と言ったのだ。浪人を選んだ時も、小鳩は応援してくれた。その小鳩が、初詣をすっぽかす想像が出来なかった。
 加えてこんなエピソードもある。。不合格通知を見てびゃあびゃあ泣く歳華に対して、小鳩は不遜にもこう言ったのだ。
「僕って意外と願掛けとか好きなんだよね。歳ちーが今回落ちたのは、多分この間引いたおみくじが凶だったからだよ。困るね」
「……じゃあ次も凶だったらどうしたらいいわけ」
「何言ってるのさ歳ちー。僕はいい大人だよ? 大人は金がある限り、何回おみくじを引き直してもいいんだ。とりあえず次は十連引こう」
 笑顔でそんなことを言う人間が、自殺なんかするだろうか?

 疑問は人間を進ませる。歳華の行動は早かった。元より、彼女の家から四ッ谷はそう遠くもない。数百円を掛けて件の駅に辿り着くと、駅内から既に因縁のタワーが見えた。気取ったフォントで書かれた大学名を睨みつけ、果敢に向かう。昼時の北門では、大学生が沢山歩いていた。
 英知大学。菱崖小鳩の出身大学であり、彼の死んだ場所だ。
 訪れるのに抵抗が無かったといえば嘘になる。小鳩の死を悼み、葬式を済ませてもなお、この場所は悪夢の係留地だ。けれど、全ての始まりと終わりもここなのだ。小鳩のことを知る為には、この場所に来なくちゃいけない。
 大量の大学生に紛れながら英知大学の門をくぐる。特に見咎められもしなかった。こうして見ると、ちゃんと試験に通って大学に通っている彼らと自分の違いがいよいよ分からない。
 目当ての場所その一には、すぐに辿り着いた。英知大学のシンボルであるタワーは、門のすぐ傍に建っている。それなら、必然的に『その場所』も門の近くに配置されるのだ。
「……ここなんだ」
 小鳩が落下したと思わしき地点では、カラーコーンとコーンバーで控えめな封印が為されていた。黄色と黒のバーは、単純に工事現場か何かを思わせる。簡単に乗り越えられる仕掛けなのは、そもそも誰もそこに行こうとしないからだろう。それなら、一体何の為にこの場所は閉じられているのだろうか?
 行き交う学生たちは、ちらりと惨劇の跡を見るだけで、気にもしていないようだった。もう粗方話題にし終わってしまったからだろう。小鳩のことは、英知大学の中で既に薄れ始めている。恐ろしいスピードだった。何万年もの間残った壁画とは大違いだ。ここでも人は死んだのに。
 封印された場所の真ん中には、血溜まりの跡のようなものが辛うじて見える。数年後には無くなっていそうな小さな跡だ。それを見た瞬間、また涙がこみ上げてきそうになる。
 ここで泣いたら、どう考えても関係者だと分かってしまうだろう。歳華は悲劇のヒロインになんかなりたくなかった。少なくとも、今ここでは嫌だ。上を向いて涙をやり過ごしていると、ふと、誰かが近くに寄ってくるのが見えた。
「何してるんですか?」
 眼鏡を掛けた、神経質そうな顔の男子学生だった。年の頃は歳華とそう変わらないだろう。痩せた身体にぐるぐると巻きつけられた黒いマフラーと、その隙間に見える縒れたシャツが、どうにも胡散臭い印象を与えてくるので、警戒のレベルが一段上がる。小鳩との邂逅で、この手合いとの距離感には慣れていた。
「何をしてるんですか?」
 聞こえていないとでも思ったのか、眼鏡の彼がもう一度尋ねてきた。口調は丁寧だけれど、その声は何処か高圧的に響く。ややあって、歳華は答えた。
「…………飛び降り自殺の現場を……見に来ました……」
 我ながら最悪な説明だ、と自嘲する。けれど、それ以外に言いようがなかった。飛び降り自殺した相手と旧知の仲だったことを、初対面の相手に明かす義理も無いだろう。すると意外なことに、眼鏡の男の方もにんまりと笑った。猫が獲物を見つける時のような目に、少し慄く。
「そうなんですか! 実は俺もそうなんですよ。これから受験を控えているんですが、これをきっかけに英知大学の方に進学しようかなと思うくらいで」
「え、そ、そうなんですか……じゃあ、高校……」
「三年です。貴女はここに通ってらっしゃるんですか?」
「いや、私も実は……その、今度ここを受験しようと思ってて……」
「奇遇ですね。そのきっかけが飛び降り自殺した件の男なんて、ますます面白いじゃないですか。さながら、大学と受験生を結びつけるキューピッドでしょう」
 ぺらぺらと喋り続ける相手に対し、歳華は完全に引いていた。確かに間違ってはいない。歳華が英知大学を目指すきっかけは他ならぬ小鳩だ。けれど、目の前の学生と歳華では、あまりに意味合いが違い過ぎる。小鳩の死がこういう影響を及ぼすこともあるのかと思うと、悲しいを通り越して恐ろしくなった。小鳩はもう、消費される側なのだ。
「ところで、どうして死体に興味があるんですか?」
「え?」
「別にお答えいただく義務もありませんが、やっぱり気になりまして。死体に興味のある女子高生って、そんなに多くないじゃないですか。貴女、本当にただの女子高生なんですか?」
 くつくつと楽しそうに笑う男の声が、内々の含みまで伝えてくる。——そんなはずないだろ。このままいけば、小鳩との関係まで吐いてしまいそうだった。こんな世間話やゴシップの延長線で話したくない物語なのに。
 見透かすような視線を受けて、歳華の唇が震えだす。腑抜けた馴れ初めを語る一歩手前で、彼女の理性が本能的な回避に振れた。頭に浮かんだ馬鹿げた言葉を、そのまま吐き出す。
「……こっ…………これは、探偵行為です!」
「はあ? 探偵?」
「そうです! 私は……その、今売り出し中の女子大生探偵なんです! それで……その、英知タワーから飛び降り自殺した死体の謎を、解明しに来たのです!」
「……探偵、ねえ」
「そうですそうです!」
 ミステリー小説ではよくあるパターンだ。探偵が事件を解決して、それを本にして名声と印税を一緒に手に入れる栄光のロードが。
 探偵が小説家になるのか、小説家が探偵になるのか。ぐるぐる回るその構造は、この間読んだとあるSF小説を思い出させた。オラフ・ステープルトンが書いた、古い小説だ。始まりと終わりがぐるぐる回って、どこに辿り着くのかわからない。
 探偵というキラーワードを前に、眼鏡の彼が少しだけ動揺を見せた。動揺というのも正しくないかもしれない。薄く開いた口の中に、赤い舌が見えている。その表情が動揺じゃなくて興奮に拠るものだと気づいたのは、少し後になってからだ。
「へえ、人は見た目に拠らないな。探偵っていうものは何は無くとも鹿撃ち帽を被ってるものだと思ってたけど」
「そ、そういうわけでもないんだよ! そもそも、今のご時世でそんな探偵っぽい格好をしてるなんて、警戒されて現場に入れて貰えなさそうだし……絶ッ対無能だよ……」
「それもそうか。ということは、探偵さんはこの自殺が単なる自殺じゃないって思ってるってこと?」
「それを明らかにする為に私はここに来たわけで……一概にまだそういうことは言えないかな!」
「ふうん」
 訳知り顔で頷く相手を前に、歳華は一人冷や汗を掻く。小鳩がこんなところで死んだから、うっかり探偵なんてものになってしまったのだ。地獄で会ったら覚えておけよ、と歳華は心の中で呟く。好奇の視線に、フィクションの薫りが匂い立つ!
「ところで、そういう君はどうして自殺が気になるの? まさか、探偵志望だったりする?」
 ハリボテのシャーロック・ホームズが倒れる前に、歳華は先に質問をした。正直、自殺の現場を見に来ることに野次馬以上の意味があるとは思えなかった。歳華のような理由で来る方が稀だろう。けれど、目の前の男は少しだけ目を細めて、言う。
「俺は小説のネタになると思って来ました」
「……え、小説? 小説の為?」
「実は俺、小説家を目指してるんです。だから、この世にあるものを何でも吸収したくて。……探偵さんならこの不謹慎さを赦してくれそうですから、言っちゃいました。すいません」
 舌先が痺れるような衝撃を覚えた。気づかれないように息を呑む。小説。歳華がずっと憑りつかれているそれが目の前に引き出されたことに、軽い震えがくる。
「そうなんだ、私も小説好きだよ」
 歳華の動揺を置き去りにして、口の方が勝手に言葉を紡ぎ出した。
「あ、そうなんですか。名目上は受験生だから、ちゃんと勉強しなくちゃいけないんですけど、気付いたら小説を書いちゃってて。センターも終わったことだし、こうして実地に向かったわけです」
「小説書くの、楽しい?」
「楽しいというか、これしかなかったから」
 眼鏡の奥で隠しようもない炎が揺らめいている。辺りにあるものを焚き木に変えてしまうような暴力的な創作意欲。
「俺は性善説を信じている無知な奴らの為に書かなくちゃいけないんだよ」
 最後の言葉は熱の籠った言葉だった。きっと、歳華に向けた言葉でもないだろう。自分の書く小説の力を信じていないと出てこない、純粋な熱度だ。
「そうなんだ…………」
 そこで、歳華はいよいよ言葉に詰まった。一つ、気付いたことがある。昔の自分を見ているような剥き出しの熱に触れたことで、思い出したのだ。
 高校三年生の時も、浪人生の時も、歳華は飽くことなく小説を書いてきた。それなのに、小鳩が死んでから、歳華は一文字も小説を書いていなかった。たった一人の読者が死んで、新しい物語が生まれない。以前は誰に読まれなくても小説を書いていたというのに、小鳩がいないだけで、瀬越歳華の小説の価値すら失われてしまったみたいだった。
