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表現するVOCALOID 〜ボカイノセンスにおける語り手の性質〜

2ヶ月振りに美容院へ赴いた。頭髪に手を加えられている間もウンウン唸っていたと思う。さて、アドカレの記事は何を書こう、あれはダメ、これもダメ、追い詰められた私は部屋の隅で小さく丸まって何か良い案が浮かぶのを待ち続ける以外の選択肢がまるで浮かばず、ようやく外に出たと思えば床屋でひたすら呻き続ける怪物と化してしまった。

普通の美容師なら恐怖するに違いない。しかし、そんな私に慄くこともなく前髪をパッツンにしてくれた彼は恐らく普通ではなかったのだと思う。大変おしゃべりで、矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくる。

「大学どちらでしたっけ?」
「サークルとかは…?」
「どんな音楽作ってるんですか?」
「ボカロってニコニコ動画とかですか?」


「なんでわざわざボカロを使うんですか?」




序. 各クリエイターにおけるVOCALOIDの起用

自らの楽曲のボーカルに合成音声を据える理由は様々だ。


『My Name Is 初音ミク』『祝福』などの楽曲で広く知られるやながみゆきはStripelessによる『合成音声音楽の世界2020』内インタビューにおいて、自らと初音ミクの関係を「シンクロする感じ」と語っている。

-切り離されている例といえば、松傘さんの「震える舌」におけるMC画伯と初音ミクみたいな関係が思い浮かびますが、それとは違うということですよね。

 僕はどっちかというと初音ミクとシンクロする感じですね。
 よく言われているのは「誰々さん家の初音ミク」みたいな「俺のレスポール」的な感じだと思うんですけど、僕はそことも違っていて。僕が初音ミクに抱いているのは自分のアバターというか。『ロックマンエグゼ』でいえば光熱斗くんとロックマンという関係で、インターネットを泳ぐための自分のもうひとつの体みたいな感じです。
Stripeless. 『合成音声音楽の世界2020』. 株式会社しまや出版, 2021/4/25, p.5


彼はその後のインタビュー記事において、

-ボーカロイドというアバターを通して、ご自身の体験をフィクションに昇華させている。

そうなのかもしれません。以前は自分とボーカロイドをシンクロさせて、自分の主張を歌わせていた節がありました。

でも、魂をそっくりそのままどこか違うものに移すSF的な世界観って、どれだけ進歩しようとも技術的に現実性がないらしいんですよね。出来たとして複製までで、オリジナルの意識そのものは寿命まで肉体に依存せざるを得ないと。その言説を知ったことが大きくて、僕なりに魂の所在とか物の命とかを再度考えるようになったし、ボーカロイドと自分の距離を捉え直すようになったのかもしれません。
namahoge
. "yanagamiyukiインタビュー 憂鬱と生きながら問う、生命とAIとボーカロイド". SOUNDMAIN.2022/10/26.  https://blogs.soundmain.net/15914/ ,(2022/11/23)


とも述べているように、現在その考えに多少の変化があった旨を明かしているが、それでもこれまでの作品の根底に初音ミクを自己と不可分なもの(≒代弁者)として捉えるマインドがあった事は否定できまい。


或いはquoreeの初音ミク観。

(初音ミクの声が好き、という内容を受けて)

-どういうところが好きか、具体的に教えていただけますか?

初音ミクの声ってめちゃくちゃ美しいじゃないですか(即答)。

-は、はい(笑)。

感じ方は人それぞれかもしれないですけど……。僕はあの声が本当に好きで、めちゃくちゃ美しいと感じていて。ボーカルでもあるけど、楽器でもあると思っているんです。
namahoge. "quoreeインタビュー 微細なエディットで「初音ミクが孤独にならない」空間を作るプロデューサー". SOUNDMAIN. 2022/06/22. https://blogs.soundmain.net/14313/ , (2022/11/23)


上のインタビュー記事から、氏が"歌唱者"としてはもちろん、自らの世界観を"音楽"という無形のモノへと発現させるための"手段"として初音ミクを認識していることが分かる。


他に、初音ミクを初めとしたVOCALOIDの特長からもプロデューサーが好んで合成音声を用いる理由が伺えよう。総産研研究員もとい音楽発掘サービス「Kiite」における重要人物としても知られる後藤真孝は

人間の歌手に自分の曲を歌ってもらおうとすると、その機会を得るだけで大変であり、自分の望む声で思いどおりの表現してくれるとは限らない。それが、初音ミクの歌声で、納得のいく表現が得られるまで何度も修正しながら再現性高く合成できるのは、大きな利点である。
後藤真孝. 「『初音ミク』はなぜ注目されているのか」. 『電気学会誌』. 2012, 132(9), p.630-633.


