春嵐花冠のメイストーム

 ※「キネマ探偵カレイドミステリー 輪転不変のフォールアウト」のネタバレを含みます

【晩春の頃に降りる霜を、最後に降る霜とし「八十八夜の別れ霜」と呼ぶことから、バレンタインデーから八十八日経った五月十三日をメイストームデーと呼び、別れを告げる日とされている。】

 俺の通っていた高校では、進路決定に結構な重きを置いていて、ホームルームの時間を使って何やら将来を考える時間を作っていた。大学の研究だの、将来の仕事を考えるだのの、今思えばそこそこ大切な活動だ。けれど、あの頃の俺には厄介の種でしかなかった活動だった。
「中心に現在を置いて、一番端に、将来どうなりたいかを書け。それで、その目標を達成する為に今何をしないといけないかを考えろ」
 先生が行うその説明すら流し聞きしていた。黒板に一本の長い線を書き、その中心に点を打つ。チョークで書かれた『現在』の文字が、やけに達筆だったのを覚えている。
 その珍妙な催しは、確か『タイムラインセラピー』とかいうものを基にしていたはずだ。人間の一生を一本の線に見立てて、人生を設計していく。中心が俺の今いる現在で、先が未来。後ろが過去。
 一本の線だけが書かれたシンプルなプリントを前に、俺はぼんやりと考える。黒板の通り中心に点を打って『現在』と入れた。過去の各位置にはそれぞれ中学校、小学校、という漠然とした点を入れる。少し考えてから、現在の少し前にバンド結成や友人と行った旅行などを置く。思い出と人生の違いが俺にはよくわからない。
 どうにか埋められた過去に対して、俺のこれからは真っ白だった。適当に打った点に『大学』と入れたはいいものの、そこから先が何もわからない。線の終点には目標だのを置くらしいが、その椅子に座らせていいものが見当たらない。
 線の端をぐしゃぐしゃと塗り潰していると、前の席の友人がぐるりとこっちを向いた。咄嗟に手元にあるプリントを折って隠す。大学から先が見えないように。無いものを隠そうっていうのも妙な話だが、とりあえずそうしたのだ。
「奈緒崎さー、書けた?」
「や、全く……。ぶっちゃけ何もわからねえんだよな。もう三年なのに」
「だよなー、俺もまだよくわからんわ」
 その言葉に、何となく安心する。何も俺のタイムラインだけに白紙が目立つわけじゃない。誰も彼もがまだこの先の進路に悩んでいて、空白を持て余しているのだと思うと落ち着いた。
「大学とかどうすんの」
「あー……いや、模試の結果見て行けそうなところを適当に……んで、理系科目はキツいから私立文系で……英知辺り」
「それで英知とか言っちゃう辺りがお前らしいわ」
「いいだろ。英知のドイツ語とか」
「何でドイツ語?」
「なんか格好いいじゃん。響きが」
 後々留年の憂き目に遭い、この選択を死ぬほど後悔することになるとはその時は全く思っていなかった。もし過去に戻れていたら、大人しく別の学科に進んでおけとアドバイスしていただろう。
 いや、それもどうか今となってはわからない。ドイツ文学科に進んで、留年する羽目に陥らなければ、俺は映画を観ることの無い人生を送っていただろうからだ。それはやっぱり、ちょっと勿体ない。

 映画と言えば、という枕詞で思い出す出来事がもう一つある。
 いつだったか、宅飲みの流れでそのまま寝てしまったことがある。泥酔ついでに床での雑魚寝を決めて、ろくに片付けすらしなかった。
 そうして目覚めた真夜中に、点けっぱなしのテレビから流れる映画を観た。
 寝ぼけ眼で見た画面には車に乗った二人組が映っていた。そして、運転している側の男が誇らしげにその車をタイムマシンだと笑う。彼らはこれから未来に行くそうだ。男が言う。アクセルを踏んだら、もっと早く未来に辿り着くのだ、と。景気の良い話だ、と思ったのを覚えている。
 俺は再び眠りに落ちて、覚えているのはそのワンシーンだけだった。車。タイムマシーン。未来への旅。そしてアクセル。微睡みの中で観た所為か、そのキーワードだけは俺の脳内に深く刻みつけられた。