 勿論、近しい人間の死に動揺して一時的に筆が執れなくなることはあるだろう。ただ、歳華のそれは、そういった類のものじゃない気がした。あれだけ好きだった小説への力が、永遠に取り払われてしまったような感覚が、ここに、……。
「それじゃあ、キャンパスで会いましょう。探偵さん」
 そう声を掛けられるまで、軽く意識が飛んでいた。気づけば、小鳩の死んだ場所を前に、ぼんやりと立ち尽くしていた。それはそのまま、歳華の小説の墓になろうとしている。
 動けなくなる前に、後ずさった。とにかく距離を取らなければ。そうしないと、このまま絶望の淵に落ちてしまう。
 勢いのまま、件の英知タワーに向かう。目的の場所その二にして、本命の場所でもあった。小鳩が最後に立っていた場所。
 けれど、勢いのまま屋上に向かうことは出来なかった。屋上まで通じているエレベーターに乗り込もうとした瞬間、受付のお姉さんに止められたのだ。
「勝手に入られては困ります。また飛び降りが起きたら困りますから」
「え、いや、わ、私は……その、探偵で……」
「そうですか。よろしければ身分証明書などを拝見させて頂いても? 貴女が屋上に立ち入るに相応しいと見做しましたら、私から事務室の方へ立ち入り許可を申請しますので」
「や、探偵っていうのは免許制じゃなくて……その、例えば天才って、免許がないですけど、天才だっていうのは動かし難かったりするじゃないですか……それと同じで……」
「その前に、学生証の方を拝見させて頂いてもいいですか? 英知大学の学生さんですよね? それとも、まさかここの学生では無いのにも関わらず、訳の分からない肩書きで屋上に行こうとしてる方ですか?」
「がっ、学生ですよ! 学生ですけど、一旦出直しますね」
「そうですか」
 この間、受付のお姉さんは片頬すら動かさないままだった。ハードボイルドにもほどがある態度だ。このまま歳華が駄々をこねていたら、即座に射殺されていたかもしれない。果たして、そんな態度の受付嬢が存在していいんだろうか? いくら何でもフレンドリーの対極にいる。
 それにしても、ここで躓くとは思わなかった。探偵という肩書の弱さを甘く見ていた。それは何の免罪符にもならない……! まだ、天才小説家の方がマシだったかもしれない。実地で取材の必要があるという名目なら、芸術の皮に包んで全てを覆い隠せるかもしれない。でもまあ、何にせよ絶望的だった。思わず床にへたり込む。ここで探偵はおしまいなのか……!
「おや、あまりいい趣味とは言えませんね。君の年頃であれば、見るべきは血の跡ではなくマックス・エルンストでしょう」
 その時、背後からそんな声がした。言っている言葉の半分も分からないまま、振り返る。
「見たところ、君は飛び降りをしそうなタイプには思えませんが」
 そこに立っていたのは、何とも草食動物的な佇まいをした初老の男だった。さっきの眼鏡とはいい対比だ。さっきの妙に野心的な彼に比べて物腰が穏やかで、人生そのものにこなれている感じがする。身に着けているスーツも腕時計もセンスが良かった。
「え、や、……」
 そんな相手にまともに対処出来るはずがない。動揺のままに黙る歳華に対して、初老の男は笑顔に言った。
「ああ、構えさせてしまったなら申し訳ない。私はここで教鞭を取っている高畑といいます。貴女は、どうやらここの学生ではないようですが、探偵というのは本当ですか?」
 真面目な顔でそう尋ねてこられて、うっかり失神しそうになった。さっきは同年代らしい相手だったから探偵なんて与太話が出来たわけで、ここで教授とかいう良識の塊が登場するのはあまりに厳しい。探偵なんて基本的に不謹慎なものなのだ。
 咄嗟に言い訳を考える。さっきそこで会った高校生の理由がそのまま使えることに気が付いたのは、数秒経ってからだった。
「あ、いや……さっきのはうっかりそう言ってしまっただけで……その、単に私は受験生で……こう、受験前に大学の方を見学したいなって」
「なんだ。そうでしたか。てっきり私は、貴女が件の自殺について明らかにしてくれるのかと思いましたよ」
 今度は素直に言葉に詰まった。穏やかに笑う教授が「冗談ですよ」と言ってくれなければ、そのまま戻って来られなかったかもしれない。
「いいですね。入学前にちゃんと大学のことを知っておくというのはいいことです。何も知らずに入ってきて流れるように留年するような学生が沢山いますから」
 冗談の分かりにくい相手を前に、歳華もどうにか笑った。どうにもやりづらい人だった。大学教授というのは誰も彼もがこういうものなんだろうか?
「英知大学に来ようという学生が多いのは、私にとっても嬉しい限りです。頑張ってくださいね」
「あ、はあ……頑張ります」
「今のところ出願数に大きな変動は無いようですから、倍率が下がることはないでしょうけど。このスキャンダルで受験者数が減って入りやすくなるんじゃないか、と考えた学生が沢山いたということなんでしょうか」
 ちくり、と歳華の胸が痛む。小鳩の死は、大学側にとっては単なるスキャンダルでしかないのだ。テナントも入っていない真新しいタワーに出来た汚点と言い換えてもいい。誰かが死ぬのは悲しいけれど、場合によっては迷惑でしかないのだ。
「……そうですよね」
 そう言って、歳華は力無く笑った。誤魔化せていたかどうかは怪しい。当事者である歳華にとっては、あれは耐えがたい不幸なのだ。
「ところで、歳華さんは英知タワーの屋上に行きたいんでしたっけ?」
「え、いや……その、出来たばかりだし、行けたらいいなとは思ってましたけど……」
「あの事件が起きてから、屋上の出入りは厳しくなってしまいましたからね。まあ、同じ場所から二度も飛び降りが起きたらいけないという配慮なんでしょう。半年後を目安に、柵も取り付けられるそうです。代わりにヘリポート機能を失くすそうですけど」
「やっぱりそうですよね、あはは……」
 自分でも何で笑ってみせたのか分からなかった。上滑りした笑顔を貼り付けて、歳華は小さく首を傾げる。ようやく分かった。歳華は目の前の高畑が、どういうわけだか怖いのだ。見透かしてくるような目が、自分を裁いているようで恐ろしい。
 高畑はじっと歳華のことを見ていた。ややあって、ゆっくりと彼が口を開く。
「そうですね。それじゃあ、私が何とかしましょうか」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。一週間待ってくれますか? そうしたら、私が特別に屋上に昇らせてあげましょう。私も一度行ったことがあるんですが、英知タワーから見るキャンパスはとても綺麗なんですよ。君のモチベーションにもなるでしょう」
「あ……ありがとうございます!」
「そうですね。来週の同じ時間に、私の研究室に来てくれますか? 教授棟のところに名札が貼ってありますが、分からなければ警備員さんに聞いてください。案内してくれるでしょうから」
 思いがけない提案だった。封鎖された屋上に入れるなんて、ますますミステリー染みている。名探偵だけが赦される、自分勝手な現場検証だ。
 けれど、ここにきてもまだ、歳華の嫌な予感は拭えなかった。綺麗な景色は嘘じゃないのだろう。でも、見ず知らずの受験生をわざわざ屋上に立ち入らせる意味は? と脳内で警鐘が鳴ってしまう。柵はまだ出来ていないのだという。あの屋上からは、今でも飛び降りることが出来るのだ。
 あの屋上は単なるロケーションスポットじゃない。れっきとした事件現場なのだ。
「……わかりました。ありがとうございます」
「いいえ。お安い御用です」
 それでも、行かないという選択肢は無かった。何がそこに待ち受けていようとも、歳華はあの屋上に昇らなくちゃいけない。小鳩が死んだ理由が、もしかしたらそこにあるのかもしれないのだ。何も言わずに去られた人間が縋る理由がそこにあるなら、行かずにはいられない。
「時に君は、探偵についてどう思いますか?」
「え?」
「探偵というのは因果な役割でしてね。その立場の大部分を責任というものに搦めとられているんです。私の知る限り、あれをやれるのはよほど傲慢な人間か、それを強いられた人間だけですよ」
「…………えっと、どういう意味ですか?」
「私個人の意見からすれば、探偵はおすすめしません。そういうことです。まあ、本当のことを追い求めようとするなら、自ずから君は探偵にならざるを得ないのかもしれませんが」
 高畑教授はそう言って和やかに笑った。進路をアドバイスするかのような口調だ。
「……教授の周りには、そんなに探偵さんがいらっしゃったんですか?」
「そうですね。探偵をやろうとした人間や、探偵を強いられた人間が」
 冗談なのか何なのかわからない言葉だった。探偵なんて、普通に生きていたら関わりにならない相手だろうに。
 本当のこと、とは何なんだろうか。自殺の理由なんか、探偵の仕事の領分から外れているんじゃないだろうか? 口を衝いて出た『探偵』がじわじわと足に絡みつく様は、なんだか妙な焦燥を呼ぶ。
「それじゃあ、一週間後に」
 念を押すように言って、教授が去っていく。
 何かがおかしい気もした。さっきの会話が何処か引っ掛かる。
 けれど、あまり考えないようにした。歳華を見つけた時のあの教授の目。全てを見透かしたようなあの態度の裏に、何かがありそうだった。そこで、ふと思う。
 歳華は、あの教授の前で自分の名前を名乗っただろうか?