としているが、このような、作り手のこだわり次第で「思いどおり」の作品が生み出せる、という強みへのフォーカスにはマルチクリエイターのいよわも共鳴しており、彼はKAI-YOUのインタビュー記事にて「全て一人で作り上げることの利点は何か?」という問いに対し「100%自分のつくりたいものを探求できること」「自分さえ頑張れば、自分が思うものを表現できるのが一番大きい」(ヒガキユウカ. ボカロP・いよわが取り組み続ける「誰も知らない表現の模索」. KAI-YOU. 2022/01/10. https://premium.kai-you.net/article/478 , (2022/11/23))と述べている。VOCALOIDの起用がクリエイションの自己完結、ひいては「思いどおり」の作品作りへ繋がっているということだ。"表現媒体の延長線上にあるのがVOCALOIDである"という考え方は先述のquoreeに通じるものがある。


これに寄せて紹介したいのが、SOUNDMAINがPuhyunecoに対して行ったインタビューでの彼の回答だ。

-Puhyunecoさんは初音ミクを使用した楽曲を作っていますが、ボーカロイドのキャラクター性とは無関係な作品を作っていますよね。まず、どうしてボーカロイドを使うようになったか教えてください。

ボーカロイドを使う理由としては、自分の身体性と関係なく声が出せることと、自我というものが無いから何でもやっていいというのが、自分の制作にとってやりやすいからです。

人間のボーカルだと自我とかアイデンティティとかがあって、やりづらい。
namahoge. Puhyunecoインタビュー 継ぎ接ぎのサウンド・スケープで歌う異形の初音ミク――「ポスト・ボカロ音楽」の作り手. SOUNDMAIN. 2022/01/28. https://blogs.soundmain.net/11081/ , (2022/11/24)


これを見るに、Puhyuneco楽曲におけるVOCALOIDの必然性とは、ボーカルの"自我の無さ"に起因する創作の行いやすさであると言えよう。こういった、語り手(=ボーカル)の"自我の無さ"を活かし、ノイズを極限まで取り除いた状態で作り手の内面を映し出した音楽は「イノセンス」と呼ばれることがある。



一. イノセンス音楽とは

「イノセンス」とはサウンドに基づいた音楽ジャンルとしての区分ではなく、専らその精神性によって分類されるものであるので厳格な定義を与えるのが難しい。因果氏は自身のブログでこれを「扱いにくいバズワード」(因果. 10選+αで語る2017年ボカロシーン. はてなブログ. 2018/01/28. https://nikoniko390831.hatenablog.com/entry/2018/01/28/124051 , (2022/11/24))と指摘、キュウ氏も音楽的アプローチからの規定性が希薄であることから「イメージが掴みにくい」(キュウ. ボーカロイドとイノセンス. note. 2017/09/24. https://note.com/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6 , (2022/11/24))と記述している。しかしその中でキュウ氏はこの言葉の安定性へ漸近する考察をなさっているのでここにお借りしようと思う。

(「イノセンス」が「無垢」等と訳せることを踏まえて)

ここからは一旦、ボーカロイドによるイノセンスがどのような立ち位置にあるのかを浮き彫りにするために、従来の音楽における無垢の表現について言及したいと思います。

無垢を表現するために最も手っ取り早いと思われるのは、宗教や神を利用することです。

(中略)

無垢さを表現する手法としては、やはり子供を起用することはあらゆる表現において常套ですね。

(中略)

さらには宗教、神、あるいは子供を起用することによって無垢を強化していると感じます。そもそもこれらが何故無垢なのか?というと、心が無い、あるいは弱いからです。心が無いからこそ、感情に余計なものが混じらない純粋さを感じることが出来ます。そして、もちろんボーカロイドにも心は無く、その分余計なものが混じらない表現が可能になると言えるでしょう。
キュウ. ボーカロイドとイノセンス. note. 2017/09/24. https://note.com/rooftopstar/n/nbf5d12b2bdd6 , (2022/11/24)