 よっぽど頭の中に残っていたのか、俺は翌朝、友人連中に聞いてみたのだ。適当な単語を繋ぎ合わせて、どうにか説明をする。
「車がタイムマシンなんだってさ、それで二人で走っていくんだよ。これ何の映画かわかるか?」
「何それ。よくわかんね」
「いや、あれだろ。何だっけ……車がタイムマシンなやつ。飛ぶスケボーの」
 それも、少し経てば二日酔いの余韻と紛れて忘れてしまった。
 今思えば、わからないのかが不思議なくらいオーソドックスなタイトルだった。けれど、あの時の俺は本当に映画に触れていなかったから、そんなビッグタイトルすら分からなかったのだ。嗄井戸に出会って、実際に『バック・トク・ザ・フューチャー』を観なければ、俺の中であの映画は一生真夜中の亡霊のままだっただろう。
 あの夜に小さな画面で観たそれと、昼間でも暗い部屋のスクリーンで観たそれは上手く重ならなかったが、多分同じものだったはずだ。車を運転していた謎の男の正体はドクだったのだ。
 人生の中で良く分からないものを点で置いた時に、不意にその点の正体が分かる時があって驚く。例えばこの時の映画みたいに、その中身を不意に見せてくれることもある。現在に置いた点から少し後ろにあるデロリアン。

 一本の線を浮かべた時に、一際目立つ点も一つある。高畑教授が俺を呼び出し、妙な交換条件をチラつかせた時だ。あれ一つで人生変わったよな、と他人事のように思う。
「パラダイムシフトって言うんだよ」
 荒園さんの事件の後だったか、束がそんなことを言っていたことがある。
「認識や価値観ががらっと変わることを言うんだよ。さながらスペシャルチェンジだね。奈緒崎くんもあるでしょ、そういうのあるでしょ?」
 以前の俺だったらきっとノーと答えていただろう。けれど、その時の俺は何となく束のその言葉に深く納得してしまったのだった。パラダイムシフトなるものが人生の中に起こったら、それは人生のラインの中で結構な大事として刻まれるんだろうな、と思った。
「『花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ』」
 不意に束が言う。
「何だっけそれ」
「井伏鱒二だよ。人生は別れがつきものだから。……いつまでも花が散らないわけじゃないんだよね。いつかはきっと決めなくちゃ」
 その時、束がどんな気持ちでその言葉を言ったのか。その時の俺は分からなかった。俺は束が抱えていた事情も、そのキュートな微笑の後ろに何が隠れているのかも、まるで知らないままだったからだ。

 俺の人生の線があったとして、一際色づく点は嗄井戸に出会った日だった。けれど、今になってもう一つ点が増えた。二〇一六年の大晦日だ。

 あの日以来、嗄井戸が見違えるように元気になったといえばそういうわけでもなかった。叶さんのお墓参りに行ってから、特に何処かへ出かけることも無い。一月も半ばを迎え、寒さが厳しくなったのか嗄井戸は毛布に包まって一層防寒に励んでいる。別に悪くない過ごし方だ。ゆっくり進んでいけばいい。俺は、嗄井戸の人生の線を思い浮かべる。まだまだ先は長いだろう。それなら、別に焦る必要も無い。オーロラだって砂丘だって行きたいところにはいくらでも行ける。
「さ、今度は何を観ようか? 結構主要なところは押さえてきたと思うんだけど、まだまだ脇が甘いからね。今度は年代で区切って行こうか!」
「なあ、俺なるべく穏やかに過ごしたいんだけど」
「僕もだよ。流石、気が合うね」
「意識が朦朧としてきたんだけど」
 今日も今日とて連綿と続く上映会のお陰で、俺の意識は過去の思い出にぽやぽやと飛んでいた。高校時代のことや、宅飲みでの映画の話、束との会話までもが思い出されたのはその為だ。映画は一日一本にした方が良い。心が壊れる。
 楽しそうに映画を選ぶ嗄井戸に、さっきの映画の話を振ってみることにした。上手くいけばこの上映会地獄から抜け出せるかもしれない。暗い部屋の中で、目映く光るタイムマシン。
「あのさ、昔タイトルがわからないのに気になった映画があったんだよ」
