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【雑記】ことばの話 〜犠牲を『払う』・『生む』〜

野球を全く知らない人に「バント」を説明するのは難しい。「打者がアウトになる代わりに走者が進塁する」と言ってもなんのことかさっぱりでしょう。それならば「犠牲を払い、益を図る」という構図だけ伝えれば良い。

そんなことを考えていたら「犠牲」の表現に関して疑問が湧いてきたのでとりあえずごちゃごちゃ書いてみました




「犠牲」って「払う」ものでもあるし「生む」ものでもある。「出す」と表現することもある。いずれの場合もその結果を見ればマイナスの作用が強調されている。

ただ、日本語として存在している以上は使い分けることによって微細なニュアンスの差異を示せたりするのかな〜と思い今日はそのことばかり考えていました。


まず犠牲を「払う」という表現に着目したとき、この場合の「払う」は既存概念からの流用であると言える。

本来「払う」という動詞は「邪魔なものを手や道具を用いて取り除く」という意味の他に「金銭を渡す」といった意味を持ち、後者が転じた結果「ある目的のために大切なものを使う」といった形でも使われるようになったと推測できよう。

つまり、「払われる」のは「金銭」のような"価値のあるもの"でなくてはならない。したがって、「犠牲を払う」という表現において、「犠牲」は少なからず価値のあるもの、欠けることが望ましくないものであるべきだ。この場合の名詞「犠牲」は、プラスの性質を帯びている。


一方で、犠牲を「生む」という表現。このフレーズを最終的に負の方向へ帰結させるためには、「生まれる」ものがマイナスの性質を帯びた概念でなくてはならない。つまり、名詞「犠牲」が負の概念に徹し切る必要が生じる。

この「生まれる《犠牲》」は先程の「払われる《犠牲》」とは対照的に、"価値のあるもの"という前提が省略され、本来持っていた(はずの)正方向の要素にもフォーカスされない。


この差異がどこから来ているのか考えるにあたって、「動作・行為の主体」と「行為結果の帰属先」に注目した。

犠牲を「払う」という表現において、「払う」という行為の主体をAとすると、その結果が帰属する(価値のあるものを損失する)のは間違いなくAである(蛇足にはなるが、そもそも「払う」行為の最終決定もAに委ねられている)。

これに対し、犠牲を「生む」という表現では、結果の帰属先をAとした場合でも、行為の主体がA一人に定まらない。「ゴジラの襲来が大きな犠牲を生んだ」という例文を考えればこのことは瞭然だろう。犠牲になった(結果が帰属した)のは建物や人々(=人類サイド)なのに対して、「犠牲を生む」行為の主体はゴジラである。


では何故、犠牲を「生む」行為の主体は限定されないのだろうか。これはおそらく「生む」という動詞の他動性の高さに起因していると考えられる。

一般に、「払う」のは自分の物だ。他動詞でこそあるものの、誰かの物で「払う」とは言わないし、行為者の「払う」という行為で「払われる」対象の性質を大きく変化させることもない。行為者の自己完結性が非常に高い動詞である。

反対に、「生む」行為は言い換えれば「発生させる」ことであり、使役性が高い。また、「生まれる」のは自分の物というより、自分とは別個の存在である。自らの支配を離れた対等な一概念に作用する、という点において動詞「生む」の他動性の高さは間違いなく肯定できるだろう。したがって、「生む」という動詞の主体が限定されないことも当然に肯定できる。



ところで、「犠牲を払う/生む」を英訳すると

"pay a sacrifice"とはならずに

"make a sacrifice"

になると思うんですけど"make"って使役動詞としてもよく使われますよね。偶然だったら面白い。偶然でなければもっと面白いです

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