 ともあれ、日々は過ぎていく。
 転機が訪れたのは、それから二日ほど経った日のことだった。
 DMに混じって、郵便ポストに茶色い封筒が入っていた。B5サイズのそれを何気なく取り出して、息を呑む。
『歳ちーへ』
 その文字を見た瞬間、心臓が跳ねた。その妙な綽名で呼ぶ人間は、一人しかいない。付けられた綽名が署名になるなんて不遜だと思う。でも、その不遜さで泣きそうになった。もう誰も、歳華をその名前では呼ばないのだから。
 急いで封筒を開けると、中から一枚のDVDが出てきた。何処にでも売っていそうな、普通のDVDだ。
 このまま死んでしまうんじゃないかと本気で思った。心臓が狂ったように鳴って、頭の端で金属音が響く。
 殆どパニックになりながらも、歳華はどうにか部屋のDVDプレイヤーにディスクを挿し込んだ。カシュカシュと小さな音を立ててディスクが回る。殆ど間を空けずに、求めていた映像に迎えられた。

『この映像を観てるってことは、僕はもうこの世にいないってわけだね。……この台詞、一度は言ってみたかったんだよね。興奮するな』

「小鳩!」
 漏れた言葉は殆ど悲鳴だった。画面の中に求めていた相手がいた。
 いつ頃撮られたものなのかは分からない。髪型も物腰も、歳華が知っているままの小鳩だ。一月も離れていないのに、懐かしさに泣きそうになった。これからどんどん遠くなる距離なのに、今からこれなのが恐ろしい。
 小鳩は、ぽつりと置かれたパイプ椅子に座ってじっとこちらを見つめている。思いの外穏やかな表情だった。
『これ、間違って早くに届いちゃったら大変なことになるんだよな……。ねえ歳ちー、これ届いた時にもし僕が生きてたら、ここで再生止めてくれない? 頼むよ』
「なんか一々語り口がムカつくんだけど……」
『もちろん死んでたら問題ないから、このまま見続けてね』
 人を食ったようなその態度も、どういうわけだか愛おしかった。開始から数十秒しか経っていないのに、もう涙が止まらない。
『本当はこういうの柄じゃないんだけど、歳ちーは僕の中で特別だったから、ちゃんとさよならを言っておきたかったんだ』
 その言葉で、はっきりと自覚する。今まで言えなかったけど、小鳩が好きだ。失ってから気づきたくなんてなかった。もっと早く言えばよかった。
 行きたいところがいっぱいあった。話したいことだって沢山あった。大学に入学出来た暁には、一緒に文化祭に回る約束もあった。何だかんだで歳華は、今年の初詣に行きそびれている。
 歳華は思う。いい人間ではなかった。いい大人でもなかった。でも、小鳩といるのは楽しかった。あの柔らかい声も、ふにゃっとした笑顔も、子供みたいな垂れ目も愛おしかった。自分の小説を読んでくれた小鳩が好きだった。私の小説を愛してくれて嬉しかった。
『今までありがとう。勝手に死んじゃってごめん』
 画面の中の小鳩が言う。
 あれだけの物語を紡いでも、何一つ小鳩に届いている気がしなかった。
『歳ちー、一人にしちゃってごめんね』
 聞いちゃいけない言葉だ、と歳華は反射的に思う。感情を置き去りにしたまま、涙が溢れだす。
「嫌だよ、一人はやだ、戻ってきてよ、何で、小鳩」
『言わなかったけどさ、歳ちーのことは特別だったりしてね』
「そうしたら、小鳩に言えなかったこと、ちゃんと言うから」
 画面の中の小鳩が目を伏せる。当然のことながら、歳華の言葉は届かない。
『……歳ちーと過ごす日々は楽しかったよ』
「待って、私、まだ言ってないのに」
『本当にいけないことなんだけど、僕ねえ、歳華のことが』
「私は、小鳩のことが」
『大好きだったよ』
 屈託の無い笑顔で言われるその言葉が一番残酷だった。私も好き。私もずっと好きだった。もう少し早く言ってくれればよかったのに、と身勝手に思う。もう少し早く、言えればよかったのに。
 好きだって言えばよかったのに。そうしたら、別の未来もあったかもしれないのに。後悔だけが胸を焼く。苦しくて息すら出来ない。
『まあ、本当に、こんなことになるとは思ってなくてね。ずっと、君の小説を読んでいたかった。それは嘘じゃないよ。歳ちー』
「本当だよ。……まだ私の小説だって出版されてないのに。地獄に本屋さん、きっと無いじゃん……」
 言っていて、自分で泣き笑った。笑えない冗談なのに、小鳩が相手だとこうなってしまうのが悔しい。
『まあ、死ぬ前に歳ちーとの思い出は沢山作りたいと思ってるんだけどね。鞠奴のリゾート、結構楽しかったよねえ。また何処か旅行にでも行こう』
 小鳩は能天気に言う。その言葉に、何か引っ掛かるものがあった。
「……あれ?」
 思わず声が漏れる。高畑教授と話した時と同じ類の違和感だ。そもそも、自殺するような人間がこんな映像を残すだろうか? これは、遺書とはまた違うメッセージに見える。
 これじゃあまるで、菱崖小鳩が自分の死を予期していなかったみたいだ。
 大晦日の日に自殺を企てた人間のものには思えない。
 どちらかといえば、避けられない病に侵された人間の遺すメッセージに近い。あるいは、自分が殺されると予期していた人間の遺すものにも似ている。殺される、という言葉の響きは非日常的過ぎるけれど、殺人事件というものはこの世の中に沢山存在するだろう。
 ——小鳩は殺されたんだろうか?
 浮かんだその言葉こそ探偵染みている。けれど、納得のいく戯言でもあった。
『それじゃあ、お別れの挨拶も済ませたし、一仕事頑張ろうかな』
 そんな歳華を無視して、動画は進んでいく。画面の中の小鳩がにんまりと笑う。
『あ、歳ちーもしかして泣いてる? いやあ僕も罪な男だね!』
「小鳩は罪っていうか害悪だけどね……」
『困るな。とりあえず涙を拭いて鼻もかんで、ここから先もちゃんと観ててよ』
「映像の中で先読みするのやめてくれない?」
 そう言って、歳華も少し笑う。でも、やっぱり嫌な予感がした。『ここから先』とは何だろう。ややあって、映像の中の小鳩が言った。