「へえ、何の映画?」
「それがさ、真夜中にテレビでやってて、車がタイムマシンで、主人公たちが未来に向かってアクセルを踏むんだよ」
「……『バック・トゥ・ザ・フューチャー』?」
「多分そうだと思う。あん時は分かんなかったんだけどさ、多分そうだよな。でも、真夜中だからか、凄い明るく見えて。草原みたいなところをばーって走ってくんだよ。それ観てめちゃくちゃ良いなーと思って、周りにいる奴らに聞いたんだけど……あの時に嗄井戸がいたらすぐに教えてくれたのにな」
「そんなに明るい画面だったかな? 部屋の暗さでいったら、僕の部屋と大して変わらないと思うんだけど……」
 そう言って、嗄井戸は律儀に考え込んでいた。ちょっとした雑談だというのに真面目に考え込むのが妙に面白い。こんなのクイズにしたって簡単な部類だ。車型のタイムマシンというヒントが無くたって、タイムマシンの一言で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い浮かべる奴だっているだろう。
 今俺の家で宅飲みして、同じような状況になったんだとしても、嗄井戸はどんな映画でも言い当てられるんだろうな、と思う。そこで聞いてみた。
「お前ってまだ俺の家には来れないの?」
「……いや、こう感情的な一線があるんだよ。わかるだろ。初めて観る映画の特典を開ける時みたいな……」
 意外と言うべきか当然と言うべきか、嗄井戸は未だに俺の家に足を踏み入れたことがなかった。
 あいつが俺の家の敷居を跨いだのは、それこそ花村の一件の時だけだった。銀塩荘に引っ越して来た時に、あの角部屋に嗄井戸がいるところを想像した身からすると、それも大きな点だと思うんだけども。
「直線距離でいったら大して無いのにな」
「本当にそうだよ。僕だってそう思う。いっそのことあそこらへんに工事で穴を空けてもらうのはどうだろう。そうしたら僕のストレスは殆どゼロに等しくなるし、実質家の距離もゼロだ。全部の問題が解決する」
 嗄井戸が妙に真剣な顔で床を指さす。確かにその辺りの床なら邪魔にもならなそうだし、一旦穴さえ空けてしまえばどうにでもなる気もする。ただ、嗄井戸を怒らせた場合、重力の関係で一方的な攻撃を赦すことになるのが難点だろうか。上から落とされる生卵やら焼けた鉄塊やらを考えるとあまりに不利だ。ややあって、俺は言う。
「いや、工事業者の人を入れるの気まずいし嫌だろ。だってそんなのすぐには済まないだろうし……絶対うるさいぞ。映画も観れない」
「まあ確かに一理あるかな……」
「直線距離を繋げばいいってもんでもないって。な?」
 そこでふと、高校時代の例の線を思う。人生を表す一本の線だ。真ん中が現在でその先が未来。直線距離で繋がる二つの部屋。
「なあ、お前あれ知ってる? 人生を一本の線にするやつ。高校の時やったんだけど」
「線?」
「一本の長い線があって、真ん中が今なんだよ。んで、今いるところから後ろが過去、んで、未来がその先で人生設計を考えるやつ。線の先の未来を考えることで進路を決めるわけよ」
「なるほど。タイムラインセラピーみたいなものか」
 嗄井戸の中ではすぐに合点がいったようで、頻りに頷いている。話に乗ったのに合わせて、俺はすっくとソファーの上に立った。上目遣いで俺を見る嗄井戸に、堂々と宣言する。
「そうだな、お前のこのソファーがずっと昔だ。どこにする?」
「人の家のソファーで立ち上がらないでくれるかな」
 至極真っ当な意見を言う嗄井戸を無視しながら、俺は嗄井戸も無理矢理ソファーの上に立たせた。近くなった天井のずっと上には屋根があることだろう。嗄井戸の言葉を待ちながら、その天井にぺたぺたと触れる。ややあって、嗄井戸は言った。
「……この部屋に来た時かな」
 あんまり楽しくは無い記憶なんだろう。八束さんはこの時期の嗄井戸に俺がいたら良かったとかなんとか言っていたが、それは本当にその通りだと思う。この時こそ、俺は嗄井戸の部屋の扉を開けるべきだったのだ。
「まあ、だよな。それじゃあ、この棚の辺りってお前にとってどの辺り?」