VOCALOIDの自我の無さに魅せられたPuhyunecoの音楽が「イノセンス」と呼ばれていることから考えても、この考察は恐らく正しいであろう。ただ同時に、"語り手が自我の漂白された存在であること"だけがイノセンスの絶対的条件でないことは明らかである。

これに関して取り上げたいのが、今年8月にpiptotaoから投稿された『ぼくらのmeek』だ。



二. 『ぼくらのmeek』という曲


piptotaoは作曲のtaoと作詞のpipから成るユニットで、ボカイノセンスの興隆があった2017年シーンにおいて精力的な活動を繰り広げていたクリエイターである。イノセンスの文脈とも非常に深い関わりを持つ作り手であったが、当楽曲が4年ぶりの投稿、続く『金継ぎ零種〜ぼくらの花憐』にてコンビの解消を正式に表明した。


楽曲タイトルの「meek」は恐らく初音"ミク"と掛かっており、またその動画タグ、リリックからも分かる通り本作品は「VOCALOIDイメージソング」にあたる。

歌う時だけ意味を持つ

生まれたばかりの子が居まして


視覚で感じたことはない

故に近く感じる君は

赤い血が通った

体を持っていないmeekな私と一緒かも

(中略)

合成音声の排泄

抉られて消える喪失

初めての音が持つ大切

(中略)

ごめんね ちょっとさ強い言葉で拒絶したけどさ

ボクまだ貴方が必要なんだ

でもね でもね いつか歌ってやるんだ

ボクの言葉と旋律を自分で選んだ愛しい人に
piptotao "ぼくらのmeek" 2022.08.18


そして同時に『ぼくらのmeek』には「ボカイノセンス」のタグも付けられている。ニコニコ動画の「タグ」機能が視聴者の恣意性を離れないものであることを考慮しても、無垢・純粋を感じさせるリリックを尋ねればこの作品のイノセンスを否定するには至らないだろう。


しかし、先の考察を思い出して欲しい。イノセンスとは語り手の自我の無さに起因するものだった。にも関わらず、何故『ぼくらのmeek』のような自らの存在を歌った(=語り手の自我を全面に押し出した)"キャラクターソング"もイノセンスと呼ばれ得るのか。


本記事はこの問いに対して「過剰性」「語り手の孤独」という2つの観点から答えを与え、「表現者」としてのVOCALOIDを発見することを目的としたい。



三. 「過剰性」に伴う作り手の"作為"

ニコニコ動画上において「神話入り」(再生数1000万回以上)も果たしているボカロ黎明期の金字塔『みくみくにしてあげる♪』は、そのタイトルと同じ「みくみくにしてあげる」というリフレインの印象的な楽曲である。

科学の限界を超えて私は来たんだよ 
ネギはついてないけど出来れば欲しいな

あのね、早くパソコンに入れてよ 
どうしたの? 
パッケージずっと見つめてる 
君のこと

みくみくにしてあげる 
歌はまだね、頑張るから 
みくみくにしてあげる 
だからちょっと覚悟をしててよね
ika "みくみくにしてあげる♪" 2007.09.20


前出の『ぼくらのmeek』とは「VOCALOIDイメージソング」タグが付けられている点や、ボーカルの語りが無垢、或いは純粋さに包まれていることに共通性を見出すことが出来る。しかし、当然ながらこの曲に「ボカイノセンス」のタグは付けられていない。ましてこの曲はボカイノセンスと呼べるか?と10人に訊ねれば10人がNoと答えるだろう。


筆者はこの相違に「表現の過剰性」を発想した。素朴で普遍的な表現を多用する『ぼくらのmeek』に対し、『みくみくにしてあげる♪』はそのタイトルからも分かる通り、"初音ミク"というキャラクター性を露骨に顕現させた作品である。「世界中の誰、誰より みくみくにしてあげる」のリリックはその表れとも言えるだろう。

そしてこのような"過剰性"は得てして作り手の"作為"を浮かび上がらせる。クリエイターの意図なくして一定以上に過剰な表現は生まれないからである。さらに、目に見える"作為"はイノセンスと最も遠い場所にあることは言うまでもないであろうから、必然的に『みくみくにしてあげる♪』のイノセンス性は否定できるはずだ。