『ここからが本番だからね』

 その笑顔にぞっとした。
 その笑顔は、致死量の復讐を仕掛けた時に、おぞましい人魚の夢を暴いた時に、小鳩が見せた笑顔だった。
 風向きが変わったような気がした。さっきの部分で終わっておけば、……きっとハッピーエンドだったはずだ。小鳩が死んだことは悲しいけれど、その思い出を胸に、これからも生きていける。でも、ここから先は、その大きな流れに沿っていない。
 そういえば『ここ』は何処だったのだろう、と歳華は今更思う。久しぶりに見た小鳩の顔と、それに連なるメッセージに気を取られていたけれど、このカメラは一体どこで回っているのだろう? 一度も行ったことがない小鳩の自宅や、何処かのホテルの一室だろうか? けれど、それにしては薄暗い。背景は暗かった。古びた裸電球が天井から下がる。剥き出しのコンクリートが壁を覆う。
 地下室? と歳華が直感すると同時に、カメラが引いた。床に広がっているのは薄汚れた青いタイルだった。笑顔のままの小鳩が画面から消える。数十秒後に、ようやく小鳩が戻ってきた。
 見知らぬ誰かの座る、古びた車椅子を押しながら。
『見えてる? 歳華』
 車椅子に座っているという形容は正しくないかもしれない。画面に映るその女性は、ガムテープによって椅子に縛りつけられているからだ。足も腕もぎっちりと搦めとられているお陰で、そこから降りることも叶わないだろう。口に貼られたガムテープの奥で呻き声が聞こえる。かなり衰弱しているように見えるものの、その瞳は新鮮な恐怖に彩られていた。
 映像は鮮明だ。細かいところまで分かる。けれど歳華には、それがどういう意味なのか分からなかった。ちゃんと見えている。車椅子の女性、後ろに立つ小鳩。決して穏やかじゃない画面の中で、小鳩の表情だけが普段と変わらなかった。
 映像を止められなかったのは、小鳩に『観てて』と言われたからだった。死んだ人間のお願いを無視するのは難しい。それが、他ならぬ菱崖小鳩なのだから尚更だった。
『それじゃあ、始めようか』
 それでも歳華は、小鳩が鉈の一振りでも取り出した時に、映像を止めるべきだったのだ。

 歳華はホラー映画が得意な方じゃない。むしろ殆ど観たことがない。小説家を目指している割に、フィクションへの選り好みが激しいのだ。ハッピーエンドの話が好きだし、泣けるものなら尚更いい。ここは彼女自身も弱点だと思っている。
 そこまで考えて思い直した。これはフィクションじゃない。現実だ。自分は、現実の人間が小鳩によって殺されるところを観たのだ。
 どう言葉を発していいものかすら分からなかった。あまりの恐怖で、さっきとは全く違う種類の涙が出た。あくまで淡々と、小鳩の行為は続いた。流れ出る血も漏れだす悲鳴も生々しく、一瞬も目を逸らせなかった。
 全てが終わり、およそ人間らしいものが小鳩一人になると、映像は唐突に切れた。歳華に対するメッセージも、カーテンコールも何も無い。残されたのは黒い画面と、素っ気ないDVDが一枚だけだ。
 こんな呆気ないものの中に、あれだけの鮮烈な映像が、狂おしい言葉が詰まっているのが信じられなかった。
 知らず知らずのうちに、歳華の目からは涙が溢れていた。小鳩のメッセージを聞いた時とは全く違う、反射的な涙だった。不快さの毛布に包まれているかのように、全身が粟立っている。いつの間に噴出したのか分からない汗で、背中が濡れている。肌に貼り付いた生地が、どうしようもなく不快だった。
 そんな状態でも状況の理解が出来たのは、偏にあの映像の力だった。分かりやすくてシンプルなそれを前に、理解すら拒めなかったのだ。そこだけ切り取れば、あの映像は優れた『作品』だったかもしれない。
 菱崖小鳩は殺人鬼だった。
 あの柔らかい笑顔の、優しい雰囲気の、歳華の小説を読んでくれた男は、何の躊躇いも無く人を殺していた。
 何となく直感する。きっとあれが初めてじゃないだろう。同じようなことを、小鳩は何回かやっている。人を何度も殺して、何度も映像に収めている。画面の作り方からその手管に至るまで、菱崖小鳩は殺人に慣れていた。歳華の小説を捲っていたその指は、流れるように作業をこなしていた。
 活字はある意味とても平等なメディアだ。小説は読む人間を選ばない。人を殺しながら好みの詩を暗唱する人間だって何処かにはいるかもしれない。かの有名なゾディアックの思考をトレースしたコンピューターはそれこそ詩を詠み上げるという。殺人鬼が芸術を解しないなんてことは無いのだ。
 それでも、何処かで否定したい気持ちがあった。穏やかな声で歳華のことを呼ぶ小鳩や、鞠奴の海を見せてくれた小鳩、それに、淡々と人間を損壊していく小鳩が、頭の中で緩やかに混ざる。それらは相容れないものであるはずなのに、菱崖小鳩なら成立してしまうのだ。
 途方も無い不快感の中で、ふと思う。——お兄ちゃんは、このことを知っているんだろうか? 菱崖小鳩の本性を、あの男の正体を。結局のところ、一番の関心はそこだった。