 俺はソファーから降りると、つかつかと棚の方へ歩く。最悪な時期から少しだけ前に進んだ時期だ。嗄井戸は毛布を被ったまま、ゆっくりとこっちへ歩いてくる。
「そうだな。束ちゃんと出会ったところかな。……ここに置く映画は『レオン』でもいいし『フォー・ルームス』でもいい。束ちゃんは不本意かもしれないけど、束ちゃんが心の中でどう思っていたとしても、彼女がいたことで僕は救われてたよ」
 それを聞いて、俺の方も嬉しくなった。黒板の図を思い返しながら、もう一歩先へと進む。玄関に着いて靴を履くと、扉を開けた。
「何それ、何のつもり?」
「別にいいだろ。ほら、ここらへんは?」
 この上手いこと出来た構図の意図を、嗄井戸は汲み取っているはずだ。殆ど履かれていない真新しい靴を履きながら、嗄井戸が溜息を吐く。そして、俺の代わりにドアノブを引き受けて、静かに言った。
「……そうだな。君が怠惰によって留年が決定した挙句、下心が見え見えの状態で僕のところにやって来た辺りがここだね」
「別にいいだろ。結局俺は留年したんだぞ」
「大体そんな怪しい課題で単位を貰おうっていうのがおかしいんだよ」
 ごもっともな話だ。本当に耳が痛い。あと一月もすれば後期の期末試験も始まる。構内でどれだけの事件が起ころうが、あの大学はつつがなく試験を行うことだろう。レポート系は嗄井戸に手伝ってもらうとしても、多少なり勉強しないとまずいことになるはずだ。
 俺は更に一歩外に出て、ぼろぼろの手すりを触りながら言う。この場所は、嗄井戸が泣きながら俺を見送った時の位置だ。今思うとこっぱずかしいような気もするが、あの時の距離が本当に大切だったので何も言えない。ここから見ると、飛び降りるには高すぎるな、とも思う。
「それならここが崖っぷち演説事件かもな。階段降りたら、能見の事件とかもあってさ」
「その前に君が死にかけた事件もあっただろ」
「あー、あれは確かにな。ヤバかったわ」
 嗄井戸は多少なりしんどそうな顔をしていたが、それでもゆっくりと俺の後を着いてくる。一緒に過ごした時間がラインの上にあって、嗄井戸の足を進ませる。これがこの一年足らずの内に起こったのだと思うと笑ってしまった。今までの人生に対して情報量が多すぎる。
「それで、まあそこの扉のところがデロリアン消失事件だろ。それでそこが……まあ、大晦日だな」
「……そうだね」
 あの日が一番死に近かったな、と改めて思う。危ない橋を渡ったから、とか相手が悪かったから、とかそういう理由じゃない。死んでもいいと本気で思ってしまったのが良くなかった。全部を擲ってでも救いたいと思ったから、一番まずかった。結果的に生き残ったのが俺の側だっただけで、一歩間違えれば、落下していたのは俺だった。
 単なるレトリックでもなんでもなく、俺はあの日のことを一生忘れないだろう。自分の手で突き落としたあの感触も忘れない。きっと、ずっと覚えておくのだ。
「それじゃあ、俺が立ってるところが、俺達の現在だな」
「うん。……これが今だね」
 嗄井戸が勢いよくそう言って、大きく足を一歩踏み出す。そこで、嗄井戸がはた、と表情を曇らせた。何かに気づいたような顔だ。さっきまでの和やかなムードとはうって変わっての表情だった。ややあって、嗄井戸が言う。
「待って、足りなくない?」
「何が?」
「いや、今立ってるのが現在なんだよね。君は上手いこと流れに乗せて僕を引きずり出してきたつもりでいるかもしれないけど、ちょっと尺が足りなくないかな」
「え、マジか」
 言われるがまま振り返ると、俺の家の扉は、あと数メートルというところに控えていた。確かに尺が足りない。あと数歩ほど必要になるけれど、今立っている場所を現在にしてしまうと、その先がどうにもならないのだ。
 この微妙な空気を鋭敏に察知して、嗄井戸の顔があからさまに歪んだ。まずいな、と思う。色々と企画倒れだ。
「何で角部屋をチョイスしたんだよ! 君が手前の部屋に住んでたら綺麗に纏まってただろ!」
「物件選びの時に角取るのは当然だろ。オセロもそうだし」