このように、ボカイノセンスにおいては作り手の脱臭がひとつの鍵となるように思われる。リスナーが語り手の背後に存在するクリエイターを無視できること、つまり作り手がボーカルの語りに直接介入してしまわないことがイノセンスの条件であると結論付ければ、"キャラソン"の性質をも持つ(≒語り手が自我を持つ)『ぼくらのmeek』がイノセンスとして扱われる妥当性も肯定できよう。



四. 「孤独な語り手」とイノセンス

ある楽曲がイノセンスたりえる要因として、もうひとつ検証したい要素がある。先にも触れた『金継ぎ零種〜ぼくらの花憐』は『金継ぎ零種』と『ぼくらの花憐』の2曲から構成される動画だが、前者に関しては2018年発表のVOCALOIDコンピレーションアルバム『合成音声ONGAKUの世界』から各曲タイトルを解釈・引用するという特殊な手法で作詞されている。

piptotao "金継ぎ零種" 2022.10.8
piptotao "金継ぎ零種" 2022.10.8


また、本楽曲も『ぼくらのmeek』と同様に「ボカイノセンス」にカテゴライズされている。その作詞方法からしてもこの作品がVOCALOIDの存在について歌ったものであることは明白であろうが、それより注目すべきはその語りだろう。

『はじまった 後ろから波が歌いだす

慌てて駆け出す 進むほどに退化する

足が絡まって這う』

旅の前に選んだ悩んだ

何を持つべきですか 神様

その夜、手にした万華鏡に

箒星の光が只今
piptotao "金継ぎ零種" 2022.10.8


語り手はリスナーではなく「神様」に語り掛ける。『金継ぎ零種』における語りの形態は"独白"に近いだろう。聴き手の存在非在は初音ミクには関係ない、モノローグ。VOCALOIDである彼女が『合成音声ONGAKUの世界』を引用し、自らの見てきたものとして語るというスタンス。聴取者に非在の「神様」を設定していることから、ここに聴き手からのレスポンスを期待する心の働きは無い。「自我の宿った語り手」でありながら、聴き手の存在をある意味無視して独白は進む。

くちばしP『私の時間』のリリックは対照的だ。

さあ練習練習ゆーあーまいますたー 
もっともっと上手に歌わせて 
お昼休みだって寝る前だって 
いつだってできちゃうの 
ニコニコ動画がなくなった 
そのときわたしはどうなるの
くちばしP "私の時間" 2007.10.22


初音ミクのイメージソングであり、「ゆーあーまいますたー」等の歌詞からもボーカルの無垢は認められよう。ただ、「ゆー(you)」(=画面の向こうに実在する作り手、あるいは聴き手)に語り掛けるという構造は「神様」(=非実在の第三者)へ語り掛ける『金継ぎ零種』のそれと性質を大きく異にする。『私の時間』のように、語り手がリスナーの存在を認識し、語り掛けてきた瞬間に、イノセンスは成立し得なくなるのだ。

三.では作者が語り手の語りに干渉しすぎないことをイノセンスの条件としたが、それだけでなく、語り手が孤独な話者であることもイノセンスの条件と言えるのではないだろうか。作品世界には語り手しか居らず、その他実在の存在(作り手や聴き手)は作品の外側にいる状態がイノセンスの土台となるのである。



五. 表現者としてのVOCALOID

ここまでの項では「語り手に自我がある」音楽について、そのイノセンス性を支配する要素を2つ扱った。いずれの考察も「作り手が干渉"しない"こと」「語り手がリスナーを認知して"いない"こと」と、不作為性にフォーカスしたものとなってしまったが、このような消極的アプローチから肯定を試みる方が作為を嫌う"イノセンス"という枠組みの性質とも噛み合うのではないか、そう期待し結論に代えたいと思う。

語り手の語りに、クリエイターの恣意が影を落とさないこと。ボーカルが"演者"でいるとどうしても脚本家(=クリエイター)の存在を意識してしまう。(実際にそうであるかは別として、)あくまでも自発的な"表現者"として歌うことでクリエイターと可分な存在となり、VOCALOIDはイノセンスを獲得するのではないか。自分は2022年、piptotaoの音楽にそう学んだ。当然いちリスナーの妄言に過ぎない。音楽には恐らく正解など無いし、リスナーひとりひとりにそれぞれの「イノセンス」像があればいいなと願う、そんな前髪パッツンの男でした。



ヘッダーはpiptotao『ぼくらのmeek』よりスクリーンショットをお借りしました。
動画タグ等は2022/11/25現在のものです。
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