 ふらふらとした足取りのまま、歳華はリビングへ向かった。面した台所で、俊月が夕食の支度をしている。心音のように規則正しく鳴る包丁の音が好きだった。その音を聞くたびに、幸せな気持ちになったものだった。
「……お兄ちゃん」
 その背に、静かに声を掛けた。
「……小鳩の話、してくれない?」
 包丁の音が止む。そして、俊月がゆっくりと振り向いた。
「俺と小鳩は大学時代の同級生だ。小鳩が独文学科で、俺は仏文を選択してた。仲良くなった理由も大したことない。話してみたらウマが合って、それから自然と過ごすようになった。それだけだ」
「……そうなんだ」
「突拍子の無い奴だが話してみると面白い。俺はあまり口が回る方じゃないが、あいつはよく喋るからな。その辺りも合っていたんだろう。卒業してからも定期的に会うような相手は、あいつくらいしかいない」
 瀬越俊月は、懐かしむような口調でそう言った。死んでしまった友人を悼むのには適切な口調だ。
 けれど、歳華が今聞きたいのはそれじゃなかった。一緒にパンを食べていた小鳩のことなら知っている。社交的な人間じゃない俊月にとって、小鳩が大切な友人であったことも。
 だから、知りたいのはそれじゃない。ややあって、歳華が口を開いた。
「……お兄ちゃんは…………知ってたの……?」
 それを口にした瞬間、さっきの映像がフラッシュバックした。身も凍るような殺人の瞬間、それを普段と変わらない表情でやってのける小鳩。この期に及んで、歳華は何処かで捨てきれていなかった。長らく親友をやってきた兄が、菱崖小鳩の本当を知らない可能性を。
 けれど、そんな奇跡が起こるはずも無かった。少しも躊躇わずに、俊月が口を開く。
「俺が知ったのは三作目の時だ」
 視界がぐらりと歪んで見えた。呼吸すらままならなくなって、思わず歳華はテーブルに手をつく。三作目、と兄は言った。慣れた手つき、構成の妙味。彼らは卒業してから数年が経っている。その間にあれがどれだけ巻を重ねたのか、想像すらしたくなかった。
 四作目を超えてなお、俊月は小鳩の傍に居続けたのだ。小鳩の為に、料理まで作っていた。真っ当に、正当に、親友をやり続けていた。
「お前とあいつを引き合わせたくなかった」
 心からの言葉だろう。愛しの兄は嘘を吐くのが下手なのだ。言わないと決めたことを言わないだけの誠実さはあるのだろうけれど、それは嘘を吐く手管とはまた違ったものだろう。
「あれは害悪だからな。そう言ったはずだ」
「言った……言ったけど……」
 けれど、そういう意味じゃないと思っていた。
 その点で、菱崖小鳩は嘘がとても上手い。とんだセルフプロデュースだ。人なんか殺さなくても、小鳩はただそこに居るだけで十分に害悪だった。歳華が顔を顰めていられたり、ちょっと悲しくなったりするだけの害悪だった。黒に黒を塗ったって黒だった。そういうのってやっぱりずるい。
「……害悪って、そういうことだったの?」
「俺の口から聞きたいのか?」
 残酷な言葉だという自覚はあった。でも、止められない。気を失いそうになるのを堪えて、歳華は頷く。ややあって、俊月が言う。
「あいつは、菱崖小鳩は人殺しだ。何度も人を殺してはその様子を撮影していた。そうして作り上げた作品は、インターネットで公開した。何人死んだかは俺も教えてやれないな。正直俺も把握出来ん。相当な数の人間が、あいつの手にかかった」
「嘘だよね、お兄ちゃん、小鳩が……」
「——スナッフフィルムって言葉は知ってるか? 本物の殺人を映像に収めた映画のことだ。小鳩はそれを、至高の芸術だと思っていた」
 およそ歳華には信じられないような言葉が、実の兄の口から漏れ出していく。スナッフフィルムという単語すら聞いたことが無かった。本物の殺人の瞬間を映像に収める。その行為に名前が付けられていることすら理解出来なかった。
 そんな言葉が生まれるほど、それは遍在しているものなのだという絶望があった。小鳩があれを生み出す以前から、スナッフフィルムという概念があったのだ。
「……そんな、そんなの駄目だよ。あんなの芸術じゃないよ。あんなの赦されていいはずがないもん」
「お前がそう思ってくれて嬉しい。俺も好きにはなれない」
「でも小鳩は……それが良いと思ってたの?」
「料理を好きな人間もいれば、月曜日を好きな人間もいる。スナッフフィルムを好きな人間も存在する。理解出来なくてもそういう人間は存在するんだ」
 言い聞かせるように俊月が言う。噛んで含めるように、今更過ぎるこの世の真理を説き伏せる。
 でも、頭で分かる当たり前と、その先にある納得は、また別のものだ。隣を歩く人とは、同じものを可愛がりたいし、同じ星を見て綺麗だねと言いたい。月曜日なんか最悪だと眉を顰めたいし、誰も傷つかない映画を観たい。
「小鳩は、悪い人なんだね」
「ああ、そうだな」
「それも、信じられないくらい。……死んでも仕方がないくらい」
 例えば、小説家志望の女子高生の小説を読んでくれるだけでは、贖えない罪だ。
「……あの日、何が起きてたかお兄ちゃんは知ってる?」
「いや、知らない。大晦日に起こったことは何も」
「……自殺だったのかな」
「あいつが自殺すると思うか? 報いを受けたんだよ。あれは害悪だった。だから、きっと小鳩は殺された」
 因果応報については知っている。受けるべき報いがあるとすれば、小鳩が支払えるものは命だっただろう。もしかすると小鳩一人の命では賄えないかもしれない。あそこで殺された女の人は、まだ見ぬ誰かは、死ぬよりも酷い目に遭わされたのだ。赦されない。
 怒りで手が震える。震えた手は、そのまま目の前の兄の方へ向かった。掴みかかったって、兄の身体は微動だにしなかった。こんな時だって、歳華はどうしようもなく非力だった。
「——お兄ちゃんは、……!!!」
 怒りが滲む。やりきれなさが胸を焼く。歳華は、殆ど八つ当たりのように叫んだ。
「どうして、……止めなかったの……?! 小鳩がやってたこと、知ってたんでしょ……?」
 何も知らなかった歳華に対して、目の前の兄は確かに力を持っていた。本当の理解者にすらなれなかった歳華に対して、俊月なら変えられる力を持っていただろう。それを思うと、どうしても赦せなかった。のうのうと親友をやっていた兄のことが信じられなかった。それでも、俊月は淡々と返す。
「言って止めるような考えなら、そもそも人なんか殺さない。小鳩の中で、それは絶対だったんだ。俺一人の言葉でどうにかなるものでもない」
「そんなことない! お兄ちゃんは、小鳩の親友だったんじゃないの!?」
「親友だった。そうだな」
「ひ……人が、しっ、死んでるんだよ! あんな……酷い、惨い……やり方で……小鳩が、正しいと思ったものの、為に」
「…………俺が殺せばよかったか?」
 殆ど聞いたことがないような声だった。勢い任せの言葉じゃなく、過ぎ去った正解を検めるかのような声だ。小鳩がこんな目に遭う前に、あるいはあんなことをする前に、自分が殺せばよかったのかと、本気で考えているのだろう。
 ひく、と喉が鳴る。生まれた時から一緒に居た相手の、初めて見る激情だった。思わず手を放して、距離を取った。震える声で、歳華は言う。
「こ、ろせばいいなんて、思わないよ、……つ、通報、とか」
「ああ、通報か。それもあるな。証拠を集めて俺が動けば、小鳩の奴が逮捕される未来もあったかもしれない。そういう動きを見せたら、あいつは俺も殺そうとしただろうが……いや、わからんな」
 真面目腐った顔で、俊月がそう呟く。それを聞いている内に、歳華の中の何かも冷えていく。馬鹿げた話だ。知っていたとすれば、この兄が考えなかったはずがない。むしろ、誰より強く検討しただろう。その上で、端から全て切り捨てていたのだ。
「いずれにせよ、俺はその全てをしなかったわけだからな。もう全部遅い」
「何もしないで、友達で居続けてたの? なんで……」
「あいつは害悪だ。歩く災禍だ。死んで当然の人間だった。そして、俺の親友でもあった。だから、一緒に居た。それだけだ。他に何を与えてやれば理由になるんだ? お前はどれで納得する?」
 果たしてどれが、殺人鬼の親友を野放しにしていた理由に相応しいのだろう。人間の感情は、そう簡単に割り切れるものじゃないと知っている。果たしてラインは何処にあるんだろう? 何をしたら嫌いになれるのか、何人殺せば嫌いになれるのか?
 例えば親友が何百人を殺す殺人鬼だったとして、嫌いになれなかったら、それこそどうしたらいいんだろう?
 何より、その葛藤については歳華にも覚えがある。
 例えば好きな人が何百人を苦しめた大罪人だったとして、『好き』をやめられなかったらどうしたらいいんだろう?
「……お兄ちゃん」
「俺はお前を救えないよ」
 俊月はきっぱりとそう言った。身に覚えがあるからなのか、そのアドバイスは酷く優しい。誰にも救えないのだ。
「俺は俺の世界と生きていくし、お前もそうやって折り合いをつけるしかないんだよ」
「……無理だよ、こんなの。私は……お兄ちゃんみたいに出来ないよ……」
「そうか」
 それきり、俊月は何も言わなかった。無責任な慰めなんか、一言も言わなかった。

 部屋に戻った歳華は、改めて小鳩のDVDに触れた。耳を押し当てても悲鳴は聞こえない。本当の意味で、それはただのDVDでしかなかった。
 どうして小鳩はじぶんにこれを託したのだろう。これさえなければ、恐らく自分は小鳩の正体を知らずに過ごしていただろう。自力で突き止められるとは思えなかった。
 これが優しさだと思っているのならお門違いだ。嫌がらせにするには大層も無い。あの世で小鳩が笑っているところを想像すると、改めて殺意が湧いた。悪趣味が過ぎる。
 もし、残される瀬越歳華が不憫でこんなことをしたのなら、それはそれで馬鹿げた話だ。それを知ってもなお、小鳩のことが嫌いになれなかった馬鹿が隣にいたのに。人間の感情を簡単に見積もり過ぎだ。小鳩はだからこそ死んでしまったのかもしれない。……殺されたのかもしれない。
 これ以上人を殺す前に、小鳩の犯罪を暴いてくれて良かったと思う。その気持ちに嘘は無い。見ず知らずの名探偵に、歳華は確かに感謝している。それでも、それを悲しいと思うのも嘘じゃない。
「……探偵」
 英知大学で、適当に名乗った肩書きを改めて口にする。
 探偵は真実を明らかにする立場のはずだ。けれど、今の歳華はそれを名乗る資格が無い。菱崖小鳩の真実すら突き止められなかったのだ。犯人に真相を教えてもらう探偵が何処にいる? 今の歳華は小説家でも探偵でも無かった。
 英知大学で出会った高校生は、自分の価値観の為に小説を書いていた。
 それなら自分は? 瀬越歳華は、一体何の為に書いていたんだろうか?
 純粋に大好きだった小説は、いつの間にか菱崖小鳩に捧げる為のものになっていたんだろうか? あの柔らかい笑顔を向けてもらう為のものになっていただろうか? あの声で優しく感想を述べて貰う為のものに成り下がっていただろうか?
 違う、と歳華はわざわざ声に出して否定する。
 違う。そうじゃない。何しろ、瀬越歳華は天才小説家である。天才小説家の小説が、あの男の微笑一つと引き換えられていいはずがない。そんなのはあまりに安すぎる。
 殺人を犯す菱崖小鳩を思い出す。屋上で、何者かに打ち倒された醜い犯罪者のことを思う。良い話じゃないか、と歳華は一人微笑した。勧善懲悪因果応報、オーソドックスなエンディングだ。素晴らしい。普通の倫理規範を胸に生きてきた歳華は、その結末が順当だとすら思う。でも、それはそれとして菱崖小鳩の死は悲しいのだ。現実は痛ましく、歳華の心を容赦なく引き千切る。