「全く君はこういうところが駄目なんだよ! そもそも、これでいくならもう事件の一個一個をもう少し細かくカウントしておけばよかった!」
 理不尽なことを叫びながら、嗄井戸の足が完全に止まってしまう。あと少しだったのにな、と思うと惜しかった。ここが俺達の現在なのだ。一本線を引いた時に、中心になる一点。
 高校の時の俺の線を思う。あの時も俺は、これから先に何を置いていいかわからなくて結局白紙のままにしてしまった。状況は全く違うが、あの時と同じようにこれから先の点が見当たらない。映画関係の職、という漠然とした『この先』があるだけでも、あの頃よりはマシになっただろうか。
 そんなことを考えながら、俺は自分の家の扉に立つ。ドアノブに手を掛けたところで、嗄井戸の焦った声がした。
「って、ちょ、何帰ろうとしてるの!?」
「え、いや、まあ今日はその辺でいいかなと。良かったな、一階まで下りてこられたぞ」
「人間の心が無い! まさか君、映画観せられるのに飽きて、どうにか誤魔化して帰ろうとしたんじゃ……」
「………………」
「黙るなよ! そういうところだぞ!」
「大丈夫大丈夫。ゆっくりやってこうぜ。進めば未来に辿り着くって例の映画でも言ってたし。アクセル踏めばその内追いつくって」
 そこで、嗄井戸がはた、と表情を変えた。
「……それもさっきの映画の話? 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』?」
「え? ああ、まあそうだろうな?」
 自分で言いながら、少しだけ引っ掛かりを覚える。あの映画にそんな台詞があったかどうか思い出せない。言ったんだとすればデロリアンの設計者のドクだろうが、ドクはそんなことを言っただろうか?
 そう思いを巡らせていた瞬間、いきなり何かがぶつかってきた。さっきまであの一線を越えられていなかったはずの嗄井戸が、目の前でしっかりと俺の服を掴んでいた。さっきよりもずっと大きく開いた瞳が、俺を見ている。そして、焦ったようにこう呟いた。
「違う、間違えた!」
「は? 何をだよ」
「君が探していた映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』じゃない! 時を超える車の話、タイムマシンである車の話は、別の映画だ! そうだ、その台詞、覚えてたのに忘れてた……!」
 爛々と目を輝かせた嗄井戸が、そう言って一歩下がった。白い髪を靡かせながらまっすぐに俺の方を指さす。そして、名探偵ライクなそのポーズのまま、ゆっくりと口を開いた。
「君が真夜中に観た映画は、恐らく『パーフェクト・ワールド』だ」
「『パーフェクト・ワールド』? なんだそれ、SFか?」
「違う。クリント・イーストウッド監督のヒューマンドラマだよ。けれど、この映画には車の形をしたタイムマシンが確かに出てくる」
 SFでも無いのにタイムマシンが出てきてもいいんだろうか? と、俺は少しだけ訝しむ。それを察した嗄井戸が、付け足すように言った。
「この映画の主人公フィリップは、厳しい家庭で育った少年でね。ハロウィンもクリスマスも祝えない自分を不幸だと思っていた。そこへ、脱獄犯のブッチがやってきて、フィリップを人質に取って逃げ出すんだ」
「酷い話だな」
「……まあ、そうなんだけどね。でも、今まで寂しく過ごしていたフィリップは、ブッチとの奇妙な逃亡生活を楽しむようになるんだ。ブッチも、根は良い悪党でね。フィリップのやりたいことは何でもやらせてやろうとする。そして二人は、パーフェクト・ワールド……ブッチがずっと夢見たアラスカの地を目指して旅を続ける」
 そう言って、嗄井戸は小さく笑った。脱獄犯と人質なんて聞くと物騒な話だと思うが、人間の縁なんてどこで繋がるのかが分からないのが常だ。嗄井戸は大きな目を輝かせながら、続ける。
「その旅の最中で、ブッチは『今乗っているこれが何かわかるか?』って尋ねるんだ」
「……車だろ?」
「フィリップもそう答える。けれど、風を切って走りながら、ブッチは言うんだ。『これはタイムマシンだ』ってね」