 でも、ここで引き裂かれるだけでは終わらない。終われない。何しろ、瀬越歳華は小説家なのだ。そして、探偵でもある。

「……書き換えてやる」
 そう呟くと、歳華はゆっくりと立ち上がった。そして、長年酷使してきたノートパソコンを立ち上げると、大きく息を吐く。まるで待っていたと言わんばかりに、真っ白なワードファイルが歳華を迎える。
「……生き残った人間には物語を書く権利があるんだ」
 それは、誰にも聞こえない宣戦布告だった。英知大学で会ったあの男の子や、何処か含みのある顔をした高畑教授、涙を流す瀬越俊月や、海をバックに優雅に笑う菱崖小鳩を思い浮かべる。
 そして、歳華は勢いよく最初の一文字を打った。
 最後にして最初の謎解きの幕開けだった。

 約束の日、歳華は遅れずに英知大学へと向かった。教授棟は大学構内でも目立つ位置に配置されている。お陰で、少しも迷わずに高畑教授の元へ向かうことが出来た。
「ああ、来ましたか」
 一週間ぶりに会った教授は、出会った時と同じ笑顔を浮かべている。それでもなんだか緊張したのは、目の前の相手の持つ独特の雰囲気の所為かもしれない。
「ちゃんと来てくれたのに、申し訳ない。まだ仕事が残っていましてね。少し待っていてくれますか? そこに座っていてください」
「あ、はい」
 高畑教授の部屋の前には、こういう時の為なのか、趣味の良い木製のベンチが置かれていた。言われるがままにそこへ座って、呼吸を整える。一週間前のような不安は無かった。少なくとも、今の歳華には武器があった。彼女は単なる浪人生じゃなく、一介の探偵だった。
 息を詰めながらその時を待つ。今日、歳華は小鳩が飛び降りた場所に行く。「今更何が」という気持ちと「今だからこそ」という気持ちが混ざる。知らず知らずの内に、祈るような姿勢を取っていた。どうか、これが無駄になりませんように。
 その時だった。奥にあるエレベーターから誰かが下りてきた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
 背の高い人だな、というのが最初の印象だった。スタイルが良いのに、纏っている雰囲気はどこか親しみやすい。顔立ちの良さに反して、構えたところが無いからだろうか。
 モテるんだろうな、と思う一方で、何故か心がざわついた。知らず知らずの内に『この人が隣に来ませんように』と願ってしまう。
 けれど、歳華の願いを裏切るように、その男は隣に座ってきた。この距離だと、目元の黒子がよく見える。そこで思った。この雰囲気。この感覚。
 この人は、小鳩に似ているのだ。顔立ちではなく、もっとその奥深いところで。
「もしかして、お兄さんも屋上に昇りに行くんですか?」
 そう思った時には、声を掛けていた。隣の大学生は、目を丸くしながら歳華のことを見ていた。急に話しかけられたことに驚いたのか、別の理由なのかはわからない。ややあって、彼が言う。
「いや、俺は教授に呼び出されただけ」
「そ、そうなんですか……」
 よくよく考えたら、曰くつきの屋上に入りたがる人間はそう多くないだろう。ただ、うっかり見えた小鳩の影に引きずられてしまった。失態だ。
「あー……君は高校生?」
 俯く歳華に何かを感じたのか、今度は隣の男の方が話しかけてきた。案外気遣いをする方なのかもしれない、と歳華は思う。それなら、そこが小鳩と違う点だ。
「……浪人生です。その、英知大学に入ろうと思ってたんですけど、普通に落ちちゃって」
「……マジか。まあ、そういうこともあるよな」
 少しだけ的外れなコメントをしながら、隣の男が困ったように頬を掻いた。それを見て直感する。目の前の男は、きっと大して受験に苦労していないだろう。羨ましい話だ。本当に。
「あの、お兄さん。少しだけ私の話を聞いてくれませんか」
 目の前の相手を、どう見積もったのかは分からない。
 それでも、これが運命だと思ったのは確かだ。今の歳華は探偵だ。探偵には、いつだってオーディエンスが必要である。自分の組み立てた推理を承認してくれる相手がいなければ、事件を終わらせることが出来ない。
 最後にして最初の探偵を引き受けた歳華が、最初にして最後の推理を披露する相手に、目の前の男がどことなく相応しかった。本当は誰でも良かったのかもしれない。でも、差し当たって目の前に居たのが彼だ。承認を得る為にここにいる、一人の探偵の隣に。
「あー……俺でいいなら」
 予想通り? 案の定? あるいは残念ながら? 男はそれを了承してくれた。見込んだ通り、目の前の男は押しに弱いのかもしれない。小さく息を吐いてから、歳華はぽつりと言った。
「私、人を殺したことがあるんです」
 隣に座る男が息を詰める。横を向かなくても分かる。きっと、その表情には動揺や困惑が浮かんでいることだろう。
「こんな話は嫌ですか?」
「……いや。君がいいなら、続けてくれると」
 意外にも男は寛容だった。頷いてから、話を続ける。一心不乱に書き上げた物語だ。その一語一句を、歳華はちゃんと覚えている。
「私には好きな人がいて……その、あんまり性格が良い人じゃないんですけど、私はその人が凄く好きで。死んで欲しいと思ってたけど、本当はそういうわけでもなくて、まあ、そういう人だったわけです」
「そりゃあ随分難儀な趣味だな」
「本当にそうなんですよ。私の受験の為に、大吉が出るまでおみくじを引かせてくれるって約束してたんですよ。結局今年、おみくじすら引いてないんですよね」
 今年の運勢はきっと最悪に違いない。おみくじすら引けなかったんだから。
「……そう、そういう妙な願掛けをする人だったんです。だから、あの日もそれは多分願いの一部でした」
「願いの一部?」
「その人が死んだ日は、久方ぶりに流星群が見られるという日だったんです。実際に私の家の窓からも流れ星が見えました。それを見て、魔が差したんでしょうね。その人は、目につく内で一番高い建物の屋上に侵入したんです」
 歳華は想像した。そして、小説に起こす。

 ——大晦日の日、小鳩は誰にも知られないように英知タワーの屋上へ向かった。まだ誰も飛び降りていないそこは、セキュリティーがとても緩い。エレベーターの横に付いている安全装置のコックを捻り、小鳩はゆっくりと上昇する。
「屋上からは流れ星が沢山見えると思ったんでしょうね。でも、侵入したその人は驚きました。なんと屋上は煌々とライトに照らされていたのです! まあ当然ですよね。別に屋上は天体観測の為に開放されてるわけじゃないんですから。でも、彼は納得出来ません。それで、どうしたと思います?」
「……ライトを消した? とか?」
「そうです! なんと彼は、あろうことか屋上に設置してあるライトを消そうとしました! 消して、もっと流れ星が綺麗に見えるようにしようとしたんですよ!」
 あの男なら、そのくらいの我儘さは持っているはずだ。気に入らないものに対する容赦の無さを、歳華は間近で見てきているのだ。
 ライトを消して真っ暗になったら、きっと空はよく見えただろう。小鳩の好きな、本物の夜空だ。
 そして、小鳩はその場所に歳華を呼ぶはずだった。真夜中に非常識な電話を鳴らして、怒る歳華に『歳ちー、今から出てこれる?』と笑う。歳華は一頻り怒ってみせるけれど、結局は真夜中の大学に向かう。使う手段はタクシーでも何でもいい。どうせツケは小鳩が払うのだ。あの時のリゾートのように。
 真っ暗な構内を歩いて、歳華も上に向かう。煌々と照らされた屋上の中心には、小鳩が楽しそうに笑っている。
 暗い屋上は夜の海みたいだ。どこが淵かも分からない。それでも怖がらず歩いていけるのは、目の前に小鳩がいるからだ。
 待ちくたびれたような顔をする小鳩に向かって、歳華はゆっくりと歩く。靴の下で何かがじゃりじゃりと鳴る。大きな砂粒を踏んでいるような感触だった。
「あ、それ危ないよ。ガラス? だからね。転んだりしたら血まみれになるかも」
「え、何でこんなとこにガラスが?」
「ほら、その辺りにライトあるでしょ」
 そう言って、小鳩は歳華の背後を指さす。小鳩の言う通り、そこにはライトがあった。正確に言うならライトの残骸だ。屋外用のそれは見るからにお高い代物なのに、完膚なきまでに叩き割られている。それを見た瞬間、血の気が引いた。それに対して目の前の小鳩は、少し照れたように言った。
「邪魔だから割ったんだよね。でも、破片のことあんまり気にしてなかったから。物理法則ってこれだから困るな」
 恐ろしいことに、はにかんでいやがる。それを見て、歳華の笑顔が引き攣った。
「……小鳩、これ本当に悪いことじゃない?」
「いや、まあいいんじゃないかな? 歳ちーのことを落とした大学なんてちょっとくらい困った方がいいよ。いい気味だな」
「ちょっ、それ、私まで犯罪者になるんだけど!」
「いいじゃない。共犯になろうよ」
 とんでもない誘いだ。これから天才現役女子大生小説家としてデビューするはずの歳華に対して、あまりにリスクの高すぎる誘いだ。
 それでもいいか、と思ってしまう。確かに、こんな大学なんて少しくらい困った方が良い。それに、小鳩は楽しそうだし、歳華だって結構楽しい。
「ほら歳ちー、流れ星にお願いしようよ」
 濃紺の夜空に、無数の星が流れている。現実味の無い光景だ。夢みたいな光景だ。でも、そこに無いものを描き出せなくて、一体何がフィクションだろうか?

 歳華はそこで、隣の男の顔を見た。やけに真剣な顔で聞いている彼に、薄く微笑みかける。
「ロマンチックだと思いませんか?」
「確かにな、嫌いじゃない」
「でも、実際はそんなことにはならなかったんですけどね。その人はライトを消しに行く最中にうっかり足を滑らせて落ちてしまって死んじゃったんです」
「……マジか」
「私は、その人が死んだという、……マンションの、屋上に行きました。そうしたら、ライトの前には靴の跡が残っていて……。ライト、本当に際にあって、これは落ちても仕方ないと思うくらいでしたね。完ッ全に馬鹿の所業です」
 意気揚々とライトを破壊しようとして、そのまま足を滑らせた小鳩のことを想像すると、ちょっと面白くてやっぱり悲しい。
「現場に残されたスマートフォンの画面は、私に電話を掛けようとしてるところで止まってたそうです。最後に電話してくれればよかったのにな。声が聞きたかった」
 感情にしか本当が無い。最後に小鳩の声が聞きたかったのは嘘じゃない。けれど、小鳩は歳華に連絡すらしてくれなかった。
「つまりは、私が殺したんです」
 この言葉すらただの願望だ。歳華は小鳩のことを殺せなかった。
「私が受験に失敗したから。今度こそは合格させてあげたかったんでしょうね。……馬鹿みたいですよね。その上で、その馬鹿が選んだものは——」

 ——スナッフフィルムだった。美しくもなんともない代物だった。観るだけで吐き気を催すような、この世に存在していてはいけないような、間違ったものだった。歳華には受け入れがたいものだった。一生理解出来ないようなものだった。

「……選んだものは、」
 そこで一旦言葉を切った。泣きそうになるのを堪えて、あの男のようにへにゃりと笑う。
「——ちょっとした流れ星だったんです。笑っちゃいますよね。馬鹿げてますよね。でも、私はそれを美しいと思う」
 全ての真実を覆い隠して、上書きして、歳華はそう言った。
 それが探偵である歳華の『推理』だった。
 間違っていることなんか百も承知だ。そんな事実は何処にもなかった。生きている間は終ぞ結ばれることなんて無かったし、小鳩は、歳華のことよりもずっと、自分の芸術の方を愛しているだろう。でも、その推理を否定出来る男はもういない。殺されてしまった。いなくなってしまった。
 歳華のフィクション、小説、……『最初で最後の推理』、は不適切なものだ。でも、赦して欲しいと思わずにはいられない。この推理の責任を取って、きっともう歳華は探偵を名乗らない。だから、この最初で最後の間違いを赦して欲しかった。
 自分の世界を守る為だけの、不適切で醜い歪んだ『推理』で、歳華はどうにかここに立っている。そうじゃなきゃ、歳華は後を追って死んでいたかもしれない。
 小鳩はもう否定出来ない。死んだ人間は真実を語れない。探偵を通してでなければ、真実を明らかに出来ない。それが死者だ。だから、歳華の身勝手な推理を止められない。害悪極まりなかった死体と、罪過を犯す探偵でお似合いじゃないか。
「というわけで、それ以来私は屋上に昇ることに異常な性的快感を覚えるようになり、高畑教授に土下座までして英知タワーの屋上に昇らせてもらうことにしたのでした。ちゃんちゃん」
「……その性癖、付き合っていくの大変じゃないか?」
「好きが選べるのなら苦労しないんですよ。知ってますか? 英知タワーってこれを機に柵が取り付けられるんですって。今昇っておかないと損ですよ」
 それが、歳華の書き上げた物語の全てだった。
 語り終わってしばらくしても、歳華は身動きすら出来なかった。隣の男も黙っている。感想を求める話でもない。そもそも、探偵の推理に対して感想を述べる人間なんていない。それを受けて起こるのは自白かカタルシスだ。
 その時、目の前にある扉がゆっくりと開いた。絶好のタイミングで、高畑教授が笑う。
「歳華さん。お待たせしました。もう入れるようにしてありますから、タワーの方に向かってください。受付の人も今度は入れてくれるはずですよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 連絡一つで入れるようになるなら、どうしてここに呼び出したんだろうか? 疑問は残るものの、入れるようになったのなら問題は無い。歳華が立ち上がると、隣の男も釣られて立ち上がった。
「あ、教授。俺は……」
「うん? どうかしましたか?」
「いや、だって、呼び出しの時ここで待ってろって……」
「ああ、そうでしたね」
 高畑教授がすっと目を細める。表情は少しも変わっていないのに、一段周囲の空気が冷えたような気がした。
「実は、何の為に君を呼び出したのか忘れてしまったんですよ。これだから齢は取りたくないですね」
 嘘だ、と傍観者のままで思う。傍目から見ても、嘘だと分かる言葉だった。隣の男を、教授は何かの目的で呼び出したのだ。目の前の初老の教授は、きっと物忘れなんかしない。隣の彼もそう思っているのだろう。どこか納得のいかない顔をしている。けれど、教授はそんな視線を物ともしていない。
「そうだ。暇なら、そこの歳華さんと一緒に下に降りてあげてください。エスコートですよ」
「……はあ」
「別にいいじゃありませんか。用事は自分で見つけるものですよ。それに、君は今暇でしょう?」
「……まあ、俺はいつでもそうですけど」
「家の方にいる彼にも、よろしくお願いしますね」
 そう言って、教授は部屋の中に戻っていってしまった。取り残された二人が、気まずそうに顔を見合わせる。
「あー……じゃあ行くか。ていうか、エレベーターにエスコートもクソも無いよな」
「そ、そうですよね……」
 エレベーターは比較的早くに来た。乗り込んで一階のボタンを押す。本当に、エスコートも何も無い。
 扉が閉まる瞬間、隣の男が言った。
「俺も人を殺したことがある」
 下降が始まる。
 これは何かの比喩に違いない、と歳華は思う。多くの人間はそんなことには巻き込まれずに生きていく。歳華だって小鳩のことを殺せなかった。さっき語った物語は、一から百まで全てが歳華の創作で、彼はそれに殉じなかった。
 だから、目の前の男が人を殺したというのもそういうことだ。その言葉は何かを例えているだけで、菱崖小鳩のように、誰かをその手に掛けたわけじゃない。
 それでも歳華は聞かずにはいられなかった。ゆっくりと地上に降りるエレベーターの中で、小さく尋ねる。
「……どういう気分でしたか?」
 ——カメラの中の小鳩は、人を殺してもなお、笑っていたのだった。
ややあって、男が答える。
「何も。俺はずっと前から選んでた。何か思うとしたらその時だった」
「……お兄さんも選んだの?」
「ああ。それに伴う責任も、報いも受けるつもりだった。単に運が良かっただけで。本当は死んでてもおかしくなかった」
 それ以上でもそれ以下でもない、淡々とした言葉だった。
「……後悔はしてない?」
「してない。だから、忘れない」
 そこで、エレベーターが地上に着いた。ゆっくりと扉が開いて、歳華は流れのまま外に出る。
「俺が選んだものも綺麗だったよ」
 さよならの代わりに、男はそう言った。
 それが彼との最後の会話だった。ゆっくりと背を向けて去っていく姿を見ながら、何故かやっぱり胸が詰まる。
 きっともう会わないだろう、という予感が脳の隅に在る。私もあの人も小鳩も、等しく罪人だった。その線はもう交わらない。
 名前くらいは聞いておくべきだったろうか。教授に聞けば今からでもわかるかもしれない。でも、きっとそんなことはしないだろう。
 人好きのする雰囲気を纏った今日限りの隣人。彼の名前は、歳華の中で永遠に殺人犯だ。