 その瞬間、暗闇の中で観た画面がフラッシュバックする。何の障害物も無い広い道を走り抜ける車。運転席の男。そうだ、助手席に乗っていたのはマーティよりもずっと幼い少年だったはずだ。
「『この先には未来がある、後ろは過去だ』」
 嗄井戸があの日聞いた台詞を暗唱する。合わせて、俺も言った。
「少しでも早く未来に行きたかったらアクセルを踏み込む……だっけ?」
「そう、それだよ。引っ掛かってたんだよ。君が観たのが本当にBTTFだったんなら、デロリアンが走るのは夜だ。それに、アクセルを踏み込めば早く未来に行けるっていう設定はデロリアンには無い。あれは一定速度に達した時に未来に遷移するガジェットなんだからね。もう少し早く気づけばよかった」
「……お前って……いや、まあいいや。それより、もう結構来てんじゃん」
 俺達が居たはずの現在は遥か後ろにある。少なく見積もっても数メートル、時間に直したらどのくらいになるか分からない距離を進んでいる。よっぽど俺に『パーフェクト・ワールド』の話をしたかったらしい。嗄井戸も、自分で驚いているようだった。思い出したように、眉が下がる。
 殆ど部屋の中に入ってくるような勢いの嗄井戸に、かつてとは逆の構図を見た。「好きな映画は?」と聞いてやろうとして結局やめる。その前に、嗄井戸の方が口を開いたからだ。
「そこが現在、ならここって何だろうね」
「……『パーフェクト・ワールド』に沿うなら未来だな。この距離の感じだと……四月? 五月? 正直そんくらいになると、何してるかよくわからねえよな」
 俺は白紙だった脳内に点を打って、そこに置くべきものを考える。驚くほどすんなり打てたこれからの点が、自分でも不思議だった。高校時代、そこはずっと空白だった。これからのことを考えることすら難しく、先のことはずっと宙に浮いていた。
 けれど、今は違う。空白のままにしておいたその場所に、嗄井戸が代わりに点を打つ。
「まあ、五月だとそれこそゴールデン・ウィークだよね。君は大学に復帰してるだろうし、その辺りで何かイベントごとでもあるんじゃないかな? ……尤も、僕はゴールデン・ウィークにわざわざ出かけるような真似は賢い人間のやることじゃないとは思ってるんだけど……」
「あー……ないこともないけどな、五月の予定」
「何? 何か約束とかあるの? 君に?」
「五月の十三にな」
 長いこと意識もしていなかった日付だ。けれど、この線の上になら置いてもいい気がした日付だった。これからを考えるなんて大層な話でなくても、一応置いておいてやってもいいと思えるような日だ。
「五月の十三日……え、その日って……こ、ここに来て、まさか君はまた何かやらかすつもりじゃないよね? 一体どういうつもりでその日を」
「え? いや、俺の誕生日ってだけなんだけど」
「え!? 誕生日!? 奈緒崎くんって誕生日あったの!?」
「どういう意味だよ。あるだろ」
「そもそも何でもっと早く教えてくれないんだよ! 友達の下の名前に続き、友達の誕生日も教えてもらえないの!? じゃあ一体何なら教えてくれるんだよ! 好きな映画も駄目か!? いやあ奈緒崎くんはガードが堅いなあ!」
「好きな映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』だな」
「教えてくれてどうも! 来世まで覚えておくよ!」
「……そういうのあんまり気にすんなって」
 下の名前といい誕生日といい、何だか嗄井戸は妙にこういうところにこだわるから困る。よくよく考えたら、色々長いのにそういう基本的な情報を知らないっていうのもおかしいのかもしれない。色々と修羅場をくぐり抜けてきたというのに妙な気分だ。
「そうだな、辿り着いたここが君の誕生日だ。別にパーフェクトな予定ってわけでもないけど、ちゃんと覚えておくよ」
 大した予定でも無いというのに、嗄井戸は噛みしめるようにそう言うと、少しだけ笑った。