「屋上、飛び降りたりしないでくださいね。二度も同じことが行われるのは陳腐です」
 タワーの受付に行くと、開口一番そう言われた。相変わらずクールなお姉さんだ。陳腐と言われたら従わざるを得ない。何しろ歳華は小説家なのだ。陳腐な展開には人一倍敏感である。
「いや、大丈夫ですよ。大丈夫だと思います……うん」
「本来なら絶対に赦されないことですが、高畑教授がどうしてもと仰るので。それではどうぞ」
 受付のお姉さんは早口でそう言うと、さっさと視線を逸らしてしまった。相当に無理を言っているだろうに、その無理を通してしまうのだから、高畑教授は恐ろしい。一体、英知大学でどんなポジションに収まっているのだろう?
 想像の中でしか乗ったことのないエレベーターに乗り込むと、屋上へのボタンを押す。最新式のそれは、音もなく歳華を屋上へ運んだ。この辺りも、歳華の想像とは違っている。

 いざ屋上に着いても、それは変わらなかった。歳華の書いた解決編は見事なまでに裏切られている。ライトが設置されている様子は無いし、ここは真っ暗になるだろう。月がぼんやりと照らすだけになるはずだ。
 大晦日、小鳩が飛び降りた日に流星群は降り注いでいなかった。そんな事実は何処にもない。そこにはいつも通りの月と星、それに夜景があるくらいだろう。願いを懸けるものなんて何処にもない。けれど、現実に無いものを描けるのがフィクションのいいところだ。それでこそ。
 ここから見る眺めはそれなりに壮観だった。淵に寄るだけで身が竦む。冬の青空が想像よりも近くて、そのことも恐れを抱かせた。
 それでも重力は優しい。一瞬だけ勇気を振り絞れば、歳華は小鳩と同じ結末を辿れるだろう。
 受付のお姉さんは陳腐だと一蹴したけれど、実のところ好きだった相手に殉じるなんてかなりロマンチックだ。
 この期に及んでも、歳華はまだそれを考えている。これは殆ど呪いに近い。自分の生命を擲つことで、一体どれだけの物語を生み出せるのかと、心の中で計算式を描き出す。
 ——でも、そうしない。愛した人間が殺人犯ならその結末も有りだろうけれど、歳華の推理の中では、小鳩は歳華の為に死んだ無害な男だ。それなら、彼の死を胸に抱いて生きていった方がそれらしいし、新しい人生の象徴的な一歩として、志望校に合格するのが、なお綺麗だろう。
 とにかく、それで行くと後追いは無しだ。歳華は端から一歩距離を取る。
 小鳩はさっきの推理を赦さないだろう。可哀想な歳華を救う為だけの生温い物語は本意じゃないはずだ。
 でも、地獄からの声は歳華には聞こえない。どんな評価が下されようと、遺された歳華には分からない。彼女の小説はもう、菱崖小鳩に捧げられる為のものじゃない。生き残るということは、物語を生み出し続けられるということなのだ。
 あの推理を、物語を、披露するのも今日で終わりだ。あれに縋るのも今日で終わりで、明日からの小鳩は、歳華にとって消せない痛みになるだろう。
 だから、差し当たって彼女が言える言葉は一つしかなかった。赦せない。愛おしい。生まれてきてくれてよかった。死んでくれてよかった。本当は今すぐにだって会いたい相手のことを浮かべながら、歳華は言う。
「…………私だけは覚えておこう」
 小鳩が犯した罪のことも、それはそれとして、彼が歳華にだけは優しかったことも。大切だった思い出が無残に踏み荒らされて、死んでしまいたいと絶望したことも、未だに寂しくてたまらないことも、全部覚えておくのだ。
 それだけが、遺された歳華に出来ることなのだから。

 その後の話をしよう。歳華が何事も無く屋上から生還した後の話だ。
 英知大学の入試は二月の初めに行われ、中旬には結果が出る。結果はインターネットでも確認出来るが、歳華は去年と同じく郵送通知を選んだ。素っ気ない葉書一枚が送られてきた時点で嫌な予感はしていた。合格なら、一緒に必要な書類が送られてくる予定だからだ。
 素っ気なく書かれた『不合格』の文字を見て、小さく溜息を吐く。構内で人が死のうと、倍率に大きな変動は無かったらしい。
「何でここで落とすかなー、英知大学。お兄ちゃんの母校に文句言いたくないけど、あそころくな大学じゃないよ」
「自己採点の方はどうだったんだ?」
「……合ってる問題の方が少なかった」
「そうか。もしかするとそれが不合格の原因かもしれないな」
 大真面目な顔で俊月が言うのを聞いて、流石の歳華も渋い顔になった。兄の真面目さは色々なところで裏目に出ることが多い。こういう時に小鳩がいたら、この生真面目さを笑ってくれたことだろう。
 また小鳩だ、と歳華は他人事のように思う。これからしばらくは、こうして不在の反芻が続くことだろう。もしかすると、それが一生続くかもしれない。覚えておくことの呪いは、こういう場で作用するのだ。でも、それを選んだのが歳華である以上、仕方がないことでもある。
「まだ受験は続けるのか?」
「どうしようかな。まだ決めてない。でもまあ、高校生じゃなくても大学生じゃなくても、私は天才小説家だから」
「そうか。いいことだな」
「だから、ここを出てから考える」
 段ボールで囲まれた部屋を見渡しながら、歳華は晴れやかにそう言った。
「お兄ちゃんも、まだ何処に行くか決めてないんでしょ?」
「とりあえず、最低限の荷物だけ持って、北海道にでも向かおうと思う」
「いいね。良かったら白い恋人とか送ってよ」
 二人で暮らしたこのマンションを出るという話は、とても自然に出てきたものだ。ふらりとここにやってくる小鳩を待たなくていいのだから、何処にでも行けるだろう。
 俊月は別の場所へ、そして歳華は実家に戻ることになっている。長く続いた同居生活もこれでおしまいだ。生まれた時から一緒にいたのに、兄との間に居たのが他人である菱崖小鳩だというのは、何だかおかしい。二人揃って人生を狂わされてしまっている。
「お別れだね」
「お前は俺の妹だ。何があっても、俺はお前の味方だからな」
「知ってる」
 その言葉の真摯さも、ちゃんと知っている。捨てられない愛情も、忘れられない執着も、痛いほど理解してしまった。お互いにそんな方法でしか小鳩を愛せなかったのが悔しい。
 あの日書いた解決編は、完全にこの世から消してやった。ゴミ箱の中からも消去して、もうどこにも残っていない。結構な力作だったけれど、これからいくらでもあれを超える傑作が書けるのだから惜しくも無い。あれはただの佳作でしかないのだ。
 引越し業者のトラックを待ちながら、歳華は右手薬指に嵌ったシルバーリングを見る。細身でシンプルなそれは、長く使えるものだろう。これから先十年だって、頑張れば二十年だって嵌めていられるかもしれない。
「どうしたんだそれ」
「これ、小鳩の形見」
「そうなのか?」
「そうだよ。カルティエだから、それなりにしたんだよね。小鳩のお金だから関係無いけど」
 嘘を言っているわけじゃない。正真正銘小鳩のお金だ。鞠奴島で大金の入った封筒を渡された時、小鳩は羽振りのいいことに、札束の余りを回収しなかったのだ。長らく机の奥に仕舞われていたお金だけれど、これを機に使ってしまうことにした。形見一つくれなかったんだから、自分で用意するしかない。あのDVDを形見に据えるなんて、いくらなんでもあんまりだ。
 目の前の俊月は、すっかり歳華の叙述トリックに嵌っているようだった。あの小鳩が指輪を贈るロマンチストであるかどうか考えあぐねているのだろう。その直感は正しい。これは、多少のフィクションが含まれているのだ。

 指に嵌った銀色のよすがを見ながら、どういうわけだかもう一度泣きそうになる。どうか天国も地獄もありませんように。辿り着いたそこに何もありませんように。全て、誰かを救うためのただのフィクションでありますように。
 ——どうか、もう二度と小鳩と出会わなくても済みますように。
 恐ろしいことに、救えないことに、彼女は菱崖小鳩を、今でも愛しているのだ。

(了)


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