「正直な話、君ってすぐに消えそうじゃない? 全部が解決したから別にいいだろう、みたいな感じで。正直、君の誕生日がメイストームデーな時点で嫌な予感がしたんだよね。お誂え向きに僕の前から消えてみせるつもりなんじゃないかって」
「あ? メイストームデーって何だよ。日本語にしてくれ」
「メイストームデーは日本語が元になってる言葉だよ」
 そう言って、嗄井戸は俺にメイストームデーについてを話してくれた。何でもこの日は別れを告げてもいい日らしい。別れを告げるのにわざわざ記念日が必要なのかよ、とも思ったが、そこはまあ御愛嬌だろう。さよならだけが人生だ、という束の言葉を思い出す。今は、あんまり考えたくない言葉だ。俺はまだ、もう少しここで線を眺めていたい。
「それじゃあまあ、メイストームデーまではよろしくな」
「その含みのある言い方やめてくれない? そういうのが僕一番嫌いなんだけど」
 膨れっ面をしている嗄井戸を適当になだめながら、部屋の中に入る。するとちゃっかり嗄井戸も中に入って来た。あれだけごねていたのが嘘みたいだな、とも思うけれど、俺のタイムラインだってそんなものだ。あの時は大変だったことが、何かのきっかけで様相を変えるパラダイムシフト。
「うわ、なんか独房みたいな部屋だね」
「文句があるなら帰れよ」
「いや、今のは単なる感想だよ。ていうか、この部屋ソファーすら無いの? 床に座るの嫌なんだけど」
「忌憚なき感想をどうも」
「いや、今のは文句だよ」
 一瞬だけ、部屋から叩き出してやろうかと思った。けれど、文句を言いながら俺の部屋を漁る嗄井戸は、やっぱりとても得難いものだったので、仕方なく赦す。
 俺の部屋の扉を開けた嗄井戸は、これから先の五月十三日にいるらしい。それなら、その扉を開けてこの先に足を進めたら、一体何処まで行けるんだろうか。背中を丸めてDVDを物色する嗄井戸のことを見ながら、そんなことを考えた。
 パーフェクト・ワールド。良い響きだ。俺達が向かうべきその場所はアラスカじゃないかもしれないが、その言葉の美しさが似合う場所なら、本当はどこでもよかった。

 そして俺の線は更新されていく。過去に残る鮮やかなパラダイムシフトと一緒に、これから先に打つべき点を見据えて行く。

 さっきまで同じ部屋でだらだらと過ごしていたというのに、その日は日付変更線を超える前に、埃っぽい自宅に帰された。友人の誕生日を祝ったことが無いというあの男は、妙に張り切ってはしゃいでいたのだ。思えば、ここに絡んでくるのもまた一つの線である。
 嗄井戸にあれこれ言われた後、俺も自分の誕生日について調べてみた。メイストームデー、別れを告げても良い日、八十八夜の別れ霜。何とも寂しい話だが、別れ霜自体は別に悪い言葉というわけでもない。その日降りる霜を境に、もう雪は降らないというサインなのだ。これから美しい春がやって来て、暖かな日差しがやってくるという兆しのことだ。
 あの後観た『パーフェクト・ワールド』は、派手なアクションも無ければ空飛ぶデロリアンも無い映画だったが、それでもとても面白かった。あの映画で語られたアラスカを、俺も見に行きたいと思わせる程度には。
 さて、と思いながら、俺は天井を見上げる。昼になれば、やれやれといったような顔をして、束の奴も来てくれることだろう。三人で食べる為に、俺の家のすっからかんな冷蔵庫には珍しくコンビニで買ったケーキが入っている。嗄井戸が何を目論んでいるかは知らないが、まあ、好きにやらせてやろう。
 それから数分ほど経ってから、俺の家のインターホンが鳴った。殆ど聞いたことのない音だ。
 ドアスコープを覗くと、少しだけ不安そうな顔をしながら、それでも楽しみを滲ませて、嗄井戸が立っている。その手には殊勝にもクラッカーが握られていた。結構オーソドックスな趣味だ。
 その表情を、あと数秒だけ堪能してから、扉を開けてやろうと決めていた。あと数秒、その表情が不安を通り越して、不満そうなものに変わるまで